王と正妃と王の証
職場から近いところに住むのって、昔は憧れたな。
小さな広告代理店に勤めてた頃はさ、千葉から都心まで通ってたんだ。ドアトゥドアだと一時間半以上かかったかな。それもこれも都内の家賃がやたら高いのが悪い。
あれはしんどかった。満員電車もさることながら、何かあるとよく止まるんだ。強風で止まり大雨で止まり人身事故で止まる。
行きもゲッソリだけど帰りも辛かったね。どこかで飲んで帰れなくなったとかなら自業自得と諦めもつくけど、特に非もないのに深夜ネカフェ探してさまよって。
で、現在ぼくは最高の住環境を手に入れたんだ。通勤時間ゼロ。
ぼくが仕事に向かうんじゃない。仕事がぼくのところにやってくる。
うらやましいでしょ。
いつでも代わってやるぞ。
というわけで、今日の午後は新しくご就任の帝国大使、バダン宮中伯さんをお呼びしています。場所は謁見の間ではなく、ぼくの居住区画の応接室です。
ここは本当に便利なんだ。適度にカジュアル。
「お忙しい中ご足労ありがたい。バダン宮中伯殿」
「いえいえ、なんのなんの。私なぞは田舎の山出しですから、サンテネリの洒脱な景色が珍しく、こちらに伺う馬車の中でもはしゃぎ通しでございます」
膝を軽く打ち、カラカラ笑うバダンさん。多分扇子とかもたせたら似合うね。
「何をおっしゃる。お国のヴェノンは重厚にして荘厳、まさに帝国の精神を体現したような都という。そのヴェノンでエストビルグの宮中を仕切られた貴殿だ、サンテネリは少し退屈を誘うかもしらん」
ヴェノンはエストビルグ王国の首都であり帝国の中心都市でもある。ロワ河のほとりにシュトロワが建つように、ヴェノンもまた中央大陸東部を流れる大河ドンヌの中流域に位置する。
「実は陛下、それなのです。ここだけの話ですが、私はまぁ宮廷で小間使いのようなことを長年やっとりましたのが、この度晴れて大役を頂きまして、誇らしくはあるものの右も左も分からぬ有様。どうぞよろしくご指導ください」
加齢故か広くなった額を軽く叩き、頭を下げてくる。
なるほど。
では、ちょっと実際どういう人なのかを見てみたい。
タイミングよろしくお茶とお菓子が運ばれてきた。シンプルな黒いワンピースに金の髪をなびかせて、長身の侍女がカートを押して部屋に進み入る。
「おお、ちょうどお茶が来た。我が国ではこの午後の茶こそが人生の喜びなのです。お国の麦酒のように、人にはその場限りであっても”神聖な幸せの時間”が必要だ」
侍女がテーブルの脇にカートを止め、滑らかな手さばきでカップを用意する。まずぼくの前に、そしてバダンさんの前に。日本だとお客さんが先だけど、ここサンテネリはまず王ファーストなので。
ぼくはじっと侍女の準備を見ていた。
「これは! いやはや、その高貴なお姿、どちらのお嬢様かと拝見すれば、なんと噂に名高いバロワ家ご令嬢ではございませぬか!」
いそいそと立ち上がるおじさん。
「わたくし、この度エストビルグ駐サンテネリ王国大使を皇帝陛下より任じられて参りました、カルル・ヴォー・バダンと申します。」
ハキハキと大声で名乗り軽く一礼。この世界に名刺あったら多分始まるね。交換会が。
メアリさんはちょっと驚いたように棒立ち、やがて我に返って答礼をする。
「お初にお目にかかります。バダン宮中伯様。メアリ・エン・バロワでございます。まさか私のような者の顔までご存じでいらっしゃるとは夢にも思わず。光栄に存じます」
「いやいやいや、バロワ伯爵令嬢といえば帝国にも名の聞こえたサンテネリの貴婦人。存じ上げておりますとも」
相変わらずニコニコと快活な素振り。
「メアリ殿、こちらの御仁はとても気さくでいらっしゃるが、実はあの広大な帝国全土を監督されるのが本来のお仕事、まさにエストビルグの要石ともいえるお方。顔を覚えていただけただけでも光栄なことだよ」
ぼくはメアリさんにそう説明する。振りをしてバダンさんに語りかけてる。
「滅相もない! 使い走りを少々長くやりましたが今回のような大任は初めて。もう50も過ぎて、初陣の心持ちとはこのことですな。私が拙いゆえ失礼があるかもしれませんが、バロワ殿、是非ともアナリース様をよろしくお願い申し上げます」
