神人の祈り

篠橋惟一郎

神人の祈り

 その日、侵略者によって、長く続いた平和と安寧はもはや崩壊への一路を辿った。我らに与えられた選択肢は、黙って奴らに膝を屈することだけなのか? 全てを奪い攫われることに何の抵抗もできないのか? あゝ、今こそ救いたまへカシよ。武運を司る白い女神よ。どうか、どうか我らトルミエの民を。

『ムーグ島戦争全史 カシーム民兵の手記』より




 とうとうきたか。予想よりは随分と早かった。


『ムルガト帝国中央陸軍第一部隊、トルミエ反乱鎮圧への出兵を命ずる』


 中央陸軍第一部隊、通称紫巾隊は、ムルガト皇帝の親衛隊である。彼らは帝国軍の中で唯一、紫の帯を締めることが許されている。高級な顔料をふんだんに用いて染色された絹の帯は、権威の象徴でもあった。

 この国では、数週間ほど前から、市民による反乱が起きている。西部の砂漠地帯、トルミエ地区に住居を構える少数民族カシーム人が蜂起したのだ。原因はおそらく、島に吹き付ける恒常風が弱まったことによる、降水量の低下と不作。また、ここ数年続いている皇帝の圧政であろう。皇帝から見れば異民族の彼らには、帝国軍の一員から見てもさすがに擁護できないほどの、重税が課せられていた。結局不満が抑えきれなくなり、今、爆発したと言うわけだ。

 スラは小さくため息をついた。すでに鎮圧を任された他の部隊からは、芳しい戦況はもたらされていない。カシームの人々はもともと戦闘部族を祖先としており、戦いに長けているものが多いのが原因だろうか。

「現在帝国軍は西岸に船を停泊、そこを拠点とし、主な戦場は未だ西岸部に偏っていると思われます」

 偵察部が、広い机上に大きな紙の地図を広げ、木製の小さな駒と筆を用いて戦況を報告していく。

「砂漠の東縁に位置する杉林から西進し、反乱軍を挟み撃ちにする、というのが軍部大臣の御命令だ。四日ほど前に他の部隊がすでに出発し、我々第一部隊の任務は、彼らの援護である」

 静かだがよく通る声。その主こそが、帝国内最優秀の紫巾隊をまとめ上げる、部隊長ルタ・タバサである。彼が、まだ二十代の若さでこの地位まで上り詰め、大いに手腕を振るうのを可能にさせているのは、ひとえに彼の軍師としての才能であった。賽の目で盤上の駒を動かして戦う軍戯や、実際に小隊を動かして、模擬戦闘を行う訓練などにおいて、彼に敵う者はいなかった。次々と新しい案を生み出し、こちらを翻弄してくるのである。

「彼らカシ教徒にとって、杉林は神聖な場所であり、太古のムーグ島戦争においても、戦場にはならなかった、と歴史書には書かれている」

 そう語るルタ本人も、出自はカシーム人なのである。彼が登用された当時の軍は、身分第一主義が色濃く残っており、軍の重要役職はほとんど全て、王のいる民族、ハール人が担っていた。さぞかし大変な思いをしたことだろう。そんな状況下で彼は自分の才能に物を言わせてさっさと出世し、ここたった五年ほどで、登用制度を実力主義へとがらりと変えてしまったのだ。スラのような平民出身にとって、ルタは英雄のような存在である。おまけに見目も麗しいときているのだから、彼は軍人たちの尊敬を一身に集めていた。

「ただ、それを鵜呑みにするわけにはいかないと、私は考える。先の戦争からはもうすでに百年近くが経っており、信仰がそれに伴って薄れている可能性も看過できない。杉林にいれば安全だ、などとは間違っても思い込まないように」

 ルタの鋭い眼差しに、部隊員たちは自然と姿勢を正す。

「また、相手は反乱軍とはいえ我が国の民衆である。我々は、帝国軍の一員として、国家の安全を脅かすものを見逃すことはできないが、彼らもまた、我々が守らなければならない臣民なのである」

