第3節

 季節が春を迎えてから、ひと月ほどが経過した。ほとんどの畑は種まきが終わり、雑草との格闘が始まる時期である。村も活気を取り戻しつつある中、牧場では羊の毛刈りが行われ、どよめきが村に響き渡った。新品の毛刈りバサミの切れ味に驚く声だ。


 そして、その素晴らしいハサミを作ったアディルは称賛を浴びているかといえばそんなことはなく、オアシスの岸辺を掘っていた。シャベルでザクザク。土をつまみ上げ、指でコネコネ。


 そのすぐとなりでは、ウィステリアが白い傘で日陰を作っている。今日の洋服は胸元が開いた大胆なもので、ふわふわのスカートには真紅のラインが二本。金絹の髪は纏められており、髪飾りの鉄細工がそよ風で揺れる。外での作業に付き添っているからか、肌がほんのりと赤い。彼女もアディルの指先で土が捏ねられるのを見ている。が、たぶんその意味を理解していない。


 最近のアディルは、色々な場所で土を調べていた。小麦畑、葡萄畑、果樹園、牧場、牛小屋、屋敷の裏、民家の裏、墓地、砂防林。オアシスの岸辺に至っては、ここで五か所目だ。


「ここの土はどうです?」

「……駄目だな。砂が多すぎる。だが……。ふむ、もうすこし掘ってみるか」


 また、ザクザクザクと大地にシャベルが差し込まれる。土の匂いが辺りに散った。アディルの額に浮かんだ汗を、ウィステリアがハンカチで拭う。


 はた目から見ていると、それは奇妙な光景だった。土を掘る隻眼の男と、傘をさす少女。ましてや、そこがオアシスのほとりに広がる原っぱで、独特の形をした草花が色とりどりに咲いているのだ。まあ、今の時間帯に限らず、このあたりは人が立ち寄らない場所のようだが。


 そうこうして、膝の高さほどまで穴は深くなった。

 ウィステリアはしゃがみ込んでアディルの汗を拭うと、自分の胸元をあおいだ。


「ふぅ。そろそろ休憩にしませんか? 始めてから結構な時間になりましたよ?」

「……そうだな」


 シャベルを土の山へ突き刺したアディルに、立ち上がったウィステリアが手を伸ばす。

「はい、手を出してください。引き上げますから」


 手を繋ぐと、彼女の姿勢が突如ふらりと揺れ、足元が崩れ、そのまま穴の中へ落ちてしまい、仰向けに倒れたアディルの胸の中にすっぽりと収まって、顔を上げると不意に見つめ合ってしまい、思わずこの時期のリンゴみたいな色に染まる、というお約束なシーンが起きてほしかったのだが、そう都合よくは起きなかった。無念だ。


 ウィステリアに手を引かれたアディルは、そのまま木陰へと連れていかれた。

 張った木の根に二人そろって腰を下ろすと、アディルは水筒の水で手を洗わせてもらう。それから差し出されたコップを、感謝を述べて受け取った。一口飲み込むと、息を一つこぼす。


 穏やかに時間が進む。

 アディルはオアシスを眺めていた。もしくはその向こうで霞むお屋敷かもしれない。緩やかに回る風車小屋か、はたまた、遥かなる母星ちきゅうを見ようとした可能性もある。


 そして、ウィステリアはそんな彼の横顔を眺めていた。その表情からは何も読み取れない。喜び哀しみ、楽しさ、不安。どれとも知れず、全てかもしれない。夕食のメニューを予想しているだけの可能性もあり、自らの過去を振り返っている可能性もある。


 いずれにせよ、彼女はすらりと立ち上がると、隣の男に微笑みを向けた。

「アディルさん。もう少しここで休まれますか?」

「……そうだな。それもいいかもしれない」

「なら、少しの間、席を外しても大丈夫でしょうか? ずっとサボってきた日課がありまして」


 アディルの首肯を確認したウィステリアは、傘をさして太陽の下へ。あっちへふらふら~、こっちへふらふら~、と野原をさまよっている。時折、しゃがみ込んでは何かをしているが、傘が目隠しになっていて、何をしているかは謎。


 アディルは彼女の動きを追うように首を動かしていたが、コップを置いて、立ち上がった。

「……手伝おう。何をすればいい?」

「ひゃあ! な、なんです?」

 しゃがんでいたウィステリアは、バッと立ち上がって、胸に抱えていた花々をばらまいた。

 今度はアディルがしゃがんで、その花を拾い集める。


「……すまない。驚かせた」アディルは花束を彼女の胸元に差し出し、

「あ、ありがとうございます」ウィステリアはそれを大事そうに受け取った。


「……何をしているんだ?」

「お供え用の花を集めているんです。今の時期はこの狐の手袋フォックス・グローブが綺麗ですから」

 ウィステリアが胸の中の花束を持ち上げた。珍しい形の花だった。長い茎の先に釣鐘つりがね型の花がたくさん付いている。優しい黄色に鮮やかなピンク、冷静な青。茎ごとに花の色が違った。


