午睡・無し

 長居は無用、と首に追い出されてしまった由良は家へと戻った。

「それを決めるのはあたしっしょ?」

 どかりと座り込んで、ちゃぶ台の上を一掃する。帰宅してなお納得がいかないのか、彼はぶつくさと文句を垂れていた。灯りを入れずとも、照っている外からの漏れる光で十分な明るさであった。

「あたしよなぁ」

 由良が顎を乗せて、唇を尖らせた。彼の視線の先は、戸口の方へと向けられていた。隣の簪屋から談笑が聞こえてくるので、なんとはなしに聞いていた。

「今日はあんまり風がないから出るのには良い日だと思って」

「髪も乱れませんしね」

「この辺りが新顔?」

「はい。是非ゆっくり見ていって下さいな」

 店番と喋っているのは常連の女房だった。由良は一人分、沸かした湯で淹れた茶をちびちび飲んだ。

「……簪屋さんって、私よりも長いですよね、ここ」

「はい、古株だとは思いますが」

「お便りって届きましたか。あの…黄泉戸喫の」

「はい。届いてますよ」

「読みました?」

「はい、内容は大体いつも通りでしたね」

「そ、そうなんですか?」

「奥様は初めてでしたか。時々出てくるんですよ、泉を独占しようと謀略を巡らす奴が。で、もっと時々、争いになるんです。百年にいっぺんくらいかな」

「へえ……大丈夫なんですか?」

「何がでしょう?」

「奪われたり、ここが襲われたりなんてことは…」

「それはもうしょっちゅう!」

「ほんとになあ」

 あっけらかんと簪屋が言ったのがおかしくて、由良も喉を鳴らした。虚無僧との会話が脳裏に過ぎった。どんな傷もたちまち癒えるとあらば。彼の瞳がかすかに翳りを帯びた。

「さて、そんなにいいもんかね……」

「心配は無用ですよ、ここには由良さんがいますから」

「由良さん?」

 女房は訝しげだった。

「どうして由良さんがいると心配がいらなくなるんです」

「いやあ、ここの連中が勝手に安心してるだけなんです」

 間髪入れずに由良が答えた。届かないことは承知の上で、ほとんど条件反射であった。

 湯呑みになみなみ注がれていた茶は飲み干してしまった。由良は意識を目の前に戻し、彼女らの話から離脱する。それから立ち上がって、足の踏み場のない居間を横切ると、湯呑みを桶に放った。既に先客もいた。後でまとめて洗えばいいという、彼の怠惰の表れだ。

 ぐるりと辺りを見て、由良の足は箪笥に向かった。ミクジに着替えを指摘されたことを思い出したのだ。普段着を脱ぎ捨てた彼が手に取ったのは、素晴らしい仕立ての着物だった。仕事着にしてはいやに立派で、あまり進んで着ることはない。だからといって他に着物が残っているかといえば、全部洗いに出していた。

「……怠惰が自分のとこに返ってきたな」

 由良は諦めて身の丈に合わない一級品に袖を通した。

「紋付じゃないだけマシか」

 気怠げにを呟く言葉とは裏腹に彼の手に迷いはなく、きちんと着付けを完了していく。もう随分と前のことになるが、鬼の形相をしたミクジに気は抜いてもいいが手は抜くなと、こっぴどく叱られたことがあるのだ。御殿宿の品格がどうのと数時間にわたる説教を受けたのが、彼には相当効いていた。正座は好きじゃない。

 簪屋では、未だ歓談が続いている様子だった。

 着替えを終わらせた由良は、いつもよりも狭い歩幅で裏口の引き戸を開けた。半身ほど外へ出たところで、早足で中へと逆戻りする。それから板間をバタバタ歩き回って、ちゃぶ台の下に転がっていた煙管と煙草入れを慌てて取りあげた。どれだけ言われようと、これだけはやめられない。