 落ち着いた声だが、いつもより少し熱がこもっているように聞こえた。

「これは戦争じゃない。あくまで任務は制圧だ。それ以上のことを行えば、燻る火種は大きくなるばかりである。双方において、必要以上の犠牲は出さないこと。これを全員肝に銘じてもらいたい」

「はっ!」

 全員が拳二つを胸の前で重ね合わせる、ムルガト式の敬礼で応えた。


「ルタさん! ご一緒できて光栄です」

 会議の後、最後に席を立ったルタを追いかけてゆき、声をかけた。切れ長の目が、すっとスラを捉える。スラの周りにいるカシーム人には目が深緑の人が多いのだが、彼のように鮮やかな緑色のものは見たことがなかった。まるで東部の火山地帯から取れる、カンラン石をはめ込んだように美しい。

「こちらこそ。期待しているよ」

 薄暗がりの廊下で、飛び飛びに設置された燭台の微かな光が、彫刻のような彼の顔をくっきりと際立たせている。スラはかつて、ルタの推薦のもと、入隊試験を受けた身である。官僚としての顔も持つ彼が農村部を巡察に訪れた際、村外れの小さな道場で訓練をするスラの動きが目に止まったらしい。合格してからというもの、スラはずっと恩人としてルタを慕い続けており、彼の方もまた、いつも柔らかい笑みでそれに応えてくれていた。

「ただ、……私は今回の挟み撃ち作戦とやらが、上手くいく気がしないんだよ」

 突然漏らした弱気な言葉に、スラは目を見開いた。と同時に、自分が、あの軍師ルタに、戦況の話を持ちかけられているのだと悟って体中がさっと熱を帯びた。

「大臣殿の御命令とあらば、私は従うしかないのだけどね」

「自分は、特定の宗教を信じたことがないので、信仰とか、林を神聖だとする、っていう感覚はあまり分かりません。なので、もし僕が反乱軍の一員だったら、必ず杉林で奇襲を仕掛けます」

 ルタが微笑んだ。どうやら及第点の答えだったらしく、密かに胸を撫で下ろす。

「私も、そうするだろう。どうにかして仲間を説き伏せて。なにしろ帝国軍は、まさかそこが戦場にはならない、と少なからず思い込んでいるだろうからね。ひたすら相手の裏をかく。これが、砂漠の戦闘民族としての、彼らの戦いかただから」

 その言葉はルタの駒の動かしかたにも通じているのだろうか。小さなため息と共につぶやいた言葉は、妙に不穏な雰囲気をはらんでいた。

「このことが、すでに城を出ている他の部隊にも、伝わっているといいんだが」


「おい、まずいぞ!」

「撤退だ! 撤退!」

「退避ーッ! 第五、第八は林から撤退、第一は私とともに負傷兵の回収、その他は各隊長に一任! 無駄な死人は出すな!」

 ルタの声が、味方の阿鼻叫喚を縫って響き渡った。その間にも、周りには絶えず火矢と鉄製の大きな砲弾が降り注いでいく。近くに着弾するたび、キーンと響く耳鳴りが冷静さを奪っていく。

 やられた。二人の予想通り、やはり杉林の奥地には反乱軍が待ち構えていた。紫巾隊が到着した頃には、すでに前任の部隊と戦闘になっており、多くの被害者が出ていた。反乱軍たちは林の暗がりに紛れるよう、黒い服を着ていたのとは対照的に、皇帝の威厳を示す、とやらの理由で、全員が光る紋章の身につけられた軍服を着ているこちらは、光を反射する格好の的であった。それに、林の中なら弓は使えまい、と考えていたのも誤りだった。奴らは、質より量という考えのもとか、息をつくまもなくこちらへ矢を射かけてくる。

「奴ら、大木を倒すつもりだぞ!」

「ちくしょう、神聖な森って話はどこに行ったんだ!」

 怒号が聞こえた。頭上を見上げると、一本の木が激しく揺れている。この太さでは、周りの木々が支えになることもない。火矢は陽動だった。目的は最初から砲弾を木に当て、下にいる兵隊を一網打尽にすることだったのだ。紫の帯があちこちでひるがえって、動けない兵たちを運んでゆく。

