三
「……何用か」
尋ねられて尚、由良は編み笠を静かに見つめていた。
編み笠もまた問を口にしてからというもの、由良のことを向いたまま微動だにしない。夜の帳の下りきった湯畑で、二人は互いに動きを止め、対峙していた。提灯が温泉街の風情に拍車をかけ、人々の感嘆がそこかしこで漏れている。
「そもそも、黄泉戸喫っつうのは滅多にあることじゃねえ」
雑踏に紛れるくらいに低い声音で由良が呟いた。
「なのに、それは頻繁に起こっていて、注意しろ対策しろといいやがる」
「ああなんだ、いつものそれか」
「やあ、いつも聴いてもらって悪いねえ」
独りでに思考を展開する由良に、虚無僧は小さく頷いた。由良が彼の眼前から隣へと移動して、湯畑を見下ろすように手すりにもたれる。袖口から覗く彼の肌は、剥き卵のようにつややかだった。
錫杖を固く握っていた虚無僧の手が少し緩む。由良の肩に乗るオコジョを見つけたらしかった。由良が煙管を取り出すと、虚無僧がおもむろに錫杖を浮かせ、地に突き立てた。しゃな、と音がした直後に、由良の手の中にあった煙管から煙が昇った。
「どうも」
咥えた口から礼を述べた由良は、草履を脱いだ足でもう片方をぽりぽりかいた。
「誰かさんが泉を狙ってる」
「……再び、か」
「ああ、まただ」
ふかした煙が輪っかを描いて、オコジョが尻尾をぴんとした。
「そんなに欲しいかね、あの湯水が」
「どんな傷でもたちまち癒えるとあらば」
自身の腕を見つめ、解せない、といった様子で由良は眉を上げる。
「神ながらの天原は争いが絶えぬと聞こえも高い。難癖をつけて、あの黄金の泉を自分のものにしたがる輩が出てくるのも分からなくはない。現に御仁、何度目ぞ」
「さあな、数えんのもやめちまった」
編み笠がかすかに上下した。
「商売にならねぇことは忘れる頭だ」
由良は拗ねたように煙管を握る。
「フツーに泊まって、フツーに治して、フツーに帰ってくれりゃあなあ」
「出来たら苦労しまい」
金銭を表すハンドサインを由良が取り、虚無僧が肩を揺らした。
湯畑の湯気は、上へ上へと昇っていく。
「痛みを忌うというのは、なかなか滑稽」
「ええ?」
「そうは思わぬか」
虚無僧の錫杖が鳴った。
「神ながらの物物は命を散らすでもなく、在るがまま、傷つき癒す術もなく、戦うために戦うのだ。だというのに、あの泉を求めている」
「……」
由良はにやけた面を崩さずに、橋の下の景色を眺めた。夜空を下から照らしだす、街の灯りに目を細める。彼が黙ってしまったので、虚無僧も口を噤む。二人の間を、夜を出歩く遊山客の談笑が通り過ぎた。
煙管を吸って、欄干で灰を落とす。威勢の良い音に、オコジョは身体を跳ねさせる。
「代わってくれてもいいんだぜ」
由良が、煙と共に吐き出した。おどけているようでいて、なかなかどうして真実味を帯びていた。虚無僧は、橋の内側に向いていた体を由良と同じ外側に向けてから、編み笠の位置を直した。錫杖が合わせてしゃらりと揺れた。
「お戯れを。御仁のような離れ業、誰ができようか」
俯いて、由良は笑った。オコジョのヒゲで彼の頬がくすぐられた。ガロガロと橋の上が響くのは、湯治の客たちが下駄を履いて歩くから。
「大変ねえ」
暖かな光をちらほら灯す温泉街に目を向け、あまりに他人事のように、由良が言う。
「大変だ、みぃんな」
「……御仁」
「うん?」
「そういうところ」
「あははっ、そうね。おまえさんにゃあ言われたかねえけど」
煙管を咥えて意地悪く返し、草履に足指を通す。由良は欄干から離れた。そしてゆらりと人の波に乗って、湯畑に釘付けの虚無僧の前を抜ける。
「何でもやってみるが吉」
虚無僧の激励を彼は背中で聴いた。
彼に聞こえない距離まで来てから、由良は前方を見た。
「……あんがと」
オコジョが首にしがみつく。白い毛が逆立っていた。ほとんど時を同じとし、人混みから感嘆が湧き起こる。見ると、夕暮れの空に和火が上がっていた。弧を描くように一閃、そして花開く。思わず由良も足を止めた。
「初めて?」
楽しげにオコジョに尋ねる。
「あちらさんのような派手さはないが、いいもんだろ」
温泉街のあちこちから上がっては散る火花に対し、鼻をひくひくさせている。オコジョの黒目の中に好奇心を見た由良は、くすりと笑った。
和火の淑やかな光は川辺に咲き誇る黄色の絨毯を照らしだす。それを見ていっそう、由良は機嫌を良くした。
「贅沢な帰り道だ」
目を細めた由良が、人混みをすり抜けていく。オコジョは彼の右肩から首後ろを伝って左肩に移動した。
「ええ、帰るなら御殿宿だろって?」
まばらな人影になってようやく、由良は煙管を燻らせた。
「そうは言ってらんねえの。台帳。取ってこなくちゃ。なんせ、明日は休みじゃねえし。おかんむりのミクジが怖えからさ」
オコジョの尻尾が彼の耳を覆った。また和火が上がって、遅れて歓声が上がった。緩やかな湯気だか風だかが、柳の先を揺らしてゆく。暗渠は都度に煌めいて、涼やかに夜へ向かっていった。
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