「もちろんでございます。先日もアナリゼ様に拝謁を賜り光栄にございました。また機会をいただくことがございましたら、これに勝る喜びはございません」
そのやりとりを眺めながら色々と考える。
この人、公式の謁見ではこんな腰低くないからね。それどころか一歩間違えば傲慢に足を突っ込みかねないほどに堂々たる素振りで胸を張ってる。公式行事における大使の姿勢はその国の風格を示すものだから。
面倒くさいことこの上ない「貴族の世界」をよく分かってる人だ。
メアリさんがお茶を入れ終えて退出する。手際が上手くなってるのには感動した。まぁ、何やらせても能力高いから意外でもない。
このバダンさん、ちゃんとサンテネリのことを調べているね。超地味な服装で来てもらったにもかかわらず、一目でメアリさんと気づいて、大げさにも立ち上がって挨拶をした。メアリさんが事実上の側妃であり、彼女の心象が少なからずぼくに影響を与えるであろうことを把握した上での対応だ。
「メアリ殿には無理を言って私の侍女として働いてもらっているのでね。時折お茶も出してくれる」
「いやぁ、バロワ令嬢のお茶をいただけるとは幸運に過ぎますな! たまたまとはいえ、私の運も捨てたものではないようです」
で、ぼくが敢えてメアリさんに来てもらったことも当然推測してる模様。それはそうだよね。帝国の宮中伯って相当の大物だからね。頭脳も家柄も人柄も一通り揃ってないとその地位にはいられない。
「ところで宮中伯殿、お国ではサンテネリ語はあまり使われないだろうか」
「帝国語が主流なのは事実です。しかし、やはり文化芸術を愛するものはサンテネリ語に憧れます。私もその口でして」
バダンさんすごく流暢にうちの言葉話すからね。ネイティブでしょ、もはや。外交畑でもないのに。
「そうなのか。いや、アナリゼ殿も現在、ずいぶん熱心に我が国の言葉を学ばれているようなので、少し気になった。お若い頃から?」
「いやあ、そこまでは存じ上げませぬ。ただ、陛下との婚礼が決まった二年前からは、本当に熱心に勉学に励まれている様子でございましたな」
さて、本題にやってまりいました。
「ならば良かった。こんなところで話すのは不躾かもしれぬが、我が国とお国の間には過去にいささか不幸な行き違いが時折あった。ゆえに、ひょっとするとアナリゼ殿の勉学を快く思われぬ方々もおられるやもしれぬと邪推してしまったのだ」
「そのようなことは決して。サンテネリ語は現在事実上の大陸共通語にございますので、我が国でもそれを学ぶことは至極普通のことにございます」
「語学はとても難しい。アナリゼ殿の努力と苦労には頭が下がるが、やはり実地で使ってもらうのが一番上達が早いだろう。幸い我が国には優秀な教師も多い」
「ご配慮いただき光栄に存じます。帝国においてサンテネリ語が堪能なものは多くおりますが、中には苦手な者もおります。それはひとえに教師の力量かと」
「立場を変えれば我が国とて。帝国語を上手く操れる者は少なくないが、苦手な者はそれなりにいる。うまくやりたいものだ」
何とでも取れる言い回しが肝だよね。こういうことばっかりやってるから裏読みが本能みたいになっちゃうんだろう。でも、互いに大体のところは伝え合えたと思う。先日の騒ぎから今日のこの会話、ぼくが何を憂慮しているかは伝わっただろう。そして皇帝に伝わるだろう。
「私はアナリゼ殿をとても好ましく思う。あの純粋さ、あのひたむきさを愛する。——我が国と貴国もまた、アナリゼ殿を見習いひたむきでありたいものだ」
「皇帝陛下も同様にお望みでいらっしゃいます。是非ともアナリース様をお引き立てくださいますよう」
ちょっと重たい会話が終わった途端に、彼はパクパクと焼き菓子を頬張っていく。
案外本気で好きなのかな、お菓子。
◆
夕食も終わり、夜の憩いの時間。ぼくはアナリゼさんの住む正妃居室へ足を運んだ。
侍女としての仕事を持つブラウネさんやメアリさんとは結構頻繁に会えるんだけど、アナリゼさんとはなかなか出会えない。ぼくが能動的に動いていく必要がある。
