第1節

 それは奇跡といって差し支えないことだった。


 アディルは集落目前で行き倒れたところを村娘に助けられた。

 前代未聞、というといささか過剰表現だが、奇跡と表現することは問題あるまい。生身で砂漠を進むなぞ、誰もが無謀なこととして認識していたはずだ。


 だからか、村娘に肩を貸されたアディルを見た村人たちは一斉にどよめきを放った。ザワザワしていたし、ヒソヒソしていた。道端会議を日課としている奥様方だけならいざ知らず、筋肉隆々の農夫の方々ですらボロボロのくわを担いだ状態で駆け付け、耳打ちしあっている。

 そんな不穏な雰囲気は、アディルたちが目抜き通りに来たところで歓迎ムードに変わった。どこかから歓声のようなものまであがっている。手を取り合って飛び跳ねている男女もいるし、ファファファと笑っている老人もいる。


 そういう反応が当然かもしれない。

 砂漠に孤立する集落にとって、外からの来訪者は歓待されてしかるべき存在なのだから。


 こうして、アディルたちはオアシスのほとりにある大きな屋敷に担ぎ込まれた。そこはやはりというか村長の屋敷であるらしく、通りにあったどの家よりも大きく、白石造りの二階建てでいくつもの窓があり、とんがり屋根であり、鐘楼まであった。一言で表現するなら、立派。


「死ぬかと思ったな」

 しみじみと言ったのは、情けないほうの男リチャードだった。水やら風呂やら手厚い歓迎を受けたため、決死行のときと比べると顔色も良くなっていた。撫でつけ気味の茶色の髪に、切れ長の目じり、整えられた顎ヒゲ。彫りの深いハニーフェイスの復活である。


「……そうだな」

 こう短く答えたのはアディル。その黒い髪の毛はまだ濡れている。右目を中心に巻かれた黒い布も乱雑で、その間からはみ出た髪がピンピン跳ねていた。身だしなみを気にするほうではないのだろう。ただ、その野性味が彼の味になっているような気がしないでもない。


 日が沈み、ウエスタンジャケットを羽織った二人は食堂で待たされていた。十人掛けテーブルには真っ白なクロスが敷かれており、シャンデリアにも火が入れられきらめいている。

 窓の外には深い闇。晩餐に呼ばれたであろうことは、容易に想像がつく。

 なにより、肉の焼ける良い匂いが廊下にすら渦巻いていたのだ。

 ……だが、遅い。


「遅いな」

「……そうだな」


 こんなやり取りが何回も行われている。空腹は最大のスパイスなどと言われているが、これは最早拷問なのではないか、とリチャードあたりは考えているに違いない。


 そしてついにその瞬間が訪れた。


 ドアをノックする音が食堂に響き渡った。その振動はシャンデリアの炎を揺らし、大理石の壁に反響し、飯待人めしまちびとの鼓膜を震わせる。耳小骨を通じ、内耳の蝸牛かぎゅうへと伝えられた音の波は、電気信号へと変換され脳へ到達、第一聴覚野がその音をノックによるものだと認識するのに十分な刹那じかんが経過したとき、誰かの喉がごくりと鳴った。腹の虫も一声鳴く。

 両開きのドアに光が走った。何者かが押し開けようとしている。使用人メイドか? リチャードの背筋がピンッと伸びた。無意識の行動だろう。だが、誰が彼を責められよう。彼は空腹なのだ。


 そして、光の隙間から人影が現れた。

「お待たせしていますかな?」

 村長おとこだ。こんがりと肌の焼けた村長おとこが微笑んでいる。

「そんなことありませんよ、ワーステインさん」

 返したのはリチャード。彼も笑顔だ。声にも落胆はない。だが彼の脳内では、配膳台を押して入ってきた色白美人使用人メイドがスカートをつまんで礼をする光景イメージに、×ばつ印が付けられているはずだ。


「オレたちのことはお気になさらずに。なにぶん突然押し掛けた身ですから」

「恐縮です。実は久しぶりの流れ者ワンダラーズの来訪で用意に手間取っておりまして……」

「そうでしたか。本当にオレたちのことはお気になさらずに。ええ、本当に……」

 営業スマイルを絶やさぬリチャードから、信念的ななにかが垣間見えた気がした。

 彼の空腹が満たされるのは、幾分いくぶんか先のことになるのである。


   ……


 そして幾分いくふんか経った。

 リチャードの襟元にはすでにナプキン。

 テーブルの上に、トントントンと料理が置かれていく。


 給仕は、ペイズリー柄のセヴリーズエプロンを身に着けた二人の少女だった。二人とも金色の引詰ひっつめ髪で、ブラウスの袖から見え隠れする肌は粉砂糖のように白く、ぱっちりとした目にはスカイブルーの瞳が炎を受けて輝いている。

