第14話 水葬

 俺は、雛戸ひなとやかたへ行くお役目を他の兄弟子あにでしに変えてもらえるよう、父親にたのんだ。

 なぜなのかと父親はいぶかしんだが、

「どうも、私と雛戸のお方様かたさまとの仲を疑っている者がいるようなので」

 と話すと、すんなり納得なっとくしてもらえた。


 勝手にこんなことをしてしまったら、お方様を傷つけてしまうかもしれない。それでも、もはやあの館を訪れる気にはなれなかった。

 行ったら最後、逃げ出せなくなるのではないか――そんな恐怖感が、今もある。

 お方様は、思慮しりょ分別ふんべつもある方。無体むたいなことは、なさらない。そう分かっていても、漠然ばくぜんとした、とらえどころのないこわさをおぼえるのだ。


 お役目をいてもらった俺は、雛戸に関する話題自体も、出来るだけけるようになった。

 逃げている――自分でもそう思うし、人から非難されても仕方ない。

 非難したければ、すればいい。

 いったい俺に、あれ以上何が出来ただろう。俺がお方様のそばに居続けるほうが、おそらく、事態じたいは悪い方向にころがる。

 俺に出来るのは――お方様が佐次郎さじろう様以外の男にすがろうとなさらないよう、祈ることぐらいだろう。




 俺の縁組の話は、父親と母親の間で少しずつ、着実に進んでいるようだった。

 母親が、よめの候補となる娘の情報を集めているのを偶然知って――俺はじわりと、あせりを感じた。

 女を妻にむかえて、夫婦として暮らして、子をもうける――どう考えても自分には無理だと、さすがにもう、自覚せざるを得なかった。


 両親に事情を話して、あきらめてもらおうかと、何度となく思った。

 だがそんなことをすれば、今度こそ父親は、俺を「我が子ではない」と見なすに違いない。怒りと失望で、俺を七見家からたたき出すかもしれない。

 俺とて、七見家をやしたいわけではないし、親のおんむくわねばと思う気持ちもある。すべてが丸く収まらずとも、少しでも穏当おんとうな結末になるような道を選びたい。

 何か方法はないか――そう迷って親に言えずにいる内にも、時は過ぎていく。


 嫁に選ばれた相手にだけ打ち明けて、事情を分かってもらうという手も考えた。

 しかし、仮に理解してもらえたところで、相手の人生をつぶすことに変わりはない。

 俺の保身のために他人を犠牲ぎせいになど、したくない。

 それに、たとえ形だけでも夫婦になってしまったら、寝所しんじょを分けてもらうのは難しい。

 一日二日ではなく、ずっと同じ寝所で――それを想像するだけでも、女との縁組はがたかった。

 いや――相手が男でも、無理だろう、そんな暮らし。

 どうするべきか決めかねたまま、俺はこれまで通り、仕事と学びを続けた。




「裏手」に足をみ入れても、蓮華れんげと出会わない――そんなことが数か月続いた。

 いつも大抵たいてい、向こうが目ざとく俺を見つけて寄ってくるから、どうしたんだろうと感じてはいた。

 とは言うものの、彼女に用があるわけでもないから、こちらから探す理由もない。それでずっと、調べるでもなく放置ほうちしていた。

 しかしながら、あまりに長く姿を見かけないと、さすがに気になる。そこで、権八ごんぱちに聞いてみると、

「蓮華ならここ最近は、よく向こうにある河原かわらに行っている」

 と教えてくれた。


 河原まで行ってみると、おりよく蓮華の姿があった。やなぎの木のそばに座り込んでいる。

 俺が近づくと、気配を感じた蓮華が振り返った。

 蓮華は小さく微笑ほほえんで、

「来てたの? 久し振りだね」

 と明るく言ってきたが、その声も表情も、以前とは何かが違う。


 俺は蓮華の隣に座り、たずねた。

「何を見ていた?」

「別に、何をってわけじゃないけど……見に来ちゃうのよね、この川を」

「なぜまた、川なんだ?」

 蓮華は、一呼吸ほど間を置いてから、ぽつりと答えた。


「あたしの子を……ここから流してあげたから」


 それは、暗くも明るくもない声音こわねで、まるで「今日は早く起きたから」とでも言うような調子だった。


 俺が、言葉の意味をつかみかねていると、蓮華は続けて、

十月とつき十日とおかなんて言うけれど、それよりずっと早くおなかから出てきちゃって。世間せけんで見かける赤ん坊よりもっと小さいし、息もしてなかった」

「……子供の父親は、誰だったんだ?」

「名前は知らない。お武家様みたいだったけど、たぶんその中でもしただろうね、あの感じは」

「その相手は、このことは……」

「偶然また会った時に、子供が出来たことを言ってみたら、『どうせ他の男との間に出来た子だろう』って疑って、信じてくれなかった。その後は一度も会ってない」

 蓮華の言い方は、どこまでも淡々たんたんとしていた。

 虚勢きょせいなのか、心がこわれないように、感情そのものが働くのをやめてしまったのか、俺には分からなかった。


 蓮華はこちらを見ずに、川面かわもながめ続けている。

 俺は、心が波立ちそうになるのをおさえつけながら、聞いてみた。

「なぜ、俺に言わなかった?」

「あんたに言うようなことじゃないじゃない。病なわけじゃないし、単なる、あたしのことでしかないし」

 俺は何も言い返せなかった。

 言い返せなかったが――胸の内に、真っ暗なよどみが生まれるのを、感じた。


 蓮華は、俺に気をつかって言わなかったのかもしれない。悪意も俺をかろんじる気も、まったくないのだろう。

 ただ、そうだとしても――。

 医者にとって、体のことを言ってもらえないほど、口惜くちおしいことはない。

 俺は、蓮華をなじりたくなる気持ちを、全力でねじ伏せた。

 気づけず、言ってもらえなかった俺が未熟なだけだ。蓮華を責めるのは、筋違すじちがいでしかない。


 蓮華は少しもにごりのない目で、滔々とうとうと流れる水を真っすぐに見つめながら、語った。

「あたしを育ててくれた男がね、坊主から聞いた話を教えてくれたの。海の向こうには浄土じょうどっていう、すごくいい所があって、小さな船でそこを目指す人がいるんだ、って。……あたしの子も、そこに流れ着いててくれるといいんだけど」

 蓮華は、なげきもしなければ、涙も流さない。


 俺の中の淀みが、すっと消えた。

 あとには、てのない無力感だけが残った。


 事情を知ったところで、俺に何か出来ただろうか。産医さんいでもなければ、権力者でもない俺に。

 もっとこの手に、力が欲しい――痛切つうせつに、そう願った。

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