ナツ

青切

ナツ

 朝。コーヒーを飲みながら、新聞をながめていると、テレビのニュースが耳に入ってきた。

「……つづいては訃報です。著名な投資家であった、アメリカ在住の日本人、雨月真夏さんがお亡くなりになりました。享年三十七でした。なお、現在のところ、死因は不明とのことです」

 その思わぬニュースに、私は思わず、手にしていたコーヒーカップを床に落とした。皿を洗っていた妻が音に振り返り、私に何か声をかけたが、私の耳には届かなかった。私は食い入るように、ナツの経歴をつたえるテレビの画面を見た。まさか、あのナツがこんなに早く死ぬとはと感慨しつつも、それが自然なようにも思えた。とにかく、ふしぎな女であった。


 ナツとは、私立の中高一貫校で、同学年だった。中学三年生のときに同じクラスとなり、高一から付き合い始めた。その後、私の進学する大学に彼女はついてきた。ナツの学力ならばもっと上の大学にも軽々と入れたので、教師たちからはずいぶんと説得されたらしいが、ナツは彼らの言うことをまったく聞かなかった。ナツは、反抗的だが、成績優秀であったため、その言動を黙認されている生徒だった。とばっちりが私に来て、先生たちからは何度も恨み言を聞かされた。

 大学に入ると、下宿先の賃貸マンションで、私たちは同棲をはじめた。私は親の手前もあり、乗り気ではなかったが、ナツの中でそれは決定事項で、私への相談もなく、彼女は自分の荷物を私のマンションへ運び入れた。一事が万事、その調子であった。

 高校時代も束縛がひどかったが、大学に入るとさらにそれはエスカレートした。携帯電話は何度も壊された。中身を日に何度もチェックされ、女性からの連絡やアダルトサイトの閲覧履歴があれば、冷めた視線を私に送ったまま、無言で携帯を床や壁に叩きつけた。


 私は少しづつナツについていけなくなり、彼女が二十歳になる誕生日に別れを切り出した。

 その日は八月十五日で、夏の暑い盛りであった。マンションのエアコンの調子がわるく、私は汗を何度もふいたが、それは暑さのためだけではなかった。

 ナツも暑かっただろうが、彼女はめずらしく陽気だった。ナツは自分の誕生日を機に、私がプロポーズをしてくると思っていたのだろう。そう、私は結婚に向けて追い詰められていた。ナツは直接的な言動こそ示さなかったが、私に結婚を迫っていた。彼女ならば、自分から言いだしそうなものだったが、そのようにはしなかった。別にそれは、プロポーズは男がするものと彼女が思っていたわけではなく、ナツのプライドの問題であったろう。ナツは、他人にものを頼むことができない女だった。しかし、まだ若かった私には、彼女に束縛される一生は耐えられそうには思えなかった。

 私が別れ話を遠回しにはじめたとき、ナツはプロポーズをされると思っていたので、最初はいつもの自信に満ちた目のまま、整った顎を上下に動かし、「うん」「うん」と微笑を浮かべていた。

 しかし、話が彼女の求めていたものとちがうと、突然、泣きはじめた。感情をめったに表へ出さない彼女が泣いたのを私は初めてみた。

 ごねられるかと思ったが、ナツはあっさりと別れることに同意した。

「記憶にある限り、生まれて初めて、泣いたわ、私。そのことを忘れないでね。一生。そう、一生よ」

 そういうとナツは引っ越すために、さっそく荷物の整理をはじめた。

 私はその背中を見て、思わず彼女を抱きしめて、プロポーズをしたくなった。しかし、理性と呼べばよいのか、何と言ってよいのかわからないものに止められて、その様子を黙って見つめていた。


 その後、彼女はアメリカの有名な大学へ入り直してしまい、私とは音信不通となった。

 ふたたび、ナツの顔を見ることになるのは、雑誌の特集記事だった。

 彼女は学生時代から投資の才を見せ、学費を含めて、すべての生活費を自分で捻出していた。天才的な勘の持ち主であった。

 大学院を卒業後、投資を職業とした彼女は、暴落したときに株を底値で買いあさり、それを高値で売るを繰り返して、巨万の富を得た。ついたあだ名は、「美しき死神」であった。


