暗君と帝国とアングラン
「噂のグロワス13世陛下はいかがでしたか、閣下」
馬車の中、窓の外を無感動に見やるバダン宮中伯に対面から声がかかる。尋ねたのは前駐サンテネリ大使。バダンの着任に伴い彼の元で大使副官となった男だ。
「若い方だ。遊びを楽しまれている」
「遊びとは」
「外交のお遊びだ。意味ありげな笑い、婉曲な言葉選び、相手の意表を突こうとする小細工。そういうことが楽しいお年頃なんだろう」
侮蔑すらない。バダンの言葉は取るに足らぬ者に言及する際の無感動に満ちている。
「閣下はそう見られましたか。少なくともサンテネリ王宮内の評判は悪くはなかったのですが…」
自身がこれまで本国に上げてきた報告を一刀両断する上司の酷評に、副使は何とか抵抗を試みる。
「それはそうだろう。そこそこ上手に遊ばれているご様子。だが、あの王は何も成せんよ。度胸も覚悟もない。エストビルグに難癖を付けられるこの絶好の時期に私を呼び出しておいて、やったことはたかだか帝国内情の探りとは。空しくもなる」
7月のサンテネリは暑い。うっすら額ににじむ汗を宮中伯は手のひらで拭い取った。
「なんと。それだけ」
「ああ。私はある程度覚悟を決めて臨んだんだがね。先日の失態を詰られることもなく、ただ茶を飲んだだけだ。哀れですらある。サンテネリには人がおらん」
帝国の複雑極まる利害関係を調整し、まとめ上げることに人生を捧げてきた彼にとって、グロワス13世は賢しげな子どもだった。付き合って遊んでやったに過ぎない。
「この様子だと私の仕事も早く片付くだろう。きみももう少し人物眼を養いたまえ」
バダン宮中伯は夜会におけるアナリース皇女の失態を見て、即座にいくつかの未来を予想した。最も軽いもので外務卿を通じた抗議、重いものは王自らの抗議。いずれにせよ皇女に適切な教育を施さなかったのはエストビルグの落ち度であり、何らかの譲歩を迫られることになるだろう。そう読んでいた。
しかし、彼を呼び出したサンテネリ王は至極丁寧かつ婉曲に帝国内の反サンテネリ和約派の存在を示唆したのみ。その程度の話ならわざわざ王が出てくるまでもない。
中央大陸の諸国にとって王の存在は重い。王とは国家そのものだ。王が出てくる以上、そこには何らかの重い決定が秘められている。今回であれば、帝国との関係悪化を覚悟の上で立場の優越を勝ち取るべき局面だ。アナリース皇女の輿入れは帝国のサンテネリに対する贈り物。筋からいえば、返礼が必要となる。だが、この失態を口実に返礼を渋る選択肢を保持できたのだ。にもかかわらず、絶好の機会を王は逃した。
バダンはそこにグロワス13世の弱さを見た。実際に顔を合わせ言葉を交わして得た感覚である。
王は強く当たることを恐れている。恐らく本当に厳しい決断を下すことはできない。大切な身内を犠牲にする決断、何千人何万人の国民を死に追いやる決断が出来ない。
一個人としては美徳かもしれないが、それは王ではない。
この調子であれば、彼の仕事、つまり来るべき対プロザン戦にサンテネリを引きずり込むことは難しくないだろう。王は帝国との関係悪化を恐れ、アナリース皇女という贈り物の返礼をせざるをえない。
「私は賭けに勝った。それだけは満足だ」
バダン宮中伯は帝国内におけるサンテネリ和約の旗振り役だった。
プロザンのフライシュ3世は戦場においても外交においても一筋縄でいかぬ英君。彼と結べば帝国はじわじわ蚕食され、最後には手が付けられなくなる。若く統治経験が浅いサンテネリ王の方がまだ御しやすい。そう考えてのことだったが、サンテネリがここまで内向きに堕しているとまでは想像しえなかった。先王が流した大量の血に対する忌避からか、外、つまり大陸の国家関係に目を向けなくなっているのだ。
そのような状況だから、通常であればプロザンとの戦いも嫌がるだろう。しかしあの王が相手ならば上手く乗せられる。遊びに付き合ってやっていれば、決断できずにずるずると流されてくれるだろう。それを止められる家臣もいない。
彼は皇帝への報告書を頭の中でざっと纏めた。
開戦の是非ではない。もはや問題はそれを「いつやるか」だけだ。
◆
アングランは大陸諸国の中で唯一、貴族による合議体制を法制化した国である。王の下に正統な内閣が組織され、内閣の決定がそのまま国家の行動となる。内閣と類似した統治組織はほぼ全ての国に備わっているが、現実はどうあれ建前上それらは全て王の私的な諮問機関に過ぎない。そんな中で、貴族合議が公式に定められたアングランの国制は異質であり、他国からはいささか劣ったものと見なされていた。王の下に国家を一本化することが叶わぬ「古い国」と。