 彼女たちはとても似ていた。姉妹だろうか。姉が十八歳程度で、妹が十四、五歳に見える。年の功というべきか、姉のほうは柔和に微笑み、皿を置く動作ひとつひとつにも気品があった。妹ちゃんはその様子を観察しながら、そろりそろりとやっている。それはそれで微笑ましい。


 こうしてアディルとリチャードの前に、総勢二十近くの料理皿が並べられた。

 コーンポタージュ、

 白い生地が覗く丸パン、

 ベーコン入りのマッシュポテト。

 ローストチキンはパリパリに焼けており、

 切り分けられると豊かなハーブの香りが部屋中に散らばった。

 誰かがごくりと喉を鳴らした。誰かはあえて言わない。

 アディルたちの対面に座る村長が手を鳴らす。


「大変お待たせしました。冬が終わったばかりで、大したものはご用意できませんが……」

「ご謙遜を。これだけの料理、なかなか用意できるものじゃありませんよ。美味しそうです」

「お口に合うと良いのですが。さあ、温かいうちにお召し上がりください」


 お決まりのやり取りも終わった。リチャードは食前の祈りもそこそこに、いきなりローストチキンに手を伸ばす。それを確認してか、アディルがやっとナプキンに手を伸ばした。

 給仕をこなした少女たちは、スカートをつまんで礼をした。やはり姉はゆったりと美しく、妹はたどたどしく愛らしい。そして、静かに食堂を去って行く。

 その際、リチャードが姉に笑いかけたようだ。彼女も気づいて微笑み返していた。

 そして、妹ちゃんはアディルへ岸辺に咲く小さな花のような笑みを向けたが、彼はパンに興味が向いていた。まあ、そんなこともある。

 一人蚊帳の外の村長はといえば、客人まろうどが食べるさまを見て喜んでいた。


   ……


 食事中、村長がこの村の歴史を話してくれた。

 導入は「六十年前、私の祖父が第五都市マリアから第六都市ニサへ移動中、偶然にもオアシスを発見したことから始まります」。つらつらと淀みない語り口は、村の子供たちに何度も話して聞かせた証だろう。淡々としているが、どことなく誇りを感じさせる言葉遣いだった。

 ただ、村長には悪いがそのような歴史はなしはこの惑星ほしにはごろごろしていた。オアシスを発見し、人を集めて開墾、そして集落となった。よくある話である。違うのは『いつにwhenどこでwhere誰がwho』くらいで、『どうやってhow何をしたwhat』は変わらない。『なぜwhy』に至ってはほとんどが語られない。


 だが、後半は興味深い話になった。

「当初から、ここのオアシスは豊富な水を湛えていたそうです。湧き水が肥沃な土壌を生み、木々の成長も早く、作物の実りも良い。他の村に比べ、はるかに豊かな生活が送れる土地柄だったと聞いています。……ただ、その豊かさの割に住人は増えませんでした。というのも……」

 村長はそこで話を切った。注目を集めるつもりだったのかもしれない。しかし――、


「となりの集落と離れすぎているから、でしょう?」

 代わりにリチャードが答えた。得意げでもない。気取った風もない。その苦労わかります、と柔らかな笑みを浮かべていた。村長も気分を害した様子もなく、こくり。


「そういうことです。砂漠を越えるだけで危険なのに、長い距離ともなると尻込みもします」

「さすがに、車で片道五日は尋常じゃない。オレたちも途中で燃料が切れて大変でしたから。あなたと娘さんに助けられなければ、砂漠の一部になっていましたよ。感謝しています」

「私も娘も人として当然のことをしただけのこと。むしろ、私たちが感謝を述べるほうでしょう。よくぞ、このような辺境に来てくださいました。住人一同を代表して、感謝いたします」