 テレビ画面には、中年になっても美しさを保っていたナツの写真が映し出されていた。

 割れたコーヒーカップを拾いながら、妻がやや不機嫌そうに、「そういえば、知り合いだったわね」と言ってきた。私は「ああ」と生返事をしたのちに、追憶をやめ、会社へ向かうための支度をはじめた。



 私の生活が一変したのは、ナツの訃報からしばらくしたある日のことだった。

 どこで調べたのかは知らないが、ナツの顧問弁護士を名乗る女から電話がかかってきた。その電話の内容は驚くべきものであった。

 ナツにはひとり娘以外の家族がおらず、その子はまだ十六歳であった。そのため、遺言状に後見人が指定されていたのだが、そこにあったのは私のなまえだった。

 ナツの遺言状には、娘を私たち夫婦の養子とし、扶育する代わりに、莫大な遺産の一部を譲ることが書かれていた。

 その話に、私はあまり乗り気ではなかったが、子供がなかったこともあり、妻はナツの一人娘を受け入れることに興味を示した。私は子供のできにくい体質で、妻にはその点で負い目があったので、結局は、ナツの遺言に従うことにした。

 ナツの一人娘に対して、「実は、あなたとの間の子供じゃない?」と妻は探りを入れてきたが、「つまらない冗談はやめてくれ」と私が言うと、彼女は神妙な顔をして、「ごめんなさい……」と口にした。

 大学に入ってから、ナツは避妊を拒んでいた。既成事実が欲しかったのだろうか。しかし、私との間で子供はできなかった。だが、もし、別れる間際にナツが子供を宿していたら、つじつまがあわないこともなかった。


 空港へ迎えに行き、会った瞬間に、私は思わず、息を飲み、何と声をかければよいのか迷った。一人娘の容姿があまりにも、若い頃のナツにそっくりだったからだ。

 すると、少女が頭を一つ下げてから、「お世話になります。夏夜です。ナツと呼んでね、パパ」と流暢な日本語で言い、私に腕をからめてきた。

「私のなまえは清少納言の枕草子からつけられているの。昔、パパがよく読んでいたから、ママ、枕草子から名づけたんだって」

 私たちの様子に困惑しながら、妻が「これからよろしくね」と声をかけたところ、夏夜は、英語で妻に罵詈雑言を浴びせて、そっぽを向いた。

 英語のわからない妻が、「この子、何て言っているの?」とたずねてきたが、「ネイティブすぎて、ぼくにもわからないよ」とうそをついた。すると、妻が不審そうに私を見た。

 ふたりを一瞥して、これからの生活を思い、私は不安になった。


 不安は的中したが、それは想像していたものを越えていた。

 夏夜はマンションに着くなり、その狭さに不満をもらした。その冷めた視線や口調は、母親であるナツにそっくりだった。

 夏夜はすぐに、高級マンションのパンフレットを私に突きつけて、「ここに引っ越そうよ。パパ。お金なら、いくらでもあるんだから」と私に抱きついてきた。その様子を見て、妻が「いやよ。私の会社から遠くなるし、近所に友達もいるのに」と怒鳴った。すると、夏夜も黙っておらず、また、英語で捲し立てた。

 妻と養子との間に挟まれて、私は困惑した。私は仕方なく、たまにナツが甘えてきたときのように、夏夜の頭をなでながら、「お母さんを困らせたらだめだよ。わかってくれないか」となだめた。すると、彼女はうっすらと笑みを浮かべながら、「わかったわ。すこしの間は、我慢してあげる。すこしの間はね」と、鋭い眼差しを自分に向けている妻に対して、同じく敵意に満ちた視線を送った。