「倒れる木と垂直に逃げろ!」

 黒い影が迫ってきた。しかし、まだ木の近くに人がいる。考える間もなく地面を蹴った。倒れている元に駆け込み、脇に手を入れて強引に引っ張り、放り投げるようにして木から遠ざけた。後はさっさと離れればいい。

 その瞬間、いきなり太ももに激痛が走った。足がもつれて転ぶ。射られたのだ。木の繊維がちぎれるめりめりという嫌な音が背後に迫ってきた。

「スラ!」

 叫ぶ声は、ルタか、はたまた他の誰かか。咄嗟に右手で頭を庇った。樹齢百年を越えるであろう大木がスラの体にのしかかり、そのまま意識が遠のいた。


 目の前で大切な部下が下敷きになった。酷い惨状だ。立ちこめる硝煙の匂いと煙、そして苦痛に叫ぶ仲間の声。紫巾隊はよく動いてくれているが、それ以上に怪我人が多い。なんとかこの状況の歯車を、一つでも狂わせて、打開しなければならない。

「ムルガト帝国陸軍第一部隊長、南タバサ家が長男、ルタである! カシームの人々よ、聞いてくれ!」 

 声をかぎりにカシーム語で呼びかけた。幸い自分の声はよく通る。あちらの空気がさっと変わったのがわかった。周りの軍人たちも、驚いて手を止め、こちらに視線を集める。ルタの言葉が理解できたのはおそらく軍の半数に満たないだろう。それでも、先ほどまで戦場だった森は、一瞬静けさを取り戻した。

「貴様らの目的はなんだ! このまま戦い続けてどこへ行こうというのだ!」

 しばしの沈黙、それから低い声が返ってきた。カシーム語、それも古めかしい訛りを含んでいる。

「我らの望みは皇帝の首だ。諍いの歴史とやらに終止符を打つ」

 諍いの歴史。ルタが二の句を継ぐ間もなく、

「引けぃ!」

 先ほどの低い声の合図とともに、かさこそと林を走り抜ける音がして、後には帝国軍だけが取り残された。


 目を覚ました時には、うすぼんやりとした部屋の中だった。たった一つの照明が、じじ……と微かな音を立てて燃えている。体を起こそうとして、うまく力が入らないことに気づく。甘い香りのおかげで、自分が今どこにいるのかを悟ることができた。

 ここは軍の簡易病棟、それも重症患者用のである。あたりに漂う花の香りは、おそらく強い鎮痛作用のある香。しかし、長時間の吸引は意識の混濁や思考力の低下を招くため、使用は国に認められた医師にしか許可されていない。

 回らない頭で出口を探す。寝ているよりも、今の状況が知りたかった。壁を伝いながらなんとかして引き戸をこじ開けると、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。外は夜であった。雲のない真っ黒な空に、満月だけがぽっかりと浮かんでいる。あれからどれくらい立ったのだろうか。そうして地面に座り込んでいる間に、次第に体が動くようになってくると共に痛覚も戻ってきた。あちこちに無数の切り傷があり、太ももの矢傷も未だ、まるでそこに生き物が蠢いているように、ずきんずきんと痛む。おそらく右腕は折れており、真っ白なさらしが巻かれているが、それだけで済んだのが奇跡のようだった。

 何気なく、近くに立つ物見やぐらを眺めた時、ちらりと人影が動くのが見えた。そいつが着ているのは軍服ではないことが、ここからでも見てとれた。誰だろうか。

 足を引き摺りながらそばに行き、左手を使って何とか梯子に取り付いた。片手しか使えないせいで、少し手足をかけ間違えただけで真っ逆さまである。慎重に登り進めていくが、傷の痛みもあってか、半分ほどまできたところで、もう汗だくだった。見上げた上はまだ遠い。耳元を通り過ぎる風が唸る。

