ある日突然
守谷愛作
第1話 学校の怪談
1 その日突然
その日、自宅の玄関を出た
「もう六月か…」
長谷川明が高校生になってもう二ヶ月。最近、それまで想像していた高校生活とは違い、単なる中学校の生活の延長でしかないように感じて来ていた。これまで、高校生になれば中学までの自分とは違う自分と出会ったり、友人関係なんかにおいても中学の頃とは違う次元になるような期待をしていたのであったが、実際は名称が「中学生」から「高校生」に変わっただけで、さほど変わらない生活なのではないかと思えてならなかったのだ。
もう人生の先は見えた。明は何となく悟ってしまった。このまま進学したり、社会に出ても、おそらくは基本的に何も変わらない生活なのではないか。つまり、自分はいつまでたっても今の自分のままなのだ、と言うことを。
重い足取りで、いつもの通学路を歩む。高校の選び方からして間違っていた。選んだ理由は自宅から近い所、出来れば徒歩圏内と言うことで今の学校を選んだ。ただそれは即ち、生活圏が中学校とはあまり変わらないのだと言うことに、気が付かなかったのである。
明は、線路をくぐる狭い道を歩いていた。ここはいつも人通りの少ない通りで、夜などはちょっと怖いくらいの道である。
すると、明の後ろから人の呼ぶ声がした。
「学生さーん!学生さーん!」
明は、その声に気付いて無意識に振り返った。すると、後ろの少し離れたところで一人の小柄な老人が、明の方に向かって手招きをしているのが見えた。明が自分の周囲を見回しても、他には誰もいない。明ひとりだ。どうやら自分を呼んでいるらしい…と思い、その老人の方をもう一度見てみたが、小柄で痩せた髪の毛のないその姿は、どうにも明には見覚えが無い。しかし、その老人はどう見ても明の方を見て手招きをしている。しかも、困惑している明を察してか、老人自らこちらに速足で近づいてくる。いや、ひょっとすると駆け足なのかもしれない。
じっと身動きもせずに見つめる明を目指して、老人はひょこひょことやって来る。
「いやー学生さん、探しましたぞ」
老人は、髪の毛のない頭をなでながら嬉しそうに話しかけて来た。明が理解しかねているのを見て、老人は自分を指差しながら嬉しそうに続けた。
「ほら、この前、君に助けてもらった爺です。救急車まで呼んでもらって」
その言葉を聞いて、明もやっと思い出した。
明が高校に入学して早々のことだ。朝、今日のようにこの道を歩いていると、誰かがうずくまっているの見かけたのだ。驚いて近寄ってみると確かにこの老人で、苦しそうに胸を押さえていたのである。それを見た明が、放っても置けずに119番に電話して救急車を呼んだのであった。そんな大きな出来事がありながらも、今まで全く忘れていたとはなんと薄情な人間なんだろうかと、自分が情けなくなった。
「あの時のおじいさんですか。元気になられたんですね、良かったです」
明は、取って付けたような挨拶でごまかすしかなかった。
「いやーこれは有難いお言葉、申し訳ない」
老人は、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「実はですな、あの時のお礼をしたいと思って、ずっと君を探しておったんですわ。それで、ここでこの時間に待っていれば会えるかな?と思いまして来てみたんですが、見事的中しました。いやーよかったです」
老人は満足気である。
「実はですな、まあ…詰まらん物なんですが、是非これを受け取っていただきたいと思いましてな」
呆然と聞いている明をよそ目に、老人は何かを握りしめた右手を差し出した。
明がそれを見ると、老人の手に握られているのは細い紐のようなもので、その紐の端に白い何かが付いている、ペンダントらしきものだった。そしてその紐の先についているのは…、水滴を少し曲げたような形。
「勾玉…ですか?」
明は自信無さげにつぶやいた。
「おお、勾玉をご存じですかな?」
老人は目を見開いて驚いた。
「お若いのに大したものですな。でもこれは、勾玉とはちょっと違うんですわ」
老人は苦笑いをしながら、申し訳なさそうに言った。明が良く見てみると、確かに明の知っている勾玉よりもずっとシャープで、シッポの部分が尖り、全体にきれいなカーブをしている、玉と言うよりは板のようであった。
「なんですか?これ」
そう問いかけた明の右手を取った老人は、にこやかにそれを明の右手に握らせた。手に触れてみると、それは大理石のような手触りであった。そして紐は、どうやら皮の紐のようである。
「これは……です」
老人は、呟くように何かを言った。そして、明の目を見つめながら何かを続けたが、明にはそれが何と言ったのか理解できなかった。明には、それが何か聞きなれない、外国語のように聞こえた。
「これは、簡単に言うと幸福を呼び込む、お守りみたいなものですな」
老人は、最後にそう付け加えると、にっこりと笑った。
「どうか、受け取ってください」
優しく、尚且つ懇切な響きを持つ言葉だった。
「え?ああ、そうですか。ありがとうございます」
明は、別に高価なものでもなさそうだし、年寄りがくれるものだから無下に断るのも可哀そうだし、と言うその程度の軽い気持ちで頂くことにした。
「ありがとうございます。これで私も肩の荷が下りました。あとの事は何卒よろしくお願いします」
そう言うと、老人は爽やかな笑顔を残して明に背を向け引き返して行った。明は最後の言葉が引っかかったが、時間が気になり時計を見た。
「あ!やべえ、遅刻する!」
人は慌てると、大事なことを見落としがちだ。明は、何かが心に引っかかったことも忘れて、学校へと向かって駆け出していた。
走りながら明は思い出した。今日は席替えの日だった。
昨日のホームルームで、一人の女子が騒ぎ出したのである。入学当時は出席番号順の席であった。そして、なぜか明の高校は、今どき珍しく出席番号が男女別になっていた。つまり、前半が男子、後半が女子である。そして席の並びは、教室の廊下側半分に男子、窓側半分に女子、と言う具合である。その女子は、それに対して意義を申し立てた。
「これから暑くなって、日差しも強くなるのに、女子であると言うだけで、こんな窓側で紫外線に晒されるなんて、到底納得できない」
その言葉に女子のほぼ全員が賛同した。それで協議の結果、全ては「くじ運」に委ねるものとして、男女の区別なく全て混合でくじを引こうと言うことで合意したのだった。その結果、放課後急遽作られたくじを全員で引いて、その結果を今日の朝、発表されることになっていたのだ。
明のテンションがちょっと上がった。実は、明の今までの席は教室の最前列の中央、つまり教壇の真ん前であったのだ。しかも隣は女子。それも、
しかし、何処でもいいとは言ってもやはり希望はある。せっかくの共学なのだから、好みの女子の隣がいい。望むべくは、新庄か鈴木辺りがいい。この二人がクラスのツートップかも知れない。ただ、
などと妄想をたくましくしているうちに学校へ到着した。遅刻ギリギリであった。
明は、さっき幸運のお守りももらったことだし、きっといいことがあると確信して教室の戸を開けた。
「おー明、おせーぞー!」
教室に入るなり声を掛けて来たのは、山口
山口は、明を見ながら何かニヤニヤしている。見ると、隣には新庄がいる。そして、新庄が座る椅子の半分には鈴木が割り込むように座って、べったりくっ付いて楽しそうに話をしている。
―あの野郎、やりやがったな―
明も思わずニヤけてしまった。しかし、山口の笑いはそれとはまた別のようである。あごで黒板の方を指している。明が黒板を見ると、新しい席順が張り出されている。
―ああ、これのことか―
明はそう思って、自分の席を探した。しかし、見つからない。
―無い…?―
驚いた明は、もう一度探してみた。
有った。しかし、明の顔は引きつった。なんと昨日までと同じだった。教壇の真向かい。そして更に驚くべきことは、隣も同じ相沢茜だったのだ。何と、教壇の前の二席だけが、そのまま継続なのだった。
―そうか、くじは昨日引いたんだった。幸運のお守りはさっきもらったから、効果は及ばなかったか…―
明は、驚愕とも呆然とも言えぬ顔で山口を見た。山口は嘲笑とも言える笑みを浮かべている。隣の新庄も口元が笑っている。鈴木は顔全体で笑っている。みんな楽しそうだから良いか…と思い席に着こうとしたら、相沢と目が合った。怒っているのではない、無表情なのだ…と思いたい。いつもの相沢フェイスだ。丸顔に小さく尖ったあご。飴色の眼鏡の奥には小さくはないが切れ長の目。これで笑っていれば問題ないのだが、なぜかいつも無表情。決して怒っているのではない…と思いたいのだが、ちょっと怖い女子だ。誰かと話している所もほとんど見ない。孤高の人である。
明は諦めて席に着く。
「よろしく」
儀礼的に明が頭を下げると、相沢の表情が一瞬柔らかくなり、軽く会釈した。明のアクションに反応したのは初めてかもしれない。これは、幸運のお守りの力かと思ってしまった。
教科書を机の中に入れ山口の方を振り向くと、明の視界にその場にそぐわない何かが入った。ふと教室の後ろにいるそれに目を向けると、そこには見知らぬ人が立っているのだった。それはグレーのスーツ姿の大人の男性。教師のうちの誰かか?とも思ったが見たことはない。
「あれ?」
明は無意識に声に出していた。その男は後ろから教室の中を見回している。明たちにはまだ知らない教師は多い。しかし、この教室のしかも後ろから入って来る理由が分からない。生徒の保護者か?とも思っていると、隣の相沢がこちらを見ているのに気づいた。相沢は、ちょっと驚いたような表情で明を見ると、ちらりと明が見ていた後ろの方に目をやった。明ももう一度そちらに目をやると、もうそこには誰もいなかった。外へ出て行ったようだ。
相沢は神妙な顔で明を見ていた。そこで明は気が付いた。あれは相沢の家の人だったんだ。何かの用事で学校に来ていたところ、おそらく相沢のことが気になって見に来たのだろう。自分の親を友達に見られるのが、何となく嫌な気持ちは明にも分かったので、敢えて何もなかったかのように前を向いて知らん顔をした。
まもなく担任の男性教諭が入ってきた。担任は入って来るなり、明と相沢を見て軽くプッと噴いた。それに呼応するかのようにクラスの中に嘲笑が起こった。
「これは奇跡だな。間違いない」
山口が、大げさな表情で騒ぎ立てた。1時間目が終わった休み時間である。
「どっちか一人ならあり得るけど、二人そろってはマジ、神がかってるわ」
明はもう何も言うことはない。
「俺、便所行って来るわ」
逃げるように席を立って廊下へ出た。トイレへ行く途中、朝のスーツ姿の男を見かけた。すると、相沢がそれを追いかけて行った。やはり相沢の家の人だったんだと納得した。
明がトイレから戻って教室に入ると、みんなが窓際に集まって外を見ている。つられて窓の外を見ると、道路側の植栽の近くで相沢がさっきの男性と向かい合って話をしている。明は何の疑問も持たずに、相沢がおそらく父親の帰り掛けに話をしているのだろう、ぐらいに考えて目を逸らして自分の席へと戻った。
すると、窓際の人だかりから笑い声が起こった。気になった明は、席を立ちあがり再び窓際に歩いて行った。外を見ると、相変わらず相沢が一人で立っている。一人?明はもう一度見た。今は相沢一人だった。父親らしい人は帰ったようである。
「決まったな」
誰かが言った。周囲からあざけるような笑いが起こった、
―決まった?―
明には何のことだか分からなかった。
「おう、明」
人だかりの中にいた山口が、明に気づいたように声を掛けて来た。明は山口に聞いてみることにした。
「決まったってどう言うこと?」
「なんだ見てなかったのか?今の『相沢ビーム』」
山口は笑いながら答えた。
「相沢ビーム?」
明には聞き覚えのない言葉だった・
「え?知らないのか?相沢ビーム」
山口は驚いたようだった。
山口の説明はこうだった。
相沢が休み時間に校内をうろついているのは有名な話で、それは明も知っていた。ところが、ただうろついているだけではなくて、時々廊下や教室の中に立ち止まり、じっとしていることがあるらしい。それは明も知らなかった。そしてしばらくすると、相沢は左手を開いた状態で前に伸ばすのだそうだ。
そう言う姿が時々見られるようになり、あれは何をしているのだろうということが問題になったのだ。そしてみんなで考えた結果、あれは校内にいるモンスターを捜索して退治しているのではないかと言うことになったのだと言う。つまり、伸ばした腕の先の開かれた掌からは、きっとビームか何かが出ているのだと言うことだ。
「怖い」
明は思わず声を漏らした。
「怖くはないだろう?校内のモンスターを退治してくれているんだぞ、勇者じゃないか?」
山口はニヤ付きながら言った。
「おまえ!こっちはそう言うやつが隣にいるんだぞ!」
明は真面目な顔で言い返した。それを聞いた山口は吹き出した。
「確かに」
しかし、その言い方は明らかに他人事であった。明は不満であったが、ふと気になることがあった。
「え?じゃあ、さっきもそのビームをやったのか?」
「おお、そうだ。ばっちり決めてたよ」
山口は嬉しそうだった。が、明はちょっと変な気がした。
―親がいるのにそんなことをするのか?―
明が山口に聞いてみようと思ったところに相沢が入ってきた。そしてそれに続いて次の教科の担任も。みんな急いで自分の席に着いた。明は何となく腑に落ちないものを感じていた。
授業が終わると、すぐに相沢は教室を出て行った。明もそれに続いた。相沢のその奇行が、なぜかとても気になったからだ
生徒玄関前で相沢は立ち止まった。明は廊下の角に隠れた。相沢の目は、今玄関から入ってきた男子生徒を見ている。それは当然だと思った。明もその生徒を見て、驚いたのであるから。
その生徒は、明たちとは明らかに違う制服を着ていた。別の高校の生徒か?そう考えたが、その生徒はあまりにも自然に入ってくるし、見つめる相沢を気にする様子も見せずに校舎の中へと進んで行く。相沢も何も言わずにただ見つめている。あまりに堂々としているので、声を掛けずらいのかも知れなかった。明はひょっとすると転校生なのかとも考えた。
相沢はその生徒の後に付いて行くように歩き出した。明は慌てた。明がいる方へ向かってくるのだ。どうしようかとうろたえる間にその生徒は廊下を曲がり、明の前を通りすぎていった。すぐに相沢も出て来たが、相沢は明を見て驚いたようだった。しかし、明を気にしながらもその生徒の後を追った。明もちょっと迷ったが、好奇心には勝てず相沢の後を追った。
その生徒は何処かを探しているようだった。きょろきょろと見まわしながら行きつ戻りつ進んでいた。そしてある教室の前で立ち止まった。
〈音楽室〉
その生徒は看板の表示を確認すると、そのまま中へ入って行った。相沢も戸を開けて入った。明は…外から覗くことにした。入口の戸にある四角いガラス窓。そこから中の様子を覗いた。
その生徒はピアノの前に座っていた。しかし、鍵盤のふたは開いていない。開けようとしているようにも見えるが、手ばかりが動いて蓋は全く動いていなかった。
「ピアノが弾きたいの?」
女子の声が聞こえた。相沢か?とも思ったが、相沢は明に背を向けている。残念ながら明には、相沢の声がどんな声だったか記憶になかった。
しかし、ピアノの前の生徒はその声に反応するかのように相沢の方を見た。何も言わずにじっとしている。明はその様子に見入っていた。
「やってるねー」
突然、後ろから声がした。明は驚いて、危うく声を出すところだった。
振り向くと山口だった。嘲笑とも言うべき笑顔を浮かべている。明は安堵のため息を吐いた。
「モンスター退治か?」
山口が小声で聞いて来た。明は口の前に人差し指を立てて静かにしろと促した。
「あなたは、もうピアノを弾くことは出来ないの」
再び、相沢と思われる女子の声が聞こえた。悲しそうな声である。
「どうして?」
男の声がした。ピアノの前の生徒である。
「どうして弾けないの?どこに行っても、どうやっても弾けないんだよ」
それは相沢以上に悲しそうな、訴えるような声であった。
相沢がその男子に近づいた。向きが少し変わり、相沢の横顔が見えた。
「なんだ?モンスターはピアノの上にいるのか?」
山口が面白そうに冷やかす。
「あなたは病気だったの?それとも事故?」
相沢の声…だと明は思った。さっきと同じ声に聞こえたからだ。しかし、横顔の相沢は口を動かしていなかった。
明の膝が震えた。
―腹話術?―
明は自分に言い聞かすように頭の中で叫んだ。昔見たことがある。口を動かさず、あたかも手にした人形がしゃべっているかのように声を出す人のことを。
「何のこと?」
男子は普通に話している。
「良ーく思い出してみて。前に何があったのか。あなたがピアノを弾けなくなる前に何があったのか」
やはり相沢は口が動いていない。
「山口…」
明は震える声で山口を呼んだ。
「なんだよ」
「相沢、何か言ってるか?」
「ああ?」
山口は何を言っているのか分からないようだ。
「相沢は、今、何か話をしているかって聞いているんだよ」
「何も言ってないよ。これで独り言言ってたらかなりやばいぞ」
明はびくりとした。
「独り言?」
恐るおそる聞き返した。すると山口は何かを察したかのようにニヤついた。
「いや、ひょっとしたら誰かいるのかもしれんけどな」
明の心臓が、アクセルを全開にしたかのように激しく回転し始めた。
「思い出して。あなたは知っているはず。ただ認めたくないだけなの」
相沢の声が聞こえる。真剣に諭すような声だ。
しばらく何かを考えていた男子は、目を見開いて相沢を見た。そして、その顔はすぐに泣き顔になった。
「病気だ…俺、病気だったんだ。白血病だった…」
男子はうつむいて嗚咽し始めた。
「思い出した?あなたはここに居てはいけないの。さあ、私が本来あなたがいるべきところへ送ってあげる」
相沢は、右手を自分の胸まで上げて何かを言い出した。
―お経?―
明にはそれがお経に聞こえた。
少しすると、相沢は左腕を男子の方へ伸ばし、手のひらを向けて開いた。すると、その男子の姿が突然歪みはじめ、煙のように相沢の左手に吸い込まれていった。
明は叫びそうになったが、すんでのところで自分の口を押えることが出来た。
「相沢ビーム。決まったな。どうだ?モンスターは消えたか?」
明には山口の冗談は耳に入らなかった。震える脚で立っているのが精一杯だった。激しい動悸と息苦しさ、震える体。この感覚は恐怖だと明は悟った。明は今、恐怖を感じている。
気が付くと、教室の中から相沢がこちらを見ている。明は恐怖で体が動かなかった。相沢が近づいてくる。明は貧血で倒れそうだった。
相沢は戸を開けると、鋭い目で明を睨んだ。そして、通り過ぎながら明を見続けた。山口はあざけるような笑い顔で相沢を見ている。相沢は山口を気にしてはいない。明だけを気にしていた。
「気にすんなよ」
相沢が通り過ぎていくと、山口が明に声を掛けた。
「見られたくなきゃ、学校でなんかやらなきゃいいんだ」
山口は、明が盗み見ているのを相沢に見つかって、慌てているのだと思っているらしい。
山口にはあの男子が見えていない。そして相沢の声も聞こえていない。
―気のせいだ。俺の想像力がなせる業だ―
明は必死で自分に言い聞かせた。
明が教室に戻ると、相沢はもう席についていた。正面を向いて、目だけが明を見ている。いつもの鋭い目で…?
しかし、その時の相沢の目にはいつもの鋭さが無かった。何か怯えのようなものが滲んでいるように見える。
―動揺している?―
明は、ふとそんなことを思った。明に見られたのを不安に思っているのかもしれない。
―そうだ。あんな独り芝居を見られたんだから、気まずいに決まっている―
明は必死で自分を納得させようとした。
授業中も、左隣の相沢が気になって仕方がない。見ないようにしているが、どうしても視野の中に入ってしまう。体の左半分が暑い。日差しを浴びている訳でもないのに、何故か暑い。きっと相沢から大量の赤外線が放射されて、明に浴びせてきているのだろう。相沢ビームだ。
明の頭は混乱していた。
「おい!明、お前顔真っ白だぞ!」
いつの間にか授業は終わっており、やって来た山口が驚いて叫んだ。
「うん、何か気分悪い」
そう言うと、明は保健室へ運ばれた。
明がベッドで休んでいると、連絡を受けた養護教諭の水田がやって来た。水田は、二十代後半と思われる女性だ。さほど美人ではないが、生徒からは人気がある。
「ほんとに顔色が悪いね。朝ごはんちゃんと食べた?」
水田は、明の顔を見るなりそう言った。
「取り敢えず、ちょっと休んで様子見ようか」
そう言う水田の姿を見て、明は息を飲んだ。
―ダメだ、幻覚が見える―
水田の肩に赤ん坊が見えるのだ。体よりも自分の頭が疑わしくなった。
「じゃあ私、担任の先生に連絡してくるから待っててね」
そう言い残して水田は出て行った。明の胸に不安が込み上がる。自分はおかしくなってしまったのではないか?もう、まともな生活は出来ないのではないか?
しばらくすると、水田が戻ってきた。カーテンを開けて明の様子を見た。明の胸に安堵が広がった。水田の肩に何も見えなくなったのだ。少し気分が良くなった気がした。
昼休み、明は教室へ戻って弁当を食べることにした。水田に体調が悪くないなら、少しでいいから何か食べた方が良いと言われたからだ。
明は教室に戻ると自分の席に向かった。幻覚や幻聴には負けない、と自分に誓ったからだ。きっと席替えのショックも手伝って山口の話の影響を受けてしまい、相沢の行動に対して過敏になりすぎていたのだと考えたのだ。強い信念を持って臨めば問題ないはずだ。
実際、何もなかった。いつもと同じだった。気にしなければ気にならないものだ。隣に相沢がいるのは入学以来ずっとのことだ。特別なことではない。席替え自体、無かったものと思えばいいのだ。簡単なことだった。
明は単純な性格だったのかもしれない。そう言い聞かせただけで気持ちが楽になり、午後の授業を乗り切ることが出来た。相沢からの赤外線照射もなくなった。
放課後、明はひとり帰路についた。明には、一緒に帰るような相手はいない。仲のいい山口も、野球部をやっていて放課後はそっちに行っているし、何より家の方向が違う。高校は、みんな広範囲の地域から集まるから、中学と違い放課後自然な流れでどこかに集まるというのが難しくなった。と、思っていた。最近までは…。実は、そう言う立場にいたのは明ぐらいだったのだ。他の友人たちは、バスなどで繁華街を経由して行くので、そこで遊んで帰ったりしているという事実をこの前知った。もうすでに人生の選択を間違ったことを悟った瞬間であった。
そういう訳で、明は今も中学の頃とあまり変わらない生活が続いている訳なのだ。
ただ、今日は何となくいつもの通学路と雰囲気が違う。何となく不穏な感じの人々が多い気がする。別にヤクザや不良の群れがいる訳ではない。みんな一見普通の人たちなのだが、その雰囲気と言うか表情と言うか、そう言うものの淀んだ感じの人が結構見かけられるのだ。みんな一様にぼんやりと立ち尽くしたり、ふらふらと辺りを見まわしながら歩いたりしている。
明は気味が悪くなり、歩みを速めた。
翌日、いつものように登校した。辺りの様子は昨日の帰りと同じだったが、あの雰囲気の悪い人達は、何故か昨日と同じ場所にいる。明は言い知れぬ不安を感じたが、目を合わせぬよう、関わらぬようにしながら下を向き、足早に学校を目指した。
「明、調子はどうだ?」
教室に入ると山口が声を掛けてくれた。山口は新庄たちとかなり親しくなっているようだ。新庄・鈴木を中心とした女子の群れに巧みに溶け込んでいるように見える。これも山口の人懐っこさ故のことだろう。明があの席に座っても一日であんなに親しくなるのは到底無理なことだ。
「うん、もう大丈夫」
明は明るく答えた。友人に気を使ってもらえるのはそれなりに嬉しいものだ。明は努めて相沢の方を見ないように、頭の中から相沢を取り除くように努力した。苛めっぽい感じもするが、今は自分を守ることで精一杯だった。
「ところでさあ」
明は、何げない雰囲気を装って、山口に話しかけた。
「なんか、道に変な人がうろついてない?」
それを聞いた皆は、不思議そうな表情になった。
「変な人ってどんな奴だ?」
山口が面倒くさそうに言って来た。
「何かボーっとした感じで立ってたり、ウロウロ歩いていたり…」
「そりゃゾンビだろ?」
山口が言うと、みんな一斉に笑い出した。爆笑ではなく、せせら笑う感じで。明は取り合ってもらえないのを感じて話を止めた。やはり、自分の神経がおかしくなって、そんなふうに見えるのだろう。
―とにかく落ち着こう―
明は静かに自分に言い聞かせた。苛立ちや興奮は極力抑えて、周囲の違和感に過敏にならないように気をつけよう。出来ることならば、病院の世話にはなりたくないから。
明は自分の席に座り、黒板の方を見ようと振り返った。その時、意図せず視界に相沢の姿が入ってきた。まあ、存在するものが見えてしまうのは至極当然なことだから、それは気にしない。それに関心を持たなければいいだけのことだ。しかし…。
気になってしまった。明は視界に現れた相沢に関心が向いてしまった。何故か?それには理由があった。相沢が明の方を見ていたのだ。
―なぜ?―
言葉にならない疑問が頭に浮かび、無意識に、反射的にそちらを見直してしまった。
見ていた。相沢が明を激しく見ていた。眼鏡の奥のいつも切れ長な目を、丸く見えるくらい見開いて。いわゆる驚いた表情で。
明は慌てて下を向き、自分の机を見た。全身に力がこもり、恐ろしいほど力んでいた。呼吸が浅くなり、体が細かく震えている。力んでいるせいなのか、怖いからなのか分からない。うつ向いているので、相沢がまだこちらを見ているかは分からない。気になるが確認する勇気が出ない。
担任が来て、何事もなくHRが始まると明の気持ちも楽になった。いつもと同じ、普通の日常なのだと感じられたからだ。
明は相沢の方を見ないように、体をやや右に傾けながら座っていると、1時間目の数学の教師が入ってきた。それを見ると、それまでリラックスしていた明の身体が、再び強張った。今度は息も止まった。そして、明の視線がその教師にくぎ付けとなった。
その教師の肩の上に、縫いぐるみのようなものが乗っている。形は頭の大きい猿のような、人間のような…。その大きさは、教師の頭より少し大きいくらい。見かけは可愛くない、むしろ気持ち悪いという類だ。縫いぐるみと言うよりは、剥製と言う方がふさわしいくらい生々しい感じがする。
教師は何事もないかのように教壇に立った。教室の中の雰囲気はいつもと同じだ。笑いも舌打ちもない。明は思い切って後ろを振り返った。反応はない。みんな、何事もないようにしている。明は、ひょっとして自分だけに対するドッキリか?と考えた。そう考えると、何か全てが腑に落ちる気がした。
ちょっと安心して前を向こうとすると、再び相沢が視界に入ってきた。その相沢は、今回は明ではなく教師の方を凝視している。緊張した面持ちで。
改めて教師の方を見た明は、再び体が硬直した。その縫いぐるみのようなものが動いているのだ。オモチャやロボットのような動きではなく、ゆっくりではあるが滑らかに教師の両肩をウロウロ動き回りながら、相沢の方を気にしている。教師はそれが重たいのか、ちょっと苦しそうに時々肩や首を動かしている。明にはこの状況の意味が全く理解できなかった。混乱した頭で呆然としている明の耳に、相沢の声が聞こえて来た。さり気なく横目で相沢を見ると、彼女の口は動いていない。明の心臓は止まった。昨日と同じ相沢のお経の腹話術だ。しかし、誰もそれを注意する様子はない。こんなに大きな声なのに、教師も何も言わずに授業を続けている。ただ、教師の肩の上の奴だけが激しく興奮し、時々相沢を威嚇するように声を上げていた。明の中に恐怖が渦巻いた。何かおかしい。この空間は何か狂っている。
すると、相沢が机の下で両手を合わせて、忙しなく動かしているのに気づいた。そしてその手の動きは、忍者が忍術を使う時にやる「
解決する方法は一つ、「気のせい」だとすること。思い違い、気のせい、気の迷い、いろんな言い方はあるが、要は全て明の勘違いと言うことだ。これはきっと相沢の精神波の影響で、相沢の妄想を明の脳が錯覚しているだけなのだ。何かの事情で明の精神が相沢の精神とシンクロしただけなのだ。自分を強く保てば、きっと何とかなる!
授業中、明は必死でそう考え続けた。授業など耳に入らない。ノートを取る余裕も無い。今は自分を守るのが先決である。
ようやく授業が終わった。明はじっとりと汗をかいている。呼吸も荒れている。また保健室へ行こうかと思っていると、教室を出た教師を追いかけるように相沢が駆け出して行った。
明はぼんやりとそれを見ていたが、教室の中には嘲笑が起こった。相沢の奇行と捉えられたのだ。
すると、すぐに廊下の方から、甲高い叫び声が聞こえて来た。明は驚いてびくりとしたが、他の人たちは何事もなかったように普通にしている。そしてうろたえる明の目に、教室の前の廊下を走って通り過ぎる相沢の姿が入ってきた。
相沢は必死の形相だった。そして左腕には、さっきの変な奴が掴まれている。そいつは暴れながら激しく叫んでいる。さっきの叫び声は、こいつの物だったらしい。
クラスの人たちの何人かは相沢の姿を見て笑っていたが、大部分の人には全く気が付いた様子はない。やはりあの叫び声が聞こえていないのだ。
明は何も考えず、直感的に教室を飛び出した。相沢を追いかけるためだ。理由は分からない。ただ気になっただけとも言える。そう、無性に気になった。相沢の妄想の世界が…。明の精神にこれだけ影響を与える妄想がどういうものなのか、明自身も知らなければならないと感じていた。
相沢はものすごいスピードで廊下を駆け抜けていく。まるでアスリートのように、ふら付くこともなく力強い走りだ。廊下の角も、華麗なサイドステップで曲がり、人や物の障害もステップとターンで交わしていく。明は付いて行くのに必死である。やがて彼女は体育館に繋がる廊下のアルミの戸を開けて外へ出た。そして体育館の裏の方へ回り込んだ。そこには塀と体育館に挟まれた狭い空間があり、あまり手入れされていない草むらになっていた。明はこんな所へ来たのは初めてである。
相沢は、その草むらに倒れ込むように滑り込んだ。そして、すぐに身を起こすと左手でその変な奴を抑え込みながら、お経を叫び始めた。今回は口が動いている。右手は人差し指と中指の二本を立てて口の前に構えている。
そして明はまたもや驚いた。相沢の左手はあいつを掴んで押さえているのではなく、あいつの下半身が相沢の左手に潜り込んでいるのだった。明はすぐに昨日の音楽室の男子のことを思い出した。煙のように左手に吸い込まれたあの場面を。
相沢の顔は必死であった。必死の形相でお経を叫び続けている。明は恐怖を超えて、感動のようなものを感じていた。
―こいつは何者なんだ?―
相沢に対する、いい意味の好奇心が湧いて来た。
すると突然、相沢の叫び声と共にお経が中断した。あのへんな奴が勢いを盛り返したのだ。相沢は右手で抑え込もうとするが、右手は素通りして抑えられないようだ。へんな奴はどんどん左手から抜け出してくる。相沢は再びお経を叫び出したが効果はないようだった。徐々に奴の足が抜け出て来る。
―全部出たらどうなるんだろう―
明に不安が襲って来た。相沢にとびかかって反撃するのだろうか?
