第25話 背を押す

 その後も、姫君は順調に回復された。

 まず、熱が微熱びねつ程度になったし、せきの出る頻度ひんどもぐんと減った。食事も、量はそれほど多くないものの、ちゃんと取っておられる。

 昼下がりに、ご本人に体調についてうかがってみると、

「体の節々ふしぶしが痛かったのが、ずいぶんやわらぎました。まだ少し、だるさはありますけれど、書物を読むぐらいならどうにかなりそうです」

 とおっしゃっていた。

 まるで川の流れが、「む」から「治る」ほうへ変わったようだった。

 これぐらい大きな流れが出来てしまえば、もう医者の助けなど、大して必要ない。姫君自身のお体の力だけで、平癒へいゆまでたどり着けるはずだ。


 とは言うものの、「では私はこれで」と、さっさと帰ってしまうのも、ためらわれた。

 完全に治ったのを確認したわけでもないのに去ってしまえば、責任放棄ほうきと取られかねない。大納言様は、無理に引き留めたりされないと思うが――九護家くごけ家人けにんなどには、悪い印象を与える可能性がある。

 九護家からたのまれて、いそがしい中を時間をいてに来ているのなら、話は別だ。

 だが俺の場合、勝手にこちらから押しかけておきながら、中途ちゅうと半端はんぱなところで引き上げることになるから――申し訳なさをおぼえて、帰らせてほしいとはなかなか言い出せなかった。


 そして、それだけでなく――もう少し姫君のそばにいて差し上げたい、という気持ちも、俺の中にあった。

 いま医者が去ってしまったら、姫君もまた、不安がられるかもしれない。

 心細い思いなどさせたくないし、平癒された姿をこの目で見られれば、俺にとっても安心なのもまた、確かだった。


 さて。どの段階で「では、これで」と切り出すか――それが頭の片隅かたすみにちらついていたが、機会がつかめず、決心もつかないまま、結局その日はまた、九護家で泊めていただいた。

 軽谷かるやに戻るのが少々おそくなりそうだが、やむを得ない。

 梶彦かじひこあたりが、「もうここには戻ってこないに違いない」とか言いふらして、里の人たちを不安にさせてないかが心配だったが――どうしようもないと、あきらめた。




 翌日よくじつになると、姫君はさらに回復され、体を起こしてお話しになることも増えた。

 食事の量が増えているし、咳はほとんど出なくなった。平癒まで、あと一息というところか。


 元気の出てきた姫君は、医術や俺自身に興味を持たれたのか、あれこれと質問をぶつけてこられた。

 姫君の治療に使ったのがどんな薬なのかから始まって、医者がどうやって病の種類を見分けているのか、さらには、俺の普段の仕事の様子まで、次から次から質問が飛んでくる。

 俺はそれに対して、「こんなこと面白いだろうか」と思いつつも、一つ一つ丁寧ていねいに答えた。

 医者以外とこんな話題で盛り上がったのは、もしかすると初めてかもしれない。話していると自然と、姫君は頭の回転も理解力もすぐれていらっしゃるのが分かった。


 やがて話題が、俺が軽谷の里から都まで来ているのは、医術に関する知見を得るためだ、ということにおよんだ時。

「では、あなたにはまだ都で、せねばならぬことがあるのではありませんか? 知見を得るためにやって来たのに、途中で私のことを知って……」

 と姫君から指摘してきされ、俺はあわてて否定ひていした。

「いえ、そうではありません。都でやろうと思っていたことは、すでに一通り済んでおりますから」

「もはや、私の治療の他にやるべきことはない、と?」

「はい。ご安心ください」

 はっきりと俺がそうお答えすると――姫君の表情がいっそう真剣なものになった。


 どうされたのだろう? 

