審問
文学少女
幻想の牢獄
さわやかな水色の青空に、どこまでも蝉の声がひびきわたり、校庭や、それをかこむ深緑の木々、アスファルトの道路は、はげしくぎらぎらともえている夏の太陽の日差しにてらされて真っ白にきらめき、校庭で体育をしている生徒たちのたのしそうな声が窓をとおってしずかにわたしの耳にそっとはいってくる。頬杖をして、わたしがそんなふうに窓の外をながめている中、授業をしている先生の声はわたしのからっぽな頭の中にはいってすーっときえていく。なぜだか、頭がはたらかない。どうにかしなきゃという思いをいつもかかえているけれど、どうすればいいのかわからなくて、考えることをやめてしまって、わたしはただぼーっとしている。時間がすぎていくのを感じては、胸をいためながら。
チャイムが鳴って、授業が終わって、教室の中はがやがやとにぎやかになっていき、わたしはボルヘスの「続審問」を読みはじめる。たのしそうなまわりの話し声をうっすらと感じながら、わたしは本の世界にはいりこみ、わたしの世界にはいりこむ。ボルヘスを読むと、わたしの頭の中には、どこまでも果てしなくひろがり、どこまでも果てしなく高い、無限の図書館がうかびあがってくる。バベルの図書館だ。わたしはそのバベルの図書館の中に迷いこみ、ふらふらと、その無限に続いている図書館をぐるぐる歩きまわる。終わりのない、無限の迷路。その無限の迷路で迷っているとき、わたしは幸せだった。けれど、なんだか、さみしかった。
ぴた、と、静寂が走った。さっきまでうっすらときこえていた喧噪が姿をけしていて、わたしは本をとじて教室をながめた。そこには、誰もいなかった。廊下に出ようとしたけれど、ドアはびくともしなかった。それはドアがかたいというよりは、ドアの時間がとまっていて、わたしにはどうにもできないという感覚だった。ふりかえって、窓のほうをみると、わたしの机に、いつのまにか、女の子がすわっていた。脚をくんで、わたしが読んでいたボルヘスの「続審問」をぱらぱらとめくり、脚をふらふらと前後にゆりうごかしていた。長い髪で顔はみえない。わたしは、いつのまにか窓の外が真っ暗になっていることに気がついた。暗いというわけではなく、夜というわけではなく、一切光を反射せず、ただ光を吸収する、黒だった。
「ボルヘス、好きなのね」
本をぱらぱらとめくりながら、女の子がそういった。その声は、どこまでも透きとおっていて、まっすぐで、つめたくて、やさしくて、今にもきえてしまいそうな、儚い声だった。その声をはっきりとききながらも、その声が存在していないように感じ、この女の子をはっきりとみつめながらも、女の子が存在しないように感じた。気をぬくと、ふっと、きえてしまうようにおもえた。
「うん。あなたは、誰?」
「私は、ユキっていうの」
ユキ、その名前をきいて、わたしは、この女の子が今にも手のひらでじんわりと溶けていく雪なのだとおもった。ユキは、溶けてなくなろうとしている。ユキは、「続審問」をぱらぱらとめくり続けて、つぶやいた。
「今、わたしたちしか、この世界にいないのよ」
わたしは、この状況を、なぜだか不思議におもわなかった。ただ光を吸収するだけの真っ黒な窓をながめ、それはとても自然なことで、当然なことで、必然なことだとおもった。こうなることは、遥か昔にきまっていて、これからユキとかわす言葉も、遥か昔から決まっていたのだと、そう感じた。
「うん。知ってる」
「あなたが知っているってことを、わたしは知っていたんだけどね」
この教室は、すべてから隔てられていた。空間から、時間のながれから切り離された、宇宙のどこでもない、わたしたちだけの世界。そのことを、わたしはいつのまにか知っていた。知らぬ間に、知っていた。ユキは、「続審問」をぱらぱらとめくりながら、わたしにきいた。
「自分のこと、どうおもってるの?」
わたしはただ光を吸収するだけの真っ黒な窓をながめながら、考えた。わたしのきもちを、考えた。それは、とても簡単なことのようで、とても難しいことだった。自分という存在は、たしかに存在するものだと、思っていたけれど、いざみつめようとすると、輪郭がぼやけていて、ゆらゆらとゆれていて、曖昧な存在だった。
「わたしは、わたしのことが、よくわからない。強いとおもうことがある。弱いとおもうこともある。やさしいとおもうことがある。きびしいとおもうこともある。臆病だとおもうことがある。勇敢だとおもうこともある。純粋だとおもうことがある。汚れているとおもうこともある。きっと、わたしに限らず、人を一言で説明するなんて無理なんだとおもう。すごく多面的で、それに対して言葉がたりない。でも、できる限りの言葉を、わたしは、わたしに与えてみたい。
わたしって、ずるいんだと思う。わかってるのに、わかってないふりして。受け身で生きていて。感傷に酔って。きらい。この感傷をきらうことも、きらい」
「あなたは、自分がきらいなの?」