ついに奴が完全に抜け出た。
明は思わず跳びかかり、そいつにタックルした。転がって仰向けになった明は、両腕でがっちりとホールドした。
「長谷川君?」
相沢は呆気に取られて叫んだ。そして奴をがっちり抱きしめた明の姿を見て驚きの顔になった。
「どうして!」
相沢は本気で驚いていた。何に驚いたのかは分からないが驚いていた。
「おい!これ、何とかならんか?」
明は叫んだ。こいつが暴れるとかなり痛いのだ。引っかいたり食いつたりすると、傷にはならないがものすごく痛い。それを見た相沢は、それに気づいたようだった。
「ごめん、そのまましばらくガマンしてて!」
そう言うと、両手で印を結びながらお経を唱え始めた。「しばらく」と言われて明は怯えた。しばらくとはどれくらいなのか想像できなかったから。冗談抜きに、本気で痛いのだ。大型犬にかまれたり引っかかれたりしたくらいだと思う。すぐに離して逃げたいくらいだ。
相沢は真剣だった。今は真正面で相沢の顔が見える。いつものきつくて鋭い顔ではなく。必死で真剣な顔。それはある意味美しく見えるものだ。その顔を見ていれば、この痛みももう少し頑張れる気がして来た。
本当にしばらくすると奴の動きが軽いものになって行った。相変わらず激しく暴れているが、張りぼての風船のように軽くなった。そして、それと共に痛みも和らいできた。すると相沢の左手が前に伸びて来て、奴の姿が歪み煙のようにその左手に吸い込まれていった。昨日と同じである。
「ふあー!」
明は安堵のため息を吐いた。まだ腕がじんじんと痛む。
「大丈夫?痛かったでしょう?」
相沢が駆け寄って明の手を取って撫でて来た。相沢の手は細くしなやかではあったが、意外と固くしっかりとしていた。明の、女性の手は柔らかく温かいという勝手なイメージが崩れた。さっきの走り方から見ても、相沢は決してか弱い女性ではないようだった。
「相沢も痛かったんでしょ?さっき」
明が相沢をねぎらうように言った。
「ううん、私は左手だけだし、私にはあまり影響はないの。長谷川君は、両腕全体でまともに受けていたでしょう?かなり痛かったと思う」
その声は心配そうな優しい響きがあった。
しかし、すぐに相沢はキッと明の顔を見据えて語気を強めて言った。
「長谷川君、なんであれを触れるの?」
明には、当然意味が分からなかった。明の表情からそれを察した相沢は言葉を続けた。
「長谷川君、あれが何だか分かってるの?」
明は何も言わない。相沢は小さくため息を吐いた。
「あれはね、いわゆる悪霊の類なの。つまり霊だから、普通は触れないものなんだよ?私も普段は触れないの。ただ送り出しするときだけ左手が触れている感じになるだけなの」
明は驚いていた。それは相沢の話の内容にではなく。相沢の声が予想外に可愛らしかったからだ。明のイメージではもっと低くて高圧的な声を想定していたのだ。しかし、実際は意外と高音で明るい声だった。そして話し方もいたって普通の女子なのであった。明には、俄然興味が湧いて来た。
「ねえ、相沢さん?」
「え?」
突然の明の呼びかけに、相沢は面喰らったようだった。
「良かったら、詳しく聞かせてもらえない?相沢さんの話」
明の優しい笑顔を、相沢は不思議な顔で見つめていた。
二人は授業をサボった。明にとっては初めてのことである。おそらく相沢もそうであろう。放課後と言う手もあったが、今の明には到底このまま授業に出る精神的余裕がなかった。とにかく納得がしたかった。今まで自分を悩ませてきた出来事の全てを、納得できる形で理解したいのだ。そうしなければおそらく何も手につかないように思えた。
相沢も拒みはしなかった。相沢も明に関心があるようだった。相沢からみても明は特殊な存在のようである。
二人は近くの公園に行った。この辺りは明のテリトリーであるから、適当な公園の位置はすぐに思い浮かんだ。明はそこのベンチに腰を下ろした。気が付くと相沢の姿が見えない。辺りを見回すとこちらに駆け寄って来る姿が見えた。
「これ」
相沢が缶コーヒーを差し出した。相沢の背後には自動販売機が見えた。これを買いに行っていたらしい。銘柄は、明の好きな銘柄だった。
「さっきのお礼です。本当に助かりました」
相沢はさっきとは打って変わってしおらしかった。どちらかと言うと照れているようにも見えた。
「これ、俺のお気に入りのコーヒーなんだ。ありがとう」
それを聞いて、相沢が微笑んだ。それは普段とは違う可愛らしい笑顔だった。
「そう?良かった。前に長谷川君がこれを飲んでいるの見てたから、そうなんじゃないかって思ったの」
相沢は嬉しそうだった。
「えー?なんかすごいよく見てるね?」
「だって、缶コーヒー飲む高校生って珍しいでしょ?」
「え?そうかな?」
「うん。私の知る限りでは」
相沢のこじつけに、明は思わず苦笑いをした。
「俺、親の影響でコーヒー好きなんだ」
「え?うちもそう。両親がコーヒー好きで良く飲んでる。お母さんは喫茶店でバイトしながらコーヒーの淹れ方勉強してるの」
「それはすごいね」
二人はほのぼのと笑った。
明は不思議だった。あの相沢とこんなに普通に話が出来るなんて思いもよらなかった。相沢は、本当に普通の女の子だった。それがなぜ?なぜあんなふうにしているのか、是非知りたいと思った。
「じゃあ、聞かせてもらえないかな?相沢さんのこと。きっと今の俺なら理解できると思う」
明のその言葉に、相沢はちょっと悲しそうな笑顔を見せて小さくうなずいた。
「私ね、小さいときから霊が見えていたの。最初は霊だって気付かなかったんだけど、他の人には見えない人が見えていたのよね」
その言葉に明はぞっとした。昨日から見えているあの不気味な人達もそうだったんだろうかと。
「ひょっとして長谷川君も見えてるんじゃない?」
隣に座った相沢が上目遣いに明を見上げた。明はドキリとして強張った顔でうなずいた。
「やっぱり…」
相沢も納得したようだった。
「それで心配した両親が近所のお寺さんに相談して、そこの住職さんの指導を仰ぐことになったの。放って置くと、霊に惑わされて頭がおかしくなると言われて。つまり、霊に惑わされない強い精神力をつけることが必要なんだって言うことなのね。それでそこで、霊を捕らえて送り出しをする術のようなものを身につけたの」
「送り出し?」
「うん。もともと人間は死ねば自然にあの世へ行くものなのに、何故かこの世に残ってしまうものが出て来るのね。その理由は大体がこの世に対する未練や執着。あと恨み。それと自分が死んだことが分からないでいる場合なの。よく地縛霊とかいうでしょう?ああいうやつ。だから、そう言う人たちに死を教えて上げて、恨みを解いてあげてあの世に送り出してあげるのを『送り出し』と呼んでいるの」
「相沢さんは、それを学校でやっているの?」
明は呆れたように言った。それに対して相沢は、冷めた笑顔を見せて言った。
「仕方ないでしょ?見えちゃうんだから。そう言う人たちの表情を見ると分かるでしょ?どうして良いか分からずに呆然としている。時間が経っても生き返るわけでもなく、ただそこにいるだけ。しかも稀に、生きている人に影響を与えてしまうこともあるし…。特に恨みや未練を残した人は問題よね。よく言う霊障みたいなことも起こし得るの」
相沢の表情は悲し気だった。
「じゃあ、昨日の音楽室の奴とか、朝のスーツ姿の男とかも?」
「うん、そう。あの二人はあっちこっち彷徨った結果、昨日たまたまこの学校に流れ着いた人たちだったの」
「じゃあ、さっきの変な奴は何なの?」
明の質問に、相沢は顔を曇らせた。
「うん、はっきり言って私も良く分からないの。人間の霊がああなってしまったのか、それともああいう悪霊みたいなものが、もともとそれとして存在するのか…。あいつらとは会話が出来ないからどうしようもないの」
「結構手こずっていたみたいだけど…」
「そう、正直考えが甘かった。あんなに手こずるとは思わなかったの。ああいう類の奴はめったに出会わないから私もあまり経験が無かったんだけど…。本当はあれぐらい力のある奴は、時間がかかるから難しいの。こっちの言うことも聞かないし、じっとしていてくれないから。でも、あのままにして置いたら、あの先生必ず体のどこかを悪くする。ひょっとしたら命に係わる程度になるかもしれないと思ったの。少し様子を見ようかとも思ったんだけど、放っておくと先生の体に入り込んじゃうかもしれないと思って、それで授業中ずっと準備して置いて、授業が終わったら一気に吸い取ろうと思ったんだけど…。結果はあの通り。正直、危なかったと思う。そう言う意味であの場面、本当に危なかったの。長谷川君が押さえてくれたから、あいつをじっくり弱らせることが出来たのよ。本当にありがとう」
明を見つめる相沢の目はいつものきつい目ではなく、優しい温かい目であった。明の胸がときめいた。
「で?」
急に相沢の顔が真面目になった。
「どうして長谷川君はあいつを抑えられたの?」
明は返答に困った。明自身良く分からないのだから。
「霊を見れる人はたまにいる。でも、それに
相沢はまるで、抗議しているような口調で問いただしてきた。明は困惑した。
「いや、正直俺も分からないんだ。何しろ、昨日突然そう言うのが見えるようになって、俺も混乱してるんだ。はっきり言って怖かった。頭がおかしくなったんじゃないかって。だから、あの音楽室のことも幻覚や幻聴だったんじゃないかって…」
「え?ひょっとして私の声も聞こえてた?」
「うん。口を動かしてないから腹話術かと思ったんだけど、山口には聞こえていないみたいだったから怖くなったんだけどね。あれは何だったの?」
「うん。あれは私の霊体の声」
「霊体?」
「そう。ほら、霊が見えるって言うことは、霊にも形があると言うことでしょう?だから、霊の身体だから霊体って私は呼んでいるの。その霊体が出す声は、霊が見えない人には聞こえないの。でも生きている私たちは、霊体と肉体が重なっているから霊体の声も持っている訳で、普通に話しているときは、霊体の声でも話しているの。だから、私たちの会話は霊にも聞こえているのね。そこで私は肉体を動かさずに霊体だけで話す訓練をしたわけなの。だから人には分からないように霊と会話ができるようになった訳」
相沢はどことなく誇らしそうであった。もっともこんな話、誰にもすることが出来ないのだから、当然と言えば当然かもしれない。
「長谷川君は、なんで急にそうなったか心当たりはないの?」
相沢が不思議そうに尋ねて来た。
「うん、まあ、それなんだけど」
明はちょっと躊躇したが、ポケットから昨日もらったペンダントを出した。
「思い当たると言えば、これくらいかな?昨日これを貰ってからだと思うんだよね」
差し出されたペンダントを見て、相沢は顔を強張らせた。
「これ、どうしたの?」
相沢の声は上ずっていた。
「うん。前にちょっと助けたことのあるおじいさんがいてね、昨日そのおじいさんが幸福を呼ぶペンダントだって言って、お礼としてくれたんだよね。何か関係があるかな?」
そう答える明の話を聞きながら、相沢の顔は徐々に赤くなっていった。
「どうしたの?何かあるの?」
明が不思議そうに聞くと、相沢はうつむいてしまった。
「いえ、分かりません…」
さっきまでの勢いは消えて、急にしおらしくなっている。
明は、相沢がつい話過ぎたことに気づいて照れているのかと思った。
「じゃあ、そろそろ教室に戻ろうか」
明がそう言うと、相沢は驚いたように明を見てから慌てて再び下を向いた。
「今から行ってもまだ授業中ですよ」
恥ずかしそうな声は何故か敬語になっていた。
「じゃあ、もうちょっと待つか…」
明はそう言ってベンチの背もたれに寄りかかった。
「とりあえず、長谷川君はこの事は内緒にしておいてください。私に係わると、長谷川君まで変人扱いされちゃいますから」
相沢はたどたどしく言った。明にも相沢の気持ちは分かる。実際、明自身も相沢を変人はおろか、狂人レベルで見ていたのだから。しかし、事情を知って見れば相沢をこのまま変人扱いされたままにしておくのも可哀そうに感じるのであった。
「長谷川君?」
相沢がうつ向いたまま、不安気に聞いて来た。
「長谷川君、間違っても変な気起こさないで下さいね?こんなこと普通の人に言っても、全く取り合ってもらえないことなんですから。私にとっては、長谷川君が理解していてくれるだけでも、ものすごく心強いんです」
うつむいているから顔は見えないが、恥ずかしそうなその言葉には嬉しさが感じられた。
「ところで…」
相沢が、明を上目遣いに見上げながら言った。
「先生には何ていうつもりですか?」
「?」
明は意味をつかみ切れていなかった。
「授業をサボった言い訳ですよ」
そう言われて、明は体が冷たくなるのを感じた。正直、なにも考えていなかった。勢いでここに来たけれども、、確かに先生は追及して来るだろう。まさか、悪霊退治をしていましたとも言えない…。
「やっぱり何も考えていなかったんですね」
相沢がからかうような笑みを浮かべた。
二人は保健室に入った。相沢がついて来いと言うので、明は付いて来ただけである。
「あれ?どうしたの?」
保健室に入ると養護教諭の水田が驚いた。驚かなくてもいいだろう、と明は思った。保健室など突然来るのが普通なんだから。
「ちょっとお願いがあって…」
相沢が馴れ馴れしい口調で言い始めた。明は慌てた。
「この時間、私たちはここに居たことにして欲しいの」
水田は驚いていたが、特に怒っている様子はない。しかし、慎重な面持ちで明と相沢を見比べている。
「長谷川君」
相沢は突然、明の方を向いて呼びかけた。明が見ると、相沢は明を見ながら水田の方へ手を指し示している。
「紹介します。従姉の水田あかりです」
明は意味が分からず、ぼんやりと水田に顔を向けた。水田は苦笑している。
「よろしく、長谷川君?従妹の相沢茜がお世話になってます」
そう言うと水田の苦笑が作り笑顔になった。
―イトコ?―
やっと明にその意味が分かった。
「え?親戚だったの?」
驚く明に二人は何の反応もせず、相沢が詰まらなさそうに説明した。
「そう、母方の従姉。私がこんなだから、うちの親が心配してこの人のいる高校を受験したの。言ってみれば私のお目付け役」
相沢の説明に、水田は皮肉な笑みを浮かべた。
「何しろこの人、うちの親の信頼が厚いから」
相沢の顔には嫌悪感が溢れていた。
「茜ちゃん、友達出来たんだ?」
水田は冷やかすように相沢を見た。
「別に、友達って程じゃなくて、私の理解者…的な?」
相沢はちょっと照れている。
「え?じゃあ、こちらもお仲間?」
少し驚いた水田の言葉に、相沢も明も表情を硬くするだけで何も言えなかった。
「ふーん?変人カップルか…」
水田は面白そうに二人を見比べた。明には水田の雰囲気が昨日の印象とかなり違うように見えた。まあ、身内の前だから当然と言えば当然なのかもしれないが。
「じゃあ、二人はさっきの休み時間から、ここに居たことにすればいいのね?」
水田は冷ややかな笑みを残したまま話を変えた。
「長谷川君は、昨日と同じ…貧血?茜ちゃんは生理痛ってところかな?それでいい?」
水田は、悪戯っぽい笑顔で相沢に確認した。
「…うん、まあ…」
相沢は恥ずかしそうに答えた。
「じゃあ、時間まで休んでなさい。私はあんたには逆らえないんだから」
水田はそう言うと、面倒くさそうに机に座り、スマホのゲームを始めた。明は、この人けっこう投げやりな人なんだと感じた。
相沢が明の横にパイプ椅子を置いた。
「座って休みましょう?疲れたでしょ?」
明が座ると、相沢が近寄り耳元でささやいた。
「腕、傷になってませんか?」
「いや、腕はジンジンするけど、傷は付いてないみたい」
明が答えると、相沢は安心したようにため息を吐いた。
「霊体の傷は、酷くなると肉体にも傷とかになって現れることがあるんです。酷くならなくて良かったです」
相沢の声は申し訳なさそうであった。
突然水田が振り向いて、相沢を睨んだ。
「ちょっと茜ちゃん!余計なこと言わないでよ」
水田は語気を荒げて相沢に叫んだ。
「分かってるわよ。あなたのことじゃないから安心して」
相沢は不機嫌そうに言い返した。
―この二人、仲悪いのかな?―
明は、何となく気まずい物を感じた。
休み時間になったので、明と相沢は教室に戻った。
「おい、どこ行ってたんだ?」
教室に入るや否や、山口が叫ぶように言った。
「先生、マジ切れてたぞ」
「え?そうなの?」
明にはちょっと意外だった。自分一人くらいいなくても、大した問題ではないように思っていたからだ。
「そりゃそだろう。教壇の真ん前の二人が消えたんだから目立ちすぎだろう。しかも、男と女が同時にだぞ、俺らだって気になるさ」
山口の言葉に明も納得した。
「で、マジ何やってたの?」
山口は興味津々と言った感じだ。きっといろいろ勘繰っているんだろう。他の生徒らも興味深げに明を見ている。
「うん、急に気分悪くなって保健室に行ってた」
明はたどたどしく答えた。
「え?そうだったの?じゃあ、相沢は?」
「ああ、相沢も来ていたみたい。なんか、クスリもらって飲んでたわ」
明がそう言うと、その場の雰囲気がちょっと変な感じになってきた。
「相沢と一緒にいたのか?」
「一緒にいたって言うか…。何かそれは意味が違ってくるんじゃないかな?」
周囲に笑いが起こった。明は面倒くさくなって来た。
「ちゃんと水田先生が一緒にいて、監視してくれたから大丈夫だよ」
そう言い
明の拗ねたような態度を見たせいか。山口が近寄って来て囁いた。
「わりーな。昨日からお前が相沢に関心を持っているような気がして、ちょっとからかっちまった。機嫌直せよ」
明は小さくため息を吐いた。
「分かってるよ、そんなこと。何か言われそうだな、とは覚悟していたからさ」
明が笑顔を見せると、山口の安心したように笑って見せた。
授業中、明は突然疑問が湧いて来た。相沢のことだ。
相沢は、送り出しとか言って霊を吸い取っているが、吸い取られた霊はどうなっているんだろう?と言うことだ。その時に浄仏を果たしてあの世に去って行ったのか、それとも相沢の左手、もしくはどこか別なところに留まっているのだろうか。
すごく気になるが、敢えて聞いてみるのは馴れ馴れしい感じがして気が引ける。そして明は、自分が相沢に対してものすごく関心を深めていることに気が付いていた。
明は、自宅に帰ってもいろいろ考えてしまうのだった。なぜ自分は急に霊が見えるようになってしまったのか。
この、霊が見えるという生活は、思いの他不気味なものであった。今のところ危害を加えて来るような霊には出会っていないが、奴らが突然何を仕掛けてくるものかと気が気ではないのだ。もちろん、奴らの見かけは決して化け物や怪物ではない。ごく普通の人間なのだ。ただ、その雰囲気が一種独特で不気味なのだ。そう、ただ不気味なのだ。ぼんやりとうつろにしていたり、そのうつろな表情で、そこら辺をうろついている奴もいる。おそらく、霊でなくそんな人間がいたとしても、恐ろしく不気味であろう。そして中には、特定の人にくっついて歩く者もいるのだった。よく言う守護霊かとも思ったのだが、守護霊と呼ぶにはあまりにも陰気で重苦しく感じさせられる。ひょっとすると昨日保健室の水田の肩の上に見えた赤ん坊もそうだったのではないかと感じていた。ただ、そのすぐ後にもう一度見た時には何もなかったから、何がどうなったのかは全く分からない。
その後数日は何事もなく過ぎた。明には相変わらず霊が見えているし、相沢の校内徘徊も継続している。そんな姿を明も時々見かけるが、声を掛けることはなかった。しかし、相沢が霊を送り出しした後に見せるちょっとした笑顔が、今の明にはとても魅力的に見えるようになっていた。
山口は新庄達とますます親しくなり、山口たちの席は休み時間の度に盛り上がっている。山口は、野球部の先輩から仕入れた学校のいろんな情報を、惜しみなく披露して人気を博しているのだ。
明は…。明はそんなクラスメイトとは一線を画すようになっていた。山口たちの話題には、何となく入って行けなくなっていたのだ。それは相沢の件が原因にある事は否めない。今でも相沢はクラスの中で浮いている、と言うよりも差別的待遇を受けている。そして相沢はそれを甘んじて受けている。それを明は何もせずに傍観している。その事実が明の心を少しずつ締め付けているのであった。
2 黒い影
その日は朝から雨であった。
―いよいよ梅雨か…―
しとしと降り続く雨を見ながら、明は学校へ行くのが嫌になっていた。どんよりと湿った天気は、明のこころまで湿らせるような気がした。なにより、雨の中でも霊どもは相変わらずそこにいる。そして、雨の中で見る霊はより一層シュールなのである。
そんなことを感じながら教室に入ると、教室にはもう多くの生徒が登校して来ていた。どうやら、登校時間と言うものは自宅の遠い者ほど早くなる傾向があるようだ。そして山口の席には、朝からすでに多くの人が集まり賑わいでいる。山口はすっかりクラスの人気者となっていた。山口の気さくさと話の上手さに加えて、野球部の先輩などから仕入れた話題を惜しみなく提供してくれる上に、そこには新庄や鈴木が花を添えているのである。みんなが集まってくるのは当然である。
そして、あの席替え以来日常的になったそんな姿に目をやった明の目が、今日はそこに釘付けとなり表情が固まった。
そんな明を見た山口は、怪訝そうな顔をした。
「どうした明!また具合悪いのか?」
そう言われて明は、ハッとしたように山口の顔に視線を移した。
「ああ、大丈夫。雨だからちょっと気が滅入っているだけ…」
明はとりあえずそう答えたが、実際は全く大丈夫でなかった。その時の明の関心は、山口ではなく、一緒に楽しそうに笑っている鈴木紗希に集中していた。それは、決して鈴木が明の好みだからと言う訳ではない。なぜならば、明の視線は鈴木本人ではなく、鈴木の後ろに浮かび上がる人の形をした黒い影のようなものに注がれているのである。それを見た明の心臓は激しく鼓動し、膝が細かく震えている。明はたぶん、それに恐怖のようなものを感じていた。
それはおそらく、明の感覚では何かの霊である。しかも、とてつもなく陰湿な悪意を感じる霊、いわゆる悪霊である。そして、それが明の思い過ごしではない事は、相沢が示している。相沢は、教室の後ろに立って腕を組みながらその異様な奴を睨んでいる。
―帰りたい…―
明の心に湧き上がった、強い思いである。相沢の顔を見ると、これが尋常なことではないことが明白である。相沢はものすごい形相をしているし、そこには不安の色が滲み出ている。そして、それは恐怖にも似た色合いを持っていた。
明は、怯える心を奮い立たせながら自分の席に座った。後ろにはあの黒い奴がいる。どんな顔して、何処を見つめて、何を考えているのか分からないが、そんな不気味な奴が後ろにいる。背中や首筋がぞくぞくする。このまま一日、こんなふうに背後から猛獣に狙われたような状況で過ごさなければならないのだ。心臓が持たない。
「キャッ!」
突然、後ろから女性の叫び声が聞こえた。驚いて後ろを振り向くと、明だけではなく、クラスのみんなが後ろを見ていた。みんなが注目するそこには、何故か尻もちをついた状態で唖然として鈴木の方を見つめる相沢がいる。相沢の表情は驚愕と言うのがピッタリであった。口を半開きにして、切れ長の目を大きく見開いている。驚きと共に恐怖も滲んでいるように見える。
明には何があったのか分からない。しかし、相沢に何かが有ったのは確かである。
すぐに、クラスの中に嘲笑が湧き上がった。
「相沢がモンスターの攻撃を受けた」
誰かが言った。すると、クラス中が爆笑した。笑えずにいたのは、明と相沢だけである。二人が沈黙する中、その黒い影はただ黒煙のように揺らめくだけである。笑っているのか、怒っているのかも分からない。
相沢はふらふらと立ち上がり、無言のまま自分の席、つまり明の隣の席に座った。明にも相沢の動揺が分かった。何があったのか、どういうことなのか、聞きたいことは山ほどあったが、何も言うことが出来なかった。そんなふうに明が意気消沈しているときである。
―長谷川君―
相沢の声がした。はっきりと耳元で語り掛けるような声である。驚いた明が相沢の方を見ると、
―こっちを見ないで、話しだけ聴いて!―
と、強い口調でたしなめられた。よく見ると、相沢の口は動いていない。正面を向いたまま、目だけ明を見ている。
―腹話術か…―
明はそれが、相沢の霊体の声と言うやつだと気づいた。そして明は黙って前を向いた。
―長谷川君、驚かせてごめんなさい。さっき、『印』を結んで準備していたら急にあいつが飛んで、来て私をかすめるように触れたんです。それに驚いて転んだだけです。ただ…―
相沢は少し口籠るように言葉を濁した。
―その時、あいつの…思いのような、感情のようなものが少し伝わってきたんです―
明も驚いて、つい相沢の方へ視線を向けた。明の目に映った相沢の顔は僅かに怯えているように見えた。
―何か、憎しみとかいうよりも、怯えと言うか、悲しみと言うか、孤独と言うか…、そんな感じの何とも言えない心の痛みでした―
明は何も言わずに小さくうなずいた。
―長谷川君、心配しなくても大丈夫です。あいつは、私たちに危害を加えるようなことはしないと思います。さっきは私が何かしようとしているのに気づいて、それを阻止しようとしてのことだと思います。あいつの狙いは、きっと鈴木さんだけです―
明は思わず声を上げそうになった。
―それはそれで、まずいことなんじゃないの?―
明はものすごく気になったが、どうすることも出来なかった。その思いに気づいたのか、相沢が続けた。
―あいつが何者で、何をしようとしているかは、私にもわかりません。ただ、おそらく今すぐどうこうと言う訳ではないと思いますが、こういうやつが取り憑くと、何か色々と…おそらく健康面なんかに悪い影響が出る可能性が大きいです。早めに何とかしないといけないのですが、今の私では力不足です。少し時間を下さい―
明が見ると、相沢は申し訳なさそうに明を見ている。明はなぜ相沢が自分に断りを入れるのか不思議だったが、右手の親指と人差し指で丸を作り、相沢に見えるように示した。するとそれを見た相沢が、明に視線を送りながら小さく会釈をした。
―なぜ俺の承諾を求める?―
明は不思議なものを感じた。
その日は黒い奴のことが一日中気になって後ろを向くのが怖かったが、鈴木のことも気になるので、時々チラチラと盗み見るようにして確認していた。鈴木には特に変化は見られないように感じた。いつものように明るく元気に新庄にくっ付いて騒いでいた。相沢も難しい顔をして時々後ろを気にしている。二人は悶々としたままで、放課後を迎えた。
明は相沢の考えを聞きたくて、話す場を持ちたかったが言い出せずにいた。
―この前の公園、大丈夫ですか?―
帰り掛け、相沢と目が合った瞬間、相沢の声が聞こえた。明は思わず微笑んだ。
この公園は、学校には近いが目立たない所にある。この辺りの住人くらいしか知らないと思われる穴場である。
明が着くと、既に相沢が待っていた。
「お待たせ」
明が挨拶をしながら缶コーヒーを差し出すと、相沢も同じものを差し出した。二人が笑いながらお互い交換して二本ずつのコーヒーを手にした。
「正直、私にも何も分からないんです。あんな正体不明な奴、初めてなんです」
ベンチに明と並んで座った相沢は、缶コーヒーを飲みながら申し訳なさそうに言った。明は慌てて相沢に体を向けた。
「相沢さん。そんなに俺に気を使う必要ないよ。俺が相沢さんを雇っている訳じゃないんだから俺には何も言う権利ないし、むしろ俺がいろいろ教えてもらっちゃっている訳だから、俺の方が気を遣う立場にあると思うんだよね」
それを聞いた相沢は、何故か頬を赤くして恥ずかしそうにうつ向いてしまった。明はもう、何も言えなかった。
「ただ、今言えることは…」
長い沈黙の後、相沢がゆっくりと話し始めた。
「あいつは普通の霊ではないと思うんです。今日、ずっと考えていたんです。あいつはどういう存在なのかを…」
相沢の話し方は、淡々とはしているがいろいろ考えながら言葉を選んでいるように感じた。
「まず、この世に残っている霊とは何かというと、それは自分の死を理解していない霊。あと、まだ死に切れないと思う未練や恨みを抱いている霊があります。そしてその中の多くは、自分がどうして良いか分からないでいる霊なんですけど、中には復讐みたいに具体的な目的を持ったものがいるんです。こいつらが
相沢が明を見た。その顔にはもう、恥かしさのようなものは見られなかった。
「おそらくあの霊は、けっこう長くこの世に居座っていると思うんです。それで、今はもう増幅された怨念の塊なんだと思います」
相沢の表情は深刻なものだった。
「じゃあ、何か方法や対策はあるの?」
明の質問に、相沢の表情は一層固くなった。
「理屈は簡単です。そいつの思いを汲み取って、心のしこりを解いてあげればいいのです」
二人は沈黙した。どうやったらそんなことが出来るのか、疑問以外浮かんでこなかった。
突然、相沢が立ち上がった。
「私は今日、お師匠さんの所に指導を仰ぎに行きますので。これで失礼します」
そう言って頭を下げると、その場を去って行った。明は後を追って引き止めてもっと話をしたかったが、黙ってそれを見送った。
翌朝明が登校すると、教室の中はいつものように山口の席を中心に人山が出来ていた。当然だ。話の面白い山口と、男子に人気の新庄と鈴木がまとまっているのだから。
そして、そこには昨日と同じように、あの黒い奴が鈴木の後ろにくっ付いている。ただそいつは、昨日のような煙のようにもやもやしただけの姿ではなく、もっと輪郭がはっきりしていて明らかに人の形に近づいていた。正体の分からないもやもやしているのも気持ち悪いが、何となく人を連想させる形はもっと薄気味悪く感じた。
相沢は昨日と同じように教室の後ろで腕を組んでじっとそいつを睨んでいる。明は何げない振りをして相沢の横を通り過ぎながら小さく
「何か分かった?」
と、聞いた。相沢はちらりと明を見ただけで、すぐにそいつへと視線を戻した。しかし、すぐに相沢の声が聞こえて来た。
―昨日、お師匠さんに伺ってみました。お師匠さんは、そう言う輩には関わらない方が良いとだけ仰っていました。下手に手を出すと、自分だけじゃなく周囲にも被害が及ぶことがあるとのことでした。何しろ私もまだ修行中の身ですから…―
相沢の口調は、口惜しそうであった。
明も昨日から、自分なりに考えていた。あいつは何なのか。なぜここに居るのか。何をしたいのか。
そんな中で、こいつがなぜここに居るのか、なぜここでなければならなかったのかが気になった。こいつもそこいらを徘徊、または彷徨している中で、たまたま鈴木と波長が合ってここに留まったものなのか。しかし、もう一つの可能性もある。もともとこの学校に留まっていて、波長の合う誰かの出現を待ってた、と言う可能性。もしそうならば、そこに何か解決の糸口があるかもしれない。
明は情報収集をしてみようと思った。
「おい、山口」
明は話の中心になっている山口に声を掛けた。気が付いた山口は、明を見て嬉しそうに笑った。そう言えば、明が山口に声を掛けたのは久しぶりだったかもしれない。この前、相沢との件でからかわれて以来ちょっと疎遠になっていたのだ。
「おう、何だ?」
山口は嬉しそうだった。山口は、明が山口のからかいのせいで拗ねているのかと思っていたのかもしれない。明はちょっと申し訳ない気持ちになった。
「お前、野球部の先輩には可愛がられているんだったよな?」
山口はちょっと驚いたようだったが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「そうよ!俺の取り入り様は半端じゃないからな」
山口は自慢気である。
「じゃあさ、ちょっと先輩に聞いてほしいことがあるんだけどな」
「おう、何だ?言ってみろよ」
山口は嬉しそうに乗ってきた。明は少しほっとした。
「あのさ、よく学校の怪談とかって言うのがあるだろう?うちの学校にも、そんな話ってないのかな?って思ってさ」
それを聞いて、山口の顔から笑顔が消えた。明もあせって真顔になってしまった。質問がまずかったかと心配になった。しかし、山口はすぐに笑顔になり、照れながら話し出した。
「いやーお前、それを今聞く?」
明も他の友人たちも山口の言う意味が分からなかった。
「まいったな。夏になるまで取って置こうと思っていたのにな…。しゃあない、明の頼みなら教えてやるよ」
「て言うことは、もう知っているのか?」
明は驚いた。
「当たりめーよ!その時期になったら話して聞かそうと思って、取って置いたんだよ!」
山口は残念そうに笑っている。
「だいたい、こんな梅雨の時期に怪談話もないだろうよ。全然気分が乗らないじゃん」
「え?そうか?まあ、そうかもな」
明は、仕方なく相槌を打った。
「それにまだ、ちょっとネタも足りなかったしな」
山口は苦笑いをした。
山口の話によると、こうだった。
この学校の一学年の教室は五教室あるのだが、一番端の教室が何故か倉庫になっている。どう見ても一般の教室と同じつくりのようにも思えるのだが、何故かそこは倉庫なのであった。しかも常に施錠されていて使用されている様子が見られない。それはみんな不思議に思っていたのは間違いない。
しかし、実はその倉庫、もともとは一学年の教室として使用されていたのだという。そして今から約三十年前と言うから、この高校が出来て間もない頃のことだが、その教室の生徒だった女子が、この教室内で自殺をしたのだそうだ。それは一年の二学期のことだったらしい。