 戸惑とまどう俺をよそに、姫君は部屋のすみひかえていた侍女に向かって、

「今すぐ、燎玄りょうげん殿が軽谷に帰れるように、仕度したくを」

 と、おめいじになられた。

 俺はぎょっとした。

 あの話の流れで、なぜ俺が帰ることにつながるのか。命じられた侍女も、あまりの唐突とうとつさに、呆気あっけに取られた顔をしている。


 どういうことなのかお聞きしようとしたが、その前に姫君が俺に向かって、きっぱりとおっしゃった。

「あなたは、ここにいてはなりません」

 その眼差まなざしには、強い意思がたたえられていた。

 まだ困惑こんわくの収まらない俺に、姫君は真っすぐな目でかれた。

「あなたは軽谷の里で、ただ一人の医者なのでしょう? それが何日も不在となれば、里の者たちは心のどこかで不安に思っているはず。予定を過ぎても帰ってこなければ、なおさらです」

 俺はようやく、姫君が何を思っていらっしゃるのかを理解した。

 あの会話から姫君が得られた情報など、断片的だんぺんてきなものに過ぎなかったはずだが。そこから、軽谷の住人たちの状況をみちびき出されたのか。


 圧倒されて何も言えずにいると、姫君は、

「万一にも里で急病人が出ていたら、それこそ申し訳が立ちません。私はもう、重症などとは到底とうてい言えぬ状態なのですから、今すぐ里に戻りなさい。私や父への気づかいは無用です。家人たちにも、不満など言わせません」

 と、俺にもお命じになられた。


 驚嘆きょうたんするとは、こういうことなのか。

 俺は姫君の思慮しりょ深さや気丈きじょうさにおされて、ただただ、それを受け止める以外になかった。

 これぐらい身分が高ければ、人が自分のために時間や労力をくのを当然のことと思っている方のほうがずっと多いが――この方はむしろ、ご自分の立場が無言の圧力を生むことを、おそれていらっしゃるのではないだろうか。


 俺がそんなことを考えている間にも、姫君は、

「歩いて帰るのでは、おそくなってしまう……馬の得手えてな者……」

 と、何やら考え込みながら、つぶやかれたかと思うと、おろおろするばかりで動こうとしない侍女に対して、

「四郎を、ここへ」

 と、お命じになられた。

 明瞭めいりょうな指示を出され、さすがに侍女も「はい!」と勢いよく返事をし、急ぎ足で部屋を出ていった。


 ほどなく、最初に俺をここへ案内してくれた男――おそらく「四郎」がやって来た。

 姫君は四郎に、決然けつぜんと、

「燎玄殿を、軽谷まで馬で送り届けてください。そなたが、私ではなくあくまで父上の臣下であることは、承知しています。ですが、今は火急かきゅうの時。そなたの馬のうでが必要なのです」

「……殿は、このことは――」

「父上には、これからお伝えします。責任はすべて私が持ちます。そなたにとがが及ぶことは、決してありません」

 四郎は数瞬すうしゅんだまり込んでいたが、

「承知いたしました」

 と答え、それから俺に向かって、

「先にうまやへ行って、馬の仕度をしている。そなたも仕度が済んだら、厩まで来られよ」

 と言い残し、足早あしばやに去っていった。


 何もかもが、とんとん拍子で進んでいく。大河の流れに飲み込まれているような、そんなふわふわとした感覚すらあった。

 だが――これだけは、姫君に申し上げておかなければならない。

「私が、『軽谷に戻るよりも、あなた様の病がえるまでここにいたい』と申し上げたら、どうされますか?」

 俺がそうお聞きしてみると、姫君は迷うことなく、

「それでも、あなたは軽谷に戻らなくてはなりません。それこそが医者の務めと、あなた自身も心得ていらっしゃる。そして何より、あなたは、軽谷を放り出しても平気でいられる方ではない――先ほど話を聞いてそう感じたのですが、違いますか?」

 と、おっしゃった。

 俺は大して考えもせずに、軽谷での暮らしや、どんな風に医者の仕事を行なっているかをお話ししたが――そこから、そんなことを読み取っておられたのか。

 この姫君を、「子供」などというわくでとらえてはいけないようだ。


 俺は、ふっと微笑ほほえみながら、

「確かに、その通りです。私は、根っからの医者。軽谷に戻るのが遅くなるのを、気に病んでおりました。しかしながら――『出来るものなら、もっとあなた様のそばにいたい』という気持ちも、同じぐらい本当なのです」

 と、お伝えした。

 お追従ついしょうでも何でもなく、心の底からの言葉だった。

 姫君も微笑まれ、

「生きてさえいれば、またいくらでも会えます。ふみを送りあうことも出来ます――今は一刻いっこくも早く、軽谷へお戻りなさい」

 と、そっと俺の背を押してくださった。

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