 しばらく登ってからもう一度顔を上げると、上にいる人影がこちらを見下ろしていた。月明かりの逆光のせいで表情はよく見えない。影はおもむろににふわりとしゃがむと、こちらへ手を伸ばしてきた。残りの数段で、動く方の手で掴むと、軽々引き上げられる。

「腕の調子は?」

 いつもの落ち着いた声が呼びかけてきた。それだけで、スラを病棟まで運んでくれたのが、この人だと悟った。ローブと一繋ぎになったフードを目深に被っている。ただならぬ雰囲気を感じ取るには、それで十分だった。膝丈ほどまである長く真っ白なローブは、カシーム人の伝統衣装だ。裾には、文字とも柄ともつかない金の刺繍がほどこされていた。

「軍医が、優秀でした」

 それだけの答えだったが、ルタがちょっと安堵したのがわかった。支えていた手を解いて、スラを床に腰掛けさせる。

「こんな夜更けにどこへおいでです」

 なるべく穏やかに聞いたつもりだった。おそらく自分が何を言っても、この人の意思を変えられそうにないことを知っていた。それでもせめて、聞いておきたかったのだ。彼はそれには答えず、

「君は、対立する二つの集団間の争いを止めるすべを知っていますか」

 二集団。それが何を暗示するのかは聞かなくともよくわかった。

「お互いが、妥協し、協調の道を目指すことです」

 そうしてきたのだ、と思っていた。百年前、ハール人がムーグ島を攻略し、先住民族のカシーム人を従属関係に置いた。それが二部族の対立の始まりである。しかし、国としての制度が整っていくにつれ、法律上での両者は対等になり、諍いも次第に風化していった。未だ、双方の価値観からすれば不満な点は残っているだろうが、それは半ば痛み分けとも言えよう。

「そう、妥協は今のところ上出来です。でも、協調の道は見つけがたい。なぜなら、被害者側は戦争を忘れまい、風化させまいとし、加害者側は早く忘れることを望むからだ」

 一カシームの人民としてのルタと、ムルガト帝国軍人としてのルタ。彼の出自は彼を、両方の主張に、嫌というほど曝してきたのだろう。

「双方、そうすることが一番の協調の近道だと信じて疑わない。だからこそ我々は未だ、反乱軍と帝国軍の争いなんてものに直面しているんだよ」

 一時は、どちらかの民族が全滅してしまえば、復讐も諍いも起こらなくなり、平和になると考えたこともあるらしい。さらりと言い放ったルタの、鼻筋の通った綺麗な横顔が、その一瞬だけは凄みを帯びて見えた。

「私はずっと、術を探していた。そして、奇襲を仕掛けた反乱軍の頭の言葉で、答えを見つけたのだよ」

 争いを続ける二つの部族。それを止めるには。

「共通の敵である第三者に対し、団結すればいいのだ」

 重税に圧政、無能な上層部に、古めかしい伝統と権威の徒。

「そのすべての元凶はなんだと思う。そう、今上皇帝だよ」

 胸の中に押し込めていた違和感が、ぐわっと大きくなってスラの頭を埋め尽くした。確かに、彼が帝位についてからというもの、うまく保っていた二つの部族の均衡が崩れ、小さな反乱が頻発するようになった。その中には、カシーム人のものだけではなく、ハール人農民のものもある。また、伝統を重んじるあまり、帝国軍は新しい戦術や武具に対応しきれていない部分も多い。

「彼さえ潰してしまえば、そして下手人の私も共にこの世から消えれば、復讐の矛先は失われ、国の団結は保たれる。少なくとも、私は今、そう信じているよ」

 隣に座っていたルタが、勢いよく立ち上がった。

「今日でお別れです、スラ。私は神になりに行く」

 意味のわからない言葉に、嫌な予感が胸をよぎった。

「忘れていました。彼らとの約束を果たすのを。もう百年も経ってしまった」

 なんのことを指しているのか全くわからない。約束? 百年?

