手を合わせて

灰月 薫

 


そいつの名前は覚えていない。


小学校最後のクラスが一緒だったそいつ。

特段仲が良いわけでもなかったし、むしろ俺はそいつのことを幾分か嫌っている節があったと思う。

そうはいっても記憶に鮮明に残るほど大嫌いだったわけでもなく——顔に出るまでもない嫌悪感を薄く感じる程度だった——多分、そうだったのだろう。


小学六年生、三月。

数時間続いた卒業式を終えた生徒達は、教室に向かって列を成して歩いていた。

もちろん俺もだ。

いつも全く聞いていない校長先生の話は、最後の最後までちゃんと聞くことはなかった。

何度も予行練習を繰り返したせいか、どこか機械的にすら感じていた。

「あ、俺卒業するんだ」

そう思ったのは、予行練習で渡されなかった卒業証書を受け取った瞬間だったっけ。

泣いているとバレたら友達から茶化されそうだったので、俺は全力で涙を堪えながら教室に向かっていた。


そいつがいないと分かったのは、先生が通信簿を取りに教室を空けた時だった。


「あれ、〇〇いなくない?」

声を上げたのが誰だったのかすら覚えていない。何なら違う言い方だったかもしれない。

確かなのは、「学級委員」の俺が探しに行くべきだという話になったということ。

——俺だって皆んなと泣いていたいのにな。

本当はどうでも良いやつがどこにいるかなんて本当にどうでも良いんだけれど。

しかしNOとは言えなくて、すぐ戻ってくるからな、とかそんな事を言って教室を出て行った。


そいつはすぐに見つかった。

探すまでもなく、階段の前でしゃがみ込んでいた。床の一点をじっと見つめている。

「〇〇、みんな探してたぞ」

俺が近づくと、その子は顔を上げた。

半開きの口、どこか虚な目。俺はそいつのこの表情が少し嫌いだった。

締まりのない能天気そうな顔に、どこか言いようのない気持ち悪さすら覚えていた。


「あ、うん……もど、るよ」


そいつは辿々しく言った。しかし、立ち上がる様子はない。


「……何やってんの?」


俺はそう言いながらゆっくり近づいた。

上から覆い被さるように覗き込むと、そいつが何をしているのかがよく見えた。


いた。


丸い手をしっかり合わせていた。そうして床を見つめて、ただ静かにしゃがんでいた。

「……手を合わせてるんだ」

そいつは静かに言った。

「は?なんでだよ」

俺は少し後ずさる。

そいつには何か見えてるのか?幽霊がいるとか?

いや、そんな噂は聞いたことがない。

「パパが教えてくれたんだ。さよならの時は手を合わせなさいって」

からかっているのか?

そいつの言葉に、俺は一周回って怒りを覚えていた。苛立ちが言葉に漏れる。

「それって、葬式の時だろ?今日は卒業式だぞ?」

そいつはやっと立ち上がった。


「もう二度と会わない人もいるんだもん。

さよならは、ちゃんとしなきゃ」


そいつはどこか真剣な目をしていた。

俺は首をひねった。

ますます意味が分からない。

「会おうとすればいつでも会えるだろ?」

「……でも、みんなと会おうとするわけじゃないでしょ?

会えるけど、きっと会わないままで死んじゃうと思うんだ。今日が人生最後に会うって人もたくさんいる。

だから、手を合わせてるんだ」

そいつは言うだけ言うと、教室に歩き出した。

「……」

俺は何も言い返さない。

言い返せなかった。

俺は、卒業後にわざわざこいつに会いに行くだろうか。いや、そんなことはないのだろう。

こいつとは人生最後なのだろうな。

そう思ったから。


結局、その予想は正しかったのだと思う。

教室に戻った後に話した覚えはないし、中学校も別々の場所に行った。

きっとこれからも会うことはないのだろうし、仮にもうそいつが死んでいたとしても俺に知る由はないのだろう。


そいつの名前は覚えていない。


覚えていないし、もう覚える機会もないのだ。

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