きゅうと伸びをする。快晴。

「うんうん…あちらさんにゃあ、もうない天気」

 あくび混じりに呟く。

 男は自身の頭を無造作にかき混ぜた。銀糸と見紛うような美しい髪を惜しげもなく。

 窓の向こうの、朝日と活気の息づかいに、彼の目が弧を描いた。

 町が生きている。

「いい気分」

 右手は脇腹をかき、左手は綾織の腰巻きと帯とを手に取った。

 寝ぼけまなこながらも手慣れた様子で身支度を済ませた男は戸へ向かう。

 しかし程なくして、彼のつま先は草履ではなく、家の中へと戻っていった。

 煙管だけ握り締めて、板間をどたどたと歩き回る。

 それから、戸棚やら箪笥やらの引き出しを片っ端から開けていった。

「ええと、どこへやったんだったか」

 あちこちひっくり返しても、目当ての物には行き当たらないらしい。

 軽やかな談笑が聞こえる。隣の簪屋が開く時間だ。

「ああ!」

 大きく息をつき、腰を上げる男の手には、たばこ入れが握られていた。

「これよこれ」

 彼はいそいそと戸に手をかけたが、通りの往来が増えたのを気にして、裏手口から外に出ることにした。

 今日は休みと決めている。

 裏手の路地には日が差さず、ゆえに人通りはほとんどない。暗渠も近く、湿った空気が足元から額に上ってくる。

 目まぐるしくない水の流れが、彼の歩調を緩やかにさせた。

 鼻歌混じり、男は満足気に辺りを見渡した。そして石灯籠に蜥蜴が走ったのを、ちらりと見る。揺れる柳は新緑に眩しい。

 それからさらに向こう、行く手にそびえる巨大な湯畑に視線を移して……男はべ、と舌を出した。

「うげえ」

 シーズンは過ぎたと、どこかの誰かが言っていた気がするが。

「いすぎ」

 足取りは段々と重くなり、それでも進む以上、物見遊山の客の袖を擦れさせざるを得ない。

「あのう」

「はい」

 男にしては随分と冷たい声色だった。

 彼の無感情の瞳を、遊山の客はじっと見る。

「橋を渡りたいのですが、どこにあるかご存知でしょうか」

「ああ、それなら向こうですよ」

 男はいいかげんな方角へ視線を飛ばした。

「ずっと向こう」

「はあ。どうも」

 客は頭を下げて男とすれ違った。

 道端でその様子を見ていたらしい虚無僧が、男が近づくとこう尋ねた。

「よろしいのか」

「いいのいいの」

 人混みは堪らない。一人でも少ない方がいい。

 虚無僧とは顔を合わせず、足も緩めず、ただ答えを返す。やれやれといったふうにため息をついた虚無僧のことを、男は無視した。

 人を躱しながら道を進んで行く。目にも留まらぬ速さで、しかし彼自身の足取りはどこかゆったりとしていて、まるで湯気が街並みをすり抜けていくかのようだった。

 櫓つきの門をくぐり、温泉街を出る。分かれ道に佇んでいる地蔵に手を振って、男は山道でない方に入っていった。

 男が煙管を咥えた。火はついていない。口寂しいらしかった。

 ザリザリと土埃を小さく立ててしばらく行くと、鮮やかな黄色が視界に飛び込んでくる。

 地平を覆い尽くさんばかりに広がる菜の花。それを男はじっと見つめた。風に吹かれると、その景色ははためく反物のようだ。

 それをまるでひとつひとつ確認しているかのごとく、彼の目つきには真摯なものが宿っており、先ほどの客の応対とは似ても似つかない。

 温泉街にはあれ程いた人影も、ここには一つも見当たらなかった。

 彼は長い時間、そこに立っていた。それが自然だとでもいうみたいに。

 菜の花と一緒になって、陽を浴びて、土と花粉の匂いの中にいた。

 どれくらい経っただろうか。

 男がおもむろに煙管を口から外す。

「いい具合ね」

 彼の手が煙管をくるくる回した。

 すると突然、菜の花の地平から、ガサ、と音がした。

 男は眉を顰めた。何かが菜の花をかき分けてこちらへ来ているというのが、重たげに反復する花房の挙動から分かった。

 わずかに強張った男の足が身構える。

 どんどん近づいてきていた何かが遂に姿を現すと、

「おやま!」

 男は目を丸くした。

 彼と遭遇した仔犬くらいの大きさの獣もまた、身を丸くする。

 男が俊敏な動作で逃げようとするそれを容易く掬い上げた。街中で人混みを過ぎた時と同じようにしてである。

 全身を真っ白な毛で覆ったその獣は、男の手から逃れようと必死になってもがいていた。尾の先だけ、墨に付けた筆のように黒い。

「どうどう」

 優しく扱う彼に、獣は体をくねらせて抵抗した。牙を剥き、威嚇する獣。男は愉快そうに笑った。

「いいねえ」

