第26話 馳せ戻る

 帰る前に大納言様にごあいさつしなくては、と姫君に申し上げたのだが、

「父は、私の病がとうげを越えたことを親類などに伝えに行っていて、今は留守るすにしているのです。戻るのを待っていては遅くなります。私から父にきちんと伝えておきますから、どうかあなたは、早く出立しゅったつしてください」

 と、説得された。

 心残りだが、そうまで言われては仕方ない。それに実際、出立が遅くなれば、軽谷かるやに着く前に日が暮れかねない。

 槐北かいほくから借りた薬籠やくろうも、九護家くごけが返却しておいてくれることになったので、俺の都での用事は、もはや何もなくなった。


 荷物をまとめてうまやまで行くと、すでに馬の仕度したくも整っていた。

「四郎」は俺を見ると、改めて、

「そう言えば、まだ名乗っていなかったか。深枝ふかえだ四郎しろう為久ためひさと申す。九護家では、大納言様の側近くにお仕えしている」

 と名乗った。

 今日の大納言様の外出に彼が同行していないのは、大納言様が姫君の万一を考えて、屋敷に残るようおめいじになったからのようだ。


 九護家を出立する間際まぎわ――そう言えば、大納言様の御子おこには若君もいらっしゃるはずだが、一度も姿を見かけなかったな、と気づいた。

 姫君にとっては、兄君にあたる方だ。

 妹が重い病なのに、一度も様子を見にも来ない兄――そこに何か、不穏ふおんなものを感じなくはなかったが、俺は気に留めている余裕もなかった。


 かくして、俺は深枝様があやつる馬に同乗させてもらって、軽谷までの道のりを一気にけた。

 姫君は、家人けにんの中でも馬の得手えてな者として、深枝様を選ばれた。それだけあって、馬をあやつうではなかなかのものだった。

 俺は馬に関しては素人しろうとだが、武家の方々が乗っているところはそれなりに見ている。うまいか下手かぐらいは、おおよそ分かった。

 馬は飛ぶように駆けているのに、深枝様の後ろに乗っていて前方すらよく見えない俺が、さほどこわさを感じないのは、走り方が安定しているからだろう。不思議と、振り落とされるおそれも感じなかった。


 そうして、時々休息をもうけつつ、どれぐらい走ったか。

 もう少しで軽谷という所まで来た時。

「ここまでで結構です」

 と伝えて、馬から下りた。

「軽谷まで送っても、さほど変わらないが?」

 と深枝様から怪訝けげんそうに言われたが、

「馬で戻ったりすれば、里のみんなが『何事か』とおどろきますから。それに、もし深枝様が都へ戻る前に日が暮れるようなことがあっては、私のほうが申し訳なくなります」

 と話すと、

「ならば、そうさせてもらおう。そなたも、あとわずかとはいえ、気を付けて戻られよ」

 と、納得して帰ってもらえた。


 俺は、はやる気持ちをおさえつつ、里へ続く道を歩いた。

 都へ行く時にも通った道なので、すぐに着けるのは分かっていたが、里の人家じんかが見えてくると、やはりほっとした気持ちになった。

 空を見上げても、まだ割と明るい。日暮れまでに、余裕で帰り着けてしまった。都から歩いてだったら、こうはいかなかっただろう。


 まだ田畑で仕事をしている人が多かったので、俺の姿はあっという間に里の人たちの目に留まり、みんながわらわらと集まってきた。

 そして、口々に声をかけてくる。労をねぎらう声や、都の様子を聞く声に混じって、

「ひょっとしたら、都に行ったまま戻ってこないんじゃないかと心配してたんだ。思ったより、帰ってくるのが遅いし」

 と、明るく軽い調子で告げる声もあった。


 都に行った俺が、そのまま戻ってこない――里の人たちが、割と本気でそれをあんじていることに俺が気づくのに、それほど時間はかからなかった。

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