その女子はその日の放課後、誰もいなくなった教室で手首を切って自害した。そしてその出血は激しかったらしく、一面血の海だったらしい。窓際に倒れていたために、警備員が巡回した時には気が付かず、翌朝生徒が登校してから発見されたのだと言うことだ。それで校内が騒然となったそうだが、それは血まみれの友人の死体を見たのであれば、とても正常ではいられなかったであろう。
当然、学校は臨時休校。その教室は、使用を控えられた。そして、血に染まった床は張り替えられて机などの機材も取り替えられ、リフォームを進められた。
しかし何故か、張り替えられた新しい床材にも、何日かすると必ずまた血の跡のような黒い染みが浮かび上がるのである。それでそれ以降その教室は、倉庫と言う名目で不要な備品の置き場になっていると言うのである。
その話を聞いていた女子は一様に顔をしかめ、男子は皆ニヤニヤしていた。
「これは本当の話しで、当時テレビや新聞にも出ていた事件なんだってさ」
山口が神妙な顔つきで付け加えた。
「それで、なんだけど…」
辺りを見回しながら、山口が話を続けた。
「それ以降、夏休みが近づくと、そこから黒い影のようなものが出たり入ったりするのを見たというやつが、出るようになったと言うんだよね」
「マジか?」
明は思わず声を上げてしまった。みんなの顔が明に集まり、プッと噴きだすものもいた。
「ビビんじゃねえよ」
山口が笑った。
「見たというやつが出るというだけで、全員が見る訳じゃないから本当に出ているのかどうかまでは分からないんだよ」
明はつい、気まずそうな顔をした。そして相沢の方を見ると、相沢も真剣な顔をして聞いていた。
すると相沢が明に語り掛けた。
―長谷川君?良かったら、その自殺の動機を聞いてみてもらえませんか?―
明は、返事をするように小さくうなずいてから山口に話しかけた。
「その自殺の動機って何だったんだ?」
それを聞いて、山口も困った顔をした。
「うん、それなんだけどな。何しろプライベートなことだし、未成年だろ?とにかく失恋絡みらしいとは言われているけど、はっきりしたことは公表されていないらしいんだ」
明は小さくため息を吐いた。相沢も顔をしかめるだけであった。しかしその時、明の視野に入ってきたその黒い奴を見て、明は蒼ざめた。
その顔も何も判別できない黒い塊が、何かそわそわしているような雰囲気を醸していたのだ。
―こいつ、俺らの話が聞こえているのか?―
やはりこいつは、その三十年前に自殺したと言う女子生徒なのだろうか。
明は正直怯えた。つまりこいつは、我々に紛れて我々の様子をずっと伺っていることになる。特に鈴木は自宅で一人になっても、監視し続けられているのだ。まさしく知らぬが仏である。
昼休み、明は図書室に行ってみた。三十年前の自殺事件に関する情報を探すためである。山口の話しでは、当時の新聞にも載ったとのことだ。ここの図書室にも、新聞の縮小版があるのを思い出したのである。
しかし、さすがに三十年前の物はなかった。仕方なく、他に何かないかと探しているうちに、あるものが目に入った。
『学校新聞』
この学校の新聞部が作った新聞である。これなら当時の事件に関しての記事が載っているはずだ。明はわずかな興奮を覚えた。
しかし、そこのファイルには十年ほど前の物までしかなかった。受付の生徒に尋ねても、その生徒にも詳しいことは分らないらしかった。
「でも、それなら新聞部に行けば残っているんじゃないの?」
そう言われて、明も納得した。
図書室を出て新聞部の部室へ行こうとしたが、そんなものが何処にあるのかなど明には皆目わからなかった。だいたい、新聞部の存在自体が今初めて気づいたのだから。
校内をうろつき回って、やっと見つけた頃にはもう昼休みも終わりの時間になっていた。まあ、昼休みに部室に誰かいるとも考えにくいし、ここは放課後にもう一度来てみようと言うことにして教室へ戻った。
明は、放課後改めて新聞部の部室へ行ってみた。扉のガラスは曇りガラスで中が見えない。どんな人たちが、どんな状況でいるのか分からないのだから、とてつもなく緊張しながら恐るおそる戸を開けた。
明が遠慮しながら中を覗くと、そこには先輩らしき男子が一人だけいた。黒縁眼鏡にちょっと賢そうな雰囲気の、女子の好みそうな感じの先輩である。部屋の中の作りはいたってシンプルで、四つのテーブルと、大きなディスプレイのパソコンが一台。それとプリンターが一台があるのみで、あとは壁周りに本や書類の置かれたスチール製の棚がいくつか置いてあるだけである。
明が入って来たのに気付いた先輩は、見慣れない来客に怪訝そうな表情を見せた。
「三十年前?」
中野と名乗るその先輩は、明の用件に眉をひそめた。
「あるとは思うけど…。具体的には三十年前のいつ?」
中野は、なにか怪しい物を見る目つきで明のことを見ている。まあ、当然の反応ではあるだろう。
「はっきりした年は分からないんですけど、二学期だって聞いてます」
「いやー、まだ漠然としているな…」
中野は困惑顔だった。
「まあいいや。ちょっとこっちおいでよ」
中野はパソコンの前に歩きながら明を呼んだ。
「ちょうど俺が一年だった時の先輩が暇を持て余していてさ、だったら記事のネタを探してくりゃあいいのに、それもしないでうちの新聞のバックナンバーをデジタル化してくれたんだよね」
明が近寄ると、中野はパソコンのマウスを手に取り、画面を操作し始めた。画面上のフォルダーのアイコンをクリックすると、すぐにファイラの画面が開いた。
「ここのフォルダーを見ていけば、過去の新聞が保管されているから自分で探していいよ」
中野はそう言って、椅子を引っ張り出して明に勧めた。
明が椅子に座って画面を見ると、年度ごとにフォルダーが分けられていた。だいたい三十年前のフォルダを開いてみると、今度は各月ごとのフォルダーになっていた。
事件は二学期と言うことだったので、先ずは九月を開いてみた。するとそのフォルダーには四つのファイルがあった。ファイル名は発行日と思われる日付である。
―学校新聞は週刊なんだ―
明がはじめて知った事実であった。
開いてみると、新聞らしいレイアウトの新聞が出て来た。結構本格的だったので、明には結構な衝撃であった。しかし、これには該当する記事はなかったので、明は次のファイルを開いた。そこにもなかった。
新聞の発行はひと月に四、五回。該当する二学期と言うのは四ヶ月であるから、確認する新聞は一年で二十部ほどになる。明は一時間ほど調べてみたが、そんな記事は見当たらなかった。
落胆する明を見た中野は、気になるのか声を掛けて来た。
「見つからなかったの?」
「はい。まあ、そうです」
明は力なく答えた。
「で?何を探しているの?」
中野の問いかけに、明はおずおずと例の自殺事件のことを伝えた。
「ああ、そのことか…。うん、俺も聞いたことはある。でも、さすがに調べたことはなかったな…。なに?君、そういう方面に関心ありな人なの?」
中野は顔をニヤつかせながら聞いて来た。
「いや、別に気になるという訳じゃないんですけど、ちょっと気になって…」
「どっちなんだよ」
明の曖昧な答えに、中野が突っ込んだ。
「でも、なんでその記事が無いんでしょうね?学校内での自殺なら、すごい大事件なのに」
明のその嘆きにも似た言葉に、中野は真面目な顔で考えてからゆっくりと答えた。
「それは、学校側に止められたんじゃないかな…」
「止められた?」
中野の言葉に、明は驚きにも似た声を上げた。
「うん、学校新聞というのは、新聞とは言ってもあくまでも学校教育の一環なんだ。だからその内容については学校もある程度は干渉してくるんだよ。特にそういう事件は、生徒のメンタルにも影響が大きいだろうし、故人とは言えプライベートな問題だからね、興味本位で詮索するのも問題だし、表現の仕方も難しいしね」
そう言われると、明も納得せざるを得なかった。
翌日、明は寝不足だった。夕べは遅くまでスマホで検索していたのだ。しかし、収穫はゼロであった。
学校に着くと、すぐに山口に声を掛けられた。
「おい、明!昨日仕入れておいたぞ!」
昨日の部活で、先輩からいくつか怪談ネタを仕入れたと言うのだ。あくまでもネタとして、ではあるが。山口自身も、話の信憑性に関しては聞いてくれるなと念を押しての話である。
明は何げなく鈴木を見た。正確には、鈴木の後ろの黒い奴を見た。いつも通り鈴木の背後でじっとしているが、明らかに昨日よりもその姿がはっきりしていて、明の目には何となく女性っぽく見える気がした。
明が話の輪に加わると、山口が嬉しそうに話し始めた。
「まずは、踊り場のハナコさん。これは校舎北側奥の、屋上に向かう階段の踊り場で、小学生くらいの女の子が躍っているのを見たという話があったらしい。ただ、それを見たと言うのは、どうやら一人らしいけど」
これには、誰も反応を示さなかった。どう考えても創作の匂いがする。
「あと、職員室から知らない先生が出て来るのだが、中にいる先生はそれを見ていない。これは職員室に限らず、いろんなところで見たという話はあるそうだ」
これに関しては、それに似たものを明も見たことがあった。
「次は、夏の夜中、校舎の屋上に明かりが灯る」
「え?何それ」
これにはみんな、関心を示した。
「これは近くの住民の目撃が多いらしいんだけど、夏の夜中に屋上に灯りが灯ることがあるらしいんだ。なんでも、照明のような強い光じゃなくて、ぼんやりと明るい、光の玉みたいだと言うんだ。夜の学校は鍵がかかっていて入れない筈だし、だいたい屋上自体がいつもカギが掛かっていて出られないんだから、不思議だろう?」
みんなうなずいた。
「あと、これは怪談と言う訳じゃないんだけど、ちょっと怖い話が一つ」
山口は、ちょっと勿体ぶるように言葉を止めた。
「うちの学校、毎年二学期の初めに尿検査をやるんだってさ」
その言葉に、周囲からため息が漏れた。
「それのどこが怖いんだよ?」
誰かが馬鹿にしたように言った。
「いや、尿検査自体、ちょっと恥ずかしいぐらいで怖くはないんだけどさ…」
山口は、真剣な顔でみんなの顔を見渡した。
「実は、どうやらその検査で、妊娠が見つかる女子が出るらしいんだ。しかも、だいたいが一年の女子らしい」
その場が静まり返り、一同、どうしていいか分からないと言う反応であった。
「この話、先輩の女子マネージャーに聞いたんだ」
山口は、静かに続けた。
「俺が聞いたんだ。何か怖い話を知りませんか?って。そしたら真面目な顔で『あるよ』って言って話してくれたんだ。その先輩も、その前の先輩マネージャーから聞いた話で、野球部のマネージャーの間で代々受け継がれてきた話らしいんだ」
山口が聞いた話はこうである。
その妊娠の事実は、まったく公にはされない。のみならず、当事者の生徒にも何のペナルティーも無いらしい。停学、退学はおろか、反省文さえも。ただ、その事実は絶対に口外しないように、と言うことだけを念を押されるとのこと。もちろん、生徒本人もそんな事実は公表したくないので何も言わない。
しかし、すべてを隠しきることは出来ない。妊娠と言えば、女性、特に女子高生にとっては衝撃的な事件である。一人では抱えきれないこともある。それで、女子生徒の中には、その事実を親しい友人に相談する場合があるのだ。そう言うところから、話は少しづつ漏れてくる。
何年か前の野球部のマネージャーの中に、そういう相談を受けた女子がいたらしい。
「で、その先輩が言ってたんだ。ひょっとしたら、それって毎年起きているんじゃないかな?って。もちろん、公にはされていないから、はっきりとは分かんないけどね。だから、その尿検査は、妊娠チェックが目的なんじゃないかってね」
一瞬その場が静まり返った。
「何か、それが一番怖くねえ?」
誰かが言った。それに釣られるように笑いが湧き上がった。
「まあ、女子は誘惑に気を付けてね!」
山口が最後をまとめた。
そして明はしっかりと見ていた。あの黒い奴が、少し苛立っているような動きを見せていることを。
その様子は、相沢も少し離れたところで見ていた。何を感じているのかは分からないが、とても真剣な顔であった。
休み時間に、新聞部の中野が明を訪ねて来た。廊下から明に呼びかけたのだ。
「お前、目立つところに座ってるな?廊下から見てすぐわかったぞ」
中野が冷やかしてきた。
「あそこの席は、これで二回目ですよ」
明はやり切れない表情で答えた。
「二回目って、まだ入って二ヶ月くらいだろう?もう席替えしたのか?」
「はい、ついこの前」
「じゃあ、二回連続ってこと?」
中野の顔は完全に嘲けていた。明には、ため息を吐くことしか出来なかった。
「お前、持ってるよ」
そう言う中野の顔は、完全に嘲笑であった。
「で?何か分かったんですか?」
明は不機嫌そうに聞いた。
「おお、そうそう。面白いものが見つかったから、昼休みに部室に来いよ。そこで弁当食ってもいいからさ」
そう言う中野の顔は、ふざけてはいなかった。
昼休み、明が弁当持参で新聞部の部室に入ると、もうすでに中野がいて弁当を食べていた。
「おう、来たな。まあ、適当に座っていいからさ」
中野は嬉しそうにそう言うと、箸を置いて席を立った。
「俺、昨日あれからちょっと考えて見たんだ」
中野は、話しながら部屋の奥の棚の方へ向かって歩き出した。
「生徒が教室で自殺なんてことがあったら、学校は絶対に表沙汰にはしたくないのは当然なんだ。だから出来るだけ情報が流出しないように規制を敷いたはずだ。警察なんかも、何しろ未成年者のことだから、情報は最低限しか流さないだろうしね?だから、当時の新聞部にも規制を敷いたのは間違いないんだ」
中野は棚の前で立ち止まり、明の方を見た。
「でもね、部員の方は本当にそれで納得したんだろうかな?」
明が真剣に聞いているのを確認すると、満足そうに中野は話を続けた。
「新聞部なんてのはね、まあ、いろんな奴がいるんだけどさ、結構マスコミを目指している奴なんか多かったりするんだよね。新聞や雑誌の記者みたいな?」
中野は、二段重ねになっているスチール製の棚の、上の棚のガラスの引き違いの戸を開いた。
「俺、前から気になっていることがあってさ」
そう言いながら、棚の中の棚板を指差した。
「この棚板、横の溝に爪をひっかけて高さを調整できるようになってるんだよね」
明もそのタイプは知っていた。
「でもね、この棚だけこの棚板が底板の上に置かれて使われていないんだよね。まあ、大きいファイルが入っているから要らなかったのかもしれないけどさ。でもね?」
中野は隣の棚を指差した。
「そっちの棚にもこのサイズのファイルが入っていて、まだ入るスペースが十分にあるのに、なんでわざわざここに居れているんだろうって、気になってたわけ。でもまあ、いろんな人が管理している訳だし、そんな細かい事まで気にする必要もないわけで、俺も深く追求せずに放って置いたんだけどね」
中野は、棚の中の大き目のファイルを取り出して、近くの机の上に置いた。そして、空になった棚の底板の部分を指差した。そこには中野の言う通り、上の段で使われているのと同じ棚板が置かれていて、ガラス戸のレールより一、二センチ高くなっている。
「これはただの板ではなくて、鉄板を折り曲げて作った浅い箱状になっているんだ」
そう言って、中野はその棚板を持ち上げた。すると、そこにはA3サイズ位の、大き目の封筒があった。
「これを俺は昨日見つけて、謎解きふうに長谷川に見せようと思って、わざわざここに戻して置いたんだよ。いい先輩だろ?」
中野はその封筒を取りあげて、明の方へ差し出した。
「まあ、弁当でも食いながらゆっくり見てくれよ。当時の先輩方の特大スクープを」
そう言いながら差し出された封筒を、明は不安気に受け取った。
「俺もすぐにおかしいと思ったんだ。学校側の圧力に、そんな簡単に屈する物かってね。何しろ昔の新聞部は、今よりも部員も多くて、俺らなんかより何倍も活気があったはずなんだ。それを自分たちの間近で起こった、こんな大事件を放って置くなんてあり得ないだろう?」
したり顔の中野を放って置いて、明は自分の弁当を置いてある机に向かい、そこの椅子に腰を下ろした。
受け取った封筒は封が開いていた。中の書類らしき物を引っ張り出すと、数枚の写真が一緒に出て来た。普通のスナップ写真よりも大きい、2L版と呼ばれるものだ。しかし、その写真を見た明は、思わず顔をしかめてしまった。なぜなら、それは自殺の現場写真だったのである。
窓際の壁と、机と椅子の隙間に横たわる制服姿の女子。問題はそのおびただしい血液の量である。人の身体から、こんなにも血が出るものかと思える量である。まるで血の海に浮かぶ少女、とでも言うべきか。写真はやや色あせてはいるがカラーである。さっき中野が弁当を食いながらと言った意味が良く分かった。
「その写真、おそらくその日早く登校してきた部員が、立ち入り禁止になる前に取ったんだろうね。まさしくスクープだよね。死体だけじゃなくて、部屋の状況や、現場を見た生徒たちの様子もしっかりと捉えている。怯えたり、泣き叫ぶ様子も冷静にしっかりと撮っている。すごい記者魂だね。感動したよ」
明は、中野の話には反応せずに写真を見ている。写真には亡くなった女子の顔もしっかりと写っている。顔は、体がやや仰向け気味になっているため、血に汚れてはいなかった。明には、その青白い顔がとても美しく見えた。
「見たところ、フィルムの写真みたいだね。こんな写真の現像を頼んでも、何も言われなかったんだろうかね?それとも、昔はここに暗室があって、自分たちで現像とかしていたのかな?」
中野は、いかにも触れてほしそうな雰囲気で話しているが、明は面倒くさいので聞き流した。
続いて明は、封筒の中から出て来た、折りたたまれた紙を取り上げた。それは「学校新聞」であった。しかも、この自殺事件の特集号である。さすがに現場の写真は載せていないが、多くの生徒から取材した多くの証言を踏まえて、事件の概要を詳細に述べている。
「有ったんですね。この新聞…」
明は、感動のようなものが込み上げて来た。当時の先輩方が思いを込めて作った新聞を、発行差し止めにされてしまった無念さ。その悔しさを、無念さをこの封筒に込めて残したのだろう。
明が見る限り、この紙面には事件を茶化したり、読者の好奇心を煽ったりするような意図は感じられない。おそらく、この紙面の製作に携わった先輩方は、同じ学校の生徒が自分の教室で命を絶たなければならなかったことに本気でショックを受け、心を痛めていたのであろう。そこには、今後このような悲劇が繰り返さないようにと言う願いが込められているのが感じられた。プライバシーに配慮してか、実名は避けて女子生徒Aと示されている。表現の仕方も、過激な言葉は使われず、淡々とした表現が続いている。この新聞が世に出なかったのは、明としても残念に感じられた。
しかもこの新聞は、三十年間もの間、誰にも見つけられずこの部室に隠し続けられていたのだ。
「中野さん…」
明は、思い詰めた表情で中野を見た。中野は、何も言わずにちらりと明に目を向けた。
「これが、三十年も誰にも見つからずに放置されていたなんて…。ここは、掃除や片づけはしないんですか?」
明の呆れた物言いに。中野は気まずそうな顔をした。
「記者に、そんな几帳面な奴はいない」
「そんなこと言うと、全国のメディア関係者が起こりますよ」
中野はそれを無視して弁当を食べ続けた。
記事の内容は、結論から言うと失恋を苦にした自殺である。その女子は、同じクラスの男子生徒の子供を妊娠したが、それを中絶させられた上に、一方的に交際を解消させられたことを苦にした自殺であったらしい。
明は唸った。何となく思っていた筋書きが、事実と一致したのである。
ほぼ間違いなく、鈴木に憑りついている霊はこの女子である。そして、この学校の一年生女子の妊娠と言う奇怪な伝統も、この女子の影響である。つまりこのまま放置すれば、鈴木は二学期には妊娠が発覚してしまう。まあ、直接命にかかわる問題ではなさそうだが、最悪自殺に至ることもあり得る訳だし、妊娠と言うだけで女子高生にとっては致命的な汚点になる問題である。
何とかしなければならない問題である。これは鈴木だけの問題ではない。今後も毎年、一年生の誰かが望まぬ妊娠と言う悲劇を背負ってしまうのである。
―でもどうやって?―
とにかく、この自殺した女子生徒を特定することが必要だろう。そこから何か解決策が分かるかもしれない。しかし、この新聞には女子生徒Aとしか書かれていない。封筒の中には新聞以外は入っていない。取材時のメモや資料のようなものもない。
明は思案した。
「中野さん」
弁当を食べている中野に声を掛けた。中野は弁当を食いながら、目だけを明に向けた。
「中野さん。これ、もう一度詳しく調べてもらえませんか?」
中野の動きが止まった。
「詳しく?」
いかにも、「何言ってんだ?」的な表情である。
「この自殺した生徒の名前と、相手の男子の名前、それにその自殺した女子のことをよく知っている友達のことなんか」
「そんな事調べてどうすんだよ」
関心無さげな中野を見て、明はぐっと身を乗り出した。
「中野さん!これは大事なことなんです。この三十年前の悲劇を繰り返さないためにも、もっと詳しく調べなくてはならないんです」
中野は何も言わずに明を見ていた。明は、深呼吸を一つしてから中野に向かって言った。
「そして、それとは別にもう一つ、詳しく調べてほしいことがあります」
中野は、怪訝そうに明を見ている。明は、山口から聞いたマネージャーの話を伝えた。中野の反応には、いい感触があった。
「野球部のマネージャーか…。二年生の岩下さんだな」
中野は、少し考えてから明に向かって言った。
「長谷川君、一緒に行ってみようか?」
明と中野は、二年生の教室へ来ていた。明にとっては、上級生の教室に来るのは初めてのことである。周囲の男子も女子も、みんな妙に大人っぽく見えた。新鮮と言うよりも、ちょっと怖い感じがする。
三年生の中野は、何の躊躇もなく教室の中に顔を突っ込み、中を覗き込んでいる。
「あ、岩下さーん!」
突然、大声で叫び手を振った。すると、中から一人の女子が照れくさそうに笑いながら出て来た。ショートカットのハツラツとした娘である。
「えー?中野さん?どうしたんですか?中野さんが取材なんて珍しいですね」
そう言いながらいそいそと近づいて来る岩下は、はにかみつつも何となく嬉しそうに後ろ手を組んで、体をくねらせている。中野も嬉しそうに答えた。
「うん、ちょっと聞きたいことがあってさ、ちょっと外で、いいかな?」
すると岩下は、中野の隣で緊張して立っている明がいかにも一年生、と言うふうに見えたのか、ハッとしたように笑顔が消えた。
「ひょっとして、山口君に話した内容ですか?」
そう言う声は、小さくささやくようである。中野は明に視線を送った。明は驚いたが、努めて冷静に答えた。
「そうです」
それを聞いた岩下は、緊張したように小さくうなづくと、教室の時計に目をやった。
― 岩下証言 ―
昼休憩はまだ余裕があったので、三人は新聞部の部室へ移動した。
「すいませんね、放課後は忙しいもので」
岩下が申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、僕もそう思ったので、突然だけど教室にお邪魔しました。こちらこそ貴重な休憩時間に時間を取ってもらいまして、ありがとうございます」
中野は、優しい笑顔で岩下に椅子を薦めた。緊張した岩下の姿を見ながら、明には岩下が中野のことを意識していることをありありと感じられた。明から見ても、中野は知的でかっこよく見えるのだから、女子にとってはなお更のことなのであろう。
殺風景な部室の中で、スチール製の事務机を挟んで岩下と向かい合うように中野が座った。さっきまで弁当を食っていた場所である。ひょっとすると、そこが中野の席なのかもしれないと明は考えた。明は自分まで岩下と向かい合うと、かなり威圧感があると思い、岩下からは斜めになるように座った。
「ひょっとして…」
最初に口を開いたのは、中野であった。
「岩下さん、こうなることを望んでいたりしませんでしたか?」
中野の言葉を聞いて、緊張した面持ちの岩下は、黙って苦笑いをした。
「もしかして、お友達の中にいたとか…」
中野の探るような言葉に、岩下の顔から笑みが消え、不愉快そうに顔を歪めた。
「そうです。一年の時、友達が妊娠しました。クラスの他の子は誰も知りません」
岩下の歪んだ顔は、そのまま泣き顔になった。
「あの娘、泣きながら私に相談してきたんです。どうしたらいいかって…。でも、私も何て言っていいんだか分からなくて…」
岩下の嗚咽が始まり、しばらく話が中断した。そして、しばらくすると呼吸も整い、話を再開した。
「私、聞いていたんです、先輩のマネージャーから。夏休みは気をつけろって。特に一年生の女子は、妊娠する娘が出るからって。でも、あたしはそんなの冗談だと思っていたんです。だから、あの娘にも何も言って上げられなくって…。あの娘、本当にうれしそうだったんです。初めて彼氏が出来て、本当に幸せそうだったから、変に水を差すようなことも言えなかったし…。で、夏休みが終わっても幸せそうにしていたのに…。九月末の尿検査の後、しばらくしたら突然、自宅の方に先生が訊ねて来たんだそうです」
ここまで言うと、岩下は再び感情が高ぶり出したように、語気を荒げた。
「担任と生徒指導の先生だったらしいです。で、本人と両親の前で尿検査の結果、妊娠の反応が出たと言われたんだそうです。驚いて混乱する彼女たちに、先生たちは冷静に言ったんだそうです。あなたの将来のことを考えて、学校としてはこのことを公にするつもりはない。だから、誰にも言わず処理してほしいって。つまり中絶しろって言うんですよ。あの娘、泣きながら言うんです。中絶するのは怖いって。でも私は何も言ってあげられなくて、一緒に泣くことしか出来なかったんです」
岩下は、震える声を止めると、ゆっくりと深呼吸をした。
「あの娘、もともと明るくて、素直で、純粋な娘だったんです。でも、ある日言ったんです。『中絶した』って。『赤ちゃん殺しちゃった』って。それからあの娘、ものすごく暗くなって、あまり笑わなくなって、学校も休みがちになって…。で、その時になって、先輩から聞いた話が本当だったんだって分かったんです。この学校にはそういう娘が多いんだって…。みんな、夏休み明けなんだって…。それで私思ったんです。ああ、これはきっと、毎年恒例になっているんだ。みんな黙っているから知らないだけで、毎年一年生の女子から妊娠する娘が出てるんだって。だから学校の対応も手慣れた感じがするんだって。だってそうでしょう?普通はそう言うことがあったら、親を学校に呼び出して、何らかの処罰があるはずでしょう?そうすれば、何かあったことが生徒の間に噂になるでしょう?それを、わざわざ学校の方から自宅に出向いて行って、しかも何の処罰もないなんて…。学校は隠ぺいする気満々じゃないですか!」
岩下の嘆きは、怒りに変わっていた。
「だから、昨日、山口君に聞かれたとき、これは言わなきゃって思ったんです。夏休みになる前に教えてあげなきゃって。山口君が噂を広めてくれれば、ひょっとしたら思い止ってくれる娘が出てくれるかもしれないって思ったんです。起きてしまってからじゃ遅いから。起きてしまったら、もう隠すしかないから…」
岩下は、力なく嘲笑するように笑った。
「でも、それがまさか、新聞部に伝わるとは思いませんでした。予想外の展開でした」
「そう?でも、このことをうちで扱ってもいいんだよね?」
「それは、新聞の記事にするっていう事ですか?」
「うん。まあ、どういう形になるかは分からないけどね」
岩下は、中野の顔をじっと見つめてから、静かに頭を下げた。
「よろしくお願いします。ただ、あの娘のことは特定されないように配慮してください」
「もちろんですよ」
そこで予鈴が鳴った。
明は教室へ戻った。結局、弁当は食い損ねてしまった。
明が教室に近づいたところで、教室の手前で新庄と出会った。珍しく新庄は一人だった。明には一人の新庄など見た記憶がない気がする。明は、これはチャンスと思い、新庄に声を掛けた。
「あ、新庄!ちょっと悪い!ちょっとこっちへ」
明は慌てた様子で新庄を廊下の隅の方へ手招きした。
「え?なに?何なの?」
新庄は、警戒心むき出しで明に近づいた。
「いいから、ちょっとこっちへ、ちょっと、ちょっと」
新庄との距離が縮まったところで、明が話し始めた。
「あのさ、ぶっちゃけ今、鈴木って誰かと付き合ったりしてる?」
明のちょっと照れた顔を見て、新庄の口元だけが緩んだ。この笑顔?はいつ見ても不気味だ。素が奇麗なだけにそう感じるのかもしれなかった。
「なに?やっぱり長谷川も
紗希とは鈴木の「名」である。新庄の口元は、明に対する嘲笑が滲んでいた。
「やっぱりって?どういうこと?」
明は驚いて、つい聞き返してしまった。
「いやいや、バレバレだから。長谷川、最近ずっと紗希のこと見てるでしょ?」
明の全身に衝撃が走った。周囲からはそう言うふうに見えていたのだ。全く気が付かなかった。しかし、ここで言い訳しても通じるはずがなかった。
―鈴木じゃなくて、鈴木の後ろの黒い奴だ―
などと言っても、誰も信じてくれないのは明白だ。明は顔を強張らせながらも、何も言えずにいた。
「でも、ちょっと遅かったかな?」
新庄が固まっている明を放ったまま、残念そうに言った。
「ちょうど今、紗希に男を紹介してきたところだったんだよね」
新庄の申し訳なさそうな言葉に、明は慌てた。
「誰?」
思わず叫んでしまった。
「うん、隣のクラスの結城って言うやつ。私と同じ中学だったんだけどね、紗希が気に入っちゃって紹介しろってうるさいからさ、今紹介してきたところなんだよね。まだ仲良くお話してるよ。私はあほらしいから先に来たけどね」
新庄は申し訳なさそうだった。
「そ、そいつ、どんな奴なんだ?」
明は興奮を抑えながら聞いた。
「そうだね、まあ、女子には人気がある奴だよ。とにかく顔がいいからね。あれで性格が普通なら文句ないんだけどね…」
「え?なに、その言い方」
明が異様に気にしているので、新庄はちょっと違和感を感じていた。
「え?まあ、簡単に言えば、女好きのナルシストかな?」
「チャラい奴か?」
「チャラいの上だね。あれはただの女好きだ。将来、ヒモになるタイプだ」
「そりゃマズいよ」
明が怖い顔でつぶやくと、新庄はそれ見て気の毒そうに言った。
「私もねえ、あんな奴よりは長谷川の方がましだと思うんだけどねえ…。あの子があんなミーハーだとは思わなかったよ」
明は、その言葉を無視するかのように深刻な顔で何かを考えていた。
「どうかしたの?」
新庄が、心配そうに明の顔を覗き込んだ。
「いや、何でもない」
明は、混乱していた。大変なことになっているのは分かるが、何をどうしていいのか全く分からなかった。
「じゃ、ありがと」
明はそう言うと、深刻な面持ちのまま教室へ入ろうとした。
「あ、そうだ!」
しかし、すぐに何かを思い出したように立ち止まり、新庄に向かって言った。
「あのさあ、新庄のその笑い方って、わざとやってるの?」
そう言われた新庄は驚いた顔をしたが、すぐにいつもの口だけの笑顔を作った。眼が笑っていないので、ちょっと怖い。
「これのこと?」
新庄は、嬉しそうに自分の顔を指差した。
「そう、それ。何かちょっと不気味に感じちゃうんだけど」
それを聞いた新庄は、満足したかのように更に口角を上げた。
「ふふふ、そう感じてくれるなら正解だね」
「?」
明には意味不明だった。
「私の笑顔は、百万ドルの笑顔なんだよ?はっきり言ってね、私のマジの笑顔見たら、長谷川なんか人生棒に振っちゃうよ?」
明は首を傾げた。
「分かんない?私の虜になって、何も手に付かなくなっちゃうってことさ」
明は目を丸くして驚いた。自分でそれを言うか?と。
「私はね、世の男性のために、わざと気持ち悪い笑顔にしてるのさ。別に、その辺の男に気持ち悪がられても問題ないし、却ってそれくらいの方が清々するよ。私の笑顔はね、将来の私の大事な旦那様だけの物なの」
新庄は、再び不敵な笑顔を見せた。
「そうなんだ…」
明は、正直呆れていた。
「で、もしそのマジの笑顔を見たらどうなるのかね?」
明は嫌味を込めて言った。すると新庄は、クイッとあごを少し上げてさらに不敵に笑った。
「紗希みたいになる」
その一言は、明には衝撃だった。
「鈴木は見たことあるのか?」
「そう、入学したばかりの頃にね。私の百万ドルの笑顔が見たいってしつこいから、こっそりあの娘だけに見せてやったの。そしたらあの様よ」
新庄の鼻から、今にも「フフン」と聞こえてきそうだ。
「だから、あの娘は私に百万ドルの借金があるんだ。一億円ね。これから一生かかって払ってもらうの」
明は、やっとこの二人の関係の秘密が分かった気がした。
放課後、明は改めて新聞部の部室を訪れた。
「お、来たな?」
中野が、不敵な笑顔で迎えてくれた。
「ええ、中野さんがどう思ったか気になりまして」
明の言葉に、中野はちょっと困惑した表情を作った。
「まあ、そうだな…。正直、岩下さんの話も半信半疑ってところかな?」
中野は、そう言いながら少し笑みを浮かべた。
「ただ、何となく面白そうな臭いはするよね?」
「じゃあ、調べてくれるんですか?」
明は興奮気味に叫んだ。
「そうだね。その代わり長谷川も手伝ってくれよ?」
「え?」
