午前・湯巡り
軽快な音を立てて扉を開ける。
「あれっ」
「どうも」
「おはようございます、由良さん」
ふらりと暖簾を上げた彼を見た途端に、番台の声音が明るくなった。由良は手を顔の高さまで持ってきてひらひら振った。客に紛れて見知った顔を見つけると、なんとも言えぬ嬉しさというか、頼もしさを覚えるのは、由良も同じことだった。
「具合は?」
「いい感じです」
「重畳」
裸足になる由良を、番台が笑顔で迎え入れる。すのこを踏み鳴らして脱衣所へ行くと、竹籠はいくつか使用中だった。朝風呂だろう。良い趣味をしている。由良は煙管入れを腰から外し、丁寧に木枠の奥に押し込んだ。するりと着ていた着物を落とし、竹籠に入れてまた押し込む。湿気た空気が素肌にまとわりつくのを、半分うんざりと、半分満更でもなさそうに、由良がぐぐ、と伸びをする。
風呂場へ足を踏み入れると、一気に檜の匂いが強まった。足の裏に温かい水流を感じる。体を洗う湯を桶で汲み取り、端に寄って垢を流す。冷んやりした空気が窓から入ってきて、汗ばんだ顔に心地よかった。薄ら雲を突き抜けて、朝陽が差した。
「ふー」
手拭いは頭の上が定番だ。由良は照り映える湯船の水面に目を細める。寝ぼけた体が温まってくる感覚。朝風呂の醍醐味である。
「もし、お兄さん」
「あ、はい」
由良が慌てたように瞬きを繰り返す。何人かいる内、浴槽の対角にゆったり構えていた老人が響かせた声のようだった。
「何か」
「ああ、いえ、何ってほどでもないんですけどね。僕なんかよりよっぽど、ここにお詳しそうだったから」
「……」
由良はへらりと笑って、しかし何も答えなかった。老人が顔を綻ばせる。人畜無害という言葉のよく似合う、人の良い爺さんなのだろうと思った。
「お兄さんは常連さんで?」
「ええまあ、そんなところです」
「そうなんですね。やっぱりそうだと思いました。入ってきてすぐにほら、桶で湯を汲んでたでしょう。慣れてそうでしたから。いやぁ僕なんか初めて来たもんですから、洗い場が無いのがびっくりしちゃって」
「ああ、成程」
由良が適当に頷き返す。檜の湯気が肺いっぱいに広がった。
「初めていらしたんですね」
「はい、そうなんです。良い所ですね、ここは」
由良がまた笑顔だけを返す。
「こんな贅沢してしまって良いのかと思うくらいな場所ですよ、本当」
老人は健康そのものといった感じがした。由良は顎先まで浸かっていたのを持ち上げて、胸の辺りまでになるように段差へ腰掛ける。
「朝風呂は贅沢品ですからね」
「ええ、そうなんです! こういう、旅先でもないと滅多にできませんよ」
老人は少しおどけてみせた。
「お兄さんが羨ましいなぁ」
「あたしも毎朝ってわけじゃあありませんけどね」
濁り湯の水面が、由良の口元に張りついた笑みを映した。手拭いを掴んで由良が上がろうとすると、老人が驚いたように目を見張った。由良は慌てて手を前に突き出す。水滴が日に透けて波紋を作った。
「ああいや、どうぞ、ごゆっくり。あたしはこれから色々用事がありますので」
腰を浮かせた老人を制止する。その顔は自分が何か無礼を働いたのではという不安で満ちていて、由良には些か滑稽であった。
「せっかくの旅行なんでしょう。楽しんでいって下さい、存分に。その方がお湯も喜びますから」
由良は笑んだまま浴場から立ち去って、さっと身支度を済ませると、煙草入れを握りしめたまま男湯の暖簾をくぐった。
「うわ、どうしたんです二代目」
番台はギョッとして由良を見た。
「おっかない顔して…まさかウチに何か不具合でも?」
下駄箱から履き物を取り出す由良に、番台がおずおずと切り出す。由良が雪駄で地面へ繰り出し、ちょうど体を起こしたところだった。
「あはは、違う違う」
大袈裟に手を振ってみせた彼は番台の方を向いてから、すのこに置いていた煙草入れを取り上げる。
「おたくに問題なんてねえよ、安心しな」
入り口へ向かう由良を朝日が迎えた。
「あでも。その呼び方はなるべく控えてな」
由良は困ったようにそう告げた。番台が謝罪を口にする前に、彼は煙のごとく消えていた。暖簾の向こうにあったのは、煙管の残り香だけだった。
「良いお湯を頂きました」
かすかに息が上がって、老人は番台の元に出てきた。由良の後に続くようにして、男湯の暖簾をくぐっていた。顔を赤らめて、朗らかに笑んでいる。
「あれ、そういえば代金は」
「お代は入る前に頂いておりますよ」
番台が言うと、老人は仰天したように口をあんぐりと開けた。それから恥ずかしそうに頭を抱えた。
「あはぁ、そうでしたか、それはどうもとんだ勘違いを……最近、物忘れが激しいもんで。家内にもよく怒られるんです」
「お気になさらないでください、ご自身のせいではなく、時のせいですから、そういうのは」
照れくさそうに笑う彼に、番台はにこやかにお辞儀をした。
「では、いってらっしゃいませ。良い旅を」
老人は恐縮ですと何度も頭を下げながら、それでも笑顔を絶やすことなく、玄関へ歩きだす。彼の背中が晴れやかなのを、番台は心の底から喜んだ。彼の手元には六文銭が、山のように積まれていた。
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