第20話 空き家

田鶴たず」の名に、場がざわめいた。何かに気づいたかのように。

 女の名だと思うが、いったい何なのだろう、と思っていると。

「そうか。確かにあれが使えるな」

「誰かの家で世話することばかり考えてたから、盲点もうてんになってたな」

「こういう使い方なら、あの世で田鶴も納得するだろう」

 と、みんなが口々に言う。


 余計にわけが分からなくなり、甚右衛門のほうを見ると、

「昨年、女主おんなあるじくなって完全に家系がえて、になってしまった家があるんだ」

 という答えが返ってきた。

 その女主の名が「田鶴」なのか。


 女が家の主となるのは、子供が成長するまでの中継なかつぎの場合が多い。しかし家系が絶えたということは、子供はおらず、養子をむかえるのすら間に合わなかったのかもしれない――と考えていると、甚右衛門がさらにくわしく説明してくれた。

「この家も財産も里のために使ってくれ、と言い残して亡くなったから、財産のほうはやしろ修繕しゅうぜんとかに使っているものの、家をどうするかがなかなか決まらなくてな。結局、手を付けずにそのままになってるんだ」

「よろしいのですか? 里に残す財産をお持ちだった方なら、家もそれなりに、よい家のはず。それを私のような、まだ何の働きも出来ていない新参者しんざんものに貸してくださるというのは」

 願ってもない話ではあるものの、あまりに好条件なことに逆に不安がわき、俺が確認すると、乙名衆おとなしゅうたちの中から、

「家は誰も住まずに放置ほうちされていると、使ってなくても荒れてくる。おまけに不用心だし。維持いじしようと思ったら結局、手をかけなければならん。誰かが住んでくれたほうが、こっちも手間てまはぶけるんだ」

 と話す者がいた。

 そこへ甚右衛門が、

「その『誰か』を決めかねて、ぐずぐずと時を過ごしていたが、これでみんなが思い切れる。納得せん者もいないだろう」

 と付け加えた。


 俺は責任の重さを感じたが、こんなことでおよごしになっていては、この先やっていけない。覚悟を決めて、頭を下げた。

「ありがとうございます。このおんむくいるためにも、精進しょうじんいたします」

 甚右衛門は微笑ほほえんで、

「取りあえずこれで、話がまとまったな。やれやれ、一安心だ」

 と、ひとちた。




 その日は甚右衛門の所に泊めてもらい、翌日よくじつ

 甚右衛門の案内で、「田鶴」が残したという家を訪ねた。

 里の中心部からははずれた場所にあり、予想通り、そこそこ広く、しっかりした作りの家だった。

 家のそばには、大きなけやきの木が立っている。目印か、あるいは守護神のように。


 甚右衛門は、入り口の引き戸を開けながら、

「建てられてから十年もたってないから、まだいたみらしい傷みもない。部屋数も割とある。とはいえ、一人で暮らすにはかえって広すぎて、持て余すかもしれんな」

「仕事場も兼ねますから、それも勘案かんあんすれば、この広さはありがたいです」

「だが、手入れに手間がかかるのはけられんだろうし、それを別にしても、一人で飯炊めしたきやら水汲みずくみやら全部となると……やはり、誰か世話する者を置いたほうが」

 昨日も言われた話題に、俺は苦笑しつつ、

「医者の家の生まれと聞いて、煮炊にたきや掃除そうじなどには不慣ふなれとお思いなのでしょうけれど、お気づかいなく。うでの良し悪しはともかく、一通りのことは出来ますから。どうしても手が回らなくなったら、その時にはお願いします」

「ならいいが……くれぐれも、変な遠慮えんりょは無用だからな」


 家の中に足をみ入れると、人が生活していない建物特有の空気に包まれた。

 里の人たちが時々風を入れたり、手入れをしたりしているのだろうが、それでもやはり、主のいない家なのが分かる。

 甚右衛門は、かまどやたなしつらえられた土間どまを見回し、なつかかしそうに語った。

「田鶴は女にしては豪胆ごうたんだったが、それでもさすがに、婿むこの夫が亡くなってからは、どこか憔悴しょうすいしているように見えたな。それを気取けどられまいとしてか、家のことは人にまかせず自分でやってたし、かまどに真剣な顔で向き合ってたのをおぼえてる」