 ゆるりと歩いて、一服。昼下がりの町は相変わらず沢山の人で溢れていた。橋の方をちらり見たら虚無僧はまたそこに立っていた。まさに地蔵だ。由良の鼻を笑いが抜けていった。目抜通り、大通りと見たので、次はどこへ行こうかと思案を巡らせる。そんな彼の袖口から、けたたましく鳴り響いたのは着信音だった。

 由良が煙管を吸って、ふうと吐き出すと、煙は黒電話のような形をとった。じりじりと頭が震えるような心地の中、受話器を手にする。

「へーい」

「もしもし由良さん?」

「由良さん」

「よかったー!」

 掛けてきたのは溌剌とした少女だった。

「お掛けになった番号は、世と世を繋ぐ四二四−四◯四!」

「はいはい。どうかしたの」

 あくびをしながら由良が応じる。

「大入の目処でもついた?」

「こちらハイカラ横丁。ちょこっと面倒なお客さんだよ、由良さん…」

「おやおや、いつもの主人殿をそれで呼べるのかい。ここは本当に、全くもって飽きがこない」

「うげ」

 電話越しに聴こえた声に、由良は思いっきり顰め面をする。息を入れてから、わずかに神妙な目つきで、素早く街中をすり抜けていった。

 御殿宿から最も遠くに位置するのがハイカラ横丁。温泉郷の中では、より現世に近い場所である。だからごく稀に、臨死者でも魂でもない、生身の人間が迷い込むのだ。

「おや、主人殿」

 電話口と同じ声をした青年が、首だけを傾げてみせる。電話主は既に去った後だった。

「お早い到着で」

 黒いカソックに身を包んだ彼は、周囲の景色とはもちろん不釣り合いで、あからさまに浮いて見えた。そのせいか立っているだけの彼を、人の流れは避けるように動いていた。

 当人はといえばそんなことはお構いなしで、由良にだけ意識を注いでいる。

「一張羅かな。よくお似合いだとも」

「……あのねえ、おまえさん」

 由良は頭を抱えた。

「どうしてこう、毎日のようにここに来る」

 生者がこの温泉郷に辿り着くなど、ごく稀な事態のはずなのだ。だというのにこの山茶花色の瞳をした男は近年、平気でここを毎日のように訪れる。

「銭湯に毎日来るのがおかしいかい」

「なんで来られるんだって話をしてんの」

「はてね。愚生とて何か特別なことをしているとは思っていないので、さっぱり謎さ。貴殿の持つ宿帳を確認させてくれれば、より明らかになると思うのだがね」

 行儀良く口を隠して笑う彼は、名前を不破という。

「単純に異教徒だから、ではないのかな」

「まあ、聖職者だからっつうのは間違いではねえと思うが」

「なんだ、やはり主人殿は分かってるんじゃないか」

「ここの在り方から考えればってだけだ」

 煙管から煙が昇った。

「だからっておまえさんみたいに毎日来る奴は初めてなんだよ」

「ははは」

「笑い事じゃねぇ」

「いいじゃないか、貴殿の知り得るところなんだろう」

「ならいいかとはならねえのよ」

 彼が困れば困るほど、不破は愉快そうにした。由良よりも長身の不破は、彼をくすりと見下ろしていた。

「……おまえさん、毎回ちゃんと帰れてんだろうな」

「無論。いくら愚生といえど、禁断の園で無闇に林檎を齧るような真似はしないさ……黄泉戸喫と言うのだったかな、確か」

「よく知ってるじゃねえ」

「そういった方面に明るい友がいてね」

 不破は逸らした目をハイカラ横丁の風景に向け、細めた。

「まあとにかく。異教徒とはいえ愚生は、原風景を残す郷愁の地を荒らそうなどとは微塵も考えていないということだ。ここを歪めるのは愚生の望むところではない。温泉街の世話になっている、一介のご近所さん。そう思ってくれたまえ、主人殿」