明の困惑に、中野が不満げな顔で言った。
「仕方ないだろ。人手が足りないんだから」
それを聞いた明は、ハタと気が付いた。
「そう言えば、ここはほかの部員はいないんですか?」
その問いに、中野は顔を曇らせた。
「いや、もう一人、部長がいる。でも、あいつは運動部の取材で大忙しだ」
明は、中野はなぜ一緒に取材をしないのか?と疑問に思ったが、すぐにそれは問うべきではないと悟ることが出来た。
翌日の放課後、明が新聞部に行くと、中野が嬉しそうに迎えてくれた。
「分かったぞ、あの女子生徒の名前」
自慢気に言う中野の言葉に、明は耳を疑った。
「え?もうですか?どうやったんですか?」
明は、興奮気味に問いかけた。中野は、意味ありげにニヤリと笑った。
「卒アルで調べた。事件の年の新入生の卒業アルバムを見るとね…」
中野は、机の上に置いたアルバムの開かれたページを指差した。明が覗くと、そこには生徒の胸から上の顔写真が名前入りで載っていて、中野の指はある一人の女子を指していた。その女子はかなりの美少女であった。
「この娘、似てないか?あの写真の死体の娘と」
明も、言われて見ればそんな感じもした。
「それとこの写真、他の生徒の写真と、ちょっと感じが違うとは思わないか?」
「ああ、顔や体の向きがちょっと違いますね」
確かによく見ると、他の生徒は正面を向いているが、この女子だけはちょっと体が横を向いている。
「そう、おそらく何かの集合写真から取ったものじゃないかなと思う」
言われてみると、観光地の集合写真なんかの場合は、ちょっと体を斜めにして並ぶ場合もある。
「宿泊研修ですかね?」
「かも知れないな」
明の言葉に、中野もうなずいた。
「そしてこの生徒は、他の写真には一切映っていないんだ」
明は深くうなずいた。
「名前は?」
明の質問に、中野は指差した。
―藤村京子―
聞き覚えのない、初めての名前であるが、何故かその名を聞いて、明は感慨深いものを感じた。明はため息を吐いた。
僅か半年ほどで、自ら命を絶ったクラスメイト。卒業アルバムにそう言った生徒を載せるべきか、きっと悩ましい事だったろう。しかし、生徒の中にはそれを望んだ生徒もいたのであろう。たった半年の思い出を失いたくないクラスメイトが。なぜならば、明たちの学校は三年間クラス替えがないのだ。もし、クラス替えがあったならば、話は違ったかもしれない。
「それでね…」
中野が突然話を切り出した。
「この女子、見覚えが無いか?」
そう言って、藤村京子と同じクラスのもう一人の女子を指差した。藤村ほどではないが、こちらも可愛らしい子である。春田元美と言う名だ。しかし、明にはピンと来なかった。
「内田元美と言う名前は?」
明は首を傾げた。それを見た中野は、残念そうな笑顔を見せた。
「まあ、普通の生徒なんてそんなもんだろうな」
明はちょっとけなされた気がしてムッとしたが、敢えて何も言わなかった。
「うちの学校のOB会の会長が、内田元美って言うんだよ」
OB会と言うのは、明も聞いたことがあった。入学式の時、確かそんな会の会長の挨拶があった気がする。しかし、顔も名前も覚えていない。
「内田会長は、この生徒の顔をそのまま老けさせた顔なんだよ。この写真をパッと見てすぐにピンと来た。それで名前を見ると元美だった。きっと旧姓が春田、今は内田なんだと思う。それと、あの写真の中に、号泣している女子が写っていたのを覚えていないか?」
それは明も覚えていた。何枚もの写真の中に写り込んでいた生徒たち。怯える生徒、気持ち悪そうにする生徒、泣いている生徒、ただ傍観する生徒。千差万別な表情の中、確かに号泣する女子もいた。
「その娘がこの娘だと思う」
中野が言い切った。
「おそらく、内田会長と藤村京子は親しかった…」
そう言う中野の顔は真剣だった。
「じゃあ、その会長さんは、自殺した人のことを良く知っているんですか?」
「おそらくな…」
そう言う中野の顔を見る明は、好奇心に満ち溢れていた。
「その人に会えますか?」
明のその言葉を待っていたかのように、中野はニヤリと笑った。
「さっき電話したら、OKだった。明日の放課後、アポが取れた」
「先輩、すごいですね。仕事が早いです!」
嬉しそうにはしゃぐ明に対して、中野は不機嫌そうに言った。
「男に先輩って言われても、全然面白くないわ!」
明は思わず噴き出した。
「ああ、女子部員が入ってこないかな…」
中野は恨めしそうに明を見た。
3 内田宅
翌日の放課後、明は中野に連れられて内田宅へと向かった。内田宅は明の予想以上に遠いらしく、二人はバスに乗った。中学も高校も徒歩圏内の明にとって、それはちょっと新鮮な感じであった。
明が遠出をするのは久しぶりである。特に、今の体質になってから初めてだ。こういう体質になってみると、「奴ら」はあちらこちらにいる。慣れない土地には、見慣れない「奴ら」がいる。今はもう、普通の人と「奴ら」の違いは一目瞭然になっていた。むしろ「奴ら」の方が余計に目に付くくらいだ。そして悲しいことに、このバスの中にもいる。乗り口の所に、ぼんやりと立っていた。明がこのバスに乗ろうとしたら、乗り口の正面に立っていたのだ。立ち塞がる感じである。明は躊躇したが、ほかの乗客は、かまわず乗り込んでいくので、仕方なく明もそいつに向かって突き進んだ。明の肩が当たると、そいつの身体が押しのけられた。するとそいつは、そのまま後ろへ二、三歩後ずさりした。明は敢えて視線を下ろし自分の足元を見続けた。そいつを無視するためだ。明はそいつの顔を見ていない。しかし、それでもその表情が目に浮かんできた。なぜなら、そいつが明に向かって何か叫んでいるからだ。
おそらくそいつは、明が自分を押しのけたことで、明が自分と関わることのできる特殊な存在だと気が付いたのだろう。必死で自分をアピールして来ている。しかし、明はそれを必死で無視し続けた。そいつは明を叩いたり揺すったり、様々な方法で攻撃してくる。幸い、そいつの力は大したことなく、明の体にさほどの影響はないのだが、やはり叩かれるのは痛い。それに大声で騒ぐのでうるさい。
もし、今ここに相沢がいれば、きっとこいつの話を聞いてあげ、送り出しとか言うやつをやって上げたことだろう。しかし、明にはそんなことは出来ない。何を言われ、頼まれてもどうすることも出来ないのだ。
バスに乗っている間、明は中野の話に集中していた。執拗に話しかけて来る「奴」を無視するため…と言うよりも、「奴」の声がうるさすぎて、集中しないと中野の話が聞き取れないからだ。
中野によると、「OB会」と言うのは、正式には「同窓生の会」と言うらしい。愛称としては、「久遠の会」と言うのもあるらしいが、それはほとんど使われていないとのことだ。活動内容ははっきりしておらず、中野の知る限り、入学式と卒業式の時に会長が挨拶するくらいで、あとは学校の記念行事の時に寄付を募るくらいらしい。
「それで、入学式や卒業式に合わせて、学校新聞もその特集を組むわけで、その時に挨拶文なんかをお願いしたりするんだよね」
それ故、中野と内田会長は顔見知りらしい。
「じゃあ、今回のアポはどういう用件なんですか?」
明の質問に、中野は意味ありげに笑った。
「それはズバリ、夏休みに向けて心掛けるべきことをインタビューさせて下さいって感じで」
十分ほどで、目的のバス停に着いた。
「内田さんは、後輩大好き人間だから、結構もてなしてくれるからな、情に囚われるなよ」
中野が、バスを降りてから明に言った。
「後輩大好きって?」
明が気になって聞き返した。
「そのまんまだよ。後輩を可愛がるんだ。相談すると、時間を割いて聞いてくれて、いろいろアドバイスをくれる。いろいろ問題を起こした生徒にも、いろいろ世話をしてくれるらしい」
「それって、妊娠した女子のことも世話してくれているってことですか?」
明が驚いて、中野に聞いた。
「そうかもしれんが、良くは分らん。何しろ、妊娠に関しては公にされていないから、あまり気にしたこともなかった」
中野の声は力なかった。明は、ついでに今まで気になっていたことを聞いてみた。
「あの、中野さんたちって、女子の妊娠の件については全く知らなかったわけではなかったんですよね?」
明の言葉に、中野は気まずそうにうなづいた。
「そのことについては、どう思っていたんですか?問題だとか、何とかしないといけないとか、そう言う思いはなかったんですか?」
明は、なるべく攻撃的にならぬよう、配慮しながら言った。
「確かに…」
中野は低く静かに答えた。
「そのことは俺らも聞いてはいた。でも、毎年と言っても俺らにとってはまだ一年の時と二年の時の、まだ二回なんだよ。正直、そんな重大な問題とは感じなかったんだ。今の時代、そう言う女子がいても不思議じゃない。おそらく、どの学校でもある事だろう、くらいの考えだった。そんな新入生の失敗を、いちいち騒ぎ立てるのも問題なんじゃないかってね?だから、敢えて問題にしなかった。まさか、こんな何十年も続く伝統行事だったとは気が付かなかったんだよな。考えてみれば、うちの学校って出席番号が男女別になっているだろう?俺、前からなんで男女混合にしないんだろうって不思議に思ってたんだ。ひょっとしたら、学校側はなるべく男女を離しておきたいと言う思いがあったのかもしれないな」
そこまで言うと、中野は明の方へ向き直った。
「そう言う意味で、長谷川が気づかせてくれたことには感謝している。ありがとう」
中野は明に向かって頭を下げた。
「いや、俺もお役に立てて良かったです」
明は、突然の中野の反応に慌てていた。
内田宅は、明の想像以上の立派さだった。
「ここの旦那さんが、会社の社長さんだとかで、結構金持ちらしい。だから、会長も時間と金は持て余しているみたいだよ」
玄関前で、中野がこっそり話してくれた。
インターホンを押すと、直ぐに返事があった。明るい優しそうな声だ。二人は言われるままに玄関を開け、中に入った。
「いらっしゃい。待ってたわよ」
迎えてくれたのは、四十代中頃の笑顔の女性である。明には確かに入学式の時に見かけた記憶があった。
「昨日電話もらってから、ずっと楽しみでワクワクしていたの」
居間へ案内する間、内田は上機嫌で楽しそうに話していた。
「まあ、適当に座ってちょうだい。飲み物、何がいい?中野君はコーラだったよね?もう一人の彼は、何がいい?」
ものすごいテンションの高さに、明は圧倒されていた。
「おい、何が良いかってさ」
中野が明を小突きながら言った。明はそこにコーヒーの香りが漂うのに気づいた。
「あの、ひょっとしてコーヒーありますか?」
その言葉に内田の動きが止まり、明を見つめた。
「え?コーヒー好きなの?嬉しい!ちょうど今、入ったところなの」
内田のはしゃぎ様に、何か変なスイッチが入ったようで心配になった。
リビングのテーブルには、既にケーキやクッキーなどのお菓子が並べられている。外で中野が言った意味が良く分かった。しかし、ご機嫌な内田に対し、これから二人がするであろう質問は、おそらく彼女の意に反し、あまりに不躾な内容であろうことは明にも分かるので気が重かった。それは中野も同じであろうことは、その表情からも推測で来た。
「この歳になるとねえ、若い男の子と話す機会がないでしょう?だからもう楽しみで仕方なかったのよ」
「でも、息子さんもまだ若いじゃないですか?」
中野はそれとなく話を合わせている。
「いや、もう、息子なんか、こっちも向こうも煙たいだけで、居ても却って力を吸い取られる感じよ」
内田は笑いながら、コーヒーの入ったカップを明の前に置いた。
「でもよかったわねえ」
中野に笑顔を向けて、内田が嬉しそうに言った。中野も明もちょっと驚いて内田を見た。
「新入部員が入ったの?この前心配してたものねえ。このままじゃ廃部だって」
中野はニンマリと笑って明を見た。
「ええ、まあ…」
中野の含みのある笑いに、明は慌てた。
「いえ、そういう訳じゃなくて、僕はただのお手伝いと言うことで…」
明のしどろもどろの弁解に、中野は笑いをかみ殺して内田に言った。
「実は今のところ手伝いと言うことで、力を貸してもらっています。出来ればこのまま手伝い続けて欲しいとは思っていますが」
中野の魂胆に、今気づいた明であった。
「ああ、そうなの、それは残念ねえ」
内田も残念そうに明を見た。これではまるで、明が悪者のようである。
「実はですね」
そんな明に気を使って、中野が話を変えてくれた。
「今日お邪魔したのは、彼…長谷川君がちょっした企画について、話を持って来まして、会長さんのコメントを頂きたいと思ったからなんです」
そう言われて内田は、にっこりと笑って中野に視線を移した。
「そうだったわね。新入生の夏休みを迎えるに当たっての心構えだったっけ?」
「はい。来月はもう夏休みですので、夏休み前にそれに向けた心掛けを特集しようかと思いまして」
内田は笑顔でうなづき返した。
「ええ、いい企画ね。夏休みは楽しいけど、羽目を外しすぎると大変なことになるからね」
対する中野も、笑顔ではあるがその目は真剣である。
「そうですよね。会長さんもご存じだと思いますが、うちの学校は毎年夏休み明けの二学期に、一年生の女子の誰かが必ず妊娠するという変な伝統があるんです」
内田の笑顔が強張った。
「え?そうなの?そんな話、初耳だけど?」
冷静を装って入るが、動揺しているのは確実であった。
「そうですか?長年OB会の会長なさっているんだから、相談とまではいかなくても噂くらいは聞いたことがあるかと思ってたんですけど」
内田は眉をひそめた。明には、それが苛立ちを隠しているように見えた。
「いや、それはそう言うことがあったような話は、何度か聞いた気もするけど、毎年必ずと言うのはどうなんだろ?それにそれは、本人のプライバシーもあるから、あまり騒ぎ立てるものでもないと思うし」
「そうなんです」
内田の言葉に、中野が透かさず言い返した。
「その、プライベートとか、プライバシーと言う言葉が話を面倒にしているんです」
内田は、強気な中野の言葉に少し驚いたようであった。それを見て、中野は素早く切り込んだ。
「会長さんは、藤村京子さんをご存じですよね?」
内田の表情が固まった。言葉が詰まったのか、何も言わない。中野はカバンから封筒を取り出した。あの学校新聞が入っていた封筒だ。
「先日、うちの部室からこんなものが出て来ました」
そう言いながら中野は、封筒の中から折りたたまれたあの新聞を取り出した。さすがにあの写真はないようなので明は安心した。
広げて差し出された新聞を見た内田は、驚愕とも言える顔になり、体が細かく震えていた。
「な、何なのこれ…」
内田の口から出たのは、絞り出すような、うめきにも似た声だった。
「この前、彼…長谷川が部室で見つけたものです。三十年間放置されていた、我々の先輩が残してくれたものです。我々が無関心だったから、これを見つけ出すことも出来ずに、多くの犠牲者を出してしまいました」
中野の声も震えていた。
「分かりますよね?この新聞には、この藤村京子さんの悲劇を繰り返すことのないように、この事実をしっかり心に刻もうと書いてあります。女子は、恋愛という名の甘い感情に流されることなく、男子は自分の行動が、女子の身も心も傷つける可能性がある事を理解して、お互いが思いやりのある、節度のある行動をとろう。そして、親や先生は、そんな何も分からない生徒の行動を、温かく導いてほしいと…」
内田は何も言わずに聞いていた。
「この新聞を作ったのは、会長さんと同じ時期にいた先輩方です。きっとこの事件を見て、みんな心から悲しんだんだと思います。同じ学校の友人が、後輩がこんな無残な死に方をした。ひょっとしたら、新聞部にもこの藤村さんの友達もいたかも知れない。だから、新聞部として全校生徒に呼びかけようとしたのが、この新聞じゃなかったんでしょうか?なのに…」
内田はうつむいていた。顔は見えないが、鼻をすする音が聞こえる。
「なのに、学校はそれを握りつぶした。理由は分かりません。おそらく、藤村さんのプライバシーに配慮してと言うのが表向きの理由でしょう。でも、学校や教師の保身と言うのも捨てきれません。どちらにしろ、この新聞がお蔵入りしたせいで、藤村さんの自殺の詳しい理由は不明のままになってしまった。そしてその何年後かは分からないけれど、藤村さんの時と同じ時期に妊娠する一年生女子が現れるようになった。その妊娠した女子がその後どうなったかは僕らには分かりません。でも、その事実がその人達の人生の重荷になったであろうことは推測できます。この新聞が公開されて、藤村さんのことがもっと深く周知されていたら、その後のことはもっと違っていたかもしれません」
内田はいつの間にか嗚咽していた。うつむいたまま、肩を震わせて。
「そんな事、言えるわけないじゃないの…」
しばらくして、少し落ち着いたのか内田が小さく呟いた。
「大好きだった親友が妊娠していたなんて…。可愛そうで、誰にも知られたくなかった…。あの子は本当に清純で、明るくて、そんなスキャンダラスなことが出来る娘じゃなかった。あの娘があれ以上酷いこと言われるのが耐えられなかった」
「お辛かったと思います。そのお気持ちはお察しします。でも、それによって後輩の女子が、同じような悲劇に見舞われているんです。ですから僕は、今、これを公表しようと思います。公表して、こういう事実があったことをみんなに知ってもらって、特に女子生徒にその危険性を理解してもらおうと思います」
「何言ってるの?それは京子の事とは関係ないんじゃないの?それはその時の娘らが勝手にやっちゃったことでしょう?京子は関係ないわよ!」
内田は興奮気味である。
「そうでしょうか?」
「当たり前でしょう?なんで関係があるのよ?」
「毎年ですよ?毎年一人以上出るんです。妊娠する生徒が。しかも一年生だけなんです。二、三年生はほとんどいないんです。普通なら、二年三年の方がそう言うことをしでかしそうなのに、何故か一年生なんです」
はっきり言って、これは中野の推測を含めたオーバートークである。そんな確証は、今のところ全くない。
「まさか中野君、京子の祟りだなんて思っているんじゃないだろうね?」
内田は嘲笑するように顔を歪めた。
「そうとは言いません。でも、そうでないとも言えません。ただ、これを祟りだと思って行動を慎んで、悲劇的な結果を招くのが防げるのであれば、それはそれでいいんじゃないかと思っています」
「やめてよ。私の親友を悪霊みたいに言わないでよ!あの娘は被害者なの!」
内田の興奮に比べて、中野はかなり冷静であった。
「ですから、悪霊だなんて言ってません。この事実をどうとらえるかは、捉える側しだいと言うことです」
「だから、変に誤解されるような言い方は止めて欲しいのよ!」
中野の言葉が止まった。表情も硬い。どうやら、話の展開を間違えたらしい。内田は完全に気分を害している。
―詰んだか…―
明は落胆した。ここでは何としても、内田から当時の状況を聞き出したかった。藤村京子のこと、そして、相手の男のこと。
中野の様子を見て打つ手なしと踏んだ明は、「イタチの最後っ屁」ではないが、最後に気になった事を内田にぶつけてみようと思った。
「あの、すいません。ちょっと良いですか?」
突然の部外者の乱入に、二人はハッとしたように明を見た。
「藤村京子さんが、会長さんの親友だったことは分ったんですが、会長さんは、その親友を自殺に追い込んだ相手の男のことは憎くはなかったんですか?」
その言葉に内田は、明らかに動揺した。
「に、憎かったわよ。本当に憎かったわよ。でも、そいつを責めると、京子のことも明らかになっちゃうから何も言えなかったのよ」
内田の言葉はたどたどしかった。
「でも、その人のせいで親友は死んだのに、その人はその後もずっと生きていたんですよね?何か処罰は受けたんですか?」
「それは分からないでしょ?誰なんだか、私も分からないんだから」
「でも、もし処分されたなら、誰かが停学なり、退学なりになっている筈だから、見当くらいついたんじゃないですか?」
「そんなの、相手が誰だか分からないんだから、他の学校の生徒かもしれないじゃないの?」
明は、じっと内田を見つめながら静かに言った。
「藤村さんが妊娠していたという事実は、どうやって知ったんですか?」
内田はハッとしたように、怯えた目で明を見た。
内田は言葉に詰まっていた。
「ひょっとして、藤村さんから相談を受けていたんじゃないですか?」
明の静かな言葉に、内田は何も答えず息遣いだけが荒くなっていた。
「親友だったんだから、相談されていたんですよね?」
明は念を押すように言った。
内田の形相が変わった。突然怒りを顕わにした。
「もう、帰ってちょうだい!これ以上、京子の悪口なんか聞きたくない!帰ってちょうだい!」
二人は、追い出されるように内田宅を出た。
中野は少し怯えているようにも見えた。それは当然だろう。新聞部の肩書を持って、OB会会長を激怒させたのだ。学校からどんな処分が下りるか分かったものではない。
「あれは、コピーを取って置いたほうが良いな」
中野が呟いた。中野の言う「あれ」が、藤村京子に関する新聞と写真のことだと言うことは明にも分かった。
「しかし、長谷川の最後の追い込みは凄かったな。驚いたよ」
「でも、あれで完全に怒らせちゃいました。すいません」
明は恐縮していた。まさか、あそこまで激怒するとは想像していなかったからだ。
「いや、でもあれで分かったな。会長は、相手の男を庇っている。だから、事件の真相を表沙汰にしなかったんだ」
それは、明も同感だった。おそらく、藤村京子は内田に妊娠した事実を相談していたのだろう。いや、そもそも新聞部が調べられるほど、藤村京子の妊娠は「知る人ぞ知る」事実だったのかもしれない。そして、内田は藤村と付き合っていた男のことも知っていた。そしてその男を庇った…。
「三角関係だったのかな?」
中野がぼそりと呟いた。
二人は、一旦学校に戻ることにした。意外と早く追い出されたおかげで、まだ時間に余裕がありそうだったからだ。学校で例の写真を確保して、新聞と共にコピーを取って置かなければならない。内田が怒って学校に連絡したら、全て没収されてしまうかもしれないからだ。
帰りのバスの中、来るときとは打って変わって二人は無言であった。中野は次の一手を思案し、明は鈴木のことを心配していた。
バスを降りた二人が、重い足取りで学校にたどり着き校門を入ったところで、中野が誰かに声を掛けられた。それは女子の声であった。中野がだるそうに顔を上げると、曇って薄暗い中、校舎の方から一人の女子がこちらに向かって歩いて来る。かなり奇麗な女子だ
「おお、神野。まだ居たのか」
中野は気安く声を掛けた。明は、中野の彼女かと思い緊張した。
「お前が何もしないからだろう!」
その女子は、機嫌悪そうに答えてから
「その子は?」
と、明を見ながら中野に訊ねた。そして、急に嬉しそうになり、
「ひょっとして、新入部員か?」
と叫んだ。
「違うよ」
中野はすぐに力なく答えた。
「ちょっと取材の協力をお願いしてるんだ」
「取材って?何の?」
そこで、二人の会話を多少怯え気味に聞いている明に気が付いて、中野は苦笑いをしながら、その女子を指して紹介した。
「この人、うちの部長の神野玲奈」
そう言えば、中野の他に部長がいるとか言っていたのを思い出したが、まさかこんなきれいな女子だとは思わなかった。
「長谷川、見かけに騙されたらダメだぞ。こいつのせいで何人の部員がいなくなったことか」
中野が恨めしそうに神野を見た。
「私のせいじゃないよ。あいつらがだらしないんだよ」
神野がそう言うと、中野が「ほらな」と言わんばかりに、神野を指差しながら明に目配せした。
「で?何の取材?」
神野は興味深げに聞いて来た。中野は面倒くさそうに答えた。
「ほら、お前も聞いたことはあるだろう?三十年前の自殺の話」
「ああ、うちの学校のか?」
「うん、そう。今、それの詳細を調べてるんだ」
神野は眉をしかめた。
「何のために?」
神野の口調は、信じられないと言った感じだ。
「何のためにって…。いろいろ思うところがあってだな…」
中野は口籠った。
「そんな大昔のゴシップなんか調べてないで、今の野球部の事でも調べろよ。もう地区予選が始まってるんだぞ」
神野はかなり苛立っているようだ。
「いや、ゴシップじゃないから」
「ゴシップみたいなもんだろう、そんなの。それにそんな過去のことじゃなくて、今のこの学校の生徒のことを応援しろよ」
「いや、過去のことじゃなくて、今の生徒のためにやってるんだから」
二人は言い合いになった。その様子を、明は一人ハラハラして見守っていた。
「もう!かってにしろ!」
ついに神野が怒って、明たちが今入ってきた校門の方へ向かって歩き出した。
「あ!そう言えば」
しかし、しばらく進むと何か思い出したかのように叫んで、明たちの方を振り返った。
「うちの母ちゃんが前に、その自殺した娘と同じクラスだったみたいなこと言ってたわ」
その言葉に驚いて、明も中野も声が出なかった。
「暇があったら、母ちゃんに聞いてみたらいいんじゃないの?うちの母ちゃん、あんたのファンだから喜ぶと思うよ」
言い終わると、にっこりと笑って手を振った。
「じゃあね!」
そして、明るい挨拶と共に去って行った。残された二人は茫然としていた。
「いい先輩じゃないですか…」
明が呟いた。
「根はな…」
中野も呟いた。
4 神野宅
翌日、明と中野は神野部長の家を訪ねていた。昨日の内田会長宅でのいざこざに対しては、学校側から何の話も出なかったと言うことで、中野はとても安心していた。
「会長さんも、学校に苦情は寄せなかったんだな。助かったわ」
中野は安堵していたが、明には他人事だった。
「でも、すぐに次の当てが見つかって良かったですね」
明にはそっちの関心しかなかった。
「全くだ。『灯台下暗し』だったな」
「部長さんには、この事は話していなかったんですか?」
明が気になって聞いてみた。普通、新聞などと言うと、編集会議みたいなものがあって、記事の内容や、編集の方針などを打ち合わせるものと思っていたからだ。
「全く。うちの新聞は今現在、あいつの独壇場だから」
「え?どういうことですか?」
「いや、そのまんまだけど?昨日のあれ、見たでしょ?」
「ああ…」
「下手なこと言うと、必ずケンカになる。俺もあんまり絡みたくないんだ」
神野宅はマンションだった。
「いらっしゃい。久しぶりだね中野君。そちらは新入部員?」
母親らしき人に歓迎された。母親も、娘に似てそこそこ奇麗な人だった。がしかし、いつも新入部員と決めつけられるのには何とも言えないものを感じる明であった。このまま本当に入部させられるのではないかと言う、不安が込み上げて来た。
「ねえ、まだ玲奈とは付き合ってないの?」
リビングに向かいながら、母親が中野に聞いて来た。露骨な聞き方である。
「だから、それは有り得ないって言ってるでしょ?自分の娘なんだから、わかるでしょう?あれは無理だって」
中野の返事に、明は度肝を抜かれた。どれだけ親しいんだか。
「無理を承知で言っているのよ。中野君ぐらいしか頼めないんだよね」
「俺を生贄にしようって言うんですか?」
「あんなのでも、やっぱり自分の娘は可愛いからねえ」
「他所の息子は可愛くないんですね?」
「婿に来てくれりゃ可愛いよ」
母親はにっこり笑った。この二人の関係が全くつかめない明だった。
リビングに入ると、応接セットのテーブルにはピザが用意されていた。
「婿殿の、お好きなものを準備して置きました」
神野母は、満面の笑みを浮かべた。
「そう言う話は、別の人にしてください」
中野は毅然としている。慣れた対処である。
「だから、中野君しかいないんだってば」
「この世に男はごまんといます」
「だから!うちの娘と張り合えるのは中野君だけなの!」
なんだか、ここでも言い合いになってきた。やはり、母娘は似るものなのだ。
「中野さん…」
明が痺れを切らして、囁くように声を掛けた。それを聞いて、中野が冷静になった。ソファーに腰を下ろした中野は、静かに話し始めた。
「おばさん、今日の用件はお分かりですよね?」
真面目になった中野を見て、神野母は笑いをかみ殺しながら腰かけた。
「三十年前に自殺した娘についてだっけ?」
「そうです。その事について聞きたいんです」
神野母、
「何で今頃、そんな事調べるの?」
中野と明は、顔を見合わせた。それから中野が、カバンから例の学校新聞を取り出して七海の前に差し出した。
「最近、うちの部室からこんなものが出て来まして…」
七海は、それを受け取り開いてみた。その姿を見つめながら、中野は静かに言った。
「三十年前の先輩方が残してくれたメッセージです」
七海は何も言わずに読んでいた。
「このメッセージを公表したいと思っています」
七海が深いため息を吐いた。
「で?これが何?」
七海は、新聞を読みながら聞いて来た。
「はい、この新聞は何故かボツとなっていまして、新聞部の記録の中には残っていないんです。つまり、製作はされているのですが、発行はされていない。この日付では、別の…と言うか、通常通りの新聞が発行されています。おそらく直前で差し替えられたものと思われます。つまり、学校側が何らかの理由でストップをかけたのでは?…と」
中野の説明を、七海は何も言わずに、黙って聞いている。
「ただ、今となってはその理由は分かりません。しかし、この新聞の制作の意図は、これを読めば分かります」
「意図?」
七海は、新聞越しに中野の顔を覗き見た。
「はい、それはこの長谷川君も同じ意見でした」
そう言いながら、中野は明の顔を見た。
「こいつも、この新聞には当時の先輩方の切実な願いが込められていると言ってました」
「ふーん?」
「おそらくこの時の先輩方は、この事件を目の当たりにして相当なショックを受けたのでしょう。ひょっとすると、その中には亡くなった藤村京子さんと親しかった人もいたかも知れません。ですから、一人の友人が自ら命を絶たなければならなかった理由や事情が気になったんだと思います。そして、そのような痛ましい事件が二度と起こらないように、と言う願いを込めて事件の真相を明らかにして公表しようと思ったんだと思います。しかし、学校側はその思いを受け入れず、発行を差し止めた。もしかすると、もみ消し、と言うことだったのかもしれません」
そこまで言うと、中野は話を止めて七海の反応を確かめるように見つめた。それに気づいた七海は、驚いたように首をすくめて言った。
「あんまり見つめないでよ。照れるじゃない」
そう言われた中野は、表情を変えずに視線だけを下に向けて話を続けた。
「でもその結果、今でもうちの学校では藤村さんと同じような苦しみを味わう女子が、毎年出ているんです」
「え?それどう言う事?」
七海は驚いたようだった。
「おばさんは、聞いていませんか?毎年二学期になると、一年生の女子から必ず一人、妊娠する子が出るということを」
それを聞いた瞬間、七海の顔が凍り付いた。
「さすがに自殺まではないようですがね」
しばらく沈黙が続いた。七海は何かを考えているようだった。
「その娘の名前まで調べたんだ。やるじゃない」
突然、笑顔になった七海が嬉しそうに言った。中野は少しはにかんだ表情を浮かべた。
「恐れ入ります。その新聞を手掛かりに、卒業アルバムを調べたらすぐに分かりました。それで今のOB会会長が、藤村さんと親しかったことまでは突き止めたんですが、取材は拒否されました」
中野の言葉に驚いたのか、七海は目を丸くしたが、すぐに冷めた笑みを浮かべた。
「大したもんだ。あのアルバム、まだ学校にあるんだ?まいったね。で?そのOB会会長って、春田さんのことかい?あの人は無理だろうね」
その言葉に、今度は中野と明が目を丸くした。
「どう言うことですか?」
中野と明が声を揃えて驚きを現した。しかし、七海はそれを無視し、急に難しい顔になると、暫し考え込んだ。
「私もね、藤村京子とは仲が良かったんだよ」
七海は唐突に話を始めた。
「私だけじゃない。あの娘はみんなから好かれていたんだ」
七海は無表情で、ただ淡々と語っていた。
「そう、奇麗で、優しくて、明るくて、飾らなくて、誰とでもすぐに親しくなれる、ちょっと不思議な魅力を持った娘だったんだ。もちろん、そう言うのを妬ましく思って悪く言う人もいたけど、大体の人はあの娘のことを好きだった。いわゆる学校のアイドルね。私は高校に入ってあの娘と出会ったんだけど、春田…今は内田かな?あの娘は中学から一緒で、お互い親友って言っていた。でもね…」
そこまで言うと、七海は何故か口を閉ざした。そして二人を見ながら悲しげな顔をした。
「私、今なら分かるな、大人になって見るとさ、考え方が変わっちゃうのかな?なぜあの時、学校があの新聞を我々から取りあげたのか、何となく分かっちゃうんだよね。もちろん私たちも、あの時は到底納得がいかなかったし、猛然と抗議した。でも、あれが公表されていたとして、何かいい方向に変わって行ったのだろうかって考えるとさ、良く分からないんだよね。実際、京子の親も自殺の理由は表沙汰にしないで欲しいと言っていたみたいだし…」
二人は、その話を聞いて唖然とした。七海は身を乗り出して静かに聞いて来た。
「で?君たちは何が知りたいの?この新聞の内容が全てなんだけど?」
その目は、中野と明の両方を交互に見ている。見られた二人は、困惑した表情でお互いに顔を見合わせた。
「実は、相手の男性の名前を知りたいんです」
明のその言葉に七海は眉をひそめた。
「それを聞いてどうするの?」
