樹海告知

@11salinger

茉里

 何度か足を小刻みに上下させた後、一気に振り下ろす。軽微な振動と共にエンジンがかかった。しばらく動かしていなかったので錆びたマフラーから白煙が吐き出される。

 まずいかもしれない

 とりあえず手のひらをマフラーの先にかざしてみる。ポッポッという小刻みな空気のまとまりが単気筒のリズミカルな音と共に手にあたり、そのまま強烈なガソリンの匂いだけが私の鼻に当たった。

 くっさあ、いけど温かいし大丈夫かな

 犬の鼻は濡れていれば問題ないし、バイクは熱くて臭けりゃ問題ないというのが素人ながら私の持論さ。

 

 一旦エンジンを切り、玄関先の階段に既に積んでおいた荷物をカブに乗せた。1週間前にメルカリで買った単車用のツーリングバッグは、巨大なのは良かったものの以前の持ち主が生乾きで置いていたのか、濡れた雑巾と他人の家の匂いが混ざりそれが培養されてひどく香ばしい。ホムセンで買った一番強い洗剤をボトルごと浴槽に入れて二日間つけ置きしたけど、果たしてクソ映画の最後に妙に目を引く(後で覚えていればGoogleで調べたくなるような)女優が出てきて和むみたいな、そんな効果しか得られなかった。

 明らかに有毒量のガスが風呂場に充満して、脱衣所まで使用不可にしちゃったんだけどねえ…

 かなり不機嫌にさせてしまった家族の顔を思い出しながら、苦労して取り付けたリアキャリアにバッグを載せる。荷物を詰め込むと優に10kgを超え、とてもじゃないが持ち上げられないので空身からみで固定する。

 そこにキャンプ道具と生活品、その他諸々私が女であるために必要なものを詰めてチャックを閉めた。


 ヨォシ!

 一歩下がって四時起きで一時間かけた成果物を眺める。水色のスーパーカブに不釣り合いなほど大きな黒のバッグ。カブは父さんの知り合いのバイク屋で、半ばひったくるように買い叩いた中古車だ。と言っても塗装は剥げてシートもボロボロ。エンジンも錆び付いててもちろんメーターは脅威の三万キロだ。多分二十万キロは走ってると思う。でもちょっと離れてみると、水色の車体は夏の空によく似合う。まだサイドバッグに詰める荷物は残っているけど、少し汗をかいてきたので家の前の階段に腰掛けた。

 


 夏休みに一人旅することを決意してやっとここまでやってきた。免許は大学二年の春に取っていたから、学期末試験を落単ギリギリで乗り越え、一本の比較文学のレポートと二本の東洋美術のレポートを徹夜で書き上げながら、それ以外の時間を全部バイトに捧げてきた。

 ちなみに私は池袋の3番目くらいに大きい映画館を出て、二回左に折れて、一回右に折れたところにあるイタリアンでバイトをしている。正面から見たらすごく狭くて小さく見えるんだけど、イギリスのアパートか江戸時代の長屋かってくらい奥行きがあるの。それでなぜか二階席もあるから、私たちは一方通行の幅しかない階段を一日に何百回も往復しなきゃいけない。階段を上っている最中にお客さんが降りてきたら即Uターン。手すりの側でマヌケづらで手を組んでニコニコしてるの。もし、それが一段ずつ片足で降りてくるタイプのお婆さんだったら——。こんなお店なのに映画終わりの家族連れとかカップルが来るで結構繁盛している。特にヒット作の上映中は時間帯に関わらず一時間半おきにお客が押し寄せるから当然私はその映画が嫌いになる。ポップコーン映画を見ることはね、ファッション誌を見て自分の感性が流行りと乖離していないか確認するのと一緒だと思うんだな。

 でもたまに、一日一本しか上映していないような低予算映画か名画のリバイバル上映とかやってるでしょ。そういう映画の上映後に毎回一人でお店に来るお客が何人かいるんだけど、その人たちの表情を見ればそれが面白いかどうか分かるんだ。みんなTwitterを開くのは同じなんだけど、勢いが違うんだよね、首をぐうっと伸ばして前屈みになってタイピングしてるの。そういうのって製作者のセンスと自分のそれとがいい塩梅にマッチしてアホみたいにずっと頷ける映画か、上映中ひたすら罵詈雑言を堪えながら頭を両手で押さえ付けたくなるような映画かの二択だと思うんだ。私は映画オタクが感情の両極にいられる映画が好きなんだ。そんなお客に出会えた日は必ずバイト終わりに映画館に行く。でもいざ券売機の前に立つと観たい映画なんてコロコロ変わっちゃうんだけどね。休日は忙しいけど飲食店にしては給料はいい方だし店長も腕の毛がイタリア人並みに濃いことを除けば寡黙でいい人(今のところ、ね)。