「お互い憎しみあってもう長い年月が経ちました。カシームも、ハールも、それはもううんざりだ。諸悪の根源を、私たちの時代で絶っておかなければ」

 柔らかい声色で彼が言った。形の良い口元には優しい笑みを浮かべている。その笑顔はまるで何かに酔っているようだ。どうする、ルタが行ってしまう。何か言わなければ。

「あなたが、正しいと思うことを貫くかぎり、僕は、あなたを大切に思います。何があっても!」

 彼に、とうに陶酔しきっていた自分が咄嗟に言えるのは、これが精一杯だった。

 刹那、どうっと一際強い風が吹いた。それは押さえる間もなく彼のフードを攫った。

 黄金。スラが最初に見たものはそれだった。月に照らされた、白い顔。光がこぼれる緑の目。すらりと長い両腕を広げて柵に体をもたれた彼の髪は紛れもない金色だった。柔らかな光の粒をまとい、きらきらと輝いている。帝国内にあるどんなに美しい装飾品も、飾り細工も、これほどまでに目を奪うものはないだろう。


「ありがとう」


 囁いて、目を細め笑った。こちらの胸が詰まるほど、優しい、優しい笑顔だった。

 いきなりくらりと目眩がした。酒に酔った時のようなふわふわする酩酊感。足元がおぼつかなくなって、思わずよろける。なんだこれは。

「私は、君も、救いに行く」

 彼は、こちらに背を向けるとフードを深く被り直した。

「ルタさん!」

 叫び声が喉を灼いた。伸ばした手が届く前に、ルタはひらりと柵を飛び越え、木の高さ以上もあるやぐらの上から、遥か下の夜の闇へと吸い込まれていった。


「馬鹿め」

 はっと顔を上げると、意外な声の主が、傍に立っていた。眉をひそめてじっと月を見据えている。

「サリア先生……」

 いつから聞いていたのだろうか。病棟へ詰めていたはずの軍医サリアである。前線の仮設病棟の全権限を掌握する彼は、ハール人ながらルタの旧友でもあった。どうやら先ほどまでも治療をしていたようで、きつい薬剤とかすかな血の匂いをまとっている。

「ルタさんは、本当に神になったのかもしれません」

 頭がまだぼんやりとしている。サリアがため息を漏らして横に座ってきた。黙っていると、風以外の音はない。今日は夜間の衝突もないらしい、静かな夜であった。

「僕は、人神一致なんて信じたことはなかったですが、あの姿は……。それに、あの瞬間、確かに不自然な目眩がしたのです」

「それは、蓮鎮香れんちんこうの効き目が残っていただけだ。妙な勘ぐりはやめておけ」

 サリアは薄汚れた白衣の胸元から煙草を取り出した。

「火、あるかい」

 差し出すと、細巻きを咥えたまま顔を寄せてきた。手で風を遮りながら火を移す。その仕草は、どうにもルタと似ていた。彼ら二人でこうして座って、一緒に煙草をふかす。そんな平和で優しい時間が、かつてあったのだろうか。

「どうも」

 サリアが吐き出す煙は、すぐに闇に溶けてゆく。

「先天性色素異常。見ただろさっき。奴の髪色は元々があれなんだ」

 奇跡的なものとやらで変わったわけではない。生まれつき、肌は白く、目の色は薄く、髪は金色。数千人に一人、人種関係なくそう生まれつく人間がいるが、今の医学では詳しい原因はわかっていないらしい。

「でも、どうしてわざわざ黒髪なんかに?」

「奴の故郷には、神話時代の言い伝えがあってな」

 カシ教の信仰と結びついた思想だという。

「白い子どもはカシの神性を宿している」

 月の神カシ。その姿は黄金の髪をもつ女神とされ、武運の象徴である、と以前同僚のカシーム人から聞いたことがある。

「古くは神聖視されたが、信仰の薄れとともに、その不気味な姿は忌み嫌われるようになっていった」

 カシーム人とはかけ離れた見た目から、妻の不貞が疑われるなど、厄介ごとを引き起こしてきた事例もしばしばあるという。周りの目を気にした彼の両親は、幼い頃から髪を黒染めすることを覚えさせた。軍に入ってからは、染め粉を工面していたのは、薬品を扱いやすいサリアであったのだ。