言い方は静かだが、その語気は強かった
「知りたいんです。その人に会って聞きたいんです。二人の間に何があったのか。なぜ藤村さんは死ななければならなかったのか。しかも、なぜ自宅ではなく、あの教室でだったのか」
真剣な明の言葉に、七海の表情は硬くなった。
「そんな事、今更蒸し返すようなことではないわ。その人にも今は、何も知らない妻子がいるんだよ」
「もちろんそれは分かっています。それを公表するつもりはありません。でも、そのことが一番大事なんだと思うんです。何があったかと言う事件の概要ではなく、なぜそれが起たのかと言う動機と言うか、理由と言うか…。とにかく、藤村さんがなぜ死ななければならなかったかと言う、その理由を明らかにしないといけないんです!」
七海は何も言わなかったが、その目は鋭く明を睨みつけていた。
「お願いします。その人に会ってそのことを聞かなきゃならないんです」
明も負けじと、真剣な目で訴えかけた。
二人は暫し睨み合っていたが、不意に七海の睨みが解け、ソファーの背もたれに寄りかかると、ため息を吐いた。
「じゃあ…、名前は言えないけどね、私が知る限りのことは話してあげるよ」
七海の顔は真剣だったが、険しさは消えていた。
「おばさん、知っているんですか?それを」
明が驚いて叫んだ。
「ああ、知ってるさ。あの時必死で調べたんだ。みんなに煙たがられながらも、頑張ってね。まあ、京子の名誉に係わることは、さすがにあれには書けなかったけどね」
七海は苦笑いをした。
「今なら、ある程度公にしても問題ないかもしれないね。ただ、実名は伏せておいてよね」
そう言う笑顔は優しかった。
「あの…」
不意に中野が七海に声をかけた。
「ひょっとして、おばさんも新聞部だったんですか?」
その問いかけに、七海はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「そうさ、あのお蔵入りした新聞も、私が当時の部長を説き伏せて作ったんだよ。結果はあの通りだけどね。あの新聞、スチール棚の棚板の下に隠れていたでしょ?あれも私がやったんだよ。悔しくてね、誰かに読んでもらいたくて、後輩の誰かが見つけてくれないかって思っていたんだけどね…。せっかく玲奈も、新聞部の後輩になったって言うのにねえ?こんなに見つからないとは、いったいみんな何やってたんだろうね?部室の整理とかしなかったんだろうかね?玲奈にはちゃんとヒントも出してあったのにさ」
そう言う七海の笑顔は、悲しげであった。
七海は、二人が何も言わないのを確認すると、ソファーの背もたれに深く寄りかかり、その視線をテーブルの上に落とすと静かに語り始めた。
「あの娘…藤村京子は本当にかわいい子だった。見た目のあどけなさだけでなくって、とにかく心が純粋でさあ、穢れがないっていうか、純粋って言うか、ピュアって言うか…。それをわざとらしいとか言って嫌う娘もいたけどね、私は大好きだった。後から知ったんだけど、京子のうちはクリスチャンだったらしいんだ。母親が熱心な信者だったらしくて、京子は厳格な環境で育てられたそうなんだよね。京子もそんな母親のことは尊敬していて、母親の躾に従っていたそうなんだけど、やはり高校に入ると、大人になったという自覚と心の成長によって、新たな自分の世界に気が付き始めたんだと思う。普通の女子と同じように、恋愛に目覚めたんだよ」
七海は視線を上げて、明たちがちゃんと聞いているのを確認すると、話を続けた。
「京子は本当に可愛い子で、私が見てもニヤケちゃうくらいだったんだよね。だからもう、男子からも大人気でね、中学の頃も結構告白してくる男子がいたそうなんだ。でも、京子はずっと断り続けていたんだってさ。もちろんそれは、親の教育の影響が大きかったんだろうね?でも、そんな京子に高崎っていう男子が目をつけてさ…、この高…Tってのがすっごいイケメンでね、スポーツも得意だし、話も上手いし、すんごいモテたんだよね」
ここで七海は、重苦しい溜息を一つ吐いた。
「私はこのTって奴とは同じ中学だったから、よく知っているんだけどね、中学のころから女ったらしでさ、次から次へと違う女子に手を出すようなやつでさ、問題の多い奴だったんだよね。私は中学のころから新聞部だったからいろんな噂が耳に入ってきたんだけど、なんだか良くない先輩との付き合いもあるとかで、ちょっと危ない面もあったんだよね。そんなTが、純粋を絵にかいたような何も知らない無垢な京子に目を付けたんだから、私は必至で妨害しようとしたんだよね。でも、私も部活のほうが忙しくてさ、京子の中学時代からの親友だった春田…今の内田元美もバレー部だったから、そっちが忙しくて放課後、京子は一人だったんだ。しかもそのころ、クラスの女子が男子から人気のある京子に嫉妬する娘が出てきてね、京子がちょっと孤立していたらしいんだよ。そんな寂しい京子に、Tは付け入るように近づいて行ったんだ。どうやら、京子がみんなに好かれていると思っていたのは私だけだったみたいで、京子に対する陰口は結構ひどいもんだったみたいだったよ。男子は別として、女子からは可愛い子ぶっているとか、あざといとか、八方美人とか、妬みやっかみみたいな言葉が溢れていたみたい。聞くところによると、あの春田でさえそういう面があったっていうからね…」
再びため息を吐いた七海は、悲しそうに顔を歪めていた。
「それで、ある時私が放課後時間ができて、一緒に帰ろうって京子を誘ったんだけど、そのころにはもう京子はTと一緒に帰るようになっていたんだ。で、驚いた私がそれを止めようとすると、京子は明らかに不愉快な顔をして睨むんだよ、私を…。もう、どうにも出来なくなっていたんだ、その時には…。私は春田にも相談したんだけどね、あの子も本人に任せるべきだって言ってあまり取り合おうとしなかったんだ。後から分かったんだけど、春田も京子のことがいろいろ鼻についていたらしくて、一度痛い目に合えばいいぐらいに考えていたらしいんだよね」
七海は言葉を止めて、呼吸を整えるように深呼吸をした。
「そうこうしているうちに、Tと京子は学校でも一緒にいるようになって、二人が付き合っていることは公然の事実となったんだ。そして京子は女子の間ではさらに孤立する形になり、ますますTに依存するような形になっていったんだ。そして夏休みに入った」
七海は明と中野の顔を見比べながら、悲しそうな表情をした。
「夏休み中に二人に何があったかなんて、私には分からない。でも、想像するには難しくないよね。二学期に入ってからも、しばらくの間は二人の仲は相変わらず良かった。そして、京子の私に対する態度も、相変わらず冷たかった。ところが、十月に入ったころから京子の様子がおかしくなり、Tとの関係も変わってきたんだ。Tが京子を避けているのがありありと分かった。ついに『来る時が来た』、私はそう感じた。それでも京子は私を避け続けた。だから私は春田に聞いたんだ、京子の様子を。そしたら春田が言ったんだ。『京子は妊娠したらしい』って。京子は、春田には相談したんだよね。その時の春田はつらそうな顔をしていた。でも、声の響きには蔑みを感じたんだ。それは私の気のせいかとも思った。でも、後から分かったんだけど、その時すでにTは京子から…春田に乗り換えていたらしいんだ。おそらく京子は知らなかったと思うけどね、その時点では。まあ、男が妊娠した女には気持ちが冷めて関心がなくなるなんてことは良くあることらしいよ。私は、京子から相談を受けた春田が、ちゃんと心配そうに聞いてあげたのだろうか?私に話した時のように蔑んだ様子を見せなかっただろうかって心配になったよ。信頼していた親友にあざ笑われたとしたら、どれほどつらかっただろうかって…」
七海の顔は悲しそうに歪み、その眼からは涙がこぼれていた。
「私は思わず、京子を無理やり連れだして二人だけで話したんだ。私は謝った。京子を放ったらかしにしたことを。私がもっと近くにいてあげれば、京子の気持ちはTに向かずに済んだんだから。でも京子の反応は私の想像とは違った。京子は言った、妊娠のことは、Tが責任もって処理してくれるんだと。処理とは何かと聞くと、病院を紹介して中絶させてくれるんだと。京子は、子供を堕ろせばTの心は自分に戻ってくるはずだと言うんだ。私は愕然とした。純粋なゆえの無知だったんだ京子は。で、その何日か後に京子は中絶手術を受けたらしかった」
七海は深呼吸を繰り返し、呼吸を整えた。
「事件のあった日は、京子の両親が母親方の親戚の結婚式か何かで一泊の外出中だったらしいよ。京子がなぜその日を選んだのかは分からない。本人からは聞けない状況になったから。でもひょっとすると、その日Tと仲直りして自宅に誘おうと思っていたのかもしれないね。Tはその日、話があるから放課後教室で待っていると京子に言われていたらしい。T自身ははっきり分かれようと思ってその場に向かったと言っていた。京子の中絶も、Tの世話になっている先輩の紹介で親に知られないようにしてもらったし、手術代もTが支払ったんだから、責任は全部果たしたというのがTの主張だった。そしてTは、京子に別れを告げた。どんな会話がなされたかは分からない。ただ、京子は誰もいない教室でTから一方的に捨てられて絶望したんだよ。Tは言うだけ言うと、京子を残して教室を出たと言っている。その後、一人になった京子がカッターナイフで手首を切って自害した、ということだよ。使ったナイフは、いつも京子が筆箱に入れていたカッターナイフだったそうだよ。京子はいつも鉛筆を削るために、カッターナイフを持ち歩いていたのはみんな知っていた。あの娘はシャープペンシルは使わず、鉛筆を使っていたし、鉛筆削りも使わずにカッターナイフで削っていた。あの娘が鉛筆を削るのが上手なことはクラスでも有名だったんだ」
七海はしばらく黙ったのち、意を決したかのように改めて口を開いた。
「あの朝、私はいつも通り早めの登校をしていたの。早めに学校に行って、何か記事のネタになるものはないかと校内をうろつくのがその頃の私の日課だったから。入学祝に買ってもらった、安物だけど自分のカメラをぶら下げてね。でも、その朝、教室の前まで来ると先に入った友達が、叫びながら教室から駆け出てくるんだよね。なんだろうと思って入ってみると、そこに京子の死体が横たわっていたの。最初は何かのいたずらかと思ったわ。でも、京子はそんな悪質ないたずらなんかするはずないし、そこにある血の海の赤黒い色と、何とも言えない臭いが妙に生々しくて、いたずらには思えなかった。それにその時の京子の事情を思えば、自殺もあり得ないことではない。私は自分の体が凍り付くのを感じた。背筋から全身に冷たいものが駆け抜け、体が動かなくなったの。でも外から、何か叫んで先生を呼びに行く誰かの声を聴いたとき、ここから追い出される前に写真を撮らなきゃって思ったの。そしたら凍り付いた体が溶けたように動き出して、とにかく狂ったように撮りまくった。京子の姿、周囲の状況、そして泣き叫ぶ友達の姿。その新聞と一緒にあったでしょ?その時の写真」
七海は、テーブルの上の学校新聞を顎で指して言った。明と中野は何も言わず、小さくうなづいた。
「フィルム一本全部撮ったけど、半分くらいはブレたりボケたりしてダメだった。私も慌てていたんだね」
七海は冷ややかな笑みを浮かべた。
「そのあと先生方がやって来て、私たちは別の教室に集められた。当然学校は臨時休校。すぐに警察が来て私たちからも事情を聴き始めたの。担任と教頭が立会いのもと、一人ずつ呼び出されて発見した時の状況や、京子の最近の様子なんかを聞いてきたわ。もちろん私は全部話したよ。あの時は私も精神的におかしくなっていたから、Tのことを責める発言もしていたと思う。ただ、写真のことは言わなかった。言えば没収されるのは分かっていたから。で、そのフィルムを新聞部の先輩にこっそり預けたんだ。その先輩はお父さんの影響で写真を趣味にしていて、家に暗室があったの。それもかなり本格的で、カラーの現像もできたから、写真の現像、プリントはほとんどその先輩がやってくれていたんだよね。何しろ、当時はデジカメなんてものはなくて、お店に頼むと現像とプリント代がばかにならなかったからね。その後は、しばらく自宅待機があって、その間に学校の先生やカウンセラーの人が家に来たりもしたね。保護者に対する説明では、失恋を苦にした自殺と言うことで、いじめとか事件性はないと言うふうに言われたらしいよ。でも、詳細は生徒の間ではもう、周知の事実だったけどね」
七海は、悲しそうな瞳で二人を見比べた。
「まあ、ざっとこんなもんかな?ほかに何か聞きたいことは?」
七海の言葉に、中野が口を開いた。
「その春田さんって、今のOB会長のことですよね?」
その言葉に、七海は無表情な視線を向けた。
「そうだよ。内田元美、旧姓春田元美」
七海の言葉にも、感情がこもっていなかった。
「その春田さんが、京子さんの死後その…Tさんと付き合ったんですか?」
中野の真剣な顔に比べて、七海は皮肉な笑みを浮かべていた。
「そうらしいよ。もちろん表立ってではなかったけどね。まあ、いくら隠したってそんなものすぐにばれるさ」
七海は、深呼吸ともとれる大きなため息を吐いた。
「春田は、京子みたいなお花畑の住人じゃなかった。もっと頭の切れる、言い換えれば世渡りのうまい奴だった。京子にうんざりしていたTからすれば、そんな春田は付き合いやすかったんじゃないかな?」
「でもおばさん?」
中野の改まった感じの言葉に、七海ははっとしたように視線を向けた。
「Tさんの名前は伏せても、なんで春田さんの名前は伏せなかったんですか?」
驚いた七海の顔は、すぐに笑顔になった。
「そうだね、なんでだろうね?やっぱり、春田のことが許せなかったのかもね、私」
そう言う七海の笑顔は、泣き顔にも見えた。
「まあ、今考えてみれば、あの時の私は感情的な憤りであの記事を書いたのかもしれない。確かに先輩からも何度もダメ出しをされて、最初の記事とは全然違う内容になっているからね、その新聞は。口ではカッコいいこと言っても、結局は京子を自殺に追いやった人たちを糾弾したい思いが強かったんだろうね」
明は話を聞きながら、いろんな思いを巡らした。そして、これは結構複雑な事件らしい。藤村京子は、その相手の男のみならず、親友だった春田元美にもかなりの恨みを抱いているかもしれないからだ。死ぬ前に知ったのか、死んでから知ったのかは分からないが。
しかし、京子が後輩にとり憑く理由は何だったのか?何故、当事者ではなく、無関係な後輩になのか。その、相手の男性に会って話を聞いてみたい。京子の死の直前にどんな話をしたのか、具体的な内容を。
「そのTさんと会うことは出来ませんか?」
明のその言葉に、七海は顔を強張れせて明を見つめた。
「それは出来ないよ。もう、過去の話なんだから。今の彼の暮らしを壊すようなことは出来ない」
七海の声は優しかったが、その口調は厳しかった。
「あなたたちにとっては今知った事実かもしれないけどね、私たちにとっては三十年も付き合ってきた事実なんだよ。三十年間、悩み、後悔し、苦しみ続けて今の平穏があるんだ。これ以上過去の傷を開くようなことはしないで上げてちょうだい」
二人は神野宅を後にして、重苦しい雰囲気で歩いていた。確かに七海の言う通り、明たちのやっていることは惨いことなのかもしれない。
―でも…―
明には、藤村京子のことが気にかかってならなかった。七海や内田元美、それにTと呼ばれる男性にとって、今はもう京子の事件は過去のものとなっている。しかし、どうやら京子自身は今もあの事件の真っただ中にいるようなのだ。終わりのない、出口のない苦しみの中にいるのだ。
二人がマンションのエントランスを抜けると、向かいから神野玲奈がやってきた。
「何?もう終わったの?」
玲奈は、親し気に中野に声をかけた。中野は顔をしかめていた。
「まあな、結構詳しく聞かせてもらったよ」
中野の言い方は、何か面倒くさそうである。
「そりゃあ丁度良かった。ちょっと手伝って行けよ」
にこやかな笑顔で、玲奈は中野の腕をつかんで中の方へ引っ張った。
「痛てっ!なにすんだよ!」
「うるさいな、黙ってうちに来て手伝えよ」
「じゃあ、僕はこれで…」
明は面倒なことに関わりたくないので、中野を見捨ててその場を後にした。
中野たちと別れた明は、一人学校へ戻っていた。新聞部の部室で調べ物をするためである。
さっき神野母、七海はTのことを最初、「たかさき」と言ってからTと言い直した。それがうっかりだったのか、敢えてヒントをくれたのかは分からない。分からないから一応確認に来たのである。
明は部室に入り、中野の机の引き出しから例の卒業アルバムを取り出し、ページを開いた。案の定、藤村京子と同じクラスに高崎雄二という生徒がいた。写真を見るだけでなかなかのイケメンであることが分かる。おそらくこの生徒がTに間違いない。
明は、試しにスマホで検索してみた。すると、あっさりとヒットした。市内の自動車修理工場の社長に高崎雄二という人がいるのだ。年齢も一致する。明は思わずこぶしを握り締め、ガッツポーズを決めていた。すぐにでも中野に連絡をと思ったが、あいにく中野の連絡先は聞いていないことに気づいた。やはり、見捨てずに一緒に来るべきであった。後悔先に立たずである。
「仕方ない。明日にするか」
明はあきらめて帰路についた。
5 高崎モータース
翌朝、明は運よく登校中の中野と出会うことが出来た。
「中野さーん!」
明が後ろから声をかけると、中野はびっくりしたように振り返った。明がにこやかに近寄ろうとすると、中野はものすごい形相で明に駆け寄ってきた。そして、驚く明の胸ぐらをつかんで、大声で叫んだ。
「ひでー奴だな、お前は!なんで一人で行っちまうんだよ?普通あーゆーときは無理やりでも俺を連れてゆくだろーが!」
いつもの中野とは別人であった。
「な、何かあったんですか?昨日」
明は怯えながら聞いた。
「何かじゃねえよ。あの後、晩飯まで付き合わされて、危うく泊まらされるところだったんだぞ!俺の人生台無しにする気かよ!」
中野の顔はマジだった。
「そ、そんなことより、昨日のTさんの話…」
明は何とか強引に話題を変えようとした。
「なに?Tがどうした?」
思惑通り、中野の表情が緩んだ。
「あのTさんって、ひょっとすると高崎モータースの社長のことかもしれません」
「?どういうことだ?」
どうやら中野の関心をつかむことが出来たようだった。明は昨日二人が別れてからのあらましを話した。
「うーん、そうか。なるほど…」
中野が満足げに考え込んだ。しかし、すぐに語気を荒げて明に食いついた。
「やっぱり、俺を連れて来るべきだったじゃないか!ああ、もう、昨日アポ取れたのにー!」
中野は悔しそうに頭を抱えた。そしてすぐに低い声で呻くように言った。
「しゃーない。来週にするか…」
明日は土曜日、高崎モータースも休みかもしれない。中野は暫し考え込んだ。
「でも、時間が…」
明はつい、焦る自分の思いを口にしてしまった。それを聞いた中野は、驚いたように明を振り返った。
「何か急いでいるのか?」
中野は不思議そうであった。確かにそうなのだ。中野の予定では、この企画はあくまでも「夏休みの心構え」ということなので、夏休みに間に合えさえすればいいのだ。今はまだ六月の下旬だから、まだまだ余裕はあるのだ。
しかし、明の思いはあくまでも鈴木紗希の安全だから、少しでも早いほうがいいのである。しかも新庄の情報によれば、鈴木は既に別のクラスの結城とかいう男子と付き合い始めているとのこと。二人の関係が深まる前に何とか解決したいのである。しかし、今の明にはそのことを中野に説明する術を持ち合わせていなかった。
中野は、明の困惑した渋い表情を見て、何かを察してくれたようであった。
「よし、分かった」
中野は、ため息交じりにそう呟くと
「こうなったら、アポなし訪問だ」
そう言ってから、素早く明の顔を指さした。
「今日の放課後、行くからな!しっかり住所と行き方、調べておけよ!」
明は、反論できずに小さくうなづいた。
放課後、二人は部室で待ち合わせた。
明は気づいていた。明は毎日部室に通っている。傍から見ると、完全に新聞部員である。中野もきっと、明をこのまま済し崩し的に、みなし部員にしてしまおうと言う腹なのだろう。しかし、絶対にその手には乗らない。明はそう決意している。この取材を終え、真相が明らかになった暁には、はっきりと、冷酷なくらい、スパッと、明確に、断ろうと決めているのだ。
明は、部室のパソコン画面を中野に見せた。
「なかなか立派な整備工場だな」
高崎モータースのホームページにある写真を見て、中野は驚いていた。
「そうですね。親の代からの会社みたいです。ここからだと歩いて行けそうですね」
明は、スマホでルート検索をした結果を見ながら中野に言った。予想時間は二十二分となっている。
「そうか、バス代払わなくて済むのか…」
中野が安堵の声を漏らした。それは明も感じていたことで、片道ならまだしも往復となると負担が大きかった。
「新聞部の活動費とかってないんですか?」
明の問いに、中野は渋い顔で明を見た。
「あるよ。でも、全部あいつが握っている」
そう言う中野の表情を見た明は、それ以上何も言えなかった。
明は、道を歩きながら中野に思い切って聞いてみた。
「あの、部長さんとはどういう関係なんですか?」
中野は、ちらりと明に視線を送るとすぐに正面に戻した。
「すまんが、その質問は遠慮してくれ」
その声は、低く力ないものであった。明は次の言葉が出なかった。「触れてくれるな」という思いが、中野からにじみ出ているのだ。
高崎モータースは、バス通り沿いのバス停の近くにあった。
店の敷地内には、道路沿いに売り物らしい中古車が数台並んでいる。そして、その向こうに工場があり、途中まで開いた状態のオーバースライダーの奥に、修理中と思しき車が数台見ることが出来る。その隣にガラス窓の連なった事務所があり、窓の隣にガラスドアの入り口がある。その建物の横には奥に続く通路があり、その奥にも修理工場があるようであった。
二人は入り口のガラスドアを開け、中に入った。中には来客用の椅子とテーブルが置かれ、その奥にあるカウンターでは受付も兼ねているのであろう女性事務員が、明たちのことを不思議そうに見ていた。制服姿の高校生だけで来店するには、ちょっと不似合いな事務所なのだから当然であろう。
「恐れ入ります」
中野が、その受付の女性に平然と話しかけた。
「高校の新聞部の者ですが、社長さんはいらっしゃいますか?」
受付の女性は怪訝そうな表情を作ると、ちらりと自分の後ろに視線を送った。その視線の先にはちょっと大きめの机に座った男性がいる。高崎社長だった。社長も眉をひそめてじっと中野たちを見ていた。
「どういったご用件ですか?」
女性は中野の方に顔を戻すと、やはり怪訝そうに尋ねた。
「はい、今、当校のOBの方々に、いろいろとお話を聞かせていただいていまして…」
中野がそこまで言うと、奥にいた社長が立ち上がった。
「分かった。話を聞こう…」
そういいながら出てくる社長の顔は、どう見ても機嫌がいいようには見えない。正直、明は怒られるものと思い覚悟していた。しかし、社長の反応は少々違った。
「元美から聞いている。ちょっと外に出ようか」
カウンターから出てきた社長は、明たちにとって意外な言葉を投げかけながら、入り口の方を指さした。そして受付の女性の方を振り返ると照れくさそうな笑顔を見せて言った。
「ちょっと出てくる。後輩のインタビューだとさ」
明たちは、近くの喫茶店へ案内された。
明にとっては、こういう昔ながらの喫茶店は母親に連れられてくる機会が多いので馴染み深いが、中野は馴染みがないので居心地が悪そうである。とは言え、明も初対面の大人の男性と面と向かうのは経験がないのでかなり緊張していた。そんな二人とは対照的に、高崎は足を組んでソファーにもたれ、二人を交互に見比べている。
「この前、元美から電話があったよ」
唐突に話し始めた高崎の声にも表情にも、不機嫌さはなかった。
「京子のこと調べてるんだって?元美が興奮してたよ」
「内田会長とは今でも交流があるんですか?」
すかさず中野が質問した。
「いや、ほとんどないな。もうかなり前に、クラス会をやった時以来かな?でも、まあこっちは商売やってるからな、電話番号くらいすぐわかるだろうさ」
高崎はにやりと笑った。そして、店員が持ってきたコーヒーを手にすると、無造作に口を付けた。
「しかし、なんでまた今頃そんなこと調べてるんだ?もう三十年以上前のことだぞ?」
その言い方は優しく柔らかい口調ではあったが、醸し出す雰囲気にはそれとはまた違うものが滲んでいた。二人が言いあぐねていると、高崎は話を続けてきた。
「人が一人死んでいるんだ。そしてみんな、何かしらの負い目を抱えているんだ。あの事を思い出すということは、その罪の意識も思い出すことになるんだ。言ってしまえば忘れてしまいたい、触れてほしくない内容なんだよ」
決して怒っているのではない。どちらかというと、説明しているような口調であった。
「それは、僕たちも重々承知しています」
そう答えたのは中野であった。
「内田会長にも、それと神野…篠田七海さんにも申し訳ないと思いつつ、突っ込んだ質問をさせていただきました」
「篠田?あいつの差し金か?」
高崎の顔が険しくなった。
「いえ、そうではありません。篠田さんも最初は話すのを拒んでいました。その前にまず、この事を取材するようになったきっかけなんですが、それはこの長谷川君が、あることに気づいたことに始まるんです」
中野がそう言いながら明を指し示すと、高崎の視線が明に向いた。
「もともと、藤村京子さんの事件は学校でも有名でした。ただまあ、よくある学校の怪談的な話としてですが。ですから、亡くなった方の名前も、詳しい事情も知る人はいませんでした。あと、それとは別にもう一つ、うちの学校には七不思議とも言える、不思議な出来事があったんです」
中野の話に、高崎は食いついたように聞き入っていた。
「それは、毎年夏休み明けに必ず一人、新入生の女子のうちの誰かが妊娠するというジンクスのようなものがあるんです」
高崎の顔が凍り付いた。
「だからうちの学校では、二学期の初めに毎年尿検査をするんです。ですから、先生方はそのことを知っているはずなんです。ただ、生徒の方は知りません。プライベートなことでもあるので、あまり大っぴらにされることはありませんし、まあそういう女子がいれば噂にはなりますけど、話題になるのは一年生だけで、二年三年になればそんな話も出なくなります。だから生徒の間には、何年も続いていること自体知る人は少ないんです。そして、そういう話を聞いたとしても、今どきの高校生はそれくらいの事はあるだろう、程度にしか考えていなかったんだと思います。ところが長谷川君は、この二つのことに関連性があるんじゃないかと気付いたんですよ」
高崎は目を見開いたまま聞いている。
「それで、藤村さんのことを詳しく知りたいと言って、新聞部に訪ねてきたんです。僕も最初は取り合わなかったのですが、彼の話を聞いているうちにちょっと興味が湧きまして、調べてみることにしました。もともと、藤村さんの事件に関する記事は、学校新聞では扱っていないものと思われていたのですが、部室の中を調べてみると…出てきました」
中野は、例の欠番新聞を高崎の前に差し出した。高崎は恐る恐るそれを手にすると、ゆっくりと開いて読み始めた。
「こんなもの、読んだ覚えないぞ?」
しばらく新聞に目を通していた高崎が、かすれた声で言った。
「はい。それは結局、学校側が発行を差し止めたそうです」
「そうか、そうだろうな」
高崎は冷ややかに笑った。そしてため息を一つ吐くと中野に向かって尋ねた。
「ひょっとして、これは篠田が書いたのか?」
「はい。昨日、本人が認めました。先輩を説き伏せて書いたと。もちろん、一人で書いたわけではないと思いますが」
「やっぱりな。あいつが黙っていて不思議だなと思っていたんだよ。そういうことだったか」
高崎は薄ら笑いを浮かべていた。
「つまり君らは、その女子生徒の妊娠は京子の呪いだと言うのかい?」
高崎は、笑みを浮かべたまま明と中野の両方に問いかけた。明と中野は、緊張した面持ちで高崎の顔を見つめた。高崎の顔から笑みが消えた。
「そうだと言い切ることはできません」
中野が緊張したまま答えた。
「ただ、その出発点は藤村さんであっただろうということは、間違いないと思います」
高崎の顔にも緊張が表れた。
「藤村さんの時に、学校はなぜ藤村さんが自殺したのかについての詳細を公表しませんでした。そしてその結果、何年後からかは分かりませんが、藤村さんと同じ悲劇が毎年繰り返されてきたんです。もちろん、自殺という最悪の悲劇はなかったかもしれません。しかし、妊娠という女子高生にとっては致命的ともいえる過ちを犯してしまっているんです。それによって、人生が大きく狂ってしまったことは間違いないでしょう。もし、藤村さんの時に事件の詳細を明らかにして、二度とそんな悲劇を繰り返さないように指導していれば、こんな悲劇の連鎖はなかったかもしれないんです」
中野は睨みつけるように、高崎を見据えた。高崎も神妙な面持ちで中野を見ている。
「僕はそう思っています!」
突然、明が叫ぶように声を上げた。中野も高崎も、驚いたように明を見た。
「僕は、藤村さんの思いがこんなことを繰り返させているんだと思ってます。それが呪いと言う言葉で表現するのが正しいのかどうかは分かりません。ひょっとすると、もっと違う言葉になるのかもしれません。例えば無念さとか、未練とか、執念とか…。僕はそれが知りたいんです。藤村さんが今、どんな思いを抱いているのか。何のためにそういうことをするのか…。事件のあらましは、昨日神野さんから聞いた話でだいたい分かりました。でも、一番大事なこと…、なぜ死ななければならなかったのか。なぜ、教室でだったのか。そしてそれがもし、藤村さんの呪いだったとしたら、なぜ後輩にとり憑くのか。なぜ相手の男性や、自分の友人ではなく、関係のない後輩女子だったのか…。そういう根本的なことが分からないんです。だから僕は知りたかったんです。あの日、藤村さんが自殺したその日、あの教室で何があったのか、相手の男性から何を言われたのか…。僕はそれを知りたいんです」
明の真剣な訴えを、高崎は両目を見開いて驚きを露わにして見つめていた。
しばらくじっと明を見つめていた高崎は、フーっとため息を吐くとうつむいて照れ笑いを見せた。
「はっきり言うもんだね、まったく。若いってのはすごいもんだ…」
そして、そう言うとうつ向いたまま明に視線を向けた。
「でもね、俺も君の意見には賛同するよ」
高崎の意外な発言に、明も中野も驚いて顔を見合わせた。
高崎は続けた。
「俺も今、その毎年女子が妊娠すると言う話を聞いたとき、反射的に京子の顔が頭に浮かんだんだ。あの時のあいつの顔が…」
一度口を閉ざしてから、高崎は明たちの顔を見直して改めて話をつづけた。
「君たちは、俺とは違う人種なんだろうね?真面目で、純粋な心を持った…。おそらく俺が君らぐらいの頃、今の君たちの話を聞いていたとしたら、鼻で笑って取り合わなかっただろうと思う。でもね、人間、歳を取ると考え方は変わるもんなんだね?今の君の話、ものすごく身につまされたよ」
そう言う高崎の顔は、何となく悲しげであった。
「昔の俺は、女なんか遊んでなんぼのものとしか考えてなかったんだ。どれだけの女と関係を持ったかが自分のステータスみたいな?だから相手の女の気持ちとか感情とか、そんなもの考えもしなかった。その頃の俺にとって愛情とは、その時を楽しく過ごすことでしかなくて、相手を大切にするとか、尊重するとか、そういう気持ちは全くなかったんだ。あの頃つるんでいた仲間の中には、今でもそのままの奴もいる。だから結婚しても女遊びを続けて、離婚再婚を繰り返したりとか…。でも俺はそうなれなかった」
高崎は、明たちの様子を確認するように視線を向けた後、照れたように目を伏せた。
「今、娘が二人いる。二人とも中学生なんだ。生意気で、俺の言うことなんか全然聞かないけど、正直、二人ともかわいいよ。だから、あの子らには幸せでいてほしいと願っている。苦労や辛いことはあっても仕方ないし、むしろそういうのはあったほうが良いとも思う。でも、傷ついたり不幸な目には遭ってほしくないと、心から願っている。で、その娘らが大きくなってみて、時々思うことがあるんだ。もしこいつらが、あの頃の俺みたいな男に捕まったらどうだろうか…もし、京子みたいな目に遭ったらどうだろうかって……。体が冷たくなったよ。恐ろしかった。きっと相手のことを殺すだろうって思ったよ」
高崎は、怯えるような目で明たちを見た。
「俺は取り返しのつかないことをしてきたんだ。今の俺には分かる。その妊娠した女の子たちの親御さんの心の痛みが。京子のご両親の悲しみが…」
そう言って高崎は、ソファーにもたれて天井を見上げた。
「本当に勝手なことだと思うよ。自分がそう言う立場になってみて、初めて気が付くんだからな。娘らの育っていく姿を見ながら、日に日に後悔の念というか、罪の意識というか、そういう重苦しい思いが大きくなってくるんだよ。正直、こんなこと誰にも言えないけど辛かったよ…」
高崎は、冷めた笑顔で明たちに顔を向けた。
「話すよ。いや、話させてもらうよ。懺悔の意味も込めて、あの時俺と京子の間でどんなやり取りがあったのかを。あの時も、全部は言えなかったんだ。俺の保身のために。京子に対してどれだけひどいことを言ったのか、自分でも分かっていたから」
