「うーん、平和だなあ」

 由良は呑気に足首をかいた。

 かなり太陽は傾いてきたが、夕方というにはまだ早い。御殿の中はしんと静かに、差し込む陽光だけが室内を賑やかしていた。その陽が獣の毛並みに乱反射して透けたり輝いたりしているのを、由良はぼんやりと眺めていた。

 朱座布に胡座をかいた彼が、きょろきょろと周囲に警戒を向ける獣の鼻先をつつく。すると、獣の髭がピンと張って、すらりと光る。

 男はくすりと笑った。

「ミクジ」

「なに?」

 名を呼ばれた小姓は掃除の片手間とばかりに由良に顔を向けた。その証拠に、雑巾を握る手を全く緩めない。

 由良はわずかに驚いた。いつもは顔すら向けてくれないのに。

「ウチで黄泉戸喫が起きちまったら、どうなると思う」

「……安心してよ、由良の後はおれが継ぐから」

「こりゃ頼もしい」

 煙管を口から外す。

「けど、そうじゃねえ。ウチって言い方が悪かったか。つまるところ、黄泉で黄泉戸喫が起きたらっつうことだ」

「なにそれ。黄泉で起こるから黄泉戸喫なんでしょ」

「うん、まあ、そうなんだけどなあ」

 由良が口を開くたび、白煙が窓辺へ上っていく。獣は由良の膝にちょんと前脚を乗せ、彼と一緒になって外を見ていた。

 畳を拭いていたミクジの声が響く。

「由良」

「うん?」

「台帳」

「…うん?」

 彼が視線を室内に戻すと、ミクジは由良のすぐ前まで来ていた。

 手のひらを上に向けてこちらに差し出し、少し責めるような目で由良を見下ろしている。

「おくびさんとこ持ってったでしょ、昨日。返して」

「ああ」

 うんうんと何度か軽く頷いた由良は両手をパッと挙げた。

「ない」

「なんで」

「あたしゃ今日は休みと決めてたもんで」

 獣の頭を撫でる由良に、悪びれる様子は微塵もない。

 ミクジは呆れたように首を振った。

「そんな大事なもん忘れといて、なんで管狐なんて背負ってんの」

「管狐」

 由良は半分嘲った言い方をした。

「まあそうとも言うが、今の通り名はオコジョな。おまえさんも、ちったあ現代について勉強しろよ?」

「霊験あらたかくなさそ」

「ただの迷子にンなもん求めちゃあ可哀想だろ」

 ミクジの視線は由良の腕に注がれていた。引っかき傷やミミズ腫れ、噛み跡までついて、煙管を持つ手も傷だらけの彼の両腕に。

 ミクジは眉根を顰めた。

 にやりと由良がほのめかす。

「あ、見ろ見ろ、持ってたぞ」

「台帳?」

 由良の懐から取り出したそれを受け取る。

「やるじゃん……って何これ。全然違う!」

 ぽかぽか殴りつけられて、由良は気怠げに呻いた。

「台帳つってんの、こんなチラシじゃなくて!」

「昨日おくびのとこで貰った」

「は!? 着替えてないの!? きたな!!」

 信じられないような顔で叫びをあげて、ミクジは由良を蹴りつけた。

「入ってこい!」

「ああ、湯にねえ、そうだなあ」

「入れるよ、由良が休みでも源泉は休んでないから!」

「頼もしい限りだ、全く」

「とっとと行ってきて。その間おれが面倒みるし」

 彼が手を延べた先はオコジョだった。

「おいで」

 ミクジの腕をオコジョがすんなり登っていくのを、由良は口をへの字にして見ていた。

 それから、よっこらせ、と腰を上げる。

「んじゃあお言葉に甘えて、浸かってくらあ」

「はいはい」

 ミクジは由良の尻を押し蹴る。さっさと行け、とばかりに。

 ぶつくさ言いながら、由良が部屋を出ていくのを、オコジョがミクジの肩の上で見送る。

「かっこつけちゃって」

 オコジョが不思議そうにミクジを見上げた。彼の横顔には、紛れもなく心配が滲んでいたが、それも束の間のことだった。

 ミクジはオコジョと目を合わせ、由良が出て行ったのとは別の戸口を開ける。縁側のようになっているそこは、御殿の外周をぐるりと囲んでいる形になっていた。

 そこを誰ともすれ違うことなくしばらく進んでいくと、だんだんと空気が熱く蒸したようなものに変わっていく。

 縁側の終点で、ミクジがひょいと瓦屋根へ跳び乗ったのに驚いた様子もなく、オコジョはしっかりと彼にしがみついていた。

「見なよ、あれが、命の泉」

 眼下に広がる黄金色の湖をミクジが指した。

「死者はあそこで亡者になるんだ。生きてる間についた垢を洗い流して、まっさらの魂に戻る。それからお白洲へ往くんだよ。閻魔様が待ってる」

 オコジョの毛が逆立ってぼわぼわになったのを一瞥して、ミクジは瞬きした。

「けど、みんながみんな、すぐにあそこに入れるわけじゃない。おまえも見たろ、おれたちが橋の上で追い払ったやつら。ああいう土地勘がないやつは死にたてか臨死者なの、大体。ああいう死にきれてないのが泉に入ると、泉は穢れるわ魂は歪むわで大変なんだよ」

 理解しているのかいないのか、オコジョはじっと泉を見る。

「おまえを拾ったやつもすぐ来るよ…そら、あそこ」

 誰もいないその湖に人影が現れる。天女の羽衣のように薄い浴衣を肌に、掴みどころのないゆらりとした動きの男が。

 オコジョの首がわずかに伸びた。

「死者にとってはあの泉は、本当の死をもたらす、まさに死そのもの。けど、おれたちみたいな黄泉の住人が触れると……あの通り。おもしろいだろ?」

 一人と一匹の視線の先は同じだった。

「由良は命の泉の……なんて言えばいいかな……泉は、そいつを試すんだ。由良は認められた。だから由良は黄泉の……うーん」

 ミクジは組んでいた腕をほどき、オコジョの額を指でかいた。

「とにかく。すごいやつに拾われたんだぞ、おまえ」

 きょとんとしているオコジョに、彼は優しく微笑みかけた。

「だから帰れるよ。安心しな」

「ちょちょ、ちょっとミクジさん!」

 突如、彼らの背後、二階の廊下の奥から切迫した声が飛んできた。

 硝子窓に反射してよく見えないが、ミクジの名を呼んだということは、客ではなく御殿の者だ。

「げ、見つかった」

 向かってくる影を確認したミクジは、舌をべ、と出しバツが悪そうに踵を返す。

 彼と揃いの作務衣に身を包んだ女性が、洗濯籠を片手に大慌てで駆け寄ってきていた。

「なんてとこ立ってんですか、危ないですよ!」

 しかし彼女がミクジの元へ到達する頃には、彼はもう縁側へ跳び下りてしまっていた。

「もう、やんちゃがすぎますよお館様がいないからって……あら?」

 覗き込んできた彼女は、ミクジの肩にいるオコジョを見て首を傾げる。

「なんです、その鼬。可愛らしいですね」

 尾の先だけが黒い獣は、そこを揺らした。

 ミクジの結った髪に当たって乾いた音が立つ。

「オコジョだよ、オコジョ」

「へえ。何だか聞き慣れない獣ですね、オコジョ」

 ミクジはオコジョと顔を向き合わせてから、得意になって従業員を見上げた。

「少しは現代について勉強しなよ!」

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