 私たち夫婦は話し合い、ナツの遺産には手をつけない方針で、三人の生活をはじめた。しかし、ひと月を待たずに破綻した。

 ある朝、「いや。目玉焼きは半熟にしてって言ったじゃない」と、夏夜が、机の上の皿を床に落とした。

 それに対して、妻が「私はあなたの家政婦じゃないわ」と怒鳴った。それに対して、夏夜は不敵な笑みを浮かべて、「なに言ってるの? あんたは私の家政婦よ」と言い放った。

 すると、妻は、「もう、我慢できない」とエプロンを床に叩きつけて、椅子に坐っている私に近づいてきて言った。

「この子とは一緒に暮らせないわ。すぐに追い出してよ」

 長年、夫婦をつづけてきて、見たことのない形相の妻を前に、私がおじけついていると、夏夜が私を後ろから抱きしめながら「出て行くのは、あんたよ。お金なら、いくらでもあげるから、どこかへ行ってよ。私とパパの生活のじゃまをしないで」と抑揚のない声で言った。

 妻は顔に怒気を浮かべながら、「あなた、頭がおかしいんじゃない」と口にした。それから、私に向かって、「どっちを取るのよ」と迫った。私が夏夜の腕を振りほどきながら、「まあ、落ち着いて」と妻に声をかけたところ、「落ち着いていられますか。こんなの信じられない」と目に涙を浮かべはじめた。

 私は腕を離さない夏夜にいらだち、強引に細くて白い腕を振り払い、突き放した。すると、彼女は床に尻もちをついて倒れた。慌てて私は夏夜に近づき、「すまない」と謝った。彼女はうつむいたまま、何も答えなかった。

 私は仁王立ちしている妻を振り返り、「夏夜は、ゆいいつの肉親を失くして、異国の生活でおかしくなっているんだと思う。もうちょっとだけ、我慢できないか? そのうち、こちらの生活にもなれてくるんじゃないかな」と言った。

 私の返答に妻は落胆した様子を見せたあと、無表情で「わかったわ」と言った。私はほっと息をつき、「わかってくれたか」と応じた。

 すると、妻は「私、この家を出て行くわ。ふたりで勝手にすればいいじゃない」と言って、荷物をまとめはじめた。

 どうにかなだめようと必死に説得している私の耳に、夏夜の勝ち誇った笑い声が入ってきた。


 玄関で茫然と妻の出て行くの見ていた私の後ろから、夏夜が抱きついてきた。そして言った。

「これでじゃまものはいなくなったわ。ねえ、パパ。引っ越しましょうよ。私、あの女の臭いのする家になんか、住んでいたくないわ……。私、料理が上手なのよ。ママが教えてくれたの。毎日、おいしいごちそうをつくってあげるわね。前みたいに」



 妻が出て行ってからしばらくして、私は会社をやめた。

 莫大な財産を持つ夏夜の後見人になったことは口外を避けていたのだが、どういうわけか、同僚のだれもが知るところとなり、とても居心地がわるくなった。

 さらに、妻が出て行き、夏夜の決めた高級マンションにふたりで住むようになると、あらぬうわさに悩まされた。

 それでも我慢して出社していたが、毎朝、毎夜、「ねえ、会社なんてつまらないものはやめて、私とふたりで楽しく暮らしましょうよ」と、母親と同じ口調でそそのかしてくる夏夜を持て余す日々がつづいた。

 それからしばらくして訪れた、私の誕生日に事件は起きた。

 疲れ切っていた私が出社するために玄関を出ようとすると、セーラー服姿の夏夜が、「すごいプレゼントを用意しているから、きょうは早く帰って来てね」と言った。

 私が憂鬱な気持ちで帰宅すると、夏夜は母親譲りの笑みを浮かべながら、私を椅子に坐らせて、一通の封筒を差し出した。中を見ると、妻の署名が記された離婚届であった。

「ママが言っていたけれど、本当に、お金さえあれば、たいていのことは叶うのね。あの女もずいぶんと抵抗したけど、最後には折れたわ」

 夏夜の言い草が耳に入った瞬間、私の中でなにかがはじけ、彼女を殴打した。夏夜は壁までよろけて、その場にうづくまった。

 うつむいている夏夜は泣いているように見えた。私は彼女に近づいて、「すまなかった。殴るつもりはなかった」と言うと、彼女は顔を上げ、くすくすと笑いだした。泣いてなどはいなかった。

 夏夜は右頬をおさえながら、すこしろれつの回らない口調で「私が泣くわけないじゃない。はじめて殴ったわね」と奇妙な言い回しを口にした。そのこちらを見上げる顔は母親とまったく区別がつかなかった。

 はじめて?