そう言う高崎の顔は、真剣だった。
高崎は、京子から妊娠の話を聞かされる前から、京子に対する気持ちは冷めていたらしかった。京子は良く言えば純粋なのだが、高崎から見ると、いわゆるただのお花畑の住人でしかなかったらしい。もちろん当時はそんな表現はなかったらしいが。そしてその頃から、春田元美、今の内田元美と親しくなって行ったのであり、春田も内心京子のことを見下していたこともあって、そんな話で盛り上がったりもしたのである。
そこへ京子の妊娠の報告があった。しかも深刻な顔で報告する京子は、もう既に出産する覚悟を決めて、高崎と一緒に育てるつもりでいたのだ。
高崎は、京子に産むことのできない理由をゆっくりと話して聞かせた。しかし、京子は納得しなかった。よくよく話しを聞いてみると、京子の口から、中絶は『罪』であるという言葉が出てきた。ここで初めて、高崎は京子がクリスチャンであるという事実を知ったのだった。高崎の気持ちは決定的なものとなった。高崎は、クリスチャンとは付き合えないと言い切り、中絶の費用は自分が責任を持つと伝えて、京子に別れを告げた。
高崎は親しかった先輩から、秘密裏に手術を受けられる病院の紹介をもらい、費用も高崎が負担した。高崎の実家の修理工場は当時は今以上に景気が良く、金には困らなかったのであった。それで、京子も家族に知られることもなく堕胎することが出来たのであった。
その頃から、高崎は春田との交際を本格化させていった。表向き、秘密と言う体裁を取ってはいたが、ほぼ公然と言っても良かった。ただ、春田の意向で、京子には知られないようにはしていた。そして、高崎に捨てられた京子に対し、他の友人たちもよそよそしくなり、京子は孤立していたために、京子自身は高崎と春田の関係には気づいていなかったと思われる。唯一、篠田七海だけは優しくしてくれたが、かつて京子の方から拒否してしまった経緯があったこともあり、深く交わることは出来なかったのだった。
そして事件当日、京子は放課後の教室に高崎を呼び出した。みんなが帰った後、二人だけで話がしたいと言って。
高崎は頃合いを見計らって教室へ赴いた。春田は行く必要はないと止めたが、高崎ははっきりと終わらせるんだと言って、春田を外で待たせておいた。京子との話が終わったら、春田と二人でその話題で盛り上がるために。
教室に入ると、京子は窓の外を見ていた。そして高崎に気が付くと、振り返って嬉しそうに笑顔を見せた。高崎はここで、京子を勘違いさせてしまったことに気が付き、少し後悔した。やはり、春田の言う通りここは無視をするべきだったのだ。
京子は目を潤ませ、明るい声で言った。
「私、あれから考えたの…」
高崎は、その声を聴いて、そしてその目を見て、何か不気味な感覚に陥った。
―こいつ、まともじゃない―
直感的にそう感じた。そんな高崎の動揺を他所に、京子は話をつづけた。
「やっぱり私には、雄二君しかいないの」
雄二とは高崎の名である。
「私、信仰を捨てる。もう教会には通わないし、神様の話もしない。考え方も変えるように努力する。雄二君の気に入る私になるように努力する。だから、私とやり直してちょうだい。お願い…もう一度…ね?」
京子の姿には、懇願するとか、哀願するとか、そういう素振りは見られない。それは、笑顔で『提案』しているというのが相応しかった。
「今日、うちの両親二人ともいないの…。今晩、うちにおいでよ」
興奮気味に語る京子に、高崎は怖くなった。
「誰がお前なんかとやり直すか!お前みたいな女、相手にする男がいる訳ないだろ?ふざけるな!」
恐怖も相まって、高崎の言葉も激しいものとなった。京子の表情に困惑が浮かんだ。
「どうして?どこが悪いの?言ってちょうだいよ。雄二君の言うこと、何でも聞いてきたでしょ?私。雄二君の言う通り、中絶だってしたじゃない」
京子がにじり寄ってくる。それに気圧されるように、高崎は後ずさりした。
「何言ってんだ!だいたい、そんなすぐに妊娠するような女、好きになる男なんかいないんだよ!そうだ、お前みたいな女どんな男でもすぐに嫌になっちまうさ!」
京子が怯えた顔になった。
「そんな…酷いこと…。わ、私は、ほかの男なんかどうでもいい。嫌われたって構わない。雄二君さえ私を好きでいてくれれば、他に何もいらない」
「だから、俺を含めた男みんなのことを言ってるんだ!俺もお前が薄気味悪くて嫌なんだよ!もう、顔も見たくない!」
高崎はそう言い残してそのまま教室を逃げるように飛び出した。京子が飛び掛かってくるような気がしたからだ。
しかし、京子は追いかけてこなかった。教室の中からは京子のむせび泣く声が聞こえてくる。高崎には京子に同情するような余裕はなく、一刻も早くこの場を立ち去りたい一心で校舎を出たのであった。春田元美の待つ校門を目指して。
高崎は、話し終わると明の方へ視線を向けた。
「君はさっき、なぜ自殺したのが教室だったのか?って言ってただろう。あれはおそらく、理由なんか無かったんだと思うよ。俺が立ち去った後、そのまま衝動的に手首を切ったんだと思う。ほら、よく『ためらい傷』とかって言うだろう?それも無かったそうだよ。悩んだり、考えたりする間もなくやったんだろうね」
そう言った後、高崎は何かを考えるように沈黙した。明と中野も何も言えずにただ高崎の様子を伺っていることしか出来なかった。
「うちの、下の娘がね…」
高崎が、照れくさそうに話を始めた。
「性格がちょっと、京子に似ているんだよ。感性って言うか、考え方って言うか…。ちょっと夢見がちって言うのかな?ロマンチストっていうのかな?」
あくまでも、自分の娘に対しては「お花畑の住人」という言葉は使わないらしい。
「今年、中学に入ったんだけど、中学生にもなって…と思うと同時に、そういう世界をずっと失わないでほしいという気持ちもあったりして、そこが可愛かったりするんだよね…。俺は本当に勝手な奴だと思うよ」
中野と明は帰り道、終始重苦しい気持ちに包まれ、二人とも無言であった。何となく想像はしていたものの、当事者から実際にあった事実として聞かされると、さすがに後味の悪い物を感じざるを得なかった。高崎の表情は、作り物ではなく本心から後悔しているようであり、明たちに対して告解するような面持ちで合った。おそらく、ずっと心の中にわだかまりとして持ち続けてきた後悔だったのだろう。
部室に戻ると、中野は自分の席に腰を下ろすなり大きなため息を吐いた。明も余っている椅子に座り、やはり深いため息を吐いた。
「ちょっとここで、はっきりさせて置きたいことがある」
突然中野が口を開いた。明がハッとしたように中野を見ると、中野も明の方を見ていた。
「君はこの事を,藤村京子の呪いのようなものだという観点でとらえているんだよな?」
そう言う中野の眼は、いつになく鋭さを秘めていた。
「ええ、まあ、そう言うことになりますね」
明は遠慮がちに答えた。
「そうか…、そうだよな…」
中野は暫し口ごもったが、すぐに言葉を続けた。
「最初に言った通り、俺はあくまでも夏休み前の注意喚起のようなつもりで始めたんだ。でも、今日の話を聞いているうちに君の言うことも全く否定できないような気がして来たんだ。そんな怨念のようなものがあるのかな?って」
おそらく今の中野も、半信半疑という段階なのだろうと明は考えた。なにしろ、明自身もこのことが、現実なのだと言う実感がまだないのだから。
「でも、いくら学校新聞とは言え、俺らが作っているのはあくまでも新聞だ。あまりにもオカルトな記事は書けない。だから、なるべく客観的な情報としてこの自殺事件も紹介することになると思う」
明は、笑顔で椅子から立ち上がった。
「分かっています。僕は別に新聞を作ることが目的なのではなく、この事件の詳細が知りたかっただけなので、もう十分満足しています。中野さんには本当にお世話になりました。新聞の方は全て、中野さんの判断にお任せします。今回の取材が何かのお役に立てたなら、僕としてもとても嬉しいです」
そう言いながら、明は少しづつ後ずさりしながら出口の方へにじり寄った。そして
「では、本当にお世話になりました」
と言うと、一度深く頭を下げるなり、ドアを開けて素早く外へ駆け出した。
明には、中野の次の言葉が分かっていた。記事の内容に関する協力要請だ。それを断るにしても、ここで下手に会話を続けると、情に絡められて身動きが取れなくなるのは分かり切っていた。薄情なようでも、バッサリと切り捨てるのが最良の方法なのである。
中野は追いかけては来なかった。
6 挑戦
翌日、明は自宅の部屋で物思いにふけっていた。土曜日のため、本日は休校である。
相沢と話をしたかったが、残念ながら相沢の連絡先は分からない。ここ数日、放課後は中野と一緒だったので、相沢と話す機会を持てず報告する内容が溜まっているのだ。相沢の方からは、たまに例の腹話術で話しかけて来て、彼女なりの見解を伝えてはくれていた。しかし、明にはあの腹話術は出来ないから、校内では詳しい話をすることが出来なかった。
そうこうしている間にも、藤村京子の霊と思われる黒い影は、少しづつ形をはっきりさせて来ていて、女子高生らしい姿を形成し始めていた。その変化の様子は、あたかもカウントダウンのようで、それを見るたびに焦りのようなものを感じさせられるのだった。
相沢は言った。
「お師匠さんが、そいつには手を出すな、お前にどうこう出来る相手ではない。もし、どうしても何とかしたいなら、お寺へ連れて来なさい。手強い相手には、整った環境で本人の意思も含めた力が必要なんだ、と仰っていました」
確かにその通りだと思う。病気でもそうだ。医者の能力だけで治療できる訳でもない。患者本人の意思とそれなりの環境が必要だ。
そうなのだが、では鈴木紗希をお寺まで連れて行けるかと言うと、それは難しそうだ。本人に霊が取り憑いているなどと言っても信じるはずもない。そもそも、自覚症状が無いのだろうから。
明は、ベッドに横になりながら状況を整理してみた。
事のあらましは、だいたい分かった。自殺の動機は、高崎に捨てられた事だ。さらに、もし気づいていたならば、親友だった春田元美が自分を見捨てて高崎とくっついたことも理由の一つかもしれない。そして、藤村京子はそのショックで衝動的に自殺を図った。妊娠自体は自殺の直接的原因ではなかったようだ。それが教室だったのは、高崎に別れ話を突き付けられたのが教室であり、そこから家に帰る気力も無いままに、その場で事に及んだ訳だ。
では、京子の魂がその場に残ったのはなぜか?相沢の話によると、霊が残るのは自分が死んだことに気づかないとか、この世に対する未練や執着や恨みがある場合だと言う。京子の場合は何だったんだろう。
自殺しても自分が死んだことに気づかないんだろうか?発作的に、衝動的にやってしまったのなら、気づかない事もあるかもしれない。「未練」と「執着」は同じことかもしれないが、京子の場合、それらも当てはまるかも知れない。そして最後に「恨み」。これこそが最も有力な原因と言えるであろう。
では、どうすれば京子は浄仏できるのだろうか。どうなれば、京子のこの世に対する未練や執着を消して、恨みの思いを解くことが出来るのだろうか。逆に言えば、京子は後輩の女子を自分と同じように妊娠させることによって、何をしようとしているのか。どうなってほしいと願っているのか…。
全く分からない。これで、当事者である高崎や元美に何か災いが及んでいるのならば話は分かりやすい。それが全く関係のない後輩の女子に起きているのだからややこしいのだ。明ははじめ、自殺の直前にあった高崎との会話の中に何かヒントがあると踏んでいた。しかし、昨日の高崎の話を聞いても、明には全くピンとくるものが無かったのだ。
「そりゃそうだよな。俺、女じゃないし、振られたことないし、妊娠なんかしたことないし…」
明は恋愛経験がなかった。もちろん、中学時代に気になる女子はいたし、かわいい娘には心惹かれる。今もクラスの女子の中に、「イイナ」と思う女子はいる。しかし、その思いが「恋」なのかと言うと疑問であった。なぜなら、中学の頃のその、気になる女子が別の男子と付き合い始めても、悔しかったり、がっかりしたりはしたが、それほど大きな痛みも苦しみも感じなかったのだから。
明はぼんやりと考えた。
―相沢なら少しは分かるのかな…―
相沢も女子なんだから、恋愛の経験があってもおかしくはない。たとえ、そんな経験が無かったとしても、同じ女子として京子の気持ちを察することが出来るかもしれない。
しかし、すぐに気が付いた。明も男であるが、他の男子の失恋の痛みは分からないのであった。やはり、経験していない気持ちは理解できないものかもしれない。
―相沢も恋愛なんかするんだろうか…―
何となく、そんなことを思い巡らす明少年であった。
回答の出ない問題を抱えた一日は長い。マンガやゲームに費やす休日は瞬く間に過ぎ去るが、物思いにふける一日は恐ろしく長かった。早く月曜日になって相沢と話がしたかった。
一人悶々とする明の頭に、不意にある思いが閃いた。
―本人に直接聞けばいいのではないか?―
明は思い出した。以前、相沢が音楽室で男子の霊と会話をして、その男子がもう死んでいて、ここにいてはいけない存在なのだと諭していたことがあった。そしてその男子は、相沢のその言葉に納得して浄仏して行ったのであった。相沢は霊と会話が出来るのだ。鈴木の背後の霊の素性も分かっている。ゆっくり話していけば理解してくれるかもしれない。そして彼女の思いや目的も話してくれるかもしれない。
月曜日が待ち遠しい。こんな思いは初めてな明であった。
月曜日、明は心躍らせて学校へ向かった。月曜の朝が待ち遠しかったのは生れて初めてである。しかも今日は、訳あっていつもよりもかなり早く登校している。
昨日の日曜日、明は一日かけてレポートを作成した。ここ数日の、藤村京子に関する調査報告である。
明が、どうやって相沢に伝えるか悩んだ結果、とりあえず書面にして渡そうという結論になった。朝、それを渡して相沢に呼んでもらい、そのうえで相沢の都合のいいときに会って話し合えばいいと考えた訳だ。スマホで何度も何度も書き直しながら作成し、最後にコンビニのコピー機でプリントアウトした。本当に一日、夕方までかかってやっと出来上がった。噂には聞いていたが、実際にやってみて、レポートと言うものは本当に面倒なものだとはじめて分かった。
そういう訳で、明は玄関で相沢が来るのを待っていた。やはり、教室で渡すのは気が引けたから。
明は相沢を見つけると、小走りで駆け寄りすれ違いざまに声をかけた。
「ちょっと来て」
そして教室とは反対側に走り抜けて、廊下を曲がったところで身を隠した状態で小さく手招きをした。相沢は、はじめ驚いていたが明の意図に気が付くと嬉しそうにほほ笑んだ。
「どうしました?」
駆け寄って来て、少し照れた笑みを浮かべた相沢を見た明は、なぜかドキリとした。
「あ、あのこれ…」
明はその動揺を悟られないように、慌てて折りたたまれたコピー用紙を差し出した。
「今まで新聞部の先輩に手伝ってもらって調べた、自殺した生徒の調査結果。とりあえず、これ読んでおいてもらえるかな。それで、後で少し相談しよう」
相沢はちょっと驚いた様子だったが、すぐに笑みを浮かべた。
「分かりました。すぐに読ませていただきます」
明は相沢を先に行かせた。いつも相沢の方が明よりも早く登校しているからだ。明はしばらくその場に残り、相沢を見てときめいた胸を沈めてから教室へ向かった。どうやら、明は相沢と会えて嬉しいらしかった。今日、久しぶりに相沢と話が出来る。静まったはずの胸が、再び高鳴り始めた。
明は意気揚々と教室の戸を開けた。そんな明の目に最初に飛び込んできたのが、たまたまそこにいた鈴木の後ろ姿であった。それを見た明の背筋に冷たい衝撃が走った。
明の目の前の鈴木の背中には、制服姿の女子生徒の後ろ姿が張り付いていたのだ。いや、埋まっている、もしくは重なっていると言うのが、より正確かもしれない。よく見ると、見えてるのは上半身だけで、下半身は完全に埋まっていて見えなくなっている。先週までの、ぼんやりした姿ではなく、他の霊たちと同じようにはっきりとした姿である。
「あ、長谷川か。おはよう!」
誰かが入ってきたのに気付いて振り返った鈴木が、それが明であることに気づいて、明るい笑顔で挨拶を投げかけた。その明るい笑顔の上の頭からは、藤村京子らしい顔の眼から上だけが鈴木の頭に入りきらず、はみ出したように出っ張っている。うつろに開かれたその目が、やや充血していて恐ろしい。
ここで明は、今まで大きな勘違いをしていたことに気が付いた。今まで、鈴木の背後に浮かび上がっていると思っていたこの京子の霊は、実際は鈴木にくっついていて、少しづつ鈴木と同化しようとしていたらしい。それを今まで、明は遠目にしか見ていなかったために、見落としていたのであった。
その状態が何を意味するのかは、明には分からない。ただ明の経験上、霊は人間の体には直接的影響を与えることは出来ない。だから、京子も鈴木に何かしようとしても、スカスカと通り抜けてしまってなかなか影響を与えることが出来ないと思われる。しかし京子は、時間をかけて少しづつ鈴木に侵入し、鈴木の肉体ではなくいわゆる相沢の言う、霊体の方に影響を与えようとしているのだろう。
と言うことは、京子は今まで過去の女子生徒の時も、とり憑いてその生徒の心、精神をコントロールしていた訳だ。
今、教室に入った所らしい鈴木は、鞄を持ったまま小さく手を振りながら新庄の方へ歩いて行く。相変わらず明るく、はつらつとしている。見かけ上は何の変化も見られない。明はその姿を、複雑な表情で見送った。
明が視線を相沢に向けると、相沢は明が渡したレポートを真剣に読んでいる。相沢も、今の鈴木の姿を見て深刻なものを感じているのであろう。席に座るなり大きくため息を吐いた明に気が付いたのか、相沢が顔をレポートに向けたまま、視線だけ明に送ってきた。明もそれに気づいて、二人の視線が交わった。
―長谷川君、一時間目終わったら、この前の体育館横の空き地、いいですか?―
相沢の腹話術だ。明は右手の人差し指と親指で丸を作って見せた。
一時間目の授業が終わるとすぐに、まず相沢が廊下へ出た。いつもの徘徊を装って。少し間を置いて明も廊下に出ると、後ろから明を呼ぶ声がした。誰かと思って振り返ると、新庄が明の後を追って来ていた。驚く明に新庄は気まずそうに近寄って言った。
「ごめんね、長谷川」
突然の新庄の謝罪に、明は戸惑った。
「いや、長谷川がそんなに紗希に思いを寄せていたとは気づかなかったんだよ。この前まで、そんな素振り全然気が付かなかったからさ。分かってたら、絶対私もあんな奴に紹介しないで、長谷川を勧めていたと思う。でも、紗希のことは恨まないでやってね…」
明には、あまりにも唐突すぎて頭がついて行けなかった。その困惑気味の明を見て、新庄も口籠った。
「朝、すごい顔で紗希の事見てなかった?」
一瞬頭をフル回転させた明だったが、すぐに新庄の言葉の意味は理解できた。朝、鈴木を見ていた明のことを言っているのだろう。明自身は気が付かなかったのだが、きっとすごい顔をしていたのだろう。
「ああ、あれね。うん、まあ、そうかな?」
明にはごまかすしかなかった。
「いや、照れなくてもいいんだよ。長谷川が紗希に惚れる気持ちはわかるから。あの娘、顔だけじゃなくて性格もいいからさ、男子には魅力的だと思うんだよね」
新庄は、冷やかしではなく本気で心配しているようである。
「私、長谷川の事、紗希に推してあげようか?」
新庄は真剣な顔で言ってきた。
「私、本当にあの結城って奴、嫌なんだよね。紗希に紹介したこと後悔してるんだよ。あいつ、絶対紗希の事、遊びにしか思ってないよ。あー、紗希があんなにミーハーだとは思わなかった。ちょっとお花畑なところはあると思ったけど、もうちょっと考えているかと思ってた。私もなんで紹介しちゃったかなー?」
新庄は次第に悲しそうな顔になり、自分を責め始めた。明はその話を聞きながら、その内容が気になりだした。
「ちょっと、新庄。もともと鈴木は、どういう経緯でその男と付き合うようになったの?」
「いや、最初は私と廊下を歩いているときに、たまたま結城とすれ違ったんだけど、そのときに結城の方から私に話しかけて来ただけだったんだよ。あいつ、中学の時から私に言い寄って来てたからさ」
新庄は、泣きそうな顔のまま愚痴るように話し始めた。
「そしたら、次にまたあいつと会うことがあってさ、その時はあいつ、紗希にちょっかい出してきたんだよ。あいつ、私がなびかないから狙いを変えて来たんだ。私はあいつを一喝して、その場は相手にしなかったんだけど、どういう訳か紗希の方が関心持っちゃってさ、紹介しろって言いだしたんだよ」
新庄は腹立たしそうだ。
「ほら、あの娘、ああいう感じでお気楽っていうか、ちょっと浮かれた感じでしょ?まあそこがあの娘のいい所なんだけどさ、よく言うお花畑って言うか、ちょっと夢見がちなところがあるんだよね。中学の時も男子に人気あって、いつも男子と一緒に騒いでいたんだってさ。で、結構告白されたりもしたらしいんだけど、恋愛には奥手だったらしくて、友達以上にはならなかったらしいんだ。ところが最近になって男子、と言うか恋愛に関心が出て来たらしくて、高校に入ったばかりの頃は男子を変に意識してて、あんまり男子とは絡んだりしなかったんだよね」
よっぽど不安なのか、新庄の話は終わらなかった。
「ところが、よりによってあんな奴と絡み始めやがった。あのバカ!」
突然新庄が、明の顔をにらむような真剣な顔で、顔を寄せて来た。それは鬼気迫る美しさが溢れていた。
「長谷川、お願い!紗希にアタックして!私がしっかり応援するからさ!」
こんなきれいな女子から、別の娘をプッシュされるのもちょっと複雑な心境である。明は、苦笑いをしながら後ずさりをした。新庄ともっと話をしたい気持ちもあるが、今は鈴木の問題を解決するのが先決だ。
「ゴメン、その話はまた後で」
明は、そう言い残して小走りで離れた。
「え?ちょっと待ってよ」
新庄が驚いて、遠ざかる明へ手を伸ばした。
「ちょっと、トイレ!」
「え?あ、そう?…ゴメン…」
申し訳なさそうに叫ぶ明を見ながら、新庄は拍子抜けしたように明を見送った。
相沢は厳しい面持ちで待っていた。
「ごめん。遅くなっちゃった」
新庄に呼び止められたおかげで遅くなり、かなり相沢を待たせてしまった。しかし、相沢は明の顔を見ると、ホッとしたように笑みを浮かべた。その笑みを見ると、明もちょっと嬉しくなり頬が緩んだ。
「教室を出たらさ、新庄に呼び止められちゃって…」
その言葉を聞くと、相沢の笑みに力が入った。
「なんか、最近俺が鈴木のことを気にしているもんだから、新庄の奴、俺が鈴木に気があると思ったらしくて…」
相沢の眼が大きく開かれた。
「で、俺に頑張ってアタックしてくれって頼んできたんだよ」
相沢の顔は驚きに変わっていた。明は、こんなに感情を表した相沢を見たのは初めてだった。やはり相沢も普通の女の子だったんだと感じて、明も何となく嬉しかった。
「いや、新庄も鈴木が結城って奴と付き合うのが不安みたいで、あんな奴と付き合うぐらいなら、俺と付き合うほうがマシだって言うんだよね」
「え?鈴木さん、男子と付き合ってたの?」
相沢の顔に、さらに驚きが表れた。
「え?俺言ってなかったっけ?」
「うん、長谷川君からは聞いていない」
そう、あの時は新聞部の中野と一緒に調査中の時だったから、相沢と話す機会が無かったのだった。
「ごめん、話してなかったね。実はさ、この前ひょっとしてと思って、新庄に聞いてみたんだよ。鈴木は誰か、男と付き合っていないか?って。そしたらなんと、ちょうど男を紹介してきたところだって言うんだ。それでどう言うことか聞いたらさ、新庄の中学の時の同級生らしいんだけど、すっごく女子に人気のある結城っていう男を鈴木が気に入っちゃったと言うんだよ。で、その男がすごい女ったらしで、中学の時でさえいろんな女に手を出していたっていうんだよね。新庄はそいつのことが嫌いみたいなんだけど、鈴木が気に入っちゃったから、つい紹介しちゃったらしいんだ。で、今日ものすごく後悔しているって、なんで紹介しちゃったかな?って、すっごく悔やんでた」
「それは、藤村さんの霊が取り憑く前の事?」
相沢は、急に真剣な顔になり、明に質問した。
「いや、新庄が紹介したのが、俺が中野さんと調査を始めたばかりの頃だから、鈴木がその結城って奴を気に入ったのがその少し前だと思う。だから…霊に憑かれた頃?」
明も眉をひそめた。相沢がうなづいた。
「おそらく、鈴木さんは藤村さんが取り憑いた後から、その結城さんが気になりだした」
「つまり、鈴木は霊の影響で結城を好きになっているのか?」
明の顔にショックが浮かんだ。
「たぶん、そうだと思います。藤村さんが結城さんを狙ったのかどうかは分かりませんが、鈴木さんの心に恋愛を誘発する何かの操作をした。それで鈴木さんが恋愛を求める気分になって、その時たまたま結城さんと接点を持った…。そんなところでしょうか」
相沢は、探偵が事件の分析をするような感じで説明した。
その時、始業のチャイムが鳴った。
「あ、もう時間だ」
「じゃあ、とりあえず戻りましょうか」
二人は教室へと急いだ。
次の休み時間、二人は再度体育館横で待ち合わせた。
「私、次の休み時間にちょっと話しかけてみます」
到着するなり、相沢が真剣な表情で言った。
「長谷川君の考え通り、直接聞いてみるのがいいかもしれません。霊たちはみんな、自分の存在を誰も理解してくれなくて、自暴自棄になっていることが多いんです。会話することで、心を開いてくれるかもしれません」
「うん、そうしてくれると助かるよ」
明は嬉しそうに応えた。
「ただ、問題が…」
急に相沢が、困惑した顔つきになった。
「分かると思うんですけど、私、あまり人と会話をしたことがないので、うまくコミュニケーションを取れるかどうか心配なんです」
明も納得した。
「でも、他の霊たちには上手に説得してきたんでしょ?ほら、あの音楽室の人みたいに」
それを聞いた相沢は、悲し気にうつ向いた。
「あの人たちは、それほどの恨みや敵対心みたいなものが無くて、素直にこっちの話を聞いてくれる人たちだったんです。藤村さんの場合は、私如きの話に耳を傾けてくれるかどうか…」
そう言われると、明にも返す言葉が無かった。何も言えず渋い顔をしていると、相沢はさみしそうにチラリと視線を明に向けた。
「少しぐらい、励ましてくれるかと思ったんだけど…」
その言葉を聞いて、明は慌てて
「ごめん!そうだよね。悪かった。機嫌直して!」
と叫ぶと、両手を合わせて頭を下げた。
「大丈夫、冗談ですよ」
相沢は、明るい笑顔で笑った。それはごく普通の女の子の笑顔だった。明はその笑顔を見て、「意外」に感じた自分が何かとても悪い奴に感じた。相沢に対する偏見はまだ残っていたのだ。
「とにかく、ダメもとでやってみます」
ちょっと悲し気な相沢の笑顔を見ながら、明は静かに言った。
「うん、頑張ってみて。こんなこと誰もやったことないんだから、どうなるかなんて誰にも分からないんだからさ。相手の反応を見るつもりで」
相沢の笑顔に、明るさが加わった。
次の休み時間、予定通り藤村京子に話しかける試みが行われた。
相沢は教室の後ろに回り、後ろの棚に寄り掛かるようにして鈴木と一体化している藤村京子を見つめた。明は、自分の席に座ったまま後ろを向いて、鈴木と相沢の両方に注目した。
鈴木はいつものように、新庄の椅子を半分占領して机にもたれるように肘をついている。その隣には山口がいて、他にはいつもの四、五人の顔ぶれがある。
―藤村京子さん―
相沢の腹話術が聞こえた。
―始まった!―
明は、緊張して体に力が入った
すると、鈴木が突然後ろを振り返り、あたりを見回した。
「え?どうした?」
そう言ったのは山口だったが、他の全員同じ表情をしていた。
「あ、いや、なんでもない」
鈴木は前に向き直ったが、なぜ自分がそうしたのか分からず、不思議そうな顔である。
「なんだよ」
あたりに嘲笑が起きた。鈴木も照れ笑いをしている。
しかし、相沢はしっかりと確認した。鈴木が後ろを見回している間、鈴木の頭の上に盛り上がる京子の眼が、相沢のことを見つめていたことを。
―藤村京子さん!―
今度の呼びかけは、さっきより強い口調だった。しかし、今度は鈴木に動きはなかった。
相沢は、少し何かを考えているようだった。
―聞こえているんでしょ?藤村さん。そのままでいいから返事をして―
その問いかけにも、鈴木に変化はなかった。しかし、相沢は続けた。
―私たち、あなたのことを調べました。あなたは三十年ほど前にこの学校で自殺した藤村京子さんなんでしょう?―
すると、明からは見えなかったが、相沢からは鈴木の背中に埋もれきれていない京子の背中が、震えているように見えた。相沢は手応えを感じて続けた。
―あなたは、毎年今頃になると一人の女子にとり憑いて、妊娠するように仕向けているんでしょ?何故そんなことするの?毎年、あなたの後輩があなたと同じ苦しみを味わっているのよ?どうしてそんなことをするの?―
鈴木に反応はないが、京子の背中の震えは少し大きくなっているようだ。それが何の震えなのかは分からない。怒りなのか、不安なのか、悲しみなのか。
「なんか、背筋がゾクゾクするんだけど」
鈴木が肩をすぼめて呟いた。周囲の視線が相沢に集まった。相沢が鈴木をにらみつけているように見えるのであろう。しかし、相沢にはそんなことは目に入っていなかった。
―あなたも、望まぬ妊娠がどれほど辛い事か分かっているでしょう?その娘たちもみんな同じ辛さを味わっているの。きっとその娘たちはみんな相手の男子とは別れさせられていると思う。妊娠したことによって、好きな人と別れなければならないなんて、悲惨だよね?―
明の胸に不安が込み上げてきた。相沢はちょっと煽り過ぎているのではないかと。
―あなたも、高崎さんに妊娠したことが原因で捨てられたんでしょう?その辛さは誰よりも分かるでしょう?何故そんなことするの?理由を教えて―
鈴木にも京子にも変化はない。
―ひょっとして、高崎さんが春田さんに乗り換えたことが原因なの?―
―え!それ言っちゃう?―
明はビビった。案の定、鈴木が立ち上がった。振り返った鈴木は、ものすごい形相で相沢を睨んだ。
―やばい!―
明は慌てて立ち上がったが、その時すでに、鈴木はものすごいスピードで相沢に駆け寄って掴みかかっていた。
教室が騒然となった。誰もこの状況を理解できずにいる。それもそのはず、いつも朗らかな鈴木には、怒りや暴力と言ったイメージが皆無だったのだから。
ただ一人、事の成り行きを理解している明は、鈴木が動いたのとほぼ同時にスタートを切っていた。
―ふざけるな!何を言う!そんなことある訳ない!―
明の耳に、相沢に掴みかかる京子の悲痛な叫びが聞こえた。それを聞いて、明も相沢もそのことを京子は知らなかったのだと悟った。
明は、鈴木の背中に盛り上がるように現れている、京子の背中を掴んだ。そしてそれを力任せに引っ張ると、鈴木ごと引き倒す形となり、鈴木は床に転がった。明が京子を掴んだままなので、鈴木は横向きに倒れている。明には、さっきよりも京子の体が盛り上がっているように見えた。ぐいと引っ張ってみると、少しは出てくるが何かに引っかかっているかのように、鈴木ごと持ちあがり途中で止まってしまう。
明は夢中で鈴木の腰に片足をのせて、力任せに引っ張った。すると勢い余って転んでしまった。しかし、京子の背中は離さなかった。見ると、見事京子の全身が鈴木の体の外に出て来ていた。
―え?―
一瞬、明の思考は停止した。なにしろ、想定外の事態だった。しかし次の瞬間、明は京子を抱きかかえて廊下に飛び出していた。それはもう、本能と言うか、直感と言うものであろう。それを見た相沢も、慌ててそれに続いた。
二人が去った教室は、時間が止まったように静かだった。床に転がった鈴木は、むくりと上体のみを起こして、床に腰を下ろしたまま周囲を見回した。その姿をクラスのみんなが呆然と見つめていた。
「紗希、あんた何やってんの?」
新庄が近づいて来た。
「…分かんない…。なんか、急に相沢のことが憎たらしくなって…その思いが抑えられなくなって…」
鈴木は急に涙ぐんだ。
「ゆかりー、こわーい」
そう叫んで、新庄に向かって両腕を大きく広げると、大声で泣き出した。
「私、長谷川に蹴っ飛ばされたー」
新庄に抱かれた鈴木は、泣きながら叫んだ。
「あれは、蹴っ飛ばされたというより、踏んづけられたと言うべきでは?」
誰かがそう言ったが、
「そういう問題じゃない!」
鈴木が泣きながら一喝した。
教室から駆け出した明だったが、その後のことは考えていなかった。なにしろ、人ひとりを抱きかかえているのだ、とにかくデカいし、しかも暴れるし、騒いでうるさいしで、走りずらかったが、重さは感じられなかったので楽ではあった。
―長谷川君!とにかく体育館横へ!―
相沢の声が聞こえた。明もそのつもりだった。
明は外に出ると草むらに転げ込んだ。しかし、京子の背後から両腕で、京子の胴体を抱きかかえていた。
「長谷川君!もうちょっと待ってね!」
明の後から出て来た相沢が叫んだ。明が見ると、相沢はもう印を結んで送り出しの準備をしている。
「相沢、ちょっと待って!」
明が、上体を起こして叫んだ。相沢は驚いて明の顔を見た。
