小さな花粉に負ける人類

 南島なしま先生が見せてくれたのは、車のキーだった。黒っぽいキーホルダーがついている。


「ほら、これ、あなたがくれたのよ」


 目の前にぶら下がっていたキーホルダーは、ネズミーランドのムニーだった。


「え、そんなことがあったんですか?」

「そうよ。私が車のキーをなくして駐車場で困っていた時に、あなたが一緒に探してくれたの。ご家族の方も一緒に探してくれて」


「そういえば、そんなこともあったような」

「それでね、もうなくさないようにって、このキーホルダーをくれたの」

「あ、それで……」


 ギターケースにつけている、ムッキーのキーホルダーを思い出した。


「あなたって、本当に優しい子ね。とてもうれしかったわ」

「その、大事にしてくれてて、ありがとうございます」


 横を見ると、葉寧はねいがニヤニヤしている。きっと、ギターケースのことを思い出しているに違いない。


楼珠ろうず一見いっけん、つっけんどんだけど、優しいもんね」

「そんなことないって」


 なんだか急に恥ずかしくなってきた。


「ねえ、楼珠ろうず、お昼、どうする?」

「え、ああ、そうだね、公園の傍にコンビニがあったから、何か買って公園で食べようか」

「いいね、そうしよう」


 あたしたちは南島なしま先生に改めてお礼を言うと、コンビニに向かった。



  ♪  ♪  ♪



 今日は図書委員の日受付はもう一人の生徒にお願いし、書棚の巡回に出た。


 巡回は時々しかしないけど、これも図書委員の大事な仕事。変な場所に本を戻す生徒がいるから、それを確認する。


 うちの図書室には、本が四万冊あるって言われているから、巡回するのもけっこう時間がかかる。


 あ、ここ、違う本が入っている。もう、しょうがないな。


 え?


 ――幸せになるために、一度は読む本

 ――煮詰まった時は気分転換

 ――なぜなぜ図鑑。魚の不思議

 ――寂しい時でもひとりじゃない

 ――いい夢をみる方法


 急に胃の中から熱いものが駆け上がってきた。足に力が入らない。吐きそう、いや、吐く。

 立ち眩みがする。その場にしゃがみこんだ。


 ――バサバサバサ


 本棚に手をかけてしまった。本が何冊も床に落ちた。


 パタパタと、遠くから足音が聞こえる。


 目に入った本棚の下の段も、本の並びが変だ。


 ――諸葛孔明の策略解説

 ――二宮金次郎の裏歴史

 ――中浜万次郎の渡米日記

 ――西郷隆盛と妻たち

 ――伊藤博文の革新的な政治


 ダメだ。中学の時、いじめられるたびに浴びせられた罵声。どんどんリアルに思い出してくる。


「う、うぇ、うぁ、ごほっ、げほっ」


 ああ、吐いちゃった。本、本にはかかっていない? 大丈夫。あ、また胃の中が……。


朱巳あけみさん、大丈夫?」


 大きな声が聞こえる。視界が白い。よく見えなくなってきた。何かが身体を覆っていく。不思議な感触。


「先生を呼んでくるから、そのまま待っていてね」


 あたしはそのまま、床に手をついて、ひたすら吐かないように我慢していた。


朱巳あけみさん、大丈夫ですか?顔色、悪いですよ」


 五分ぐらい経ったのかな。目の前に、ノース先生がいた。南島なしま先生は、あたしが吐いたものを片づけている。


「ノ、ノース先生、何か、あの、か、身体が変です。何かに覆われているみたいです」


 あたしは再び床を見た。ノース先生はあたしの肩を支えている。どれくらい経ったんだろう?