正妃居室はぼくの住む部屋から中庭を挟んで正対する位置にある。結構歩くよ。
いかに光の宮殿とはいえ夜は薄暗いからね。数人の従僕の皆さんに先導してもらい、長い回廊を進んだ。
これは面白いね。通勤の必要はないのに奥さんのところには通う必要がある。あべこべだ。
ぼくが部屋にお邪魔することは伝えてあったので、事は至極滑らかに進んだ。
部屋の入口が開け放たれ、アナリゼさんの侍女達が四人ほど列をなしてぼくを迎え入れてくれた。
ここは声を掛けておきたいね。はるばる帝国の地からやってきた皆さんを王が歓迎していることだけは示しておかねば。
「遅くまでご苦労だ。アナリゼ殿も異国にて心細いこともあろう。皆、我が正妃をよろしく頼む」
彼女たちは静かに一糸乱れぬ動きで頭を下げた。反応を見る限り、ぼくの言葉はちゃんと通じている模様。でも返答はない。これも多分帝国の風習なんだろうね。サンテネリだと侍従侍女の皆さんちゃんと返事してくれるからね。仲良くなると冗談も言い合えるようになるよ。
侍女の皆さんの列を抜けるとアナリゼさんが応接部屋の中央に立ち、ぼくを出迎えてくれた。黒の生地に、細かいレースで作られた色とりどりの花飾りが腰周りを飾るドレス。肩からは薄手の
シャンデリアは光量が弱い。部屋の各所に立てられた燭台と合わせても、何というか、高級バーの間接照明的雰囲気。
「アナリゼ殿、夜分に失礼する。ご壮健か」
ぼくの言葉に呼応して少女が軽く両膝を折り、再び直立する。
「陛下、お渡りいただき光栄です。本日は女官長殿に案内を受け、光の宮殿を探検いたしました」
「そうか、それはよかった。何か面白いところはあったかな?」
「廊下が…綺麗です。鏡が多く…」
言葉を探しながら答えてくれる。真顔で。
探検って単語の選択もぼくは好きだ。普通なら散策なり使うところ。こういう文化の差異は新鮮な喜びをもたらしてくれる。
少し離れたところに
ほら、トップが思い立って突如現場に登場、とかあるでしょ。あれ、やられる方は結構迷惑だよね。お持てなししなきゃならないし。
「あそこは確かに美しい。廊下でありながら大会場にもなってね。ときどき宴会もやるんだ。その時はアナリゼ殿、ともに楽しもう」
「はい」
それっきり会話が途切れてしまった。
ぼくも昔、一念発起して英会話教室に通ってみたことがある。最初の定型文、つまり挨拶とか天気とか、そういうのは何とかなるんだけど、一通りそれが終わって自由会話になると結構難しい。彼女の場合少なくとも2年はサンテネリ語を学んできたようだから、文章自体は色々思いつくんだろう。でも、会話相手が王だからね。
例えば2年英語を学んだ後で、いきなりアメリカ大統領と日本代表として会談することになったとしたら。想像するだに恐ろしい。公式の会見は通訳が付くから大丈夫。でも、歓迎パーティとかでちょっとした会話交わすでしょ。ああいうの怖くない? ぼくは怖いよ。
「私はね、アナリゼ殿、あなたを尊敬している。あなたは他国の言葉を熱心に学び、我々と会話しようとなさる。私は帝国語を話せない。今から勉強したとしても、多分
多少のミスは大丈夫だよ、と伝えなければならない。ぼくはあなたの事情を知っている、と。その上で、彼女の未熟を彼女の無能と考えてはいない旨も。
「私たちの間には言語の壁があるね、アナリゼ殿。話すのは怖い。私は臆病者だから失敗を恐れてしまう。でも、あなたは敢えて行動してくれる。臆病な私に代わってあなたが乗り越えようとしてくれる。ありがとう」
正直なところ、外交儀礼からいえばぼくに帝国語を話す義務はない。アナリゼさんが嫁に来たのだ。サンテネリ語を話せて当然。話せないのは教育を怠った先方の落ち度だろう。
でも、そもそも彼女が幼い頃には嫁ぎ先の候補にうちの国が挙がったことなどなかったはずだ。伝統的にサンテネリ王は他国の王女と婚姻をしない。加えて両国は積年の敵同士。いつの時代もどこかしらで紛争が勃発しているような有様だ。