「わたしは、わたしのこと、結構好きだとおもう。なんだかんだ、好きだと思う。でも、すごくきらい。わたしのことをきらいなわたしが、きらい」
「あなたは、一人が好きなの?」
「一人は、好き。しずかで、好き。一人で、本を読んだり、映画を見たり、花をながめたり、空を仰いだり、小鳥のさえずりに耳をすませたり、考え事をしたり、文章を書いたり、星をみつけたりするのが、わたしは好き。うるさいのは苦手。人が多いのも苦手。わたしは、しずかなところで、なにからも追われずに、生きていたい」
「でも、一人は、きらいでしょ?」
「うん、一人は、きらい。だいきらい。心に、穴があく。黒くて、ぽっかりとあいた、音も光もないさみしい穴があく。この穴は、一人だと、閉じられない。わたし以外の誰かじゃないと、閉じられない。人は、他人と関わりあわないと、生きていけない。穴を閉じないと、生きていけない。わたしは、とっても弱い。わたしの頬を、手のひらでやさしくあたためてほしい。わたしのことを、やさしく抱きしめてほしい」
そういって、ユキの方をみると、この場所は、教室ではなくなっていた。星空の下で、真っ黒な海が、一面にひろがっている。黒い海の水面に、海にうかぶ島の、白や、オレンジの光、灯台の緑の光が映り、さざ波にゆれ、わたしの方にすうっと、真っ直ぐにのびてきている。潮の匂いが、わたしの鼻にべったりとまとわりつく。黒い海は、白い飛沫をあげ、ざあっ、と、しずかな音を鳴らしながら、砂浜におしよせては、ひいてゆく。ただくりかえされる波の音が、わたしをたまらなくさみしくさせた。空一面にちらばる星が、わたしをさらにさみしくさせる。星は、鋭くきらめき、めらめらと燃えている。
「こんな穴かな?」
と、ユキはわたしに背をむけ、黒い海を眺めながら言った。ぬるくてやさしい夜風が、わたしの肌をなでる。ユキの黒くて長い髪と、白いワンピースがさららと揺れる。わたしの心にあいている穴は、この、夜の黒い海だった。黒い海は、ただひたすらに、ざあっ、と、静かな音を鳴らしながら、おしては、ひいてゆく。ユキは、黒い海をながめたまま、たずねる。
「さみしいの?」
「とても、さみしい」
「なら、どうして、人と関わろうとしないの?」
「こわいから」
「なにがこわいの?」
「なにが、こわいんだろう。傷つけることとか、傷つくこととか、そういうことがこわいんじゃない。なにかがわたしを閉じこめる。わたしは、自分の殻の中で、安心する。自分の殻の中にいれば、こわくないし、楽だから、わたしは、いつも、閉じこもる。わたしは図書館にいるの。バベルの図書館。それはどこまでも続いていて、ずっと同じで安心できて、ずっとどこかが違う図書館。わたしはずっとそこにいる。人といるときも、そこに逃げてしまう」
波の音がきこえなくなった。ここは、図書館になっていた。わたしの図書館だった。バベルの図書館だった。六角形の回廊。上にも下にも、無限に続いている。「自分」という存在は、境界のない、無限の存在だった。けれど、わたしはけっして、他人の図書館にはいることはできない。だから、「自分」は有限でもある。図書館は無限だけれど、有限の空間の中で無限だった。
わたしは、本棚に寄りかかってすわっていた。ユキは、わたしの右側で、すこし遠くで、本棚から本を取り出し、その本をぱらぱらとめくっていた。長い黒髪で、あいかわらず、顔がみえない。ユキが、話し出した。
「でも、ここから、出たいんでしょ?」
「うん。わたしは、ここから出たい。人と話したい。いろんな人のことを知りたい。すごく知りたい。わたしには、知りたい人がたくさんいる。話しかけたい人がたくさんいる」
「話しかけるのが、こわい?」
「やっぱり、こわい。突然すぎるかなって、考えちゃう。人に踏み込むというのが、こわい。わたしは、どこまでも臆病だなっておもう。いつも、わたしの根底にあるのは、臆病だとおもう。わたしは、臆病。いやだな、この臆病さが。人の前に立つと、すごく緊張しちゃうし」
「きっと、大丈夫だよ」
ユキは、わたしを包みこむようなやさしい声でそう言いながら、わたしの方を見た。その顔には、見覚えがあった。わたしの顔だった。ユキは、わたしだった。わたしは、わたしの方に近づいてきた。わたしは、わたしのことを抱きしめた。わたしは、わたしの背中をなでた。わたしは、
「死ね」
と、わたしにつぶやいた。
わたしは、目を覚ました。徐々に意識がはっきりしてくる中で、まわりの景色をながめた。ここは教室で、授業中だった。わたしは、机にふせてねむっていたようだった。机の上に置いてあるボルヘスの「続審問」をみて、わたしはさっきまで幻想の牢獄にいたんだとわかった。蝉の鳴き声がきこえる。わたしは、生きている。
審問 文学少女 @asao22
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