砂を喰む
九十九ねね子
砂を喰む
初恋はレモンの味ではなく、砂の味だ。ついでに、血液の味。地面に思い切り唇をぶつけたせいで、唇から頬にかけてが真っ赤っか。大出血サービス。遠目から見たらリップを塗り過ぎた人みたい。口の中に入ってしまったそれらを、つばと一緒に飲み込んだ。僕って今、砂場の砂食べてんのか。そう軽く絶望したが、この状況を作り出した本人は素知らぬ顔。
むしろ、先生の視線は畜生を見るときと酷似していた。睨みつけるわけではない。馬鹿にするわけではない。もうすぐ出荷される豚たちを見つめて、幼女が「どうしてぶたさんは生まれてきたの?」と純粋な疑問をこぼしたときのような、そんな視線。先生はきっと「どうしてこの子は生まれてきたの?」と純粋無垢に思っていることだろう。結局先生は僕を助けるでもなく、手当てをしてくれたわけでもない。保健室に連れて行ってくれたのは、心優しき保険委員のあゆみちゃんなのだから。
「せんせい、ひどいね」
彼女はそう慰めてくれたけれど、僕にはてんで響かなかった。
頭にあったのは僕を見る先生の目。顔。そして僕に対してさほど興味を抱かず、なんでもなかったかのように他の生徒の引率へ戻ったのあの声だった。
不思議なことに、僕はこのとき先生に恋をした。
一体何を琴線に引っ掛けたのかはわからない。僕のどこがおかしくなったのかもわからない。わからないことだらけのはずなのに、恋であることは知っていた。勘違いではないことは確かだったのだ。
僕は手に持ったフラペチーノを啜った。カップは手におさまるくらいなのに、生クリームが大量に入っているせいでお腹に溜まる。成人男性の僕でさえそうなのに、彼女の薄い腹にどうしてあんなものが入るのか理解に苦しむ。
「初恋の話だっけ」
「えぇ」
「これで合ってるの? てか彼氏の初恋聞いてて嫉妬しない?」
「別に」
彼女は頬杖をついて、ボイスレコーダーをいじくり回していた。こっちを見向きもしない。ライターである彼女は恋人である僕より、ネタである僕に興味があるようだ。
——初恋は何味ですか?
なんて抽象的な質問をされ、それに自分なりの答えを述べる。彼女が言うにはそれをまとめて一つの記事にするらしい。その中の一つに「砂の味」がはたして載っていていいのか、それに疑問はあれど、彼女が書くなら素晴らしい記事になるだろう。
「小さい頃の話でしょ。ネタにはなると思うよ。おもしろーい」
と言う割に、彼女は笑うことがない。無表情無感情。言葉では褒めてくれるものの、態度はもっぱら事務的だ。むしろ僕以外の人への方がよっぽど優しい態度ではないかと疑ってしまう。一度彼女が職場で会話しているところを見かけたが、誕生日にネックレスをあげたときと同じレベルの笑顔を振りまいていて軽く衝撃を受けた。
そんな彼女のとこが好きか嫌いかでいうと、好き。
「君が楽しんでくれるなら、うれしいよ」
僕はそんな彼女に恋をしていた。愛を囁くことなんてしない、無機質な瞳に心底惚れている。この瞬間だけ、僕は自分のことをすばらしく優秀な人間なんかではなく、ただ息をしているだけのなんの役にもたたないクズだと思えるから。
恍惚とする僕を彼女が見た。一瞬眉をひそめるが、すぐにペンを手に取り、メモ帳へと押し付けた。彼女の顔はすでにライターとしてのものに戻っていた。
「それで、話の続きは?」
えぇ、えぇ、もちろんお話ししますとも。
小学生時代の担任——件の先生は、とても穏やかで優しそうに見える先生だった。見える、というのはあくまでぱっと見そう見えるというだけで、つまるところそれは偽りの優しさ。最初はその外面に騙された女子たちも、一ヶ月もすれば彼女へ話しかけることをしなくなる。いくら話しかけても、どんなにすばらしい話をしても「うんうん」「そうだね」としか言わない。ようは、子供たちの雑談を適当にあしらう先生だった。きっと、子供嫌いなんだろう。基本的に子供というのはぎゃーぎゃー騒ぐ考えなしだと思われがちだが、あれで結構自分に向けられる感情というのには聡いのだ。