 

 「あら、茉里ちゃん。早いのね」

私がガソリンの残臭の中で郷愁に耽っていると、私道を挟んだ向かいの家から武藤さんがサンダルを引っ掛けながらエプロン姿で出てきた。中堅商社で働く残念な頭頂部をもつ旦那との間に小学生の子供が二人という平成の家族はかくあるべしといった至極平和的な家庭を守る専業主婦である。私はこの女の人が結構好きだ。

「お早うございます。すいません、うるさくしちゃって」

「あらそう?全然気が付かなかったけど。すごい荷物ね、どこか行くの?」

それなりに肉のついた腕を後ろで組んで、私のカブを覗き込んだ後ちょこんと首を傾げた。かわいい。四十はとうに過ぎているだろうに平然と女の子のような仕草をする。でもそれが全く不自然に見えないくらい愛嬌があるんだからすごい。緩いパーマをかけたショートボブが朝日を受けて茶色く透ける。私はずっと伊達だと思っているが、顔の輪郭線からはみ出るほど大きな眼鏡をかけ、けどそれに負けないくらい目がおっきい。別に若作りしようと四苦八苦しているわけじゃないんだろうけど、なんというか、順当に、綺麗に年を取るってこういうことなんだなと思う。

「ちょっと、旅に出ようかと思いまして」

「旅?すごいねえ、どこまで行くの」

「まだあんま決めてないんですけど。とりあえず北に行こうかなと、栃木とか」

北にあることは間違いない地名を挙げてみる。

「あら!いいじゃない、宇都宮とか?」

「んー、まあ、そうですね」

「あらあ!いいね、そしたらあそこ知ってる?みょんみょん。餃子で有名な」

「いっやあ、ちょっとご存じないかもしれないです」

「あらそう?三年くらい前かな、子供たちが臨海学校に行ってる時に旦那と二人でね、宇都宮まで行ったことがあるのよ。まあでも子供たちが帰ってくるまで二日しかなかったから超弾丸。その時は今のシエンタじゃなくて、セリカっていう——昔の車なんだけどね——のに乗ってたから高速ビュンビュン飛ばして。楽しかったなあ」

ちなみにこの武藤さんはかなりの車好きらしい。数年前は確かに真っ赤なスポーツカーがあった気がする。旦那さんの頭頂部の砂漠化はこの人の運転のせいなんじゃないだろうか。

「それでね、餃子食べて。私が帰りは下道で帰ろうって言ったの。ほら国道四号ってあるじゃない、日本で一番長い国道っていう」

「ありますね、ちょうど私も四号で行こうとしてました」

「あらほんと?いいわよ〜ナビに『直進六十四キロ』とか表示されて、もううんざりするから。それでね、そうそう、その四号を通ってる時にうっかり原付轢いちゃって」

「…………ほう」

「ちょうど茉里ちゃんのみたいな空色のカブだったかしら。左端走ってたのにいきなり右にはみ出してきたから避けきれなくて、それであのセリカ廃車になっちゃったのよ〜」

「…そのカブの人は?」

「知らない。こっちが車から降りる前にさっさとどっか行っちゃった。もうっ、許せないよね!警察は呼んだけど結局有耶無耶にされちゃった。カブってほんと、無駄に頑丈なんだから困っちゃうわ」

頬を片方だけ膨らませ両腕を組みながら武藤さんは言った。なんかすみません。

「私も気をつけます」

ボソっと言うと、武藤さんはニコッと笑って言った。

「ほんとに。長距離のコツは一時間ごとに休憩することよ。あとはコーヒーをがぶ飲みすること!じゃ、私朝ごはん作らなきゃだから、気をつけてね!」

そう言うと去り際のウィンクと共に手を振りながら家の中へ入っていった。私はちょこんと頭を下げる。

なんであの人専業主婦やってるんだろうな。絶対働ける人なのに。



 起きてから禁句にしていたコーヒーという単語を唐突に解禁され、欲求にむらむらとしながら私はカブに最後の荷物を詰め込んだ。時刻は六時、予定なんてものはないが何となく焦燥感に駆られる。世の中が動き出す前に東京から抜け出したかった。ジーンズにぶら下げた鍵で家の鍵を掛け、最後にカブの周りを一周してから跨った。

準備よし。

ホムセンで買ったジェットヘルメットを被り右足を蹴り下ろす。

エンジンがかかった。




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