アングランの首都ランデネムは本島中部から南東に向けて流れるタムネス河の河口に位置する。河を挟んで北岸に王宮、そして南岸には首相宮がそびえ立つ。王と首相を隔てるこの河が、アングランの王と政府の関係を象徴していた。
アングラン政治において王は「対岸の存在」にすぎない。首相宮こそが政治の中心である。首相と名は付くものの実態は内閣全てを押し込んだ、いわばアングラン政府そのものだ。
現在アングラン首相の地位を占めるのはアルバ公爵。アングラン諸島北部に領地をもつ大諸侯であり、議会の最大党派を率いる領袖でもある。
彼は自身の執務室で、今朝届いたばかりのサンテネリ発定時報告書を読みふけっていた。
指間に挟んだ煙草の吐き出す紫煙が室内に薄いもやをかける。
考え事をするときの癖といえば聞こえがいいが、実態は考えていようがいまいが常に煙草を吹かしている。もはや中毒者といって差し支えないだろう。
「サンテネリは変わった」
巨大な執務机の向こうに置かれた椅子に腰掛けた秘書官に向けて、男は枯れた声を絞り出すように投げた。
「何かございましたか?」
「ああ、今回の仕掛けは不発だそうだ。——彼らは足下をよく見るようになった」
アングランの視座から望むサンテネリは、大陸に数百年前から続く硬直した社会の完成形であるといえた。王の権威の元に諸侯が揃い、その下に富裕な平民が続く。
アングランとて見た目は変わらない。
だが、大きく違うのは各階層間の流動性である。富裕な平民が爵位を得て議会で頭角を現し、国政に参加するのも珍しくないアングランに比して、サンテネリは各階層が孤立して存在する。各層の間には目に見えぬ分厚い壁がそびえ立ち、それぞれの世界を切り離していた。王は王の世界、貴族は貴族の世界、平民は平民の世界。その完結性の中を人々は生きている。
しかし、ここ数年の動きを見る限り、世界の混交に向けた動きが活発になりつつある。旧来であれば庶民の噂話や評判は庶民の世界の出来事であり、統治者達はそこに目を向けることなどなかった。傲然と無視しただろう。
「これはやはり王の姿勢と判断すべきだろう。臣下の動きではない」
昨年末に発行された、王が直接民衆に呼びかける形をとった官報はまさに異例だった。同時に民間の新聞が描き出す政治寸評の類いも増えている。
シュトロワで発行される各種新聞については大使館のみならず本国でも様々な角度から分析が行われたが、結果その多くがサンテネリ政府との間に繋がりをもつ可能性が高いと判断されている。一つ一つは独自の色を持ち、一見多彩な言論空間が広がっている。だが、総合すれば背後に一つの「意思」を感じ取ることが出来る。
大きな変化だ。
「好戦的との前評判とはだいぶ異なるようです。あのグロワス12世の御子にしては妙に大人しい」
「君、それは違う」
残り短くなった煙草を灰皿に押しつけて、即座に新たな一本に火を着ける。
「大人しくなどない。危険な橋を渡っている。王は貴族の懐に手を入れた。それが王権の拡大を目指す意図ならば理解できる。しかし同時に近衛軍は手放した。矛盾した行動ばかり」
「王の意思が政治に反映されているとすれば、矛盾は当然のことかと。グロワス13世はまだ22の若者です。我が国であれば議場の前列でヤジを飛ばしている年頃でしょう。思いつきの動きが増えれば矛盾も増えます」
アルバ公爵が苛立たしげに足を踏みならす。完全無欠の紳士然とした佇まいにもかかわらず、アングランの首相は存外に足癖が悪い。
「君、君は卵を割らずに中身を取り出すことができるかね?」
「卵?」
「そう。卵だ。今日家に帰ったら試してみるとよい」
「試すまでもなく、それは不可能です」
「だろう。つまりそれだ。我が国に置き換えて考えてみたまえよ。陛下の儀仗近衛を削減する案が前に出ただろう。どうなった?」
「酷く荒れました。王党派は頭の固い連中です。
「たかだか儀仗兵の定員を削減するだけで、”王の大権を軽んじている”と始まる。サンテネリはどうだ。儀仗兵どころではない。近衛軍自体を消し去ろうとしている」
「しかし、あれは形式に過ぎないのでは? 国軍の中に収めるといいながら、近衛との繋がりはしっかり保持しています。バロワ家の姫を側妃にして、そこから動かす腹づもりかと」