「今、すごく嫌なことを思い出していませんか?」

「は、はい、そうです」

朱巳あけみさん、今、あなたは、ネガティブな記憶に支配されています。それは、大脳辺縁系でぐるぐる回っています」

「え、あ、あの、よ、よくわかりません」


 う、また何かこみあげてきた。ノース先生、ごめんなさい。


「う、うぇぇ」


 あ、吐いちゃった。身体が震える。でも、寒くない。不思議な感覚。


「ゆっくり呼吸をして」

「は、はい」


 ノース先生は、あたしの前髪の生え際、左の方を指で触った。


「この辺りから、自分の心を見てください。落ち着いて」

「ダメです」


 もうダメかも。あたしの中は、ひどい記憶で満たされている。


「今、たくさんの嫌な記憶を思い出していませんか?」


 呼吸が荒い。でも、かろうじて声は聞こえた。


 確かにそうだ。いじめられていた時の記憶だけじゃない。他の嫌な記憶も一緒に思い出している。


 大切なものが壊れちゃったこと、男子生徒に告られたときに断る嫌な気持ちとか。


朱巳あけみさん、僕が指で触っているあたりを意識して。君の意識はここにあります」

「はい」


 あれ?不思議。なんだか皮膚の感覚が少しずつ普通に戻っていく。


「ゆっくりでいいので、嫌な記憶をひとつずつ分解してみてください」

「は、はい」


 ノース先生の膝が、あたしがさっき吐いたもので汚れている。ごめんなさい。そのまま、あたしの後頭部にも手を当てた。


「このあたりで、つらい記憶が回っています。でも、それはたくさんのつらい記憶で、最初のきっかけの嫌な記憶ではありません」


 手を当てられたことで、余計にイメージしやすくなった気がする。そうだ、その通りだ。今のあたし、ごちゃまぜのフードプロセッサー状態で嫌な記憶が回っている。


 十五分は経っただろうか。なんとなく、少しずつ落ち着いてきた。ひどい気分に変わりはないけど。身体から力が抜けていく。


朱巳あけみさん、失礼します」


 身体がふわっと持ち上がった。あれ?お姫様抱っこされている。


南島なしま先生、保健室に行きましょう」

「ノース君、力持ちなのね。力の抜けた人を抱っこするなんて、すごいわ」

「はい、鍛えていますから」


 何分ぐらい経ったんだろうか?生徒のいない廊下を抱っこされて移動し、あたしは保健室のベッドに寝かされた。


「だいぶ落ち着いたようですね」

「はい。なんとか」

「僕には何があったのかわかりません。でも、もし、また同じようなことが起きたら、さっきのように対処してください」

「はい」


「ノース君、さっきのは何なの?」

「脳科学です。大脳辺縁系というのは、脳の中でも古い部分で、自己防衛本能をつかさどっています」

「へえ」

「そのため、生死にかかわる危険を感じると、ノルアドレナリンを放出して身体の感覚を麻痺させ、そして脳の回転を最大に高めて防御状態に入るんです。火事場の馬鹿力とかは、本当に起きる事象です」


