抱きしめたい

志々見 九愛(ここあ)

 鉄道を降りるまで無事にこの花束を守ることができた。そして、駅から降りた先のバスターミナルから外れて路地のところまで行った先のラウンダバウトを越えて、さらに交差点を一つ曲がったところまで歩いてきた。仲間外れのバス亭、その時刻表の横に僕は立ったのだ。誰も並んでおらず一番乗りだったので気分はいいが、ちょうど日光が道路を挟んで向かいのビルから跳ね返って目を突き刺してくるイヤな時間帯だった。

 手を握れたら、きみに話したいことがある。

 腕を時刻表に押し付けて、腕時計と時刻の数字を近づけて時間を確認していくと、次のバスまで三十分以上もある。マニアック路線、さもありなん。

 道路は非常に渋滞していた。車の流れは赤ちゃんのハイハイよりも遅いだろう。大小さまざま色とりどりな車の長い列ができていた。黒い煙を吐いているでっかいディーゼル車が交差点の向こうを直進してこちらに向かっているのが分かる。あいつが来るより先にバスは来ない。そんな未来が確定していてゲンナリする。

 信号が何度も変わり、ゆっくりと渋滞の列は進んでいく。たまに車から降りてきた人が、前後を見回して、やってられないとばかりに手を振り上げる。地団太を踏んでそのまま車に戻って、一発クラクションを鳴らす。すると、別の運転手が車から降りてきて、同じようにするのだった。両側合わせて四車線あるのに車でぴっちりなのだ。きっと僕だってそうするだろう。その行為は伝染していき、どんどん人々を憂鬱な気分にさせていったようだ。

 ディーゼル車がじりじりと僕の目の前を通り過ぎようとする。右ハンドルの運転席には、どどめ色のタンクトップを着た女性がいた。サイドミラーからは、胸元がぱっくり開いているのが分かった。彼女の右手にはストロング缶だ。窓に肘をかけて、たまにちびちびとやっている。「おいおい……」そんなふうに眉をしかめて見上げると、彼女は見せつけるように飲み干してきた。さらに運転席から缶を突き出して、ひっくり返して中身がないことを証明すると、「おいおい……!?」そのまま握りつぶしたのだ。彼女が手を放し、空き缶が道路に落ちる。軽く跳ね返って僕の足元へと転がってきた。彼女は中指を立てながら、ゆっくり車内に腕を引っ込めると、無慈悲に窓が閉められる。車が僅かずつ進んでいく。

「まったく……ゴミはゴミ箱へ」と、なんとなく呟いて、僕は缶を拾い上げる。バスターミナルまで戻らないとゴミ箱は無い。幸いにも、車列の後ろの方にバスの姿は無かった。ちょっとくらい離れても乗り遅れることは無いだろう。だが、列を割り込まれる可能性はあった。今は僕しか並んでいない。とはいえ、四人組が来て不在の内に並んでしまうことも有り得るだろう。それを防ぐために、この花束を置いていくか……? 悩んだ末に、僕は靴を脱ぐことにしたのだった。靴下を小学生の時にしたみたいに口ゴムのところからくるくると巻きながら降ろしていき、くるぶしのところで止める。崩さないように足を引き抜き、形をそのままに置いた靴の中へと挿し込んだ。両足ともそうやって、ちょっと蟹股な感じで靴を配置する。これで、やんちゃな透明人間が列を作っている感じになっただろう。

 裸足でバスターミナルまで行って、ゴミ箱に空き缶を捨てて戻ってきても、まだ誰も並んでいなかった。それどころか、ディーゼル車が丁度車体半分くらい進んでおり、人を寄せ付けないぞとばかりにバス停の前で黒い煙を吐き出している。僕は靴を履きなおしながら、どどめ色タンクトップの女性に文句の一つでも言ってやろうと思ったが、やめた。とっておきの話をきみにするとき、僕はきみの手を握りたい。だから、今は喧嘩なんてするもんじゃない。

 バスの時刻はとっくに過ぎていた。ようやく交差点の向こうにバスが見えたのだが、曲がっていく車もあって、車列そのものはほとんど進んでいない。気の遠くなるような列の進みだ。まだまだ孤独な時間が続くだろう。しかし、しばらくすると新たに紳士が一人、僕の横に並んだ。この人は、二列で並ぶという秩序を作り出したいようだ。僕にも異論はないけれど、このマニアックな路線にそれは必要ないだろう。

「いやあ、すごい渋滞ですなぁ」と紳士は言った。

「ええ、ええ。バスはあちらに見えていますが、あの距離を進むのにどれだけかかるやら」

 なんて他愛のない会話をしている最中にも、ゆっくりと渋滞は進んでいった。そろそろ夕暮れも近いからだろうか、僕らの後ろにも少しずつ人が増えていく。紳士ばかりだが、あまり気にするようなことでもない。バスがあと車二台分ほどの位置までやってくると、沈黙を隣の紳士が破ったのだった。

