朝支度
毛皮がふわりと体をなぞった。もぞもぞと温かい感触は、足先から肩口までやってきて、首の周りに落ち着いた。じんわりした温泉街の空気は、呼吸が少し浅くなるような心持ちになる。由良はむせ返りながら、鼻から深く息を吸った。咳き込んだ拍子に、握っていた煙管が激しく上下する。涙を浮かべる彼を、オコジョは不思議そうに見つめていた。
辺りはまだ朝の香りになりきっていない。あの橋も独り占めできるほど。湯気が燈に透けて昇っていく明け方前の町並みを行くと、ゆっくり歩きたくなるものだ。オコジョは人気のないのを確認したのか、由良から離れて先を進んだ。
「いいねえ」
履き古した草履に留守番を任せ、今日は雪駄を伴にしている。
「いいもんだ」
橋を渡ると菜の花の、花粉の匂いが漂った。風のない日だ。相変わらずオコジョはヒゲを真っ直ぐにして、忙しなく周囲を窺っている。ぼんやりした暗い空の下でも、白毛のおかげで見失う心配もない。滝を上る鯉のごとく坂路を楽々と上がっていく。
オコジョを追う形で御殿宿に到着した由良は、自分の影を映す灯篭にちらりと視線を投げて、庭に回った。正面玄関の前にうろうろしていたオコジョも彼の足音に着いていく。砂利を踏む度に清廉な気分になった。
由良が目指した庭は、客の目に入る美しい庭園ではなく、裏庭の方だった。御殿宿の奥座敷、主人である彼の部屋と繋がっている小さな庭。町よりもさらに夜の気色が強く、由良はそれを見て伸びをした。雪駄を縁側に脱ぎ捨て、雑な所作で部屋に帰る。オコジョはまだ庭を探索していたそうだった。
「おいで」
しかし彼の呼びかけには素直に従って、部屋への引き戸が閉められるよりも早く由良の元に戻った。由良は掛けてあった手拭いでオコジョを受け止めると、オコジョの手足の土埃やらを丁寧に拭きとった。オコジョはすっかり大人しくなって由良をじっと見つめていた。
「おまえさんも、早いとこ帰り道を見つけなくっちゃな」
由良の呟きにオコジョが頭を傾けてみせたので、思わず彼は笑ってしまった。それから優しくオコジョを放して、自分は机に向かった。雑貨で溢れかえりそうな机上の端に、台帳をぽんと置いておく。
「はい、これで一仕事」
嬉しそうに体を揺らして、彼は板間を滑っていった。部屋を出ようとする由良の背中に、オコジョが飛びついた。
由良は煙管をしまって、屋敷の中を早足で進む。客室は別棟にあるため、歩くのが少々荒くても問題はない。掴みどころのない由良の体遣いでは、大した物音も立たない。とはいえ多様の風体をした人々が暮らすこの地、耳のいい奴というのも当然いる。
「うわ、ほんとにいた」
例えば、ミクジのように。僅かに息が上がっている。由良が御殿宿にやって来たのをいち早く聞き取って居場所を突きとめたらしい。由良のことをやっかむように歯を見せた。
「はよ」
「おはようさん」
由良がにっこり挨拶を返すと、ミクジの顔が逸らされ、質素な装飾で縁取られた鬼の耳がよく見えた。人間の耳を尖らせたような形に福耳であることも手伝って、非常に大きな耳に感じられる。前に角子のようだと由良が笑ったら、三日ほど口を利いてくれなくなった。
「いるってことは、休みじゃないってことでいいんだよね」
「いいとも」
「お館様、おはようございます」
「あらお館様。早くからご苦労様です」
「はいご苦労さん」
由良の声を聞きつけてか、狭い廊下に作務衣姿が増えていく。各々、盆を持ったり桶を抱えたりと作業に勤しんでいる様子が窺えた。客をもてなすのが宿のお役目である。彼らの真摯な態度を肌で感じ、由良は機嫌を良くした。
「おまえさんたちは今が一番忙しいんだから。あたしの相手なんてしてないでさあ行った行った!」
「はーい、ただいま!」
由良がわざと仏頂面をして、大きく手振りをしてみせると、明朗な返事をして皆立ち去っていく。働き者の風が通り抜けた。
「気持ちのいい連中だろう」
彼はオコジョに囁きかける。
「大事な御殿宿の戦力さ」
由良の首に巻きついていたオコジョが何度か瞬きをした。
髪をまとめ直しながら、ミクジが言った。
「ご飯まだなら厨房に余ってるのあるよ」
「なんだ、珍しく気が利くじゃねえ」
「コイツに言ったの」
澄まし顔でミクジは、小さなオコジョの頭をつついた。オコジョが目を閉じてぷるぷると体を震わせるのを、くすりと見守る。露骨に寂しそうな表情を浮かべる由良のことなどお構いなしだ。
「じゃ、おれ行くね」
ひとしきりオコジョと戯れたミクジは、さっさと屋敷の奥に消えてしまった。尻尾を由良の肩に置いて、オコジョが彼の顔を覗き込む。由良は間近のオコジョの黒目に、やれやれといった視線を投げた。
「生意気なクソガキだ」
吐いた言葉とは裏腹に、優しい雰囲気を醸していた。
厨房から漂ってきた湯気が、由良の周りをまわっていく。オコジョが風上に頭を向けて、由良の首筋をくすぐった。
町が起き始めた気配を感じて、由良は口元に笑みを浮かべた。ゆらりと厨の方角へ向かう。肩を見下ろすと、心なしかオコジョの目が輝いていた。味噌の匂いだった。
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