二
「うーん、平和だなあ」
由良は呑気に足首をかいた。
かなり太陽は傾いてきたが、夕方というにはまだ早い。御殿の中はしんと静かに、差し込む陽光だけが室内を賑やかしていた。その陽が獣の毛並みに乱反射して透けたり輝いたりしているのを、由良はぼんやりと眺めていた。
朱座布に胡座をかいた彼が、きょろきょろと周囲に警戒を向ける獣の鼻先をつつく。すると、獣の髭がピンと張って、すらりと光る。
男はくすりと笑った。
「ミクジ」
「なに?」
名を呼ばれた小姓は掃除の片手間とばかりに由良に顔を向けた。その証拠に、雑巾を握る手を全く緩めない。
由良はわずかに驚いた。いつもは顔すら向けてくれないのに。
「ウチで黄泉戸喫が起きちまったら、どうなると思う」
「……安心してよ、由良の後はおれが継ぐから」
「こりゃ頼もしい」
煙管を口から外す。
「けど、そうじゃねえ。ウチって言い方が悪かったか。つまるところ、黄泉で黄泉戸喫が起きたらっつうことだ」
「なにそれ。黄泉で起こるから黄泉戸喫なんでしょ」
「うん、まあ、そうなんだけどなあ」
由良が口を開くたび、白煙が窓辺へ上っていく。獣は由良の膝にちょんと前脚を乗せ、彼と一緒になって外を見ていた。
畳を拭いていたミクジの声が響く。
「由良」
「うん?」
「台帳」
「…うん?」
彼が視線を室内に戻すと、ミクジは由良のすぐ前まで来ていた。
手のひらを上に向けてこちらに差し出し、少し責めるような目で由良を見下ろしている。
「おくびさんとこ持ってったでしょ、昨日。返して」
「ああ」
うんうんと何度か軽く頷いた由良は両手をパッと挙げた。
「ない」
「なんで」
「あたしゃ今日は休みと決めてたもんで」
獣の頭を撫でる由良に、悪びれる様子は微塵もない。
ミクジは呆れたように首を振った。
「そんな大事なもん忘れといて、なんで管狐なんて背負ってんの」
「管狐」
由良は半分嘲った言い方をした。
「まあそうとも言うが、今の通り名はオコジョな。おまえさんも、ちったあ現代について勉強しろよ?」
「霊験あらたかくなさそ」
「ただの迷子にンなもん求めちゃあ可哀想だろ」
ミクジの視線は由良の腕に注がれていた。引っかき傷やミミズ腫れ、噛み跡までついて、煙管を持つ手も傷だらけの彼の両腕に。
ミクジは眉根を顰めた。
にやりと由良がほのめかす。
「あ、見ろ見ろ、持ってたぞ」
「台帳?」
由良の懐から取り出したそれを受け取る。
「やるじゃん……って何これ。全然違う!」
ぽかぽか殴りつけられて、由良は気怠げに呻いた。
「台帳つってんの、こんなチラシじゃなくて!」
「昨日おくびのとこで貰った」
「は!? 着替えてないの!? きたな!!」
信じられないような顔で叫びをあげて、ミクジは由良を蹴りつけた。
「入ってこい!」
「ああ、湯にねえ、そうだなあ」
「入れるよ、由良が休みでも源泉は休んでないから!」
「頼もしい限りだ、全く」
「とっとと行ってきて。その間おれが面倒みるし」
彼が手を延べた先はオコジョだった。
「おいで」
ミクジの腕をオコジョがすんなり登っていくのを、由良は口をへの字にして見ていた。
それから、よっこらせ、と腰を上げる。
「んじゃあお言葉に甘えて、浸かってくらあ」
「はいはい」
ミクジは由良の尻を押し蹴る。さっさと行け、とばかりに。
ぶつくさ言いながら、由良が部屋を出ていくのを、オコジョがミクジの肩の上で見送る。
「かっこつけちゃって」
オコジョが不思議そうにミクジを見上げた。彼の横顔には、紛れもなく心配が滲んでいたが、それも束の間のことだった。
ミクジはオコジョと目を合わせ、由良が出て行ったのとは別の戸口を開ける。縁側のようになっているそこは、御殿の外周をぐるりと囲んでいる形になっていた。
そこを誰ともすれ違うことなくしばらく進んでいくと、だんだんと空気が熱く蒸したようなものに変わっていく。
縁側の終点で、ミクジがひょいと瓦屋根へ跳び乗ったのに驚いた様子もなく、オコジョはしっかりと彼にしがみついていた。
「見なよ、あれが、命の泉」
眼下に広がる黄金色の湖をミクジが指した。
「死者はあそこで亡者になるんだ。生きてる間についた垢を洗い流して、まっさらの魂に戻る。それからお白洲へ往くんだよ。閻魔様が待ってる」
オコジョの毛が逆立ってぼわぼわになったのを一瞥して、ミクジは瞬きした。
「けど、みんながみんな、すぐにあそこに入れるわけじゃない。おまえも見たろ、おれたちが橋の上で追い払ったやつら。ああいう土地勘がないやつは死にたてか臨死者なの、大体。ああいう死にきれてないのが泉に入ると、泉は穢れるわ魂は歪むわで大変なんだよ」
理解しているのかいないのか、オコジョはじっと泉を見る。
「おまえを拾ったやつもすぐ来るよ…そら、あそこ」
誰もいないその湖に人影が現れる。天女の羽衣のように薄い浴衣を肌に、掴みどころのないゆらりとした動きの男が。
オコジョの首がわずかに伸びた。
「死者にとってはあの泉は、本当の死をもたらす、まさに死そのもの。けど、おれたちみたいな黄泉の住人が触れると……あの通り。おもしろいだろ?」
一人と一匹の視線の先は同じだった。
「由良は命の泉の……なんて言えばいいかな……泉は、そいつを試すんだ。由良は認められた。だから由良は黄泉の……うーん」
ミクジは組んでいた腕をほどき、オコジョの額を指でかいた。
「とにかく。すごいやつに拾われたんだぞ、おまえ」
きょとんとしているオコジョに、彼は優しく微笑みかけた。
「だから帰れるよ。安心しな」
「ちょちょ、ちょっとミクジさん!」
突如、彼らの背後、二階の廊下の奥から切迫した声が飛んできた。
硝子窓に反射してよく見えないが、ミクジの名を呼んだということは、客ではなく御殿の者だ。
「げ、見つかった」
向かってくる影を確認したミクジは、舌をべ、と出しバツが悪そうに踵を返す。
彼と揃いの作務衣に身を包んだ女性が、洗濯籠を片手に大慌てで駆け寄ってきていた。
「なんてとこ立ってんですか、危ないですよ!」
しかし彼女がミクジの元へ到達する頃には、彼はもう縁側へ跳び下りてしまっていた。
「もう、やんちゃがすぎますよお館様がいないからって……あら?」
覗き込んできた彼女は、ミクジの肩にいるオコジョを見て首を傾げる。
「なんです、その鼬。可愛らしいですね」
尾の先だけが黒い獣は、そこを揺らした。
ミクジの結った髪に当たって乾いた音が立つ。
「オコジョだよ、オコジョ」
「へえ。何だか聞き慣れない獣ですね、オコジョ」
ミクジはオコジョと顔を向き合わせてから、得意になって従業員を見上げた。
「少しは現代について勉強しなよ!」
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