「もしかして、以前、ネットで、熊に足を食べられているっていう実況メッセージが話題になったけど、あれもその、ノルなんとかと関係あるのかしら」

「そうです。ノルアドレナリンが放出されると、寒さや痛みも感じなくなります」


 そういえば、そんな話題、あったな。外国でお父さんと娘が山に入った時の話。


「ひどいネガティブな記憶に支配された時も同じことが起こります。大脳辺縁系で、いったん、負の記憶が回り始めると、勝手に他の負の記憶も集め始めるんです」

「あ、それなら私も心当たりがあるわ」


「そこへノルアドレナリンが放出されると、脳の処理速度が加速され、さらにひどいことになります」

「なるほど、とても論理的だわ」


「そうなると、最初のネガティブな気持ちもさらに加速され、ついには世界の終りのような気持ちになり、負の思考が止まらなくなります」


「どうしてそれに気が付いたの?」

朱巳あけみさんが、ひどく落ち込んでいるのと、身体が何かに覆われていると言っていたからです。ノルアドレナリンが放出されているときの特徴です」

「すごいわ、脳科学」


 あたしは、ぼーっとした頭で話を聞いていた。ノース先生、今回の話はわかりやすい。


「ところで、ノース君、大脳新皮質がどうのとか言いながら、朱巳あけみさんの頭に指を当てていたけど、実際にそのあたりにあるものなの?」

「いえ、もっと全体的に広がっています。ただ、手を当てることで、よりイメージをしやすくなります」

「なるほど」

「大脳新皮質は脳の中でもっとも進化した部位です。対して大脳辺縁系は、原始時代の狩りをしていた頃から存在する部分になります」

「脳の中でも、進化している部分とそうでない部分があるのね」


「はい。同じく古い部位である小脳が後頭部にあるので、大脳辺縁系は後頭部を触るとイメージしやすく、大脳新皮質は頭の前側を触るとイメージしやすいんです」


「どうして左側を?」

「どちらも左脳がつかさどっているからです。実は右脳って、感情や記憶に関しては、あまり働いていませんから」


「へえ。とにかく助かったわ。ありがとう、ノース君」

「いえ、僕の知識が役立って幸いです」


 あ、ノース先生、こっちを見ている。いつ見てもきれいな顔。しかも、こんなに頼りになるなんて、もう、神様レベル。


朱巳あけみさん、また今度、絵に描いてゆっくり説明しますね。過去に色々あったんでしょう?」

「はい」


「過去のことは変えられません。でも、それに縛られる必要は全くありません。縛られたら、今、生きている時間を損していることになります」

「はい」


 だいぶ、心に余裕が出てきた。


「ノース先生、ズボン、汚しちゃってごめんなさい」

「大丈夫ですよ。軽く水で洗えばきれいになりますから。それにこのズボン、ポリエステルなので、すぐに乾きます」

「ごめんなさい」


朱巳あけみさん、今日は私が車で送るわ。まだ完全には落ち着いていないでしょう?」

「お願いします」


 あたしは素直にお願いすることにした。まだ、モヤモヤしたものが心の中にあったから。また、同じことになるかもしれない。



  ♪  ♪  ♪



 ピッという音とともに車のロックが解除された。南島なしま先生の車は小さい。でも、乗りこんでみると室内は快適。車の助手席から見る景色は、嫌いじゃない。


朱巳あけみさん、図書室で何があったの? もし、大丈夫そうなら話してくれるかしら」


 大丈夫かな、うん、大丈夫。


「本が変な風に並べられていて、そのタイトルの最初の文字を読んだら……」

「ごめんなさい。もしかして、キーワードゲームを誰かが悪用したのかしら」

「おそらくそうです」

「本当にごめんね」

「いえ、南島なしま先生は悪くないです。それに、キーワードゲーム、他の生徒とも少しだけですが仲良くなれました」

「よかったわ」


 まだ、身体の中がムカムカする。でも、予想外に落ち着いている。ムカムカがひどくなってきたら、ノース先生に教わった通り、自己観察をした。


 あ、そういえば……。


「先生、キーワードゲームで、もしあたしが当たり棒を引いていたらどうしたんですか?」

「あなたがくじを引いたときは、まだ当たり棒は入っていなかったのよ。ごめんね」

「どういうことですか?」


「最初にあなたの列からくじを引いたでしょ。で、列の最後まで行ったときにこっそり当たり棒を加えたの」

「やられました」


 急に気持ちが軽くなった。人間って不思議。ちょっとしたきっかけで、世界の終わりを感じたり、ささやかだけど、楽しみを感じたり。


朱巳あけみさん、笑顔、素敵よ」


 信号待ちをしているときに、南島なしま先生が言った。そっか、今、あたし、笑顔なんだ。


「先生、少し窓を開けていいですか?」

「どうぞ」


 ノース先生に教えてもらったおかげで、少しだけど、嫌な記憶、押しのけられるようになった気がする。他の生徒とも、これも少しだけど、ちょっと話ができるようになったし。


 ――ハクション!


「あら、花粉かしら。窓、閉めたら? 私は大丈夫だけど」


 信号が青になった。風が気持ちいい。ああ、なんか人とかかわるのって素敵だな。もしかしたら、去年のあたしと、もう、だいぶ変わっているのかもしれない。もちろん、いい方向に。


 あ……。


 ――ハ、ハ、ハ、ハクション!


「……やっぱり、窓を閉めます」

「どうぞ、お好きなように」


 フロントガラスから見える空は青かった。え?空は曇っているような。でも青い。あ、フロントガラスの上の方、青色になっている。なんだ、そっか。


 これもまた新しい発見。これからも、あたしは、きっと、いろいろな発見をする。楽しみ!




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カクヨム

数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。


脳の構造ですが、大脳新皮質は脳の中でも最も多い部分なのですが、残念なことにほとんどの仕事は、古い脳である大脳辺縁系が行っています。


そんなわけで、小説を書くときは大脳新皮質をがんばって働かせてネタを考えています。



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それではまた!

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金髪女子高生とギターと最強の実習生 綿串天兵 @wtksis

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