「だが、奴の出身は、十数年前の身分廃止令によって取り潰しになったとはいえ、カシームの貴族だからな。周りには祭祀を取り扱う敬虔な信者が多かっただろうし、その中に古い言い伝えを信じて、ルタに伝えた……、いや、ルタにすがった者がいても不思議ではない」

 サリアは一段と忌々しげな顔になった。その憤りの矛先は、当時まだ幼子だった親友に、重荷を負わせた奴らだろうか。 

「神の名を騙るとは、なんと畏れ多いことを。どうせ、自身の人性を捨て、民を救って死ぬことなど、あのルタにはできないだろうに」


「塀の上に人がいるぞ!」

 第三塔から声が上がった。城を警護していた男は、持っていた松明をそちらへ掲げると、右手の長槍をしっかりと握り直した。月に照らされて、背の高い影が庭を見下ろしている。凛とした声が響いた。

「月の神、カシの名において告ぐ。悪逆非道の王を引き渡せ!」

 どこかで聞き覚えのある声。

「おい、あれはルタ殿じゃないか?」

 近くにいた衛兵が言う。男は目をすがめて影の顔を窺おうとした。

「放て!」

 見張り塔の上の上官が怒号をあげた。びょうと風を切った複数の矢が、彼を目掛けて真っ直ぐに飛んでゆく。

 突然、まばゆく白い光の塊がこちらへ向かってすっ飛んできた。次の瞬間には、男の目の前は真っ暗になっていた。

 

 矢の音を聞くや否や近くの兵めがけて飛び降りた。鞘を払わないままの剣を一筋振るう。殺してはいけない。殺さずに戦闘不能にする。それだけを培ってきたのだ。

「どけ! 不遜であろう!」

 怒鳴ると同時に正面門から城の中へ踊り込んだ。両脇の門番を片手であしらい、階段を目指す。たちまち囲まれた。力づくで胴を薙ぎ払うと、呻き声をあげて兵士たちが剥がれ落ちていく。上の階から来た集団に体を低くしたまま突っ込む。姿勢を崩したところを蹴り落とす。近くの兵を一掃できた。戦える。経験が体を動かしてくれる。ローブをはためかせ、上へ上へ。ルタは溢れ出る脳内麻薬に酔っていた。肩が、腕が、脚が軽い。視界が広い。どう動くべきなのかが自然とわかる。傷も、痛みも、全く気にならない。その、まるで舞を舞うかのような武術は、かつて語られた軍神カシそのものであった。やがて彼は、勢いを殺さぬまま、皇帝の住う部屋へと突っ込んでいった。


 皇帝暗殺事件から僅か半月ほど。城では、予期せぬ皇帝の崩御に伴い、臨時で、帝位継承の儀式が行われていた。

 皇帝の死の知らせを聞いた反乱軍は刃を収め、帝国軍の上部は彼らと和議を結んだ。その条文の中には税制度の見直しも含まれている。国全体が、再び一つへと動き出しているようだった。

 城の復興は進んでいたものの、親衛隊や衛兵の中には未だ復帰できていない者も多くいる。数多の役人と、新しく編成した親衛隊に囲まれながら、跪き、冠を戴く少年は、静かに拳を握りしめた。

 

 皇家の名誉のため、暗殺者は城の兵士がその場で射殺いころしたことになっているが、わたしは見たのである。割られた窓へ続く、血を引き摺った跡。切り落とされ残っていたのは、数束の金の髪の毛だけだ。

 ルタ・タバサ。恥知らずの反逆者よ。必ず見つけ出して、同じ目に合わせてやる。我が父の苦しみを、我が母の悲しみを、思い知るが良い。

 

 王家の刃が、お前を逃がしはしない。

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