「あ! アディルさんもお墓参りしていきますか? みなさん、喜ぶと思いますよ」

 その提案に頷き返して、アディルは傘を貸してくれと言った。


   ……


 両手いっぱいに狐の手袋フォックス・グローブを抱えたウィステリアに、傘で彼女に日陰を作るアディル。

 さきほどの湖畔からすぐのところ、防砂林に半分入り込んだ場所に目的地があった。


「ここ、流れ者ワンダラーズのお墓なんです」


 彼女の言葉通り、そこは墓地に見えた。ぽっかりと見通しの良い空間は砂利敷きで、雑草の類が見られないほど手入れされている。そこには石碑が規則正しく十四基並んでいた。敷地内に足を踏み入れると、世界から切り離されたような静寂が訪れる。


 ウィステリアは砂利をできるだけ鳴らさないように進むと、それぞれの碑に花を供えた。

「一緒に祈ってくれますか、アディルさん?」

「……わかった」

 そうして、二人は静かに目を閉じる。


   ……


 その帰り道。

「あそこは、村に来てくださって、でも志半ばで亡くなられてしまった流れ者ワンダラーズのお墓なんです。この村は隣の集落から離れすぎているせいか、砂漠を越えられてもそのまま亡くなる流れ者ワンダラーが多かったそうで……。せめて安らかに眠れるよう、あの静かな場所に作られました」

 静かな語り口に、アディルは神妙に頷いた。彼自身、下手すればあの場所に埋葬されていたと考えれば、心穏やかではいられまい。……そういうことを考えていると思う。たぶん。


「もともとは母が管理していたんです。子供の頃の姉さんと私は、その手伝いをよくしていました。『この村のために来てくださった方々ですから、綺麗にしてあげましょう』というのが、お墓を手入れするときの母の口癖で。……今日お供えした狐の手袋フォックス・グローブも、母が好きだったお花なんですよ。どうです、かわいいですよね?」


 ウィステリアはその花を一本だけ持ってきていた。それをさらさらと揺らす。かわいい。

 そして、香りを確かめるように、いや、語りかけるように、その花に顔を寄せた。

 何か思い出したのか涙が伝う彼女の頬を、アディルは親指でゆっくりと拭った。


 こうして、二人は元の湖畔へと戻ってきた。

 アディルは先ほど掘った穴に入った。すぐに作業を再開するかと思いきや、シャベルを手にして一度天を仰ぐと、なぜか、ウィステリアの胸元で揺れている花に視線を向けた。


「……それのことなんだが――」

「はい。狐の手袋フォックス・グローブがどうしました?」

手袋グローブはわかる。だが、フォックスとはなんだ?」


 彼女がキョトンとした。スカイブルーの瞳をぱちくりさせた。妙な空気があたりを包む。

「アディルさんも、そういうことが気になるんですね」

「……そういうこともある」


「えっとですね。私も、母から聞いただけなんですけど――、狐っていうのは、牧場にいる犬によく似た動物なんですって。四つ足で歩くんです。かわいいですよね? えっと、それで、人類わたしたちが生まれた地球っていうところがあるじゃないですか。そこに昔、棲んでいたそうです。えっ? 野生動物かどうか? 野生ってなんですか? あ……、それは、よくわかりません。ごめんなさい。……えーと、犬に似ている、ってさっき言いましたけど、でも、もっと体がスラっとしているらしくて、あっ、でも毛がもっとフワフワしているとも聞きました。それから、体のほとんどが金色なんですって。違うかな? 違うかもしれません。あっ! フワフワなのは尻尾でした! それで尻尾の先や、胸の毛が白いみたいです。はい、それは間違いないです。それで、顔もスラッとしていて、頭の上に……、あっ、言葉だけじゃわかりづらいですよね? えーっとですね、狐っていうのは、私の髪の毛みたいな金色で、お尻の先からフワっとした尻尾が生えていて、その先っぽや胸のあたりが、こう、真っ白で、顔はシュッとスリムなんです。それで、頭の上にはこんなふうに三角形の大きな耳が――」


 この瞬間とき、頭に手をやった体勢で彼女は動きを止めた。顔から血の気が引いていた。そして、熱せられた鉄のように赤くなったかと思うと、最後は澄んだ水のように蒼く染まった。


 なぜか?