それが何の因果か政治が動き、彼女は思ってもみない異国の地に放り込まれてしまった。順当にいけば帝国内のどこかの王国、あるいは公国に正妃として嫁ぎ、何不自由ない生活を送れたはずなのに。
酷い話だと思う。そして、彼女をこの境遇に追いやった責任はぼくにもある。ぼくと彼女の父に。ぼくと皇帝が彼女の嫁ぎ先を決めたのだから。
この女の子には選択肢など与えられなかった。
「御手を。握ってもよいかな」
「はい。陛下」
おずおずとアナリゼさんがその右手を差し出す。女の人の手はとてもかわいらしい。自分と同種でありながら、別種の生物の器官だ。繊細で柔らかく、小さい。
ぼくは両手で彼女のそれを包んだ。
アナリゼさんはぼくの行動を、ぼくの腕をじっと見つめている。多分彼女もぼくと同じように、ぼくの手に別種の生き物を感じているんだろうか。
「質問があります。陛下」
視線を合わせた彼女は少しうれしそうだ。話題が見つかったんだろう。
「なんだろう。アナリゼ殿。何でも聞いてくれ」
「陛下の腕に付いているそれはなんでしょうか。時計?」
とてもいい話題だね、アナリゼさん! 相手の好きなものの話題を振るのは基本だよね。
「お目が高い。そう。時計。懐中に帯をつけて、こうして腕に巻いているんだ」
ぼくは左手を放してぐるりと腕を回してみせる。
昔ブラーグさんに発注した腕時計。恐らく大陸初の腕時計。小型懐中にラグを付けて、そこに革ベルトを付けた。本当はアリゲーターがよかったけど、そもそもワニとか存在するのかも不明なので牛革で作ってもらったよ。もう細部に至るまでイメージスケッチまで描いたからね。
「この時計はね、ブラーグという職人がぼくだけのために製作してくれたものなんだ。この文字盤の彫りを見て欲しい。とても綺麗だ。天然の宝石の美しさではない。人間が作った美しさ」
エンドレスに語り出したいのをぐっと堪えていく。
しゃべり出したら止まらないからね。
この時計が納品されたときのことを思い出す。もういろんな人に自慢した。まぁ、皆、とても優雅に、興味深そうに聞いてくれたよ。
ブラウネさんなんて半分くらい時計じゃなくてぼくの顔見てたからね。不敬だろ! 王の話をちゃんと聞いて欲しい。
意外なことに一番反応が良かったのがゾフィさんだった。彼女は即同じものを注文したらしい。よく分かってる。一緒に腕時計の良さを広めていこう。このサンテネリに。
「なぜ腕に巻くのですか?」
「なぜか。便利だから。いちいち懐中を取り出す必要がない。それにかっこいい」
アナリゼさんが少し首をかしげる。
「便利。かっこいい」
ぼくの言葉を復唱しつつ何かを考えている模様。言葉が思いつかないのかな。いいよ、いくらでも待つ。アナリゼさんの記念すべき初感想、是非聞きたい。
「陛下は召使いになりたいのですか?」
至極純粋な問いだった。裏に嘲弄の意図はない。でもまぁ、言葉を飾ったところで同じ感想なんだろうと思う。
泣きそう。
視界の端でフェリシアさんが動き出そうと身構えている。ぼくが時計好きなことは恐らく
でも、ぼくは視線でそれを制した。
「どうだろうアナリゼ殿、見方を少し変えてみては。——私は召使いと王を兼任しているんだ。召使いの私が王の私に時間を教える。王の私はそれに従って動く。王が王たるは獣欲を抑える魔力を持つからだと正教の教えにあるね。私は怠けたがりの獣欲を召使いの魔力で抑えている。この時計は魔力を増幅する器具ということだ」
まぁ屁理屈です。
本音はカッコよさ一択。そもそも時間なんてほぼ読んでない。針と文字盤の美しさを眺めるばかり。でも、このロマンはね、なかなか伝わらないからね。
「分かりました。その時計は王の証なのですね!」
得心がいったのか、興味深そうにぼくの左腕をのぞき込んでくるアナリゼさん。
まぁ、完全にアレな勘違いだけど。
ぼくは王の証を腕から外し、彼女に手渡した。
「王の証というほどのものではないが、私はこれを気に入っている。——今度アナリゼ殿の好きなものも教えて欲しい」
彼女が見せた笑顔は、前よりも少しだけ自然なものに思えた。
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