 そう言って村長は頭を下げた。収穫期の小麦畑のような色合いの髪には、かなりの白いものが混ざっている。まだ齢四十ほどだろうに、苦労しているのかもしれない。


「……さっき、流れ者ワンダラーズの来訪は久しぶりだと言っていたな。いつぶりだ?」

 さっきから料理を頬張るだけの存在と化していたアディルが口を開いた。村長は当然驚いた。ついでに、リチャードも驚いていた。

「いつぶり、と言いますと……、ちょっと待ってくださいね。下の娘が四歳のときでしたから、もう十二年近く前になりますか。そのときは商人の流れ者ワンダラーがトラックで来てくれましてね」

「十二年ですか。それはまた……」リチャードが顎ヒゲを撫でた。

「……鍛冶師が来たのはいつだ?」口元を拭ったアディルがさらに訊く。


 唾を呑み込む音が室内に響いた。村長から柔らかな表情が掻き消えた。

 彼は大きくまばたきすると、アディルを穴が開くほど見つめた。正確にはその顔を、さらに精密に表現するならば、黒い布で覆われたその右目を。

 そして、ゆっくりと小さく頷いた。

「最後に鍛冶師の流れ者ワンダラーズが訪れたのは、二十年も前になります」

 リチャードが目を見張った。あり得ない、とでも思っているのかもしれない。


  ……


 集落を維持していくにあたって、鍛冶師の存在、正しくは彼らが作り出す〝鉄器〟の存在は必要不可欠なものだ。鉄器の素材である鋼は強靭タフで形も作りやすい。それが使われた刃物は鋭い切れ味を生み出し、すきや鍬、かまといった農具に使われたとき、その真価を発揮する。

 この惑星フロンティアⅫの表面はほぼ砂漠であり、人類の食料となる野生動物は存在しない。牧畜するにもその飼料がいる。集落維持には農作が必須と言えるだろう。その際、収穫量を決めるのは農業用水の量と耕作面積だ。鋼を使った農具は強靭で、耕作効率を飛躍的に向上させる。むしろ、鉄器のない農作は考えられない。


 ただ、非常に有用な鉄器ではあるが、弱点ももちろんある。腐食すさびるのだ。いかに乾燥した気候とはいえ、腐食の原因となる水は人の生活にかならず存在する。どれだけ丁寧に扱おうと、いつかは赤錆が浮かび折れてしまう。寿命を迎えた農具では、もう、畑を耕せない。

 そして、その寿命は二十年よりもはるかに短い。


「……そうか、よく持ちこたえさせたな」

 アディルがぼそりと言った。


 そんな言葉をかけられると思っていなかったのか、村長は驚いた表情を作り、それを取り繕うように笑顔を作った。だが、どこか誇らしさが透けて見える。

「いいえ、私だけの力ではありません。それに、二十年前の方々の腕が良かったのでしょう」

「謙遜しないでください。旅をしてきたオレたちですら、二十年というのは聞いたことがない。こうしてこの村を維持できたのは、あなたの、あなた方の努力の賜物でしょう」

 感銘を受けたとばかりに、力強く頷くリチャード。自らの胸に手を当て、女殺しの微笑みスマイル

「申し遅れました。オレはリチャード・ゴシュラー。気軽にリチャードと呼んでください。そして、こっちがアディル・バルトゥス」

 リチャードに肩を叩かれ、アディルは目礼した。黙して語らずといった雰囲気。もしくは、オレが肩を叩いたらせめて目礼だけでもしてくださいお願いします、と事前に懇願された雰囲気だ。

 ただ、村長はそういったことに気づかなかったようで、深々とアディルに返礼した。


「アディルは鍛冶師です。鉄鉱石の製錬から、農具や刃物に使う鋼の加工、鍋や鐘のような鋳物いものまでやってのけます。オレが言うのもなんですが、腕はかなりいい。あなた方の助けになるかもしれない。どうでしょう、彼を使ってみませんか?」

「ぜひとも。そして、村を救っていただきたい。……ああ、これも神の思し召しかもしれませんね」


 肩の荷が下りた、というように村長の全身から力が抜けた。表面的にはわからなかったが、かなり神経を使っていたのだろう。なにぶん、断られたら村の存続すら危うい状態だったのだ。張りつめた糸が切れれば、こんな穏やかな笑顔にもなる。

 そして、それを見て満足げに微笑むリチャード。

 アディルは相変わらず無表情だった。


 で、その無表情男に動きがあった。

 ナプキンを畳んでテーブルに置いたのだ。

 ご馳走様の合図である。そして、席を立った。

「……馳走になった。今日はもう休ませてもらう」

 アディルはやはりというかなんというか、わかってはいたが、かなりマイペースなようだ。リチャードがしかめっ面で頭を抱えているあたり、彼の苦労が偲ばれる。頑張ってもらいたい。