サンテネリ王宮から発せられる勅令を追う限り、近衛軍の国軍との統合は指揮系統の委譲までも含んだものだ。しかし実態がどのようなものになるか、アングラン含め各国は懐疑的な見方を捨てていなかった。
「バロワ家が側妃を出すのは昔からだ。つまり近衛軍の中核たるバロワ家にしてみれば、それは大した利点にならない。にもかかわらず不穏な噂の一つもない。翻って我が国は儀仗兵を百人ほど減らすだけで議会が麻痺寸前までいった」
平穏を王の絶対権力が発露したものと見れば不思議ではないが、その仮定は根本から誤っている。近衛の解体は「絶対権力」の源泉そのものを手放す行為なのだから。
「各大公家も動かん。アキアヌなど、例の旧城改修に投資までする始末。——政府はよく状況を抑えている」
国内に半独立国を抱えるサンテネリは、社会構造の面で安定はあれど「貴族の世界」の中を見れば安定にはほど遠い。アングランが弁舌により利害調整を図る舞台たる議会を持つ一方で、サンテネリはそのような場を持たない。すると自然、利害衝突は不可視の世界で行われることになる。宮廷や夜会、あるいは各貴族家が個別に開く読書会や茶会の場で衝突と妥協が繰り返されていく。だからこそ、広く様々な催しに顔を出し、各家の動向を探るのはアングランの外交関係者に課せられた重要な職務だった。
それら”足で”集められた情報を統合する限り、ここ数年のサンテネリ政治は不思議な動きを続けている。
近衛軍を手放したことによる王権の弱体化は相対的に貴族達の権力伸長に繋がるはず。にもかかわらず、貴族達は兵士の福祉拡充を題目とした「寄付」、事実上の課税を受け入れた。近衛軍を回収することでサンテネリ全軍を手中に収めたデルロワズ家にも目立った動きはない。本来であれば、アキアヌ公家と手を握って政権を掌握し、王の存在を権力から切り離すことも可能であるはずだ。しかしその兆候はない。
何よりも、いかに優秀な政治家とはいえ強大な自前の地盤を持たぬフロイスブル家が未だに家宰職を保持し、ルロワ王家譜代の家臣達による内閣が機能している。
家同士を上手くかち合わせながら均衡を保っているのだろう。同時に、それら貴族全体を牽制する第三の力として平民層を取り込もうとしている。
危うい綱渡りだ。
国の統治とは、究極的には突出か妥協かの二択である。サンテネリの先代王はその父から引き継いだ「強い王」を演じた。近衛軍の圧力を背景に諸侯軍を動員し戦争を起こし、領土を拡大することで国威と自身の権威を高めた。突出した強い王。従わせる王だ。
一方で、新王はその路線を採らない。自身の若さや能力の問題から突出できないのか、それともあえてしないのか、確たることは分からないが、とにかく妥協の道を選んだ。
背後に誰か絵を描いている者がいる可能性は十分にある。だが、少なくともその絵描きを受け入れる覚悟と度胸を若いグロワス13世は持っている。
「いずれにしても、今後はより繊細な対応が必要だ」
齢五十に近づき円熟の皇帝が治める帝国。四十を過ぎてまさに脂ののった男盛りのフライシュ3世が率いるプロザン。そして、まだ若い、政治家としてはひよっこ同然のグロワス13世を戴くサンテネリ。普通に考えれば与しやすいのはサンテネリだ。
しかしアングラン首相は、そのサンテネリにこそ一番の脅威を感じている。落とし所に皆目見当が付かないのが恐ろしい。帝国はその枠組みの分解を防ぐべく安定を、プロザンは日の出の勢いで拡張を、それぞれ望んでいる。ではサンテネリはどうか。
先王の負の遺産を解消するというのは一つの目標だろう。しかし、恐らくそれだけではない。
アルバ公爵は目の前で紫煙に目をしばだたせる自身の秘書官を改めて眺めた。
海運業で身を立て準男爵号を買った商人の次男。他国であれば公爵と口を利くことなど出来ない身分だ。三十を少し過ぎたばかりのこの秘書官が外務なり財務なり、何らかの重要な地位につくにはまだ後十数年ほどかかるだろう。
この青年が政治の表舞台に立つ頃、大陸の勢力図はどのように変化しているか。熟練の政治家たる彼であっても想像は容易ではない。
「フライシュ殿はやる気。帝国もやる気だ。——さて、サンテネリがどうか」
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