「このまま、あの世へ送ってしまうのか?この人の恨みはどうなるんだ?」
相沢の動きが止まった。
「でも…」
相沢は戸惑っている。
「京子さん!」
明が叫んだ。
「あんた、もう自分が死んでいることは分かっているのか?あなたはもうずっと昔に死んでしまっているんだよ!あれから三十年も経っているんだ!高崎さんも、春田さんも、篠田さんもここにはいないんだよ!」
京子の動きがさらに激しくなった。
「思い出せよ!あの日、あんたは高崎さんに別れを告げられて、衝動的に手首を切ったんだ。それであなたは死んだんだよ!」
京子の動きが止まった。ただ、全身に力が入って固まっている。明は続けて叫んだ。
「思い出してくれよ。あんたは高崎さんとやり直したいと思っていたんだろう?それで放課後の教室に高崎さんを呼び出して、その思いを伝えたんだろう?でも、あなたの気持ちは受け入れてもらえず、かえって酷い言葉で傷つけられたんだろう?それが悔しくて、悲しくて、自分がいつも持っているカッターナイフで、自分の手首を切ったんだ。その悲しみは、今もその胸の中にしまってあるんだろう?もう一度しっかり思い出してくれよ!」
京子は、静かに自分の左腕を上げてその手首を見た。
突然、それまで何もなかったその手首に真っ直ぐな傷が開いた。そしてそこから、止めどなく真っ赤な血が流れだした。流れ落ちる血は、京子の衣服だけを真っ赤に染めるだけで、明のズボンも、地面の草もその血に染まることはなかった。京子は、自分の手首から流れ出るその血を見ながら体を震わせて嗚咽し始めた。
―怖くなった―
京子の声とも、思いともつかぬ何かが明たちの胸に伝わってきた。
―悔しくて、悲しくて、寂しくて、もう存在すること自体辛くなって、思わず手首を切ってしまったけど…、流れるこの血を見てものすごく怖くなった。死んでしまう。このままでは死んでしまう!―
京子はおもむろに顔を上げ、相沢を見た。
―いやだ!死にたくない!雄二に会いたい!会ってやり直したい!―
そして、血の滴る左腕を相沢の方へ向けた。
「助けて!お願い、助けて!元美にも、七海にも会いたい!助けて!」
最後のそれは、悲痛な叫び声であった。
すると明が、京子の左手を掴んで引き下ろした。
「京子さん。残念だけど、それは出来ないんだ。もうやり直せないんだよ」
それを聞いた京子は、顔を歪めると両目から大粒の涙をこぼした。そして、明の胸に額を当てて声をあげて泣いた。いつまでも、いつまでも。三十年分の涙を流すように。
泣き続ける京子に、明は優しく語りかけた。
「京子さん、高崎さんがこの前言っていました。京子さんには申し訳ないことをした、と」
明は京子の背に手を当てた。
「高崎さんは、若かった頃の自分をとても悔やんでいました。あの頃の自分は相手の気持ちも考えず、その時の感情だけで動いていたと。今はもう結婚して子供もいるそうです。そして自分が親になってみて、京子さんにしたことの罪の大きさを痛感していると言っていました。僕が見ても、本当に後悔しているように見えました」
泣き顔のまま京子が顔を上げ、明を睨んだ。
「雄二、結婚したの?なんで?」
「京子さん、あれからもう三十年以上経っているんですよ?高崎さんも、今は…そう、四十六歳かそれ以上になると思います。娘さんが二人、下の娘は今年中学だと言っていました。京子さんの事件は、もう遠い昔の出来事なんです」
明の顔も悲しそうであった。
「さっき、あの人が雄二は元美とも付き合っていたって言ってたけれど、ひょっとして元美と結婚したの?」
京子の言葉に、明はさらに悲しみを深めた表情になった。
「京子さんは、自分が死んだ後のことは何も知らないんですか?この世に彷徨っていたから全部見ているのかと思っていたんですけど」
そう言われて京子は、顔を強張らせながら何かを考えているようだった。
しばしの沈黙の後、京子の唇が震え、その目から再び涙がこぼれた。
「私、あの後、何が起こったのか分からずにいたの。目の前に自分が倒れていて、周りは真っ赤な血の海だった。ただ茫然としていると、次第に外が明るくなって来て、そのうちにクラスの娘がやってきたの。そしたら倒れている私を見て大騒ぎし出して、私は何が何だか分からなくって、ただ見ていることしかできなくて、気がついたら周りには誰もいなくなっていて、私一人になっていたの。私の体もなくなっていた。教室を出ても誰もいなくて、他の教室にも、上級生も誰もいなくて、職員室には先生がたくさんいて何か騒いでいた。そう、それで私は雄二に会いたくて、雄二の家に行った…。そしたら、元美がいた。二人で私のこと話してた。なんで自殺なんかしたんだって、私が悪者になっていた。馬鹿にされてた。笑われていた。二人は仲良くして、いちゃついて、それで…」
突然京子が明に掴みかかった。
「なんで私が悪者なのよ!なんで馬鹿にされるのよ!私は捨てられたのよ!何も悪くないのに捨てられたの!元美も、親友だと思っていたのに!私の何が悪かったのよ!」
そこまで言うと、京子はハッとして何かに気づいた。
「妊娠したから?」
京子は再び暴れ出した。明は慌てて京子を抑え込んだ。
「なんで妊娠したら嫌われるのよ!妊娠は神様の祝福じゃないの?新しい命を授かるのよ!妊娠する女はダメな女だなんて、そんなのあり得ない!私、本当は産みたかったのに!雄二の子供を産みたかったのに!!!そうよ、妊娠したら、みんな捨てられた!妊娠した女はみんな捨てられて悪者にされた!男はみんな逃げて行った!」
そして、力尽きたかのように急に大人しくなった京子は、声を震わせて呟いた。
「私はダメな女なの?」
明は切なくなり、ため息を吐いた。
「いや、そうじゃない。京子さんがダメなんじゃない。男の方が悪いんだ、馬鹿なんだよ」
明はそう言いながら、自分を納得させるかのようにうなづいた。
「責任も取れないくせに女性を妊娠させるような男が、しょうもない奴なんだよ」
「でも雄二はそう言ってた…」
力なくうなだれる京子に、明は語り掛ける言葉が見つからなかった。
「そうだ!」
明は思いついたように声を上げた。
「これから、高崎さんに会いに行きましょう」
7 高碕モータース 再び
高崎モータースは、結構交通量の多い幹線道路沿いにあるので、分かりやすい。徒歩だと少し遠いが、明は一度行ったことがあるので迷う可能性もない。ただ途中で、京子がまた騒ぎ出したら問題なので、それだけが心配であった。
しかし、京子は大人しかった。明に右手を掴まれたまま大人しく従っている。ただし、歩いてはいない。宙に浮いて移動している。軽いので、明には風船を引っ張っているような感覚であった。
相沢は、その後ろを歩いている。神妙な顔で、無言で常に印を結びながら。
明は、道すがら京子に七海のことを話した。この前中野と一緒に行ったとき聞いた話を。京子は何も言わずに聞いていた。
「元美は?」
七海の話が終わったころ、京子はつぶやくように聞いてきた。明はためらったが、思い切って話してみた。幸い、京子はただ黙って聞いているだけであった。
そうこうしている間に、高崎モータースに到着した。
「ここ、雄二の家と違う…」
京子が呟いた。
「はい。ここは高崎さんの職場です。今はここの社長さんをやっています」
明たちが敷地に入ろうとすると、高崎は事務所入り口で女性と話をしていた。明たちに気が付いた高崎は、笑顔で手を挙げた。
「おー、新聞部。今日は学校さぼってデートか?」
その様子が、前回よりも親しげに見えたので、明はホッとした。拒否されるのではないかと思って、内心気が気ではなかったのだ。
「どなた?」
一緒の女性に聞かれて、高崎は説明をしている。その雰囲気から、この人が奥さんなのだと感じた。高崎よりちょっと若そうな、きれいな女性だ。
「あれが雄二の奥さん?」
京子が静かに言った。どうやら、暴れる様子はなさそうだ。
「そうみたいですね」
明は小声で答えた。
「そう…」
京子の返事は、何気に力が無かった。
「今日はどうしたの?」
高崎が笑顔で寄ってきた。奥さんらしい女性は、明たちに会釈をすると事務所の中へ入っていった。明たちも会釈を返した。
―さて、どうしたものか…―
明は、少々困惑した。全くのノープランだったからだ。
「実は、この前のお話をもう一度聞かせていただきたくて…」
仕方なく、そのままをぶつけてみた。
明の目の前に立った高崎は、複雑な表情をしている。まあ、忘れたい過去の話を、何度も要求されるのはいい感じはしないのだろう。
「分かった。それじゃあ、ちょっとこっちへ…」
そう言うと、高崎は道路の方へ向かって歩き出した。思いのほか素直なので明は拍子抜けした。
この前の喫茶店かと思いきや、少し離れた一軒家へ入っていった。
「ここ、雄二の家だ」
京子が呟いた。その声には感慨深さが感じられた。
「さ、入って」
高崎に勧められて入った家は、かなり広いが古い家であった。京子が知っているのだから、三十年以上経つ家なのだろう。
明たちはリビングへ案内された。ソファーを勧められたので、明と相沢は、京子を間に挟んで座った。
「で、どういうふうに話せばいいかな?」
三人の向かい側に座った高崎が、静かに聞いてきた。しかし、明たちにはその質問の意味が分からなかった。
「いや、この前みたいに説明する感じでいいのかな?それとも…」
高崎の顔が神妙な顔つきになった。
「京子に謝罪するような感じがいいのかな?と思って」
明は返事に困り、目が泳いでしまった。それを見た高崎は、恥ずかしそうに笑った。
「ごめん、ごめん。もしかしたら、京子を連れて来た、とか言うのかと思っちゃってさ」
それを聞いた明の驚きの顔を見て、高崎も真顔になり沈黙した。
「そうですって言ったら、信じてくれますか?」
真剣な明の顔を見つめる高崎の顔は、真剣なままだった。
「信じる?」
高崎は静かにそう言うと、かすかな笑みを浮かべた。
「信じるか?って聞かれたら、なんて答えたらいいか分からないね…。でも、今は京子に謝罪したい思いで一杯なんだ。この前君たちが来てから、ずっと胸が苦しくて辛いんだ。京子に謝罪して、許しの言葉が欲しいんだ。いい大人が情けないと思うんだけど、もうどうすることもできないんだよ。だから、嘘でもいい。ここに京子がいると言ってもらいたいんだよね」
明は京子と相沢に視線を送ると、高崎の方に向き直った。
「今、僕と相沢さんの間に藤村京子さんがいます。高崎さんの思いを伝えて下さい」
そう言われて高崎は、再び神妙になり、明と相沢の間の空間に顔を向けた。
「京子、済まなかった。俺が悪かった。俺がお前にしたことは、全部俺のわがままだった。お前は何も悪くない。お前が妊娠したのも、俺が無責任だったからだ。最初お前は子供を産みたいと言った。それを俺は頭から否定して、お前を馬鹿にした。でも女性として、それが当たり前の発想なんだと今になって分かったんだ。あの時は俺にとって女は遊びの対象でしかなかったんだ。俺が馬鹿で無知でダメな奴だったんだ。あの時のお前は、純粋で清らかで真っ直ぐな素晴らしい女性だったんだ。それを俺の穢れた目で見ていたから、お前の価値が分からなかったんだ。本当に申し訳ない。今なら、お前の価値が分かる。あの頃の京子が恋しくて、愛おしくて、もう一度会いたくて仕方がない」
高崎は頭を下げた。
「いくら謝っても、お前には何の見返りもないことは分かっている。でも、こうして自分の愚かさを悔いていることだけは分かってほしいんだ。許してくれ!」
京子は…
京子は、何も言わず黙って聞いていた。ただ、その顔は穏やかで満足そうだった。
―じゃあ、私のことは愛してくれていたんだね?―
ぽつりと言ったその言葉も、嬉しそうな響きがあった。
すると、高崎がびくりとして顔を上げた。そして、少し茫然としていたが、泣きそうな顔になり叫んだ。
「そうだ愛していた。ただお前の清らかさが怖くて。自分の穢れを認めたくなくて、自分の心を認めなかったんだ。あの後、誰と付き合ってもお前と比較して満足できなかった。その度にお前に対する愛情を思い知らされるんだ!」
京子に笑顔が浮かんだ。
―分かったよ。ありがとう。私もこれで満足よ。これからはもう私のことは忘れて、奥さんのことを愛してあげてね―
帰り際、高崎は明と相沢を道路まで見送りに出た。
「今日はありがとう。恥ずかしい所を見せちゃったけど、最後に京子の声が聞こえた気がしたよ」
高崎は照れ笑いをしていた。
「信じられないかもしれませんが、気のせいじゃなくて、本当に京子さんの声だったんです」
「そうか、やっぱり京子は来ていたんだな?気のせいじゃなかったんだな?」
「はいそうです。京子さんもやっと笑顔になりました」
高崎も爽やかな笑顔になった。
帰り道、京子はとても清々しい表情をしていた。その姿は、卒業アルバムの写真よりも何倍も美しく、愛らしく見えた。
「京子さん」
明は、念のために確認してみることにした。
「これでもう、誰かにとり憑いて妊娠させたりしないですよね?」
そう言われて京子は、一瞬驚いたがすぐに悲し気に顔を曇らせた。
「そうなんだね…。私そんなことやっていたんだね…。とんでもない事してたんだ…。正直、自分でも何をやっているのか、良く分からなかったんだよね。とにかく雄二に言われたことがショックで、自分は馬鹿じゃない、私の愛は間違ってない、っていう思いだけだったんだと思うの」
京子の眼から、一筋涙がこぼれた。
「でも、雄二の言う通りだった。どんなに愛していても、妊娠したらそれで終わり。誰も産んで一緒に育てようなんてしなかった。そして男の方はみんなすぐに、女に飽きて去って行ってしまう。それの繰り返しだった」
明も切なくなり、足を止めて京子と向き合った。
「京子さん。それは、愛が間違っていたんじゃなくて、時を間違えていたんですよ。子供を育てるには、それなりの環境が必要でしょ?動物だって子育てにふさわしい季節を選んで出産するでしょ?僕たち高校生には子育てなんかまだ無理なんですよ。逃げ出したくなるのも当然です。だからもっと大人になって、経済的にも、精神的にも準備が出来た後なら、妊娠は神様の祝福として歓迎できるんだと思います」
京子は悲し気な笑顔で明を見つめていた。
「あの時…、私の近くに君がいてくれたら…、こんなバカなことにならなかったのかもね?」
そして、その視線を相沢の方へ向けた。
「あなたは、いい彼氏と出会えたわね…。羨ましい…」
相沢の顔が強張り、赤くなった。
「お願いがあるの…」
悲しげな笑顔のまま、京子は明の顔を見た。明が京子の方に意識を向けると、京子はパッと腕を振って明の手を振り切った。油断して力を緩めていた明の手は、簡単に京子の手首を放してしまった。
「このまま私を行かせて?」
ふわりと浮き上がり、明の手の届かない所まで上がった京子は、二人を見下ろしながら申し訳なさそうに言った。
「まだ気になることがあるの。元美のこと、七海のこと、そして私が迷惑をかけた女の子たちのこと…。多分、何もしてあげられないと思うけど、せめて自分がしたことの結果を見て置きたいの…。心配しないでいいよ。もう馬鹿なことはしないから。それは約束する」
そして、名残惜しそうに二人を見つめた。
「君たちの名前は?」
驚いた明と相沢は、顔を見合わせたがすぐに京子に向き直り、笑顔で答えた。
「僕は、長谷川明」
「私は、相沢茜」
京子は嬉しそうにほほ笑んだ。
「そう?明君と茜ちゃんね?二人とも、ありがとうね」
京子は、ほほ笑んだまま空高く遠ざかって行った。
「大丈夫だったのかしら…」
相沢が心配そうに言った。
「大丈夫だよ、きっと」
明は根拠のない肯定をした。
「でも、霊って本当に空を飛ぶんだ」
「うん、私も初めて見た」
二人は顔を見合わせて笑った。
8 喫茶店
「で、これからどうしようか?」
ため息交じりに明が言った。
「そうですね、これから学校に戻るのも勇気がいりますよね…」
相沢も困っている。
「じゃあ、怒られるのは明日にしようか?」
明が明るく言うと、相沢が驚いたように明を見あげた。それを見た明は、照れくさそうに言った。
「入学式の時にさ、うちの母親がお祝いに連れて行ってくれた喫茶店があるんだ。そこのコーヒーおいしいからさ、一緒に行こうよ。ごちそうするよ」
困惑している相沢を無視して、素早く相沢の右手を掴むと、明は強引に歩き出した。相沢はそれに引きずられるように従った。
明の予想では、相沢はすぐに明の手を振り払うだろうと思っていた。そうしたら、笑って会話のネタにしようと思ったのだ。ところが意に反して、相沢はそのまま明に手を引かれたまま歩いていた。かえってうろたえた明が相沢の方を振り向くと、相沢は緊張で強張りながらも下を向いたままついて来ている。それを見た明にも緊張が伝わり、ぎこちなく固まった状態で歩くことしか出来なかった。
喫茶店に着くまでの間、二人は何も言わずうつ向いたままであった。静寂と緊張の中、明には相沢の手のぬくもりばかりが気になって仕方がない。前に悪霊を相手にしたときは、もっと大胆に相沢の手が明の手を撫でまわしたにも関わらず、あの時はさほど何も感じなかったのに。
―カラン―
明が喫茶店のドアを開けると、乾いた鐘の音が響いた。
その音を聞いて、相沢は喫茶店に着いたのだと気づいた。どこをどう歩いて来たのか、全く分からない。明に手を引かれて歩いている間、緊張のあまりその間の記憶がなかった。明の大きな手の感覚ばかりが気になっていたのだ。
「いらっしゃいませ!」
店内のいい香りと共に、女性店員の明るい挨拶が聞こえた。
ガシャン!
突然、何か薄い金属のぶつかる音がした。相沢が驚いて店内を見ると、女性店員の足元に金属のトレイが転がっている。
―ああ、店員さんがトレイを落としたんだな―
相沢はそう思ったが、何となくその店員の様子がおかしいのに気づいて、何気なくその店員の表情へ視線を向けた。
その瞬間、相沢の体に電撃が走ったかのように背筋が伸びた。そして頭の中が真っ白となり、何も考えられなくなった。
明が見ると、相沢の顔はまさしく驚愕と言った表情で、トレイを落とした店員を見ている。そして店員の方も、同じような表情で、床のトレイを拾おうともせず、相沢を見ている。
二人は、お互いの出方を見ているかのように、じっと見合ったまま動かなかった。
―知り合いかな?―
明がそんなことを思っていると、店員がものすごい勢いで駆け寄って来て、二人の手を取り強引に奥の窓際のテーブルに引っ張って行かれた。明としてはカウンターの席が良かったのだが、有無を言わさない勢いで案内されてしまった。この喫茶店はサイフォンでコーヒーを入れてくれるので、それを間近で見たかったのだ。しかし、案内された席の大きな窓からは、隣の広い公園の芝生や樹木が見えて景色は良かった。
困惑する二人を強引に席に着かせると、その店員は注文票を一枚ちぎって裏に何か書き始めた。
「これ、特別会員証です。これで全商品ただでご利用いただけます」
店員は、今書いた紙をテーブルに置いた。そこにはこうあった。
―全商品無料チケット―
明が不安になって相沢を見ると、相沢はうつ向いて小さくなっている。微かに震えているような気もする。店員を見上げると、意味ありげな笑顔を見せている。普通の接客スマイルとは明らかに違う。
「ENJOY《エンジョイ》!」
そう言うと、店員は二人を指さしながら笑顔で去って行った。注文も取らず。
「ごめんなさい…」
明の耳に、相沢の声が聞こえた。明が相沢を見ると、状況が理解できず唖然としている明に、上目遣いで遠慮がちな視線を送っている相沢が見えた。
「どうしたの?」
明も気になり聞き返した。
「あの人、うちの母です」
蚊の鳴くような声で相沢が答えた。明は息をのんだ。
「え?相沢の…お母さん?」
「はい…」
明は、何か思い当たることがあるような気がして、自分の記憶を手繰ってみた。
「ああ!言ってたね!喫茶店でコーヒーの勉強してるって!」
「はい…。その母です…」
相沢は恐縮しきっていた。
明は慌てて席を立つと、ちょうどカウンターから出て来たその店員に駆け寄った。
「相沢さんのお母さんですか?初めまして、僕、相沢さんと同じクラスの長谷川明と言います」
早口でそういった後、明は深々と頭を下げた。
店員は驚いたが、すぐに笑顔に戻り、持っているトレーを明の顔の前に差し出した。
「これ、召し上がってちょうだい」
そこにはチーズケーキが二皿乗っていた。
「当店のお薦めです」
そう言ってからカウンターの方を見ると、中にいる年配の男性に声をかけた。
「マスター!こちらのお客様、ご注文の品は全部私の方に付けておいてくださいね」
男性は笑顔でうなづいた。
店員は嬉しそうに明たちの席へ向かい、ケーキをトレイからテーブルに下した。
「どうぞ」
明の方を見ながら、嬉しそうにテーブルの上のケーキを指している。明が恐縮しながら席に着くと、店員は落ち着いた笑顔に変わり、頭を下げた。
「初めまして、茜の母の相沢美代子です。娘がお世話になっています」
美代子は頭を上げると、申し訳なさそうに明を見ながら、恥ずかしそうな笑顔を見せた。
「ごめんなさいね、私、ちょっと浮かれてました。多分、分かると思うんだけど、長谷川君が茜の初めてのお友達なの、男女通じて」
そう言われて、明も納得してうなづいてしまった。
「それが突然、男の子と手をつないで恥ずかしそうに入ってくるんだもん、嬉しさと驚きがダブルで弾けて、ちょっと混乱しちゃったのね」
「あ、あれは、すみません!僕が無理やりやっちゃって!」
美代子は、慌てる明をなだめるように手をかざした。
「いいのよ。私も嬉しかったから。娘の手を取ってくれる男の子がいてくれたんだって…。きっと、周囲の人たちからは、気持ち悪がられているんだろうなって思っていたからね」
そう言われると、明は何も言えなかった。ついこの前まで、明もそうだったのだから。
「お邪魔してごめんなさい、ゆっくりして行ってね?お昼まだなんでしょ?いま、コーヒーと何か食べるもの持ってくるから、とりあえずこれ食べてて」
明は焦った。時間的に学校をさぼったのはバレバレである。なんと説明するべきか、困惑してしまった。
「そうだ。長谷川君のこと、明君って呼ばせてもらっていいかな?」
美代子がにこやかに言ってきた。
「え?いいですけど」
明は、つい反射的に答えた。すると美代子は、にこやかな笑顔のまま相沢の方へ向き直った。
「よかったね茜、明君って呼んでもいいってさ」
相沢は、ひきつった顔を美代子に向けた。それを見た明は嬉しそうに美代子に向かって言った。
「じゃあ、僕も茜さんって呼んでいいですね?」
「もちろんいいよ。よろしくね」
美代子は、笑顔のまま小さく手を振りながらカウンターへ戻って行った。
明が相沢に目をやると、相沢は向かい側でうつ向いて、小さく縮こまっている。
「いいお母さんだね」
明が優しく言っても、相沢は顔を上げない。
「茜のこと心配していたんだね?」
明の「茜」と言う言葉を聞いて、相沢はびくりと身震いした。
「茜って呼ばれるのは嫌?」
明がそう言うと、ちょっと顔を上げて明を見上げながら小さくかぶりを振った。
「よかった」
明が安心したように笑った。
「今まで、茜のこと無視していて悪かったね」
そう言われて、茜はさっきよりも大きくかぶりを振った。
「私の方が、そう思われるようにしていたから」
うつむき加減に見上げる茜の顔は、泣きそうに見える。
「うん、そうせざるを得ない事情があったんだもんね」
茜は泣きそうな顔のまま、視線を落とした。
「でも茜は、本当は普通の女の子だったんだね。こう言うふうに、いろんな表情を持った、可愛い女の子だった」
「あ!今、茜のこと可愛いって言ってくれた?」
突然、明の後ろから美代子の声が聞こえた。見ると、トレイを持った美代子が嬉しそうに立っていた。
「ね?茜って可愛いでしょ?」
「あ、はい!」
面食らった明は、うろたえながら答えた。
「この娘、小さい時はものすごく可愛いかったの…。明るくて、おしゃべりで、表情も豊かで…」
美代子は神妙な顔つきになった。
「でも、大きくなるに連れて笑わなくなって、話もしなくなって、人とも関わらなくなって来たの。だから、学校のお友達ともだんだん馴染めなくなって来て…」
そこまで言うと、美代子の顔に悲し気な笑みが浮かんだ。
「でもね、家にいると時々笑顔を見せるときがあるの。うちの旦那はそれが見たくて、この娘にいろんなことをするんだけど、いつも無表情で…唯一おいしいコーヒーを飲んだ時だけは、決まってニコッと笑うの。それが見たくてコーヒーの淹れ方の修行をしているんだけどね、ここで。だからさあ…」
美代子の笑みが明るくなった。
「今日みたいに、こんな表情豊かな茜なんか、初めて見たかもしれないの。明君、ありがとうね」
嬉しそうにそう言う美代子は、目を真っ赤にしていた。そして、
「ごめんなさいね、お邪魔しちゃって」
申し訳なさそうにそう言って、二人の前にコーヒーとアップルパイを置いた。
美代子が下がった後、明は茜の方を見て指を指して言った。
「悪い娘だ!親不孝者め!」
茜は恥ずかしそうに照れ笑いを見せた。その姿を見て、明は切なそうに笑った。
「やっぱり、茜は普通の女の子だよ。最初は慣れないかもしれないけどさ、俺の前でだけでもその笑顔を見せてよ。そうしているうちにそんな茜を見た周りの人が、茜は普通の女の子だったんだって気が付くようになるよ」
そう言われた茜は、明を見ながら小さくうなづいた。
コーヒーを一口飲んだ茜は、小さくため息を吐くと、微かな笑みを浮かべた。それを見た明は、茜の父親がそれを楽しみにする理由が分かった気がした。
「でも、明…君ってすごいですよね?」
気持ちが落ち着いたのか、茜はいつもの感じで話しかけて来た。
「すごいって、何が?」
明が不思議そうに聞き返すと、茜は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「藤村京子さんとのこと」
「?」
「ほら、私なんか、京子さんを怒らせちゃっただけだったのに、明君は京子さんの心を開かせて、冷静にさせてあげたじゃないですか?」
茜は、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「明君が、あんなに熱く語る人だとは思わなかった」
そう言われて、明もあの時のことを思い出し、急に恥ずかしくなった。
「いや!あれは!…」
明がうろたえていると、茜はそれを無視するかのように話を続けた。
「京子さんの気持ちを、しっかり理解してあげて、整理してあげて、何をしていたのか自分でも分からなかった京子さんの眼を、はっきりと覚まさせて上げていましたよね?」
「いや、だから、それはね…」
明は、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あの時、京子さんの背中を掴んだ時に、いや、逃がさないようにしっかり抱えたときかな?彼女の気持ちと言うか、感情と言うか、思いと言うか、そんな感じのものが伝わってきたんだよね、俺に。そしたらさ、彼女の中には、具体的な考えとか、目的みたいなものが、全くないみたいだったんだよね。悲しさとか、寂しさとか、怒りとか、絶望とか、そんなものばっかりで、つまり彼女の中身は、感情、それも負の感情だけだったんだよ。だから、彼女は本当に自分が何をして来たのか分かっていなかったんだと思う。それはたぶん、彼女は死んでしまったために、自分の思いを誰にも話すことが出来なくて、自分の立場とか状況を整理して理解することが出来なかったんだと思ったんだ。ただ、湧き上がる感情が全てで、それに押しつぶされてしまっていたんだよ、きっと…、三十年以上も」
明は、うつろに天井を見上げた。
「この世に残っている霊たちって、意外とみんな、大なり小なりそういうものなのかもしれないね?」
二人は黙り込んでしまった。
「でも…」
明がぼんやりと呟いた。
「俺、何でこんなふうになっちゃったんだろう…」
茜が見ると、明は切なそうな顔をしている。
明は、ズボンのポケットから例のペンダントを取り出した。
「やっぱり、これのせいなのかな?」
皮の紐を握り、白い石をぶら下げて眺める。
「あのおじいさん、誰なんだろう」
明は、視線をその石から茜に移した。
「こんな石に、そんな力があるんだろうかね?」
明の言う「こんな力」とは、明が備えるようになった能力のことを言うのであろう。
「おそらく、そのペンダント自体にはそんな力はないと思います」
茜が、明の問いに答えるように言った。
「ひょっとして、それを手渡すときに、そのおじいさんが何か言ってなかったですか?」
「うん、言ってた。何か、訳のわからない外国語みたいな言葉を」
「じゃあ、その意味は分からなかったんですね?」
「うん」
「そうですか…」
茜は明の話を聞いて胸の中にざわつくものを感じていた。
茜は思った。
ペンダントには意味がない。おそらくそれは、何もそのペンダントでなくても良かった筈だ。例えば、お
だから茜は、明からその話を聞いたときに、明には何か大きな使命があるのかもしれないと感じたのであった。
実は、茜も同じものを持っていた。同じと言っても、明の物とは色違いで、黒いものを。それはまだ茜が幼かった頃、茜の師匠の師匠と言われる人からもらったのである。その時何かを説明されたのだが、茜がまだ幼かった故、意味が分からず覚えてはいない。ただ、その人は白と黒の両方のペンダントを持っており、それを組み合わせて丸い「太極図」を作って茜に見せてくれた。そして、「素敵な伴侶と引き合わせてくれるお守りだ」と言って黒い方を茜に渡し、白い方は自分の懐に戻したことは鮮明に覚えていた。それ故に、そのことを明には言い出せずにいるのである。
しばらく二人で何気ない話をしながらまったりしていると、突然、茜の視線が窓の外で止まった。そして、みるみる顔が強張ってきた。明は、窓の外に悪質な霊でもあらわれたかと思い、茜の視線の向く方へその視線を向けてみた。
そこには、何のこともない女子高生らしき二人の女子がいるだけだった。その二人は、公園の芝生の間の通路を自転車の二人乗り状態で立ち止まり、明たちの方を見ながら何か騒いでいるようだ。その二人の顔を確認した明の顔も強張った。それは、鈴木と新庄であった。
サドルにまたがった鈴木が明たちの方を指さしながら何かを叫び、後ろの荷台に横向きに座った新庄が片手を鈴木の腰に回したまま、もう片手で鈴木の伸ばした腕を押さえながら何かを言っている。どうやら、いつの間にか学校は放課後を迎えていたのだ。明たちは、結構な時間ここにいたらしい。
うろたえる茜を横目に、明は外の二人に照れた笑顔で小さく手を振った。それに気づいた新庄が、騒ぐ鈴木をなだめながら自転車を出すように促している。それに従って鈴木は明たちのことを気にしながらも、自転車をこぎ出し、ゆっくりと遠ざかって行った。
「どうしよう…。大丈夫かな?」
茜が、不安気に明に言うと、明は気まずい笑顔を見せながら茜に顔を向けた。
「大丈夫だよ。どっちにしろ、これから俺は堂々と茜と付き合っていくつもりだったから。それに、少なくとも新庄は、こう言うことで人をからかったりするような奴じゃないと思うし」
「そうですね…。まあ、新庄さんはそんな感じがしますよね」
茜も笑顔を見せた。
しかし、そう言いながらも二人は、明日の朝みんなに何を言われるのかと、極度の不安に襲われていた。
「ちょっとお邪魔します」
二人が窓の外を気にしていると、突然近くで美代子の声がした。驚いて二人が見ると、すぐ横に美代子が笑顔で立っていた。
「お楽しみのところごめんなさいね。これを届けようと思って」
美代子は照れ笑いを浮かべながら、二人に何かを差し出した。見るとそれは明と茜ののカバンであった。二人はしばらくその意味が分からなかった。しかし、その意味が分かってみると、二人の顔が青くなった。
明たちは、京子を連れて学校を飛び出したまま、その足でここに辿り着いたのだった。カバンも、教科書もすべて置いたままで。
「今、学校に行って預かってきました。後これも…」
そう言って、レジ袋に入った何かも差し出した。
「靴…、履き替えてないでしょ?」
そうだった、教室から直接外に飛び出してそのままだったから、上履きのまま歩き回っていたのだった。
「これに履き替えて、上履きはちゃんと洗っておいてね」
美代子は優しい笑顔であった。
「あと、学校のことも心配しなくていいからね。私が担任の先生に事情を説明しておいたから、先生も今回はお咎めなしと言うことで理解してくださったから」
二人は硬直したまま、美代子の話を聞いていた。
「学校をサボったことは気にしないでいいからね。まあ、『いい』とは言えないけど、学校よりも大事なこともある訳だし、それに今回、明君は茜を助けてくれたんでしょ?」
意味不明な美代子の言葉に、二人の顔が「?」になった。それを見て、美代子もちょっと意外そうな顔になった。
「茜がクラスの女の子に掴みかかられたのを、明君が助けてくれて、それで茜を連れて逃げてくれたんでしょ?」
それを聞いて、明と茜は顔を見合わせて笑った。クラスのみんなからは、そう言うふうに見えたのだと。
「ええ、まあ、ちょっといろいろありまして」
明が苦笑いをした。
「ありがとうね。それ聞いて本当にうれしかったの。だから、明日からまた学校に行ってね」
美代子は目を潤ませ、心配そうに言った。
―カラン―
店の入り口のドアチャイムが鳴った。誰かお客さんが来たようだ。しかし、そこで明は気が付いた。明が来てから、この音を聞いた気がしない。他の客は来ていなかったのか?