彼女がまともに話す場面といえば、授業のときと、他の先生方と話すとき、保護者へ話しかけるとき。まあ学校へ乗り込んだ母さんには、相変わらずの穏やかな表情で、適当に会話をいなしていたけれど。ヒステリックに叫び散らすあの人は、泣き喚く幼稚園児に通じるものがあったからかもしれない。
「へぇ。で、子供嫌いの先生に冷たくされ、それが癖に刺さったと。あなたのマゾヒズムの原点はそれなのね」
「違う違う。先生はちゃんと教師だったよ」
けど、僕が怒らせちゃったんだ。
そもそもあのときなにがあったのか。体育の授業中、僕は友人とふざけあっていた。「先生を怒らせた方が勝ち」なんて、今思い出すとだいぶクソな遊びをしていた記憶がある。友人との会話に夢中になって、先生の話なんて聞いてない。だんだんそれがエスカレートし始め、注意を無視し、勝手に走り回る。普段は注意すらしない先生も、一度、二度、声かけをした。それでも僕らは止まらない。猿のようにキーキーうるさくやかましく、感化された周りの生徒がきゃらきゃらと笑いはじめる。僕はそれにさらに笑って、それはもう動物園のように校庭がうるさくなったとき——。
「——先生はね、僕の頭を鷲掴みにした」
彼女の周りを走っていた僕を捕まえて、僕の髪を引っ張った。いつの間にか彼女の注意は止んでいて、彼女はずっと無言。そのまま僕を抱き上げ、砂場へ移動すると、僕をぽいっと落とした。彼女の身長は一般的な女性くらいはあったから、いずれにせよ、顔面から落ちるにはなかなかな高度だった覚えがある。
そのあとはさっき話した通り。心優しい——まゆみちゃんだっけ、その子が保健室へ連れて行ってくれた。突然の先生の蛮行。静まり返ったクラスの中、ひとり手を上げてくれたまゆみちゃんは優しく、勇気ある女性に育っていることあろう。
「……『ま』じゃなくて『あ』でしょ。あなたが恋したのってその心優しい保健委員で合ってる? 私の勘違いよね」
「いや、勘違いだよ。僕の初恋は先生だけど」
彼女は髪を掻き混ぜた。苛立ったように息を吐き、しかめ面で僕へ言った。
「たびたび思ってたけど、私とあなたって壊滅的に噛み合わないわね」
「えぇ?」
「で、続きは?」
僕に多大なる期待を寄せているモンスターペアレントこと母の訴えで、彼女と僕は離れ離れになってしまった。クビになっちゃったんだ彼女。
僕の母親って、授業中の悪ふざけとか、そういうの全部、「私の可愛い息子が、間違うはずがないでしょう?」で済ませちゃう人だから。僕が何をしようと、あの人は愛してくれるだろう。僕が何をしようと、あの人は僕に価値を見出すだろう。それが気持ち悪くって。
発狂した母親を興味なさげに見つめていたのが、僕が見た最後の彼女だ。今思えば、随分あんまりな終わりだった。
「僕の初恋の話は、これでおしまい。今は君だけが大好きだよ」
「そう」
目の前の彼女はフラペチーノ片手に、少しの間考え込んだ。
「あなた、本当は今でもその先生のことが好きなんじゃない?」
「そんなことないけど」
「……ねぇ、その先生ってどんな外見?」
「え? えっと、黒縁のメガネに、ストレートの髪を伸ばしてて、垂れ目で、可愛い感じの人かな」
「…………私って、どんな格好してるっけ」
「黒縁のメガネに、長い髪。パーマとかかかってなくて、真っ直ぐの綺麗な……あっ」
彼女は席を立った。僕に何も告げる事なく、レジへ向かう。
「会計は別で」
「ま、待って待って、置いてかないでよ」
「あなたは砂場の砂でも食べてなさい」
砂を喰む 九十九ねね子 @3_3_9
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