第5節
こうして、二人は幸せになりました。おしまい。
と、できればいいのだが。
ウィステリアは村の娘であり、
アディルは砂漠を行く鍛冶師だった。
遠からず、二人は離れる運命にある。
……
アディルとウィステリアは、いつかのオアシスのほとりに来ていた。
緑の野原は茶色に染まり、
青い空には片耳の太陽がある。その輝きに向けてアディルが掲げたのは、一枚のガラス板だった。薄く煤が付けられており、そこを通せば、太陽の観察が可能になるという代物だ。
「あっ、たしかに見えます! なるほど、太陽に耳があるっていうのはこういうことだったんですね!」
アディルの背中からガラス板を見上げて、納得の声を上げるのはウィステリア。
「……太陽は、
「はー。長年の疑問がついに解けました。アディルさんって、物知りですね」
「……全部
「アディルさんから聞くのがいいんですよ。ゴシュラーさんはお呼びじゃないです」
笑顔で毒を吐くウィステリア。とある事件により、リチャードを宿敵認定したらしい。
それにしても、当初と比べ彼女も雰囲気が変わった。どことなく余裕のようなものを感じる。十七歳という若さに加え、アディルとの出会いから八か月。変わるのも、当然といえば当然か。
「あれ? でも、さっきの話だと、
「……大陽に比べて小陽が冷たいからだろう。小陽が手前にあれば大冬、奥なら小冬になる」
「今年は冷たい太陽が手前に来るから寒い冬。つまり、大冬なんですね」
「……おそらくな」
「むむ? 今のは受け売りじゃないんですか?」
「……さっき考えた」
何気ない会話をこなしつつ、二人は屋敷へ向かって歩き出す。
その道中、ウィステリアがポツリとこぼした。
「もうすぐ冬が来るんですね」
「……そうだな」
「アディルさんも、もうすぐ旅立ってしまうんですよね」
言葉では答えず、アディルはただ頷いた。
この村における彼の仕事はほぼ終了していた。事前に依頼された農具、器具も納品し、追加でいくつかの依頼もこなした。貯蔵されていた鉄鉱石も使い切り、鍛冶師の出番はもう終わり。
そして、冬に入る前には出発するぞと、リチャードから告げられていた。
そのことは、ウィステリアにも伝わっている。
おそらく、最後のチャンスだと思ったのだろう。彼女はとなりを行くアディルの袖を引っ張って、その歩みを止めさせた。そして、彼に向き直って、極上の笑顔を作り上げた。
「アディルさん、覚えていますか? 前に、『俺にできる範囲で願いを聞こう』、って言ってくれたことを。私、願いごとができました。聞いてくれますか?」
……
それは、アディルたちの出発予定日の前夜に起きたこと。
送別の宴を早々に抜け出して、アディルとウィステリアは部屋に向かった。
彼はいつも通りの無表情で、一方の彼女はどこか落ち着かなげにあたりをきょろきょろ。
部屋のドアを閉めると、彼女は慣れた手つきで暖炉に火を入れた。灯りが室内に充満する。
窓の外からは酔っ払いの怒号。主役がいなくなっても宴は続いているらしい。
今日の彼女はアディルに出会った日と同じ格好だった。艶やかな金色の引詰め髪に、鉄細工がさらりと揺れる髪飾り。簡素な白いブラウスに、赤地のフレアスカート。だが、以前と比べて、全体的に大人の余裕を感じさせる。可愛らしいというよりは美しい。
彼女は彼をベッドへと座らせると、自身は椅子に座った。
二人は互いに感謝を言い合い、さらに楽しかった思い出を語った。
そして、彼女は「聴いていただけますか?」と断って、この村の昔話を語り出した。
「これは二十年も前の話になります。そのころ、この村では鉄器が慢性的に不足し、畑の開墾はおろか、維持することも難しかったといいます。餓死者はでないものの、まもなく飢えがやって来ることは予見されました。そんな中、救世主のごとく鍛冶師の一団が村を訪れました。
彼ら五人組は非常に優れた腕を持った方たちでした。それぞれが目的を持って村じゅうを駆け回り、すぐさま作業を始めてくれました。それを見て、村の人たちは安心しました。なんてありがたい人たちだろう。ただ、問題はすぐに露見したのです。
彼らの来訪から数か月後、一人の村娘が妊娠していることが発覚しました。五人の内の一人がその父親でした。それだけなら喜ばしいことです。その二人の間に愛があるならば、ですが。その後、女たちの妊娠が次々と発覚します。ことの真相は、鍛冶師の男たちが自分たちの立場を利用して、無理やり女性たちに言うことを聞かせていたんです。ですが、彼らの無体が明らかになっても、それを断罪できる人は誰もいませんでした。だってそうでしょう? 彼らの機嫌を損ねて、仕事を放り出されてしまったら、この村は滅んでしまう。畑を耕すことができなくなり、飢えが緩やかに広がっていく。砂漠を渡る技術を持たない村の人たちは、外に逃げることもできません。だから、耐えました。女性たちはもちろん、男たちもお爺さんお婆さんも、村人全員でその苦しみを分かち合いました。彼らの仕事が終わるまでは、と。
実際は、彼らの仕事が完了するまで、五年もの歳月がかかりました。この村を狙い目と思ったのか、村のはずれに大きな施設を二つも作って、ゆっくりゆっくり時間をかけたようです。それで、その施設を使ったのは数週間だけ。そして、鍛冶師の一団は膨大な報酬を受け取ると、早々に村を去って行きました。残されたのは、村の働き手全員に行き渡るほどの上質な農具に、破壊されきった巨大な施設、浪費され貯蓄のなくなった食糧倉庫、そして、……何十人もの彼らの子供たちでした」