などと思って、何気なく玄関の方へ目をやった。そして驚いた。今、入ってきたサラリーマン風のゴロンとした体格の男が、ものすごい形相でこちらに向かって進んでくるのだ。
「あ、間に合ったね」
それを見て美代子が嬉しそうに言った。
「あ!」
茜が叫んだ。
「君が長谷川君か?」
男は明に近づくなり、襲い掛かる勢いで明に話しかけて来た。驚いた明は、声も出せずに後ろへ退いた。
「明君、ごめんなさい。うちの旦那です」
美代子が申し訳なさそうに言った。茜を見ると、やはり顔を赤くしてうつ向いている。そして、
「父です」
と、かすれた声で呟いた。
明は納得した。こういう家族なのだ。
そんな明の思いなど気にする素振りもなく、茜の父は無理やり明の手を取った。
「茜の父、志朗です。娘がお世話になってます。仲良くしてくれてありがとう。どうか、私のことはお父さんと呼んでくれ」
志朗は、明の手を握る手に力を込めて、力強く言った。そして、その目は赤く潤んでいた。
「娘はこんな変わり者だが、親は至って普通の人間だから、心配せず時々うちにも遊びに来てくれ。頼んだよ」
早口でそう言い終わると、志朗は茜と美代子に視線を送って力強くうなづいた。
「では長谷川君、私はまだ仕事の途中なのでこれで失礼するけど、ゆっくりして行ってくれ。ここはいつも暇で静かだからね。代金は、全部うちの母さんが持つから、心配しないでいいからね」
志朗は急いでいるのか、そう言いながら少しづつ後ずさりをしている。そして、ドアの前まで来るとマスターに手を上げて挨拶すると、そのままドアの外に消えて行った。
美代子は、茜と顔を見合わせて苦笑いをした。茜は不機嫌そうな顔をしている。
「ごめんなさいね、私さっき嬉しくって、つい電話しちゃったの。どうしても、あの人にも知らせてあげたくて」
「いえ、お気持ちはお察しします」
美代子の言葉に、明も同情した。
「それとね…」
美代子の表情が変わった。
「明君って、
「え?そうです」
突然の母の名に、明も驚いた。
「ああ、やっぱり…。マスターが、入学式の日に真理愛さんと一緒に来ていたようだって言ってたから」
明の驚きを見ながら、美代子は嬉しそうな笑顔を見せた。しかし、美代子の心の中には、何とも言えぬ後ろめたい思いが渦巻いていた。
明たちの入学式の日、美代子も夫、志朗と共にそこに参加していたのだった。そして、そこで明の母親を見かけていた。しかし美代子は、のぞみの目を避け、身を隠していたのだった。
店の常連であった真理愛とは、結構プライベートなことも話題にしていた。それで、真理愛の息子が茜と同い年で、同じ高校に入学したことも知っていた。しかし、美代子から茜に関する話は、ほとんどしてはいなかった。いや、出来なかった。話しているうちに、茜に対する事情が明らかになるのを恐れてのことである。
美代子の心の中にある罪悪感、それは愛する娘が自分の「恥」であると言うことである。しかし今、明によってその恥がぬぐい取られているのであった。
そんな美代子の複雑な思いも知らず、明ははにかんだように答えた。
「そうなんです。それでここのコーヒーがおいしかったから、今日、茜さんを誘ったんですよね」
明は、はにかみながら答えた。
「ええ?じゃあ、明君もコーヒーは好きなんだね?良かった。今度、家でおいしいの入れてあげるからね」
「はい、では今度お願いします」
茜は、二人の会話を困惑気味に聞いていた。
― 幕間 ―
幼いころの相沢茜は、ごく普通の少女であった。人懐っこく、おしゃべりで、よく笑う、そんな子だった。
ただ一つ、他の子らと違うのは…そう、霊が見えて会話が出来ると言うことである。
茜の家の近所に、古いお寺があった。昔は畑に囲まれていたらしいが、今ではほとんど住宅地になり、住宅に囲まれた貧相なお寺である。そして、その頃茜が通っていた幼稚園は、通う際にこの寺の前を通らなければならなかった。
その日もいつものように、茜は母に手を引かれてその山門前を通っていた。茜はその時、山門の先の交差点に一人の女の子がいるのを見つけた。歳は茜と同じぐらいの娘である。見るとその娘は一人で泣いている。声を出さずに静かに泣きじゃくっている。
茜は、駆け寄って声をかけた。親と逸れたのだと思ったからだ。
「どうしたの?迷子?」
その娘は泣いたまま、うなずいた。
「誰と一緒だったの?お母さん?」
茜の問いかけに、その娘は涙ぐんだその顔で茜を見つめてうなずいた。それを聞いた茜は、可哀そうになり母の方を振り返って叫んだ。
「お母さん!この娘、迷子だって!お母さんと逸れたんだって!」
茜の母美代子は、その様子を見ながらゆっくりと茜に近づくと、茜の前にしゃがみ込んで茜を抱きしめた。美代子からは、すすり泣く声が聞こえる。
美代子には、そこに茜が言う「この娘」は見えない。茜は一人でしゃべっているのだ。いつもの事とは言え、こういうことがある度に、美代子の心は引き裂かれるように痛むのであった。
見えない人と話す。これが茜の物心ついた頃からの奇行であった。何度言っても止めない。どれほど言い聞かせても止めない。そこには誰もいないのだと。
周囲の人は言う。この娘には虚言癖があると。
しかし、美代子も、美代子の夫志朗も、茜の言葉が嘘だとは思えなかった。少なくとも茜には、そこに誰かが見えているのだろうと思っていた。それはそれで、大問題なのであるが。
病院で診てもらっても、脳に異常は見当たらないと言われた。子供のことだから、もう少し様子を見ようと言うことになっている。しかし、こういう事がある度に、美代子の心は切り刻まれるように痛んだ。この娘は、まともに生きていけないのではないだろうかと。
「その娘は、どんな服を着ているの?」
突然、咽び泣く美代子の背後から、男の声がした。
驚いて美代子が振り向くと、そこには作務衣姿の剃髪の男が立っていた。長身でがっしりとした体格で、三十過ぎの、見るからにこの寺の僧侶らしい姿だ。
その僧侶は、美代子ではなく茜を見て訊ねているようだった。茜はしばらく僧侶の眼を見ていたが、やがて静かに答えた。
「うんとね、黄色いスカートと、ピンクのシャツ」
僧侶も、茜の眼を見ながらじっと何かを考えてから、山門の方を指さしながら言った。
「じゃあさ、その娘に聞いてくれないかな?お母さんを探してあげるから、おじさんの家まで来てくれないかなって」
山門をくぐり、本堂へ向かいながら僧侶は美代子に尋ねた。
「お嬢さんは、いつもこうなのですか?」
そう言われて、美代子は恐縮しながら、うつむいたまま悲し気にうなずいた。
「そうですか。実はですね、昨日あそこで交通事故があったんですよ。車と歩行者の」
僧侶の言葉に、美代子は驚いて僧侶に目をやった。
「歩行者は、お譲さんくらいの女の子と、その母親でした」
美代子の顔に脅えが現れた。
「母親は重体で病院に搬送されたのですが、娘さんは即死だったと聞いています。それでですね、その時のその娘の服装が、先ほどお嬢さんが言っていたのと同じだったんです」
「あなた、それを見たんですか?」
美代子が、震える声で訊ねた。
「はい、その時、私が通報したものですから」
そう答える僧侶は、やりきれなさそうであった。
三人は、薄暗い本堂に着いた。靴を脱いで数段の板の階段を上り障子を開けると、そこは日に焼けた畳の広間で奥にはご本尊が祭られ、護摩を焚くような設備もある。三人はその前に横並びに座った。
「お嬢さんのお名前は?」
僧侶が美代子に尋ねた。
「茜です」
それを聞くと、僧侶は茜に顔を向け優しく言った。
「茜ちゃん、その娘をおじさんの前に座るように言ってくれるかな?」
茜は、神妙にうなずくとその娘の手を取って、言われた通り僧侶の前に座らせた。
僧侶は、数珠を手にしてお経を唱え始めた。しばらくすると、ゆっくりと自分の左手を上げ、その娘の前で手を開きその娘の方へ向けた。
すると、その娘は煙のように揺らめくと、ゆっくりと僧侶の左手に吸い込まれていった。更に読経を続けると、僧侶の左手が鈍く輝き始め、やがてゆっくりとその光は消えて行った。
茜は目を丸くして見ていた。美代子はただぼんやりと眺めている。茜は興奮して美代子の腕を掴み叫んだ。
「見た?見た?」
美代子には当然、何のことだか分からない。
「あの女の子が消えたんだよ!」
茜の声に、美代子は「ああ、そうなんだ」としか感じられなかった。
「おじさん、あの女の子どうなっちゃったの?」
興奮した茜は、僧侶に詰め寄った。僧侶は優しく微笑んだ。
「あの子はね、実はもう死んでいたんだよ」
その言葉に、茜の動きが止まった。
「あの子はね、昨日交通事故に遭ってね、死んじゃったんだよね。だから、あの子は体が無くなって、心だけになっちゃったんだ。だから、普通の人にはあの子の姿が見えないんだよ。だから、あの子はここに居たら誰にも気づいてもらえなくて、寂しい思いをするだけなんだ。それでおじさんがあの子を、あの子のことを分かって上げられて、お話もしてあげれる人たちのいるところへ送って上げたんだよ」
茜は悲し気に顔を曇らせた。
「じゃあ、お母さんには会えたの?」
そう言われて、僧侶の顔も曇った。
「いや、お母さんには会えないよ。お母さんはまだ生きているから、会ってもお母さんはあの子のことが見えないんだ。だから会っても、お母さんには分からないんだ。そんなの悲しいだろう?でも、いつかこの先、あの子のお母さんが歳を取って死んだ後なら、また会えるかもしれないね」
茜は肩を落とし涙ぐんだ。
僧侶が美代子の方を見ると、美代子は怪訝そうに茜たちのことを見ている。
「申し遅れました。私、この寺の住職をしている慈空と申します。突然、差し出がましいことをいたしまして、申し訳ありませんでした」
僧侶が頭を下げると、美代子も慌てて頭を下げた。
「相沢美代子です」
美代子は、頭を上げると申し訳なさそうに聞いた。
「あの、何があったんです?」
僧侶は思わず微笑んだ。
「まあ、いわゆる浄霊と言うか、除霊と言うか、女の子の霊をあの世に送って上げたんですよ」
美代子は、怪訝そうにゆっくりとうなずいた。
「ご住職は、霊能者なんですか?」
半信半疑の美代子の様子に、僧侶は苦笑いをした。
「いえ、霊能者…という訳じゃないんですが、まあ、修行の賜物と言いますか。実は、私もそういうものは見えないんですが、何となく感じはするんですね。それで時々そう言うこともするんですが、今回は茜ちゃんが納得してくれましたから、成功なんでしょうね。それよりも」
僧侶は真剣な顔になり、美代子を見つめた。
「お嬢さんは、いつもこういう感じなんですよね?」
突然の言葉に、美代子は顔を強張らせて、小さくうなずいた。
「はい、お恥ずかしい話ですが、いつもこうなんです。周りの人は、子供の作り話だと言うんですが、私も、主人も、茜があまりにも自然に当たり前のように言うものですから、本当にこの娘には見えているんじゃないかって思えてしまうんですよね」
僧侶は、しばらく美代子を見ながら何かを考えていた。
「相沢さん」
不意に名前を呼ばれて、美代子は驚いて僧侶を見た。
「信じられないのは無理もありませんが、そういうものが見える人と言うのは、実際にいるものなんです。まあ、そのうちの大部分は、作り話か、本人の思い込みだけのものなんですが、極たまに本当に見えている人もいるんです」
僧侶の言葉は、ゆっくりと、噛み締めるように、言葉を選びながら言っているように感じられた。
「ただ、そういう人たちは、周りからの理解が得られないことによる孤立と、霊からの影響によって、精神的につらい状況に立たされることが多いんです」
美代子の顔に不安が現れた。
「そこで提案なんですが、お嬢さんをしばらくここに通わせて見てはいかがでしょう?」
美代子が眉をひそめた。
「空いている時間に、遊びに寄こすような感覚で結構です。私がお嬢さんの話し相手になり、気持ちや立場を理解してあげることが出来れば、心の支えになって上げられると思うのですが」
「私、来たい!」
茜が突然声を上げた。
「ここ、すごく気持ちがいいし、このおじさん、なんか先生みたいだから」
茜は、嬉しそうに目を輝かせていた。
茜の、就学前の出来事である。
「あれからもう十年か…」
茜の父、志朗が遠い昔に思いを馳せ、感慨深げに呟いた。
「そうですね。最初は幼稚園の延長みたいな感じで通わせていたのに…。そのうち、だんだん修行みたいになっちゃって…。あの娘、このまま尼さんにでもなるんじゃないかって、諦めていたのにね」
美代子もしみじみと呟いた。
「まさか、高校に入った途端にボーイフレンドが出来るなんてねえ…」
そう言いながら、美代子はニヤついた。それを見た志朗も、それに合わせるようにニヤついた。
ここは、茜の自宅。
茜と美代子が、美代子のバイト先の喫茶店でのひと悶着を終えて帰宅したところ、途中で志朗と一緒になったのだった。明の自宅は喫茶店から近かったが、茜の家は結構遠く方向も違っていた。
二階の自室で、部屋着に着替えた茜がリビングに入ろうとすると、中の両親がいやらしい笑顔で笑っている。茜は思わずリビングへ入るのをためらった。それでなくても喫茶店での一件で、なんとなく気まずいのである。
自室に戻ろうかと迷っているところを、美代子が茜に気づいて声をかけた。
「ごめんね。別に冷やかそうとか言うんじゃないの。ただ、嬉しくてさ。気を悪くしないでね」
その顔を見ると、茜も何も言えなくなり、黙ってリビングに入りソファーに腰を下ろした。
「まあ、あんまり詮索すると、お前も気まずいだろうから、なるべく口を挟まないようにするけど…、ただ、明君だっけ?大事にしてあげなさいよ」
志朗は、僅かな笑みを浮かべながら、しみじみと語った。
「でも、本当にいい子だね?明君。いつ頃から親しくなったの?どっちから声をかけて来たの?」
美代子が笑顔で追及してきた。
「おい、母さん!やめなさい!」
「あ、ゴメンなさい」
志朗にたしなめられ、慌てる美代子であった。
しかし、その気持ちは茜にも痛いほど分かった。自分が、どれほど両親に心配をかけて来たのか分かっているつもりではあったが、今日の両親のはしゃぎっぷりを見て、自分の考えが甘かったことを痛感させられたのだった。どれほど両親は自分に対して絶望していたのか、思い知らされた心境であった。
今回、そんな両親に、希望を与えてしまった。これで、もし元に戻ってしまったら、どれほどの悲しみを与えるのであろうか。正直、茜は恐ろしかった。明との関係がどこまで、いつまで続くものなのか。そして、こんな両親のこと、明は重いと感じては居まいかと。
正直、茜は怖かった。明がどこまで自分に近づいてくれるものなのかと。今までの人生の中で、茜は自分に対する自信を完全に喪失してたのである。両親以外のすべての人から疎まれ、拒絶されて来たのである。そしてその理由を、自分が一番よく知っているのである。明がなぜ、じぶんと係わってくれるのかも分からない。一時の好奇心からとも思える。いや、その可能性が大きい。だから、そのうち茜に飽きて離れてしまうのであろうと思う気持ちも大きいのだ。
もし、そんなことにでもなったら、この両親はどれほど悲しむであろう。それを思うと心が痛んで仕方がない。
いや、そんな甘いことを言っていられない。両親よりも、茜自身がもう生きてはいけないかもしれない。それ程までに、この数日間で茜の心は、明に依存するようになっていたのである。人と心を交わす喜び、理解してもらえることの安心と充実感。それらを味わってしまった今、それを失うと言うことは、以前の自分に戻る訳ではない。知ってしまった分だけ、その落差は大きくなってしまう。それを思うと恐怖以外の何物でもないのだ。
ソファーに座り、じっとうつむいている茜を見ている美代子と志朗は、何となく茜の不安を悟って、話す言葉を失ってしまっていた。
明が帰宅すると、出迎えた母が不敵な笑みを見せていた。明の母真理愛は、専業主婦で悠々自適な生活をしている。きっと、持て余した時間を喫茶店通いに費やしているのであろう。
「おかえり。今日は遅かったじゃない?」
この、人を見下した笑みが気に入らない。明は嫌な感じがして、黙って通り過ぎた。
「あんた、相沢さんの娘さんと付き合ってるんだって?」
母親は、明らかに挑発的な発言をしてくる。茜の母親から情報が入ったのだと、明は悟った。明は必至でポーカーフェイスを試みたが、どうしても顔が熱くなり、動揺を隠しきれない。
「ふん、女の情報ネットワークを舐めたらだめだよ。全て筒抜けなんだから」
真理愛は、意地の悪い笑みを浮かべている。
「茜ちゃんかー。結構かわいいよね。こういう娘が好みだったんだね、あんたは」
真理愛は、スマホを取り出し眺め始めた。写真まで手に入れているようだ。明は無視して自分の部屋に入った。
明の母は、決して悪い人間ではない。ただ、人をからかうのが好きで、やりすぎる所があるのだ。こういう時は、あまり関わらないのが一番なのである。
明はベッドに横になると、自分のスマホを取り出して眺めた。さっき、帰り際に茜と連絡先の交換をした。なぜか、ついでに美代子とも交換した。母親以外の初めての女性達である。これで、いつでも茜と連絡が取れる。なぜか、嬉しさでそわそわした。
早速、茜に連絡する。
―今日はありがとう
明日からもよろしく―
すぐに茜から返信があった。
―こちらこそ、ありがとう―
―うちの親が迷惑かけてごめんなさい―
―明日もよろしく―
明の顔に笑みが浮かんだ。明日が楽しみだ。
9 翌日
朝、目が覚めると、明の目の前に女の顔があった。
明の体は、感電したかのように飛び跳ねた。しかし、それは後ろに逃げたのではなく、ただその場で体を跳ねさせただけである。人間驚くと、意味のない動きをするらしい。慌てて腕を振るうと、手の甲がその女性の顔に当たった。当たった手に痛みはない。衝撃もほどんどない。
「イタッ!」
当てられた女性は痛かったらしく、叫び声を上げた。明はその声に聞き覚えがあるような気がした。明は全身を硬直させて、顔を背けながら薄目を開けて、その声の方を見た。
そこには、顔を両手で抑えた、制服姿の女子高生がいた。その女子高生は、しばらく痛みを堪えるかのようにじっとしていたが、やがてゆっくり手を顔から除けてゆがめた顔で明に視線を向けた。
「痛いなー」
不満げに言う、その声と顔は藤村京子であった。
「ウワッ!おばけ!」
恐怖と驚きで、明はジタバタと暴れるようにベッドの隅の壁際に逃げた。息を止めて硬直した状態で見つめる明とは対照的に、明と目が合った京子はゆっくりと笑顔を作って行った。
「おはよう。でも、そのお化けって言うのは止めて欲しいな。まあ、反論は出来ないんだけど」
京子の声は、明るく愉快そうである。明の方はまだ呼吸が止まったままだ。
「明君、寝顔が可愛いね」
京子は相変わらず明るい。
「な、なんで…」
明は絞り出すような声でそう言うと、大きく息を吸い込んで続けた。
「何やってんだ!」
吸った息の割には、小さな声だった。
京子は照れくさそうに笑った。
「明君が忘れられなくて来ちゃった」
甘ったるい言い方だ。
明は気が付いた。
「ああ、
明はさっきの驚きのせいで、まだ動悸が激しい。
「えー?何言ってるの?
京子は甘える笑顔になっていた。
「何言ってんだ?お前おかしいんじゃないか?」
確かにまともな存在ではない。
「明君こそ何言ってるのよ?全部、明君のせいなんだよ」
明は首を傾げた。
「昨日、明君があんなに激しく、力強く抱きしめてくれたから、あの感触が忘れられなくなっちゃったんだよ。しかも、あんなに親身になって説得してくれて…。なんか、ハートを鷲掴みにされた感じだよ」
京子が熱く見つめている。
明は怯えた。心底怯えた。目の前の京子は美しい。卒業アルバムの写真以上に奇麗に見える。その笑顔も愛らしい。しかし、この登場の仕方と、今、宙に浮いている姿は、明に不安と恐怖以外何も与えなかった。
「で?俺にどうしろと?」
しばしの沈黙の後、明がかすれる声で言った。それを聞いて京子は笑顔を輝かせた。
「もちろん、私を彼女にしてもらいたいの。結婚でもいいんだけど、明君まだ高校生だし…、いわゆる結婚を前提とした交際?って言うか…」
明は唖然とした。
「あんた、何言ってんだ?人間と幽霊が結婚なんて出来る訳ないだろう?」
「もちろん、法律上の結婚は出来ないけどさ、ほら、いわゆる事実婚っていうやつ?つまり、一緒に夫婦として生活すればいいだけだよ」
京子は事もなげに言う。明は呆然として京子を見つめている。そんな明の様子に気づいた京子は、にっこり笑って言った。
「心配しないで。明君は私のことを触れるんだから、普通の恋人や夫婦と同じことできるよ、きっと。まあ、子供は作れないだろうけどね」
京子は、明に寄り添うように身を寄せて来た。
「それにさあ、幽霊の彼女って、すっごいお得だよ。基本、食事しないでしょ?アクセサリーも付けれないでしょ?服はこれ一着だし映画や遊園地に行っても、私の料金は掛からないんだし、お金、全然掛かんないでしょ?ただ、心と体で愛してくれるだけでいいんだよ?」
京子は嬉々としている。
―何を落語みたいなことを言っているんだ?―
明は考えた。こいつには説得とかは無理だ。おそらく、こいつの時代にはストーカーと言う言葉もなかったのだろう。やっぱり、こいつは悪霊だ。あの時、茜に送り出しさせるべきだった。
「京子さんの意見は分かりました。でも、そんなこと突然言われても俺としても困りますから、しばらく考えさせてください」
京子の表情が変わった。気分を害したようだ。明が怯えた。
「僕も霊の方と親しくした経験がないので、ちょっと慣れるまでお友達から始めさせて下さいませんか?」
慌てた明が、そう言ってごまかすと、京子も少し納得したように考えた。
「うん、まあ仕方ないか。いいよ、それで」
京子が笑顔を見せたので、明もホッとした。京子がまたこじらすと、何をし始めるか分かったものではない。
「じゃあ、とにかく学校へは行かなきゃならないので、一緒に行きましょう」
「うん、そうだね」
京子は満足げに笑った。明も笑顔でうなづいた。
―とにかく学校へ行って、それから茜に吸い取ってもらおう―
「ところで、昨日はあれからどうしていたんですか?」
明が着替えをしながら京子に尋ねた。京子は明に背を向けて、見ないようにしている。
「うん、あれから元美や七海の所に行こうと思ったんだけどね、家が分からなかったの」
「ああ、そうでしょうね。京子さんが知っているのは、三十年前の、高校生だった頃の家でしょうからね」
明は気がついたように相槌を打った。
「それで、私が妊娠させたっていう娘のところにも行ってみようと思ったんだけど、その娘たちの家の場所なんか分かるはずないんだよね」
京子は、そう自分で言いながら軽く笑った。
「だって私、周りのこと何も見てなかったんだもん。第一、どの子に取り憑いていたかさえも分からないんだよね」
それは明も納得した。確かにあの時の京子の精神状態は、負の感情だけで周りの状況に気を回すような余裕は感じられなかった。
「京子さん、終わりました。もういいですよ」
明は、着替えが終わったことを知らせた。京子は嬉しそうに明の方へ向き直った。
「そしたらさあ、急に寂しくなって、無性に怖くなったんだよね。それで寂しくて、怖くて、死んじゃいたくなった時に、明君のこと思い出しちゃったの。そうなったら無性に恋しくなっちゃったんだよね、あの時の腕の力強さ、温かさ、そして明君が掛けてくれたいろいろな言葉。明君は私の気持ちを全て分かってくれて、理解してくれて、愛で包んでくれたよね。私、あんなに愛されたのは初めてだったかもしれない」
京子は、頬を赤らめ、熱い眼差しで明を見つめた。
「じゃあ、行きましょうか、学校」
明は冷静に言った。今の明にとって、京子はただの幽霊でしかない。異常な存在でしかないのである。もし京子が幽霊ではなく、肉体を備えた人間だったなら、今の言葉には心を動かされたことであろう。
「でも、良くここが分かりましたね?」
「うん、明君の匂いを追ってきたら、ここに着いたの」
京子は明るく言った。明の胸に、また別の恐怖が忍び込んできた。それで、それ以上は詮索出来なくなってしまった。
「ところで明君、なんで私に敬語を使うの?」
京子は不満そうに言った。明は無表情に京子を見つめた。
「京子さんは先輩ですから。三十年前の。おそらく、うちの親と変らない歳でしょうし」
京子は、顔を引きつらせるだけで、何も言えなかった。
家を出るとすぐに、明は京子にお願いをした。
「手、繋いでいいですか?」
明はちょっと照れながら、左手を差し出した。それを見た京子は嬉しそうに笑顔を見せた。
「もちろんよ」
二人はそっと手を繋いだ。明は京子の手をしっかりと握った。
道を歩きながら、明はスマホを取り出した。茜にメールをしようと思ったのだ。
「あれ?それ何?」
京子が興味深げに聞いてきた。明は最初不思議に感じたが、考えてみれば、京子の時代はスマホなど無かったかもしれない。
「えっと、そうですね…これはパソコンを超小型化して、携帯電話と合体させたようなものです」
京子は納得できないようだった。京子の時代、携帯電話さえ怪しいのだ。
「それって…、電子手帳みたいなもの?」
「え?電子手帳?何ですか、それ」
二人の会話が、かみ合わない。ジェネレーション・ギャップが露呈したので、京子が会話を諦めた。
明は、歩きながら右手でスマホを操作している。左手は、京子の右手をしっかりと握りしめながら。京子は、明が操作するスマホの画面を見ている。すると次第に京子の顔が険しくなってきた。明はスマホで茜と連絡を取り、京子を処分してほしい旨を伝えていたのだ。茜もはじめ驚いていたが、すぐに了解した。
「明くん!何考えているのよ!私を殺す気?ばかなことやめてよ!」
「大丈夫、京子さんはもう死んでます。本来いるべきところへ帰すだけです」
明は平然としている。もう、情には流されないと決めたのだ。昨日、変な
「うわっ!」
明が突然叫び声を上げた。京子がひっかいて来たのだ。これは痛かった。
忘れていた。霊が嚙んだり、引っ掻いたりしたら、結構痛いのだった。しかしもう遅い。我慢するしかない。周囲の人に不審がられないように、我慢するしかない。
茜は、いつものように早めの登校をしていた。
茜は予想していた。明とのことがクラスで話題になっていたとしても、誰も茜には何も言って来ないであろうと。申し訳ないが、明がその標的になるのだ。だから明が来るまでは、噂にはなっても、茜には誰も話しかけては来ない。そう思って、いつものように自分の席についてうつ向いていた。
教室には、すでに何人かの生徒がいた。案の定、茜を取り巻くようにして、噂の声が聞こえる。いつものことなのではあるが、なぜか今日はいつもより心が痛い気がする。茜は小さくため息を吐いた。
徐々に生徒の数が増えていく。すると
「相沢」
突然、誰かが茜を呼んだ。女子の声だった。驚いて顔を上げると、隣に新庄と鈴木が立っていた。茜は目を見張った。昨日の喫茶店の目撃者である。しかし、まさか直接茜に来るとは思わなかった。
すると、新庄が鈴木の頭を押さえつけるようにして、鈴木に向かって語気を強めて言った。
「ほら、謝んな!」
言われた鈴木はもじもじしている。それを見た新庄が、茜の方に向き直って頭を下げた。
「昨日は、こいつが突然変なことをして申し訳なかったね。こいつもなんであんなことをやったのか分からないんだよ。特に何か理由があったという訳じゃないらしいんだ。こいつも反省しているから、許してやってくれないか?」
そしてそう言い終わると、鈴木の背中を叩いて、謝るように促した。
「相沢ごめんなさい。私も訳がわからなくて怖いの。許して?」
鈴木は泣きそうである。茜はその姿を見ると、なんだかとてもうれしくなった。それで、つい笑顔を作って立ち上がった。新庄と鈴木はちょっと驚いて後ずさりした。驚いたのは、茜が立ち上がったからではなく、その笑顔を見てのことだ。茜は笑顔のまま、いつもの冷たく単調な言葉ではなく、感情のこもった声で言った。
「ありがとう。そう言ってくれて、本当にうれしいです。鈴木さん、謝らなくてもいいんですよ。鈴木さんは何も悪くないですから。私の方こそ、ごめんなさい。私が、後ろからじっと睨んでいたから、気分が悪かったんでしょう?ごめんなさいね。もうあんなことしないから、私のことも許してください」
そして、二人に頭を下げた。
新庄たちは驚いて顔を見合わせた。しかし、新庄はすぐに茜の方へ向き直り、頭を下げたままの茜の肩を掴んで頭を上げさせた。
「でも、相沢のあれは、私のせいなんだろう?」
新庄のその言葉に、茜と鈴木が思わず新庄の顔を見た。
「私さ、勘違いしてて、長谷川が紗希に気があるんじゃないかと思ってたんだよね」
新庄が気まずそうに言った。
「それを長谷川に言って、紗希とくっつけようかって提案したんだよね、この前」
「えー?何それ」
鈴木が驚きの声を上げた。
「いや、あんたと結城を何とか別れさせたくてさ」
「えー、そうだったんだ」
鈴木は信じられない様子だが、嬉しそうに笑った。
「それじゃあ私、ゆかりの怨念であいつに対する関心が消えたんだ」
「え?鈴木さん、その人と別れたんですか?」
驚く茜に、二人は無言でうなづいた。
「いや、こいつがね、あの後急に気持ちが冷めたとか言い出してさ、もう止めるとか言い出したんだよね」
新庄が怪訝そうに紗希を指さして言うと、ちょっと眉をひそめて相沢に向かって言った。
「相沢は私の勘違いのせいで、紗希のことが面白くなくて睨んでいたんでしょ?」
―え?そう捉えたんだ―
茜は何も言えなかった。
「でも、相沢に襲い掛かった紗希から、長谷川が守ってくれたんだよね?相沢は、それで長谷川の気持ちが分かって、逃げて行った長谷川を追いかけて行ったんでしょ?私も、まさか長谷川が相沢に気があるとは思わなかったよね」
「え?何それ、どう言うこと?」
周りでその話を聞いていた山口が、叫ぶように声を上げた。
「うん、昨日帰りに、長谷川と相沢がコーヒーショップみたいな所で、楽しそうに話しているのを見かけたんだよね。それですべて分かった」
新庄はしたり顔である。目を除いては。
「うっそー!あり得ない!」
山口が頭を抱えで叫んだ。
「こら、山口!あり得ないじゃなくて、『知らなかった』だろう?あんたが知っているとか知らないとかと、実際に有るか無いかは別のことなんだよ」
新庄は山口に向かってそう言うと、すぐに茜に向き直った。
「相沢、余計なことして済まなかったね。長谷川と仲良くしてね」
「長谷川の奴、いくら腹が立ったからって、私のこと蹴っ飛ばさなくてもいいのにね?まあ、それくらい腹が立ったってことなのかな?」
新庄も鈴木も笑顔であった。茜にとっては、明以外から労いの言葉をもらったのは初めてのことである。つい、目頭が熱くなった。
そこに、教室の入り口を開けて明が入ってきた。暴れる京子の右手を掴んだ状態で。明は、見るからにかなりのダメージを受けている。
「これ、頼む」
明は、茜の顔を見ると死にそうな顔で呟いた。
「はい」
驚いた茜は、すぐに印を結びながら京子に駆け寄ろうとした。京子は怯えて、恐怖に満ちた悲鳴を上げた。
しかし、茜が駆け出した瞬間、
「あきらー!どういうことだよー!」
山口が、勢いよく明に駆け寄って掴みかかった。
「お前、頭おかしくなったんじゃないのか?」
すると、京子の姿がふわりと宙に浮かんだ。山口に掴みかかられた衝撃で、明が手を放してしまったのだ。京子は安堵の笑みを浮かべて天井付近に浮かんでいる。
―危なかった。でも、諦めないからね。茜ちゃん?明君は私がもらうんだからね。覚えておいて!―
京子は、不敵な笑みを浮かべて茜に向かってそう言い残すと、教室の壁を通り抜けて外へ出て行ってしまった。
茜はそれを呆然と見送った。言い知れぬ胸騒ぎを感じながら。
明はもう既に瀕死の状態であった。そんな明は、山口から激しい追及を受けている。
「ひょっとして、俺の冗談を真に受けてんのか?だったら謝るよ。だから、考え直せよ!」
「あの、山口君…」
明を必死に説得する山口の耳に、聞きなれない女子の声が聞こえて来た。誰だろうと思って、その声のする方を振り向いた山口は、それを目にして動きが止まった。
そこには、恥ずかしそうに頬を染め、困った顔で山口を見つめる見慣れない女子がいる。ただ、山口も見覚えがある気はした。
「あの…、あの…」
その女子は、何か言いたそうだが言い出せずにいる。
すると、そこに明が割って入った。
「いいよ、茜。気にするなよ」
明は、茜と山口の間に立つと、山口に笑顔を見せた。
「おれ、相沢と付き合うことにしたから」
「え?」
山口が驚いたのは、明の言葉にではない。その女子が、相沢茜だと気づいたからである。そしてそれは、クラスの他の者たちも同様であった。一同沈黙し、茜に視線を注いだ。
「おい、何騒いでる。さっさと席に就け」
突然担任が入ってきた。それを見て、みんなワタワタと自分の席に戻って行った。
「先生、ホームルームにはまだ早いんじゃないですか?」
誰かが叫んだ。
「おー、分かってる。でも、今日はHRの前にはっきりさせにゃならんことがあるだろう?」
みんな、明と茜を見た。
「長谷川!相沢!」
担任は二人を睨んだ。
「おまえら、説教するには丁度いい席にいるな」
クラスにせせら笑いが起こった。
「おまえら、付き合ってるのか?」
あまりにストレートな質問に、明たちだけではなく、クラス全体が静まり返った。担任は、暫し黙っていたが、二人が何も言わないのを見て口を開いた。
「昨日の放課後、相沢のお母さんが職員室に来た」
その言葉に、教室内が騒ついた。
「お母さんは、俺の席に来るなり床にひれ伏して頭を下げた」
茜がびくりとした。
「お母さんはこう言った。『娘には今まで友達がいませんでした。長谷川君が初めてのお友達です。これを逃すと、次があるかどうか分かりません。娘がまともな人間になれるように、どうか今回のことは大目に見て、二人のことを優しく見守って上げてください』みたいな?」
担任はじっと二人を睨んでいる。
「しかし、そんなことは理由にならない。お母さんの気持ちも分からないではないが、それと授業さぼって、二人してしけこんで、しかも無断で帰ってしまうのとは全く関係のない事だ」
教室が静まり返った。
「しかし、俺も土下座をされたのは初めてだったし、それはそれでなかなか気持ちのいいもので気分が良かったから、今回だけは特別に大目に見ることにする。ただし、授業は欠席扱いになるからな、覚えて置け。そして、これはお前らが付き合っていると言うことを前提とした措置だ。だから、お前らの本気度を見せてもらわねばならん」
ここで担任は、咳ばらいを一つした。
「と言うことで、今後この席を、ずっとおまえらの指定席とする。おまえらに席替えは無しだ」
教室に歓声が上がった。明と茜は顔を見合わせてにこりと笑った。
「おまえら、分かってると思うが、うちの学校にクラス替えはない。三年間同じクラスだ。当然、学年が変わって教室が変わっても、二人にはこの席を使用してもらう。もし、お前らの関係が悪くなれば、残りの高校生活は気まずい、重たい生活になるんだ。もしそうなったら、俺はここから、この間近から、じっくり楽しませてもらうからな、お前らの気まずそうなその姿を」
担任は、不気味な笑顔で二人を見つめた。
「では、ホームルームを始める!」
その後も、相変わらず茜はクラスで浮いた存在であった。休み時間には校内を徘徊し、時々相沢ビームを発射している。ただ、徘徊の回数は、格段に減っていた。茜曰く、
「最近は、この学校の霊も減ってきている」
とのこと。入学当初は結構いたのだが、茜がどんどん送り出した結果、この校舎に常駐する霊はなくなっているらしく、たまにどこからか流れ着いたと思われる霊が現れる程度らしい。そして、休み時間の多くは、二人の指定席で、明と楽しそうに話をし、昼も一緒に食べている。徘徊が減った理由は、霊が減ったためなのか、明と言う存在が出来たからなのかは、定かではない。
ただ、茜のその姿があまりにも普通の女子になっているので、周囲はどう接していいのか分からないと言うのが実際のところかもしれない。ただ、新庄と鈴木は、時々普通に話しかける姿が見られるようになった。
明も、少し浮いた感じにはなっているが、山口や新庄、鈴木が普通に接しているので、孤立している分けではない。
一度、山口が
「相沢って、実際のところ何やってるんだ?相沢ビームは本当に何か出てるのか?」
と、聞いてきたことがあるが、明には
「俺にも良く分からん」
と言って、はぐらかすことしか出来なかった。
こうして、明と茜の高校生活はそれなりに充実しつつ、それなりに平穏に過ぎていくように見えた…のであった。
― 第一話 終 ―
ある日突然 守谷愛作 @isaac-moriah
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