 噛みつかれてもお構いなしだ。

「そうこなくっちゃあ」

 男はくるりと踵を返した。そして元きた道を引き返す。

「だけどこのままじゃあ鼬ごっこだ、文字通り」

 流動体とも錯覚する、細長い獣の動きよりも、男の手捌きは更に掴みどころのない、それでいて獣を逃すまいとするものだった。

 両腕で獣を抑え込みつつ、彼は地蔵の所を山道へと曲がっていく。

 賑わう石段を上って、大橋が見えてきた。

 途端に獣はぴくりと動きを止めた。

「おっと、流石の勘だ」

 男は獣の首をすっぽりと掴んだ。

「このまま暴れ回っても元いた場所には帰れないぜ、ベイビー」

「……」

 獣のヒゲが僅かに弾んだ。

 彼の言葉が通じたのかは定かではないが、獣は大人しく彼の腕に収まった。男が橋の袂まで来たその頃には、逆立てていた白い毛も、男から逃れるための爪も牙も、すっかりなりを潜めていた。

 獣がその双眸を男の瞳に重ねた。黒豆の甘露煮みたいだ。男が目を細める。

 目を逸らし、虚空を見つめた獣は、何か考えたかのような間を置いてから、彼の腕をすると登って、肩の上に落ち着いた。

「いいねえ」

 男は獣をひと撫でする。

「生存を優先するがゆえの判断。実にいい」

 それから、先ほどから気になっていた、橋の上に溜まっている数人の方へ注意を向けた。

「うちには入れないんです」

「そんなこと言わずに、はるばる来たんです、どうか、どうか」

 何やら揉めていた。

 男は顔を顰めた。

「おや面倒ごとだ、面倒くさい」

 そのまま知らぬ顔で通り過ぎようとする彼の耳に、止まぬ抗議の言葉が次々と入ってくる。

「この先へ行きたいんです」

「入れないものは入れないんです」

「そんな言い草ないだろう。折角ここまで来たのだから」

「彼の言う通りだわ、私だってここで言い合いなんかしていたくないもの」

「そう言われましても……」

 視線を彷徨わせていた小姓はそこで男に気がつくと、驚いたような安堵したような顔をした。男がさっさと行こうとすると、必死な面持ちで凝視してくる。痛いくらいの視線だった。聞かずとも分かる。助けてくれと言っていた。

 男は鼻から息を抜いた。

「今日は休みと決めているんだがなあ」

 欄干に固まっていた彼らの元へ歩いていく。

 奇妙な身なりに加え、獣を連れた男が近づいてきたことで、彼らの注意は一気に男へと向けられた。

「な、なんだあんた」

 小姓に最も食ってかかっていた中年男性が声を上げる。

 男は軽く会釈した。

「ええどうも」

 遊山の客には、彼はどうにも冷ややかだった。

 彼らが面食らったのを好機と見るや、小姓はさっさと男の背に隠れた。

 老婆がかすかに険しい表情を浮かべる。

「でも良かった、この子よりは、お話ができそうで」

「やあ、まことすいません、この橋の先へは招かれた者しか入れませんもので」

 男はあっさりと言ってのけ、握っていた煙管をたばこ入れへしまった。

「一見さんはお断りです」

「そんな」

 老婆の隣にいた男性が嘆いた。老夫婦のようだ。

「我々は突然この場所に来たんです。招かれたというのと何か違うんですか」

「ええ、ええ。先ほど申しました、招かれた者しか入れませんというのは、手前共が招いた覚えのない者を通すわけにはいきません、ということです、残念ながら手前共にはあんた方を招いた覚えはない、よってあんた方を行かせることはできませんつまりあんた方はこれ以上先へ行くことはできません、お分かり?」

「でも」

「いけません」

「しかし」

「行ってはいけません」

「それでも、なぜかは分からないけれど、あの先に行かなくてはならないのよ、私たち。そんな気がするの、どうしても」

「先?」

「あれの先」

 老婆が大橋に影を落としている巨大な建造物を示した。

 男は大仰に振り返ってみせる。

「ああ、あれ」

 橋を渡った先には、屋敷とも館ともとれる、絢爛な建物がそびえたっているのが見える。

「立派でしょう」

 ついでに、小姓が苦虫を噛み潰したような渋い顔をしたのも。

御殿宿ごてんすといいます」

 さほど興味もなさそうな口ぶりだった。

 獣の尻尾が顔面を塞いでいたのをどかしつつ、首をに向け戻す。

「あたし、あれの亭主をしています、由良ってもんです」

 男はゆらりと腰を折った。ぎこちなく口角の上がった顔は彼らに向けたまま。

「どうぞ、よしなに」

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