 背の高い草の陰から、顎ヒゲの男リチャードがぬっと現れたからだ。

 彼の笑顔は好奇に溢れていた。はじめてサーカスを目の当たりにした少年の笑みだ。

 少年リチャードは『次は何を見せてくれるのかな』という、期待と悪意に満ちた目をしている。


「あ、ああ、あの、アディルさん? わ、私、急用を思い出したので席を外しますね?」

 しどろもどろになりながら、両手で顔を覆いながら、ウィステリアは走り去っていった。

 その転びそうな背中に、アディルは「……わかった」と声をかけた。


「やー、可愛い嬢ちゃんだな。アディル、あとで、あの仕草の感想をちゃんと伝えてあげろよ」

 リチャードの軽口にも、律儀に頷き返すアディル。彼なら言われたとおりにするでしょう。


 そしてまた、周囲にザクザクザクという音が響き出す。

「進捗はどうだ?」

「……土が見つからない」

「手伝えることは?」

「……今はない」

「そ」

 リチャードが草むらに視線を向けた。そこにはウィステリアが置いていった傘と花がある。


「……その花は狐の手袋フォックス・グローブというらしい」アディルが穴に視線を落としたまま言う。

「ふうん? そんな風にも呼ばれ――。ははーん。それで、嬢ちゃんの痴態につながるわけか」

 リチャードがにやりと笑う。狐を真似る少女の姿が脳裏によみがえったのだろう。とりあえず、ウィステリアがこいつをぶん殴っても、誰も罪には問わないと思う。


「ああ、そうそう。アディルに訊きたいことがあったからここに来たんだ。ちょっといいか?」

「……なんだ?」

 シャベルをザックリと地面に突き立てたアディルに、リチャードが赤い色のボールを投げた。それを難なくキャッチしたアディルは、手の中のそれをまじまじと眺める。

「……これは?」

「この村のリンゴ。ちょうど収穫期なんだ。色もさっきの嬢ちゃんみたいに赤いだろ? でも、見ての通りとても小さい。それになにより、……まあ、食べてみろ」


 アディルは、一口で食べられそうなほど小さなそれを、とりあえず齧った。

「……水気はあるが、味はないな」

「嬢ちゃんやオリザはそれを完熟のリンゴだと思って食べている。どうにかしてやりたい」

「……何をすればいい?」

「前に、ここの鉄鉱石はリン分が多いと言っていたな。取り出せないか?」

「……何に使う?」

「肥料に使いたい。この村は硝安しょうあん藁灰わらばいばかり撒いていて、土中の養分バランスが崩れている」

「……わかった。その用途でなら使えるだろう。だが、なんにせよ土が必要だ」

「オレが手伝えることは?」

「……今はない」

「そうか。必要になったら声をかけてくれ」

 珍しくまじめな顔で去って行くリチャード。背中で別れを告げるその姿は、漢の風格。


 その漢が向かった先に、二つの人影が現れた。一つは気品あふれる風貌のオリザ。貫禄すら感じさせる美しい笑顔を浮かべている。

 もう一つは彼女と同世代の男性。恰幅がよい。おそらくリンゴの担当者。その表情を怒りに染めている。


 リチャードはなにやら身振り手振りでリンゴの人に説明しはじめた。たぶん、「盗んだんじゃない、あのリンゴが必要だったんだ!」とかそんな感じ。当然、リンゴ担当は納得するそぶりもない。結果として、オリザがリチャードの耳を引っ張って連行していった。彼の顔が幸せそうなのは納得いかない。


 それから幾分か経って、ウィステリアがを引きずって戻ってきた。

「あれっ? ゴシュラーさんはどこです? 逃げちゃいました?」

「……連行されていった。それよりどうした。草刈りの時期はまだ先だろう」

「刈るのは草じゃありませんから。まあ、この場にいないならしょうがないです」

 ウィステリアはそれを野原へポイッとすると、残念そうに手をはたいた。


 アディルはまたシャベルの先に視線を落とすと、ザックリと大地を抉った。

「……言いたいことがある」

「あ、はい。なんでしょうか?」

「……さっきの、似合っていたと思うぞ」

「さっき? どれのこと――、……。――えっ? なんで!? なんで、こういうときに限ってそういうこと言うんです? いつもはこういうの無反応ですよね!」

 青くなって、赤くなって、さらに赤くなった。狐耳を表現していた手も、本物の耳も真っ赤。


「だ、ダメです! さっきのは、さっきのだけは忘れてください! お願いですから!」

「……わかった。忘れるよう努力しよう」

「えっ!? えぇ? えーっと……、それはそれで、残念というか、もったいないというか……」


 声のトーンが低くなっていくウィステリア。左右の指を合わせて、顔を伏せる。それから、アディルをチラチラ窺った。あざとい。あざといが、彼は穴掘りに集中していて気づかない。

 無意味と悟ったウィステリアが一つ息を吸って、アディルに声をかけた。


「かなり深く掘りましたね。そこの土はどうですか?」

「……悪くない。見てみるか?」

 アディルは土を掴み上げると、強く握りしめた。そのこぶしをウィステリアの目の前で広げてみせる。土は握られた形を保ったままだ。

「……これだけ纏まれば炉造りにも使えるだろう。リチャードあいつを呼んできてくれ。手伝いが必要になった」

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