彼女が天井を見上げ、そして、袖で顔をごしごしとこすった。
それから、彼のほうへ視線を戻すと、弱々しく笑みを作った。髪飾りが揺れる。
「私はその子供の一人です。もちろん姉さんも。お父さんは実の父じゃありません。私たちから見ると、本当は叔父さんなんです。でも、私たちを本当の娘と同じように扱ってくれました。ほかの何十人もの子供たちも、村の人たちは大切に育ててくれたんです。憎むべき相手の子供なのに『あなたたちはこの村の子供たち』だからって。どれだけ感謝してもしきれません。
……それで、年代は飛びます。その悲劇から時が経ち、村はそのときと同じ状況に陥りました。鉄器は壊れはじめ、満足に畑を耕すことも難しくなりました。鍛冶師を憎みながらも、鍛冶師を待ちつづける日々が続きました。そして、砂漠の向こうから、あなたがやってきた。
砂漠の上で肩をお貸ししたときにすぐ、あなたが鍛冶師だと気づきました。母から、父は片目を布で覆った鍛冶師なのよ、って聞いていましたから。そして、あなたをこの屋敷までお連れしました。ほとんどの農具がボロボロになっていた村は、鍛冶師の来訪に当然わきました。ですが、二十年前の悲劇を考えると、対策を講じなければいけなかった。
それは、『あなたたちに一人ずつ女性をあてがい、その女性に全てを処理させれば、ほかの女性には目を向けないだろう』というものでした。簡単に言えば、『性欲処理の相手を事前に用意しておこう』って感じですね。何を隠そう私のことです。
あっ! 勘違いしないでくださいね。誰かに無理やりやらされたわけじゃありませんから。立候補ですよ。この村の人たちは私のことをずっと大事に育ててくれましたから、恩返しとしてはいいタイミングだったんです。
えーっと、話を戻しますね。私はあなたの興味が他の女性へ行かないようにする役目、つまり、あなたを誘惑する必要がありました。ですが、それがなかなかに難しくてですね。私自身、男性を誘惑したことがないっていうのもありましたが、なにより相手があなたでしたから。最初のころなんて、本当は恐かったんですよ? 表情も全然変わらなくて、ほとんどしゃべらないですし、でも突然変なことを言いはじめて、すたすた行っちゃいますし。
……少しくらい文句を言わせてください。私は、あなたになら何をされても良かった、どんなに恐いことでも、痛いことでも、悲しいことでも、何をされてもそれを受け入れる覚悟はできていました。いつも、臨戦態勢です。だって、それがお役目なんですから」
彼女は大きく息を吐いて、にっこりと笑った。だが、自虐的な雰囲気が感じられもする。
そこで、
「……辛かったな」
と、アディルは言った。
「結局、何もされませんでしたから、事前に考えていたよりはそうでも……。って、えええ!? 慰めてくれるんですか? アディルさんが!?」
ウィステリアが畏れ慄き、椅子ごと倒れそうになった。
それを気にした風もなく、アディルは淡々と言う。
「……それだけ話してくれれば、君がどんなに厳しい状況で、どういう判断を下したのかはわかるつもりだ。辛かっただろう?」
「あ、はい。まあ、そうですね。はい。……。たしかに、あなたを完全な冷血漢だとは思っていませんでしたが、ここにきてそう来ますか」
「……どういう意味だ?」
「理解していただかなくて大丈夫です。独り言ですから」
手を上げて、これ以上の詮索はダメです、とジェスチャーするウィステリア。
それから、この話を聴いていただいたのはですね、と彼女はまとめに入った。
「最後に、あなたに謝りたかったからです。ずっと騙してきたことを、なにより、あなたを二十年前の鍛冶師たちと同じ酷い人間だと思ってしまったことを謝罪させてください。本当に、ごめんなさい。あなたはあいつらとは違って、とても誠実で、腕も良くて、ちょっと不愛想だけど、とてもとても素敵な人でした。あなたのおかげでこの村は救われました。ありがとうございました」
ウィステリアは立ち上がり、スカートをつまんで礼をした。最初のころのたどたどしいものではなく、折り目正しく、たおやかで優雅なお辞儀だった。
アディルは二度ばかり頷くと、ジャケットの内ポケットから白木作りの長方形の箱を取り出した。広げた手のひらほどの大きさがあるそれを、ウィステリアの手に乗せる。
「……以前、頼まれたものだ。今のうちに渡しておく」
「あ……、ありがとうございます。ちゃんとおぼえていてくれたんですね」
「……開けてくれ、手入れの仕方を説明しよう」
「あっ! いいんです、いいんです! 御守りにして眺めるだけですから」
彼女は右手を振りながら、白木の箱を胸に抱いた。
「……そうか」
と、答えるアディルが、どことなく残念そうなのはたぶん気のせいである。
部屋に静寂が訪れた。大通りで繰り広げられているはずの宴も、空気を読んで物静か。
ウィステリアが無言で暖炉に近寄って、無言で薪を追加した。
そして、無言でアディルのとなりに座ると、上目遣いにこう言った。
「あの、最後にもう一つだけ、お願いしてもいいですか?」
外に広がる夜空では、
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