 樫真かしま田鶴は、元々係累けいるいが少なかったが、三人生まれた子が三人とも病や事故で亡くなり、さらには夫も亡くなった。

 本人の死で、とうとう完全に家系が絶えたという。


 俺は母親を、ちらりと思い出した。

 母親はこまごまと俺の世話を焼いてくれたし、きびしい人ではなかったが――心の奥底で何を考えているのか、父親以上に分からない人だった。

 俺がいなくなったことで、母親がどうしているのか。いくら想像しても、確信の持てる光景は浮かばない。

 俺が誰の子なのか、明確に知っているのは母親だけなのだろうけれど――もはや、確かめる機会を自分で捨ててしまった。

 確かめる必要もない。親が誰であろうと、俺は俺以外の何者でもない。故郷も名も捨てたのだから、今さら、とらわれても意味はない。




 甚右衛門は、俺が空き家を使うことに納得しない者はいないだろう、と言っていたが。

 俺が医者として軽谷かるやに住まうこと自体に納得しない者が現れるという、予想外の事態じたいが起きた。

「そんな素性すじょうのはっきりしない者を、なぜ受け入れるんですか! 一夜の宿を貸すだけでも、本来はおきてに反することなのに」

 甚右衛門の家にやって来て、激しい剣幕でそう言い立てたのは、捕らえたぞくを役人のもとへ連行した若者――梶彦かじひこだった。


 甚右衛門は難渋なんじゅうした表情を浮かべつつも、きっぱりと、

「おまえとて、燎玄りょうげんが怪我人を手当てしていた様子は見ていただろうが。あれだけでも誠実な人物なのは分かるし、何より、里にとっての恩人だ。それに、医者がいてくれたらと、みんな前々から望んでいた」

「それとこれとは問題が別です。掟をゆるがせにしていい理由にはならないでしょう。賊が入り込むなんていうことが起きたばかりなのに、あまりに不用心だ。医者を住まわせるなら、もっと身元も人柄も確かな相手を選ぶべきです」

 空き家での暮らしを始める仕度したくのために、いったん甚右衛門の家に戻ってきていた俺は、戸口に身をかくして二人の話を聞いていたのだが――隠れていたら延々と続きそうな様子に、覚悟を決めて二人の前に出ていった。


 胡散うさんくさそうな目でこちらを見ている梶彦に、俺はひるむことなく告げた。

沙南国さなみのくにで、守護家に医者としておつかえしていました。信用できないなら、お調べになればいい」

「……それが本当だとしたら、なぜ、こんな遠く離れた斯野国しののくに村里むらざとで医者をやろうなんて考える? 不自然きわまりない」

「親との折り合いがよくなかったもので。それのみならず、あのままでは私が医者として本当にやりたいことは出来ない――そう気づいたから、家も捨てて、ここまで来たのです」

「それだけの理由で、はるばるここまで来る必要があるか? 何にしても、信頼できる人間から紹介されたわけでもない、不確かな人間なんて、軽々しく受け入れるほうがおかしい。こんなことでは、里をあやうくする」


 一向に態度を軟化なんかさせる気配のない梶彦を、甚右衛門が苦々にがにがしげにせた。

「とにかく。燎玄を受け入れるのは乙名衆の決定だ。追捕ついぶを受けているような身ではないかの確認も、これからやる。それでも納得がいかんなら、今後の燎玄の働きぶりを見ていればいい。おかしな様子がなければ、おまえでも納得するしかないだろう」

 梶彦はなおも何か言い返そうとしかけたが、言葉を飲み込んだ。

 そして渋々しぶしぶていながら、ひとまず引き下がって帰っていった。


 この時は俺も甚右衛門も、しばらくすれば梶彦の警戒心も少しはやわらぐだろう、と楽観視していた。

 まさか、追捕が行われていないことが判明しようとも、一年たとうとも、五年たとうとも、まったく変化しないなどとは、思いも寄らなかった。

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