 大仰に手振りをしてから彼の視線は由良へと移る。

「そも、黄泉戸喫なんてそうそう起きないと聞き及んでいるが。愚生など取るに足らない来訪者だろうに。過去に事例があるのかい?」

「二回だ、たったのな」

 由良は踵を返し、着いてこい、と手で合図をした。蜃気楼にはならずに、わざわざその足幅に見合った遅さで歩いていく。興味深げに不破がそれを追い、彼の隣で速度を落とした。

「何か教えてもらえるのかな」

「おまえさんが暇ならな」

「暇だとも! たった今、全ての予定を忘れ去ったところさ」

 彼の言い草に由良が眉を顰める。

「歳をとると物忘れが激しくなる、困ったものだね」

「どうみても二十代だけどな」

 由良の瞳は、彼の胸元のバッジを捉えていた。天秤の刻印がなされている。由良が見ているものに気がついたのか、不破は眉を上げた。

「急ぎの用事が無いのは本当のこと。安心したまえ。現世はもうすっかり夕暮れさ」

 不破が空を見る。

「仕事を終えた民草が、帰路につく頃合いだ」

「へえ」

 由良もまた、歩きは止めずに目線を上げた。日はまだ高く、夕方というにはまだ遠い。現世に時流の近いハイカラ横丁とはいえ、いくらかのズレは生じるようだ。

「一つ、質問しても、主人殿?」

「改まって何よ」

「どうして異分子たる愚生に、何かを伝える気になったのかを、問うてもよろしいかな」

「気になる?」

 由良は煙管を口にやった。

 彼はまだ火のついていないガス灯を見て、満足そうにした。彼はあれが好きだった。ガス灯に赤煉瓦、まさにハイカラといったところか。外周は現世に合わせて電力化している最中で、ガス灯も数を減らしつつあるのが名残惜しい。姿形はそのままに電灯へ変えたらどうかとも提案されたが、そうではないのだと棄却した。電気の街灯にも別の魅力があるのは事実だ。個々の良さを欲張って、無理にどちらともを併合させるなど愚の骨頂。それをしてきたから現世というのは歪んでいるのだ。この温泉郷にその歪みまで再現させる気はない。

 現世への不満が止まらなくなりそうだったので、由良はガス灯から視線を外した。不破の山茶花色の目が、じっと答えを待っていた。

「おまえさんみたいのは、隠せば隠すほど、暴きたくなる性分をしてんだ」

「厄介極まりないね」

「全くだ」

「……手の内は明かさずとも先手は打っておこう、ということかな」

「はは、嗅ぎ回られるくらいなら、手の内なんてくれてやらあ」

 由良の笑いと共に燻らせた煙が街へと消えゆく。不破は何度か瞬きをして、襟元をさすった。ハイカラ横丁の昼下がりを、畏まった装いの男二人が八つ時へと変えて。

「逆に聞きたいんだが、なんで何年も通ってたのに急に最近になって不思議に思い始めたわけ?」

「あるがままを受け入れるのが愚生の信仰する美徳なのでね。どうやら妙らしいと気がついたのは貴殿の言う通りつい最近のことだ。主人殿こそ、急にどうして愚生に話す気が起きたのかな」

「頃合いはずっと計ってたさ。おまえさんからは色んな匂いがすっから、様子見が長引いた」

「匂い?」

「気配だよ、おまえさんの魂の周り、妙な気配ばっかりだ。敵意があるのかどうか、無いなら何が目的か、そんくらいは視てたかな」

「ふふふ、いやはや、思い当たる節しかないね……視ていたとは?」

「秘匿します」

「おっと! そうきたか。ふふふふ…確かにここは法廷ではない。これ以上を踏み込んでくれるなという意志の表れと受け取ろう」

 彼らの行く道端には、菜の花がちらほらと咲いている。不破との会話の合間に、由良はそれらを盗み見た。鮮やかな黄色の房が薫風に揺れるのに、彼の煙管も合わさった。

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地獄道 ゆら 山城渉 @yamagiwa_taru

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