正午・腹ごしらえ
「ふいー」
火照った顔を手で仰ぐ。
「お湯、頂きました」
「あ、由良さん、お帰りなさい。どうでした?」
「良いお湯でした。繁盛、たいへんよろしい」
へらりと彼が答えると、安堵の笑顔が返ってきた。
煙管をふかす。
町に響く下駄の音に乗って、湯屋を回るのも、由良の仕事の一つであった。目抜き通りも、朝より店が開いていてそこかしこで賑わいを見せていた。由良は目指す場所もなく、煙管を片手にぶらぶらしていた。花粉の匂いと湯の香りがふわりと彼の髪を掬った。
「あはあ、だから」
ふと由良は手を打った。首の周りに掛けていた手拭いを見る。オコジョに対する違和感が無かったことへの疑問が解けたからであった。いつもこうして手拭いを掛けているので、オコジョを邪魔にも思わなかったのだ。
「手拭いと一緒か、あはは」
首元で胴を伸ばすオコジョを思い出しつつ、由良は独りごちて笑った。
「そりゃあいい」
ミクジが見てくれるというので、今は彼に預けてある。風も日差しも熱をあげ、いよいよ昼時だと腹が鳴った。湯巡りはひとまず切り上げにしよう。由良は歩く速度を緩めて、近くの屋台でも見て回ろうと思った。温泉まんぢうと書かれた幟が、はためいて歓迎しているようだった。
「蕎麦、うどん、どん…丼物もいいなあ、カツか海鮮か、ああ、寿司にしようかな……」
裸足に雪駄でぬるい空気を割って行く。地熱も相まって、じわりと足の甲が湿ってくる。煙管を手先で遊ばせる由良の口元は、相変わらずにやけていた。道端には所々に菜の花が茎を伸ばし、可憐な黄色に遊山の客の目は満たされているようだった。
人の出の多いこと。色々と物色をしつつも、由良の足は自然と、いつもの飯処へと向かっていた。
「おや」
ハスキーボイスに迎えられる。
「来ないかと思ってた」
「そのつもりだったんだけどね」
由良の納得のいっていなさそうな言い草に対して首は面白そうにゆらゆらとした。
「どこも混んでた」
「かき入れ時だもの」
雪駄を鳴らして彼がいつもの席についてから、首は奥へ戻っていく。
「台帳はちゃんと渡したの?」
「おうよ、いつも悪いねえ」
「悪いと思ってんならミクジに感謝の一つでも言ってやって」
首がぴしゃりと言うものだから、由良は唇をへの字にした。股を開いて座っていたのを、片足をもう片方の腿に乗せて外を見る。上がった膝に頬杖までついた。
不規則に敷かれた石畳を、首の声が滑ってくる。
「そんで。あの後帰って、届いてたのは読んだ?」
「……読んでねぇ」
「何拗ねてんの」
「拗ねてねえし」
由良の馴染みのこの店は、目抜通りから離れ、他に構える店があるような大通りでもない。地元民に愛される隠れ家的存在というやつだ。喧騒はかなり遠くにあって、時折人通りの控えめなおしゃべりが聞こえるのみだ。だから、店の奥で昼飯の準備が進んでいるのがよく分かる。
「駄目じゃん、アナタが一番読んどくべきなのに」
蒸気の音に混じった鍋のぐつぐついうのが、由良の腹を急かさせる。
門構えから日の光がたっぷり入ってくるため、この時分に灯りはない。地面に近い方が明るいというのも、由良の目には都合が良かった。店内を占める冷えて沈んだ空気も相まって、なんだか随分と涼しく感じる。湯あがりの身にはうってつけだ。身体が冴えているような心地さえする。ぐうと訴える腹に、彼は思わず苦笑した。
「はいはい、お待ちどお」
それを見計らったかのように首が言う。毎度、この時だけは声を張るのだ。由良は逸らしていた顔をそちらへ向け、腰を上げた。厨房に空けられた窓口の台机に、どんぶりが乗っていた。由良は盆に丁寧に移してから、箸と湯呑みも乗せた。
「一味は?」
「ああ、忘れてた」
振り返って歩き始めた彼の背に、小袋が飛んでくる。いとも容易く由良の片手はそれを掴んだ。
「どうも」
「どういたしまして」
首が笑んだ気配がした。
元の席に戻って、手を合わせる。すき焼きを白ごはんにかけた、なんとも贅沢な組み合わせ。由良の好物である。甘さと塩辛さの絶妙な加減の匂いに目を細めた。首特製の割下が彼の胃袋を掴んで離さない。ただ首が言うには、厳密にはすき焼きとは違うらしい。あちらでは牛丼と呼んでいるのだそうだ。すき焼きすら最近の食べ物である由良にとっては、違いにあまりピンとは来ないのだが、区別しないと首は怒るので言わないようにしている。
箸をどんぶりの底まで差し込んでから、米と肉とを思いきり掬い上げる。大きめの一口を頬張って、由良は満足そうに丼を見下ろした。
「美味いなあ、毎日食っても飽きねえ」
「似たようなもんだからね、あっちでも」
「いくつか店があるんだろ?」
「そう」
「いいなあ、全部の店のを食ってみてえもんだ」
「……アナタ、食べながら喋ったら喉を詰まらせるよ」
首は愉快そうに言った。彼女の言う通り、かき込んだ牛丼をもぐもぐしながら何度も頷く彼が何を言っているのかはほとんど分からなかった。
半分ほど食べたところで一味をかける。舌に痺れるような辛さが加わって、牛丼はまた違った旨さを醸しだす。七味や柚子胡椒も捨てがたいが、最近は一味が由良の中の流行だった。彼の箸は止まらない。あれほど何を食べるか迷っていたのに、牛丼に夢中である。
「…………ふいー、ごっそさん」
由良が盆に箸を置いたのは、米一粒残らず全てを食べ終わり、湯呑みを呷ってからだった。
「黄泉戸喫もしちまうぜ、こんなに美味かったら」
「やめてよ縁起でもない」
「褒めてんの」
よっこいしょ、と彼は席を立ち、盆を台机に返した。一味が少し残っていたので、口に流し込んだ。刺激に耐えようと、もしくは耐えられずに、涙が滲む。堪えもせずに、由良はただへらへらと、煙草入れから煙管を取り出した。
「よくできてら」
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