「えっ、ああ、はい。そうですね。すぐに案内させますので」

 村長は面食らいながらも手を叩く。と、その行為にリチャードが神速で反応し、髪を整えた。それはなぜか? ドアが開けられ、さきほどの美しい姉に愛らしい妹が入ってきたからだ。

 エプロン姿の姉妹は、村長のとなりに並ぶと、淑やかにお辞儀をした。


「姉のオリザに、妹のウィステリアです。私が言うのもなんですが、本当に気が利く自慢の娘たちでして――」手を後頭部にやりながら、親バカっぷりを発揮する村長に、

「お客様の前でよしてください、お父様」ぴしゃりと笑顔で言うのは姉のオリザ。

「ゴシュラー様、バルトゥス様。さあ、お疲れでしょう。部屋にご案内いたします」

 彼女がたおやかにお辞儀して、手で扉を示すと、リチャードは白い歯を見せて微笑んだ。


「今はアディルだけ案内してくれないかな。オレはワーステインさんと、いや、お父さんと相談しなきゃいけないことがあるんだ。その後はキミに個人的相談をしたいところなんだけど仕」

「はい、承知いたしました。では、バルトゥス様――」オリザの袖をクイクイ引く妹ちゃん。「――わかったわ。部屋まではウィステリアが案内いたします。ゆっくりとお休みください」

「そ、それではご案内します、バルトゥスさん」

 動きがコチコチのウィステリアに、普通についていくアディル・バルトゥス。眼前で行われたやり取りの意味がわからないあたり、朴念仁だけでなく唐変木の素質もあるらしい。

 とりあえず、ウィステリアの未来は多難っぽいと、ここで予言しておく。


   ……


 カーペット敷きの廊下。ウィステリアがトコトコ歩く後ろを、アディルがテクテクついていく。ウィステリアは時折振り返って何か言おうとするも、勇気が出ないのか口を噤んだまま前に向き直ることを繰り返していた。

 アディルはアディルで、彼女の髪留めに揺れる鉄飾りが気になるらしく、じっと観察していた。歩くごとに房がさらさらと揺れ動くのだ。鍛冶師として製法が気になるのかもしれない。ただ目を引いただけかもしれないが。


「……感謝している」

 と、突然アディルが言った。何の前触れもなかった。隕石が振ってきたようなものだ。

 当然、ウィステリアは振り返るだけで精いっぱいだった。

「は、はい! 何かおっしゃられましたか、バルトゥスさん?」

「……感謝している。あと、俺のことはアディルで構わない」

「え? あ、はい。ではアディルさんと呼ばせていただきますね。それで、感謝というのは」

「……昼間助けて貰っただろう。君が倒れた俺を見つけていなければ、俺たちは死んでいた」

「あ……。別に、そんな。困っている人は助けなさいって、母にもお父さんにも教えられましたから。だから、大したことでは――」

「……立派な両親だ。その教えと君のおかげで俺は生き延びられた。払いきれるとは思わないが、この恩はできる限り返させてもらう」


 そんなことを恥ずかしげもなく、真っ直ぐに見つめながら述べるアディル。むしろ、言われたウィステリアのほうが目を逸らしてしまったほどだ。俯いた顔は熟れたリンゴのように真っ赤。

 そして、そんな様子に気づかない朴念仁は、そこが廊下最後のドアと見ると、勝手に開けた。

「……この部屋を使えばいいんだな? ……。……どうした?」

「い、いいえ! なんでもないです、はい! どうぞ、その部屋を自由にお使いください」

 息も絶え絶えに返答する完熟リンゴ。真っ赤なのに甘酸っぱい感じがする。だが、酸っぱいリンゴはパイに最適なのだ。酸味と甘味のバランスが大事。何事も一辺倒だけではダメである。


「おやすみなさい、アディルさん」

 平常心を取り繕った笑顔でウィステリアが言う。

 アディルはこっくりと頷き、「……おやすみ」と部屋へと消えていった。

 ドアがぱたりと閉められる。

「……ふぅ」

 ウィステリアは顔を赤らめながらそのドアにもたれかかった。重ねた手のひらは胸の上に、天を仰ぐ視線はふわふわ虚ろ。艶やかな唇から漏れる吐息はどこか熱っぽい。

 胸を押さえるその姿は、これが恋なのでしょうかと、神に確認するようでもあった。

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