「貴方の紳士服、とても仕立てが良いものでしょう? それにその花束は……なるほど、待ち合わせでしょうか」

「ご名答」と、僕は紳士に返した。「そう仰るあなたは、どうもネクタイが曲がっておりますね。直しましょうか?」

「おや、これはこれは、すまないね。貴方のネクタイは完璧ですから、比べられてしまったかな。よろしく頼みます」

「お安い御用ですよ」

 僕は花束を股に挟んで、紳士のネクタイをちょっと睨んだ。太めでしっかりディンプルが付く生地みたいだから、本当はダブルディンプルに結び直すほうが華やかにできるかもしれないと思ったが、流石にそこまでするのは了解が必要だと感じ、少し緩めるに留め、大剣の窪みをいい感じに整えてから、襟の真ん中からまっすぐ落ちるように締め直してやった。

 作業をしている間ずっと、後ろに並んでいる紳士たちが僕らを眺めていた。男同士の会話なんて、気まずさを和らげるとか、そういう必要性がなければほとんど無に等しい。それでもやはり我らの身に着けているものに関しては一定の興味があるということだろう。

「なあ、私の分もお願いできないだろうか? さっきトイレで直そうとしたんだがね……快方には向かわなかったようだ」

「ええ、もちろん」と、僕は答える。断わる理由も特に思いつかなかったからだ。

 僕は列を離れ、その紳士の横に立つ。流石に最初の巻き方が悪かったので、解いてウィンザーノットで巻き直した。すると、紳士がまた一人手を上げて僕を呼びつける。さらにまた一人、そしてもう一人……。

「ほら、モテたかったら清潔感が大事と言うではないか? 自分じゃ上手いこと結べなくてね」と、ある紳士は言った。

「であれば、女性の分かりやすい小物……鞄とか靴に気を使っては……?」

 なんて他愛のない話も織り交ぜつつ、他人のネクタイを直しまくって、気が付くと僕は列の先頭からだいぶ離れてしまっていた。まだまだ紳士たちの列は、ずらりと連なっている。知らぬ間にバス数本分の人数に達しており、交差点を曲がって、ラウンダバウト近くにある横断歩道の先にまで続いているようだ。

 空気の抜ける音がして、僕はそちらに目をやった。バスがようやく到着し、ドアを開けるところだった。今更、列の先頭には戻れないことが分かった。

「ああ……」

 列からはみ出した僕の横を、人が流れていく。ネクタイを直してやった紳士たちも、頑張って僕を手招きするも虚しく後ろから押されてバスに吸い込まれていく。まるで無限に収容できるかのように、人々がバスの中へと消えていった。

 こうなったら最後列に並ぶ必要があるのだろうが、一体どこまで続いているか見当もつかない。様子だけ確認しようと思い、とりあえず列の流れに沿ってバス亭の方へ。バスに乗り込もうとする人たちは快速で、車の方は渋滞だった。

 なんだかやりきれなくなって、花束を落としそうになり、慌ててしっかり胸に抱きかかえた。バスの前方、止まっている車の間を縫って道路に出ると、前後左右を確認して手を振り上げる。やってられるかのサインを送るだけ送って虚しくなり、近くの車にもたれかかった。車内からコンコンと窓を叩かれているのを背中に感じ、中を見るとそこまで怖くなさそうな人だったので、僕もコンコンとノックし返して再びもたれかかる。こんなことをして考えているふうを装っているものの、実はもうお先真っ暗で、どうしていいか分からなかった。まだ待ち合わせの時間にはなっていないけれど、距離的に歩くのも厳しいし、そもそも間に合う時間ではなかった。こういう時は、何もしない。冷静に、遅刻あるいはすっぽかしを受け入れ、僕の想いは花束と一緒に散るのである。

「ねえ、ずっと見てたよ」

「えっ?」

 小難しい顔を作って、あえて何もしていない僕の真下に、いつのまにか小さな淑女が立っていた。どこから来たのか気になって見回すと、後部座席のドアが開け放たれている車がある。真っ黒い煙を吐き出しまくっている、あのでっかいディーゼル車だった。

「さあ、行こっ! うちの車に乗せてあげる!」

 袖を掴まれ、僕は思わずつんのめった。引っ張られて車の間をずんずん進んでいく。歩く彼女の後ろ姿は、なんだかとても眩しく見えた。

「ねえ、ママのポイ捨てをゴミ箱に持って行ってくれたんでしょ?」

「そうだね」

「人のネクタイ直すのって楽しい? ずっと見てたよ」

「こだわりだよ、レイディ」

「そのせいで、バスに乗れなかったね」と、彼女は笑った。

 彼女はドアを背に淑女を招き入れるみたいな所作で僕を車内へと導いてから、追って入ってくる。助手席のヘッドレストの柱を掴んで、ある程度ドアを引き寄せてから、両手と全身の体重を使って閉める様子に僕は思わず微笑んでしまった。

「そのさ、乗せてくれてありがとう。でも、この渋滞だよ」

「大丈夫、じきに進み始めるよ。……ほら」

 フロントガラスの奥で、車のブレーキランプが途切れたのが見えた。バックミラー越しに、サムズアップしている彼女のママが見えた。どどめ色のタンクトップの胸元に、ストロング缶が差さっていた。

「僕がふられたらさ、きみのママにこの花束を渡しても?」

「いいわよ。私にならね」と、小さな淑女は言った。

 そして、車がゆっくり進み始めた。

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