 この子は夏夜だ。夏夜のはずだ。でも、ナツと区別がつかない。まるで、ナツが若返ったようだ。なんだこの、ナツを殴ったような感覚は。私はナツを殴ったことはなかった。はじめて殴った? はじめて……。この子はナツの娘というより、生まれ変わりか? ばかな、そんなことがあるはずはない。

 私が困惑の極みにいると、夏夜が微笑を浮かべながら言った。

「許してほしい?」

 どうにかこの状況からすぐに抜け出したかった私は黙ってうなづいた。

「なら、会社をやめて。お金なら、いくらでもあるんだから、いいじゃない」

 判断力の弱っていた私は、また、黙ってうなづいた。

「それから、私のことは夏夜じゃなくて、ママと同じ風に呼んで。ナツと」



 ナツと私の二人きりの生活がはじまった。彼女は母親が若いときに着ていたような服を身につけるようになった。

 生活をつづけていく中で、娘のナツと母親のナツの区別が私にはつかなくなった。朝、目が醒めて、リビングなどでナツと顔を合わせると、自分が学生時代に戻ったような錯覚に陥った。鏡で自分の年相応の顔を見ることで、現実に戻ることができた。

 私が反対する中で、ナツは投資をはじめた。結果、母親と同じ才能を示し、資産はさらに増えていった……。


 最後の、そう、最後の事件が起きたのは、ナツの二十歳の誕生日だった。母親と同じ八月十五日に彼女は生まれていた。

 昼過ぎ、私が用を済ませてマンションに戻ると、リビングが蒸し暑かった。部屋には、かすかにナツの匂いが感じられた。リモコンを見ると、冷房はつけられていた。しかし、エアコンに近づいてみたところ、生暖かい風が弱々しく吹いているだけだった。

 すると、バスタオル姿のナツがバスルームから出てきた。

「おかえり。エアコン、壊れちゃったわ。業者は明日にならないと来れないって」

 夏の肢体を見て、暑さのせいだけでないほてりを私はおぼえた。

 ナツは私の視線に気がつくと、バスタオルを床に落として、裸となった。彼女はふたりで生活をするようになってから、さまざまな手をつかって、私を誘惑してきた。しかし、私はそこだけは越えてはいけないと思い、何とか、踏みとどまっていた。だが、もう、だめだった。

 大きな窓から降り注ぐ夏の日差しが、ナツの体の輪郭をはっきりと私に見せた。それは母親のそれと瓜二つで見分けがつかなかった。

 ナツはローテーブルのうえに置いていた、白ワインの残りを飲み干すと、私に近づいて来た。そして、パパとではなく、私の下のなまえを呼んだ。昔、彼女の母親が呼んでいたアクセントで。

「なにをしたいのか、私、わかっているわ。でも、その前に言うことがあるんじゃない? きょうは私の二十歳の誕生日よ。二回目のね……。ふふ、冗談よ」

 母親のナツがいつも浮かべていた冷笑。一瞬、体の芯の部分に寒気をおぼえたのち、私がナツに抱きつこうとすると、彼女は軽くそれを制した。

「順序は守って。さあ」

 冷めた口調のナツの乳房に目を落としながら、私は大きく息を呑み、言った。言わされた。結婚してくださいと。


「私のこと、愛してる?」

「……愛しているよ」

「どれくらい愛しているのか、教えてよ」

 ナツの胸に顔をうずめながら、私は長々と愛のことばをつぶやかされた。それを彼女は整った顎を上下に動かしながら、愉悦の表情で聞いていたのだろう。ときおり、「うん」「うん」というあいづちが聞こえた。

 私の言葉が尽きると、ナツが私の耳元で次のようにささやいた。

 「おりこうさん。今度は選択をまちがえなかったわね。おかげで、私は泣かずにすんだわ」と。

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ナツ 青切 @aogiri

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