第8話 狭量

 伊戸崎いどさき様はこちらへけ寄ると、豊九郎とよくろう殿のうでをつかみ、俺から引き離してくださった。

 のみならず、思いも寄らない展開に困惑こんわくしている豊九郎殿の腕を後ろにねじり上げ、短刀も取り上げ、しっかりつかまえてくださった。


 俺は胸をなでおろし、お礼を申し上げた。

「助かりました、伊戸崎様」

「礼にはおよばん。そなたが関わることでなかったとしても、こんな危険なやから放置ほうちしておけん。一人で解決しようとせず、私に協力をあおいだのは正解だった」

 伊戸崎様は、過去に俺に言い寄ってきた方の一人だ。その中でも、最も誠実で、道義を重んじられる方だと思ったから選んだのだが、正解だった。

 こんなことにご助力いただくのは、さすがに申し訳なくて、ためらいもあったが、背に腹は代えられない。状況のあらましをお伝えし、「庭の物陰ものかげに身をひそめていてください」とお願いしたのだ。


 伊戸崎様は豊九郎殿に視線をやりながら、まゆをひそめ、

「しかし……この者は、武士は一方の言い分だけ聞いて物事をけっする、欲目よくめから贔屓ひいきをすると思っているのか? そうであるなら、まことに心外だ」

「両者の言い分を勘案かんあんして公平にさばくのが基本ですからね。私はそれが分かっておりましたから、こうやって、みずかつみを認めるように仕向けたのです」

 俺が伊戸崎様にそうお伝えするのを聞いて、豊九郎殿はぎょっとしている。ようやく、自分がどんな計略にかけられたのかが分かったのだろう。


 伊戸崎様は大きく息をつき、思案しあんめぐらせている面持おももちで、

「さて……この者をどうするか。げられずに終わったとはいえ、人をあやめようとしていた輩だからな」

 とおっしゃった。豊九郎殿は顔を強張こわばらせ、口ごもったまま、身をちぢめている。

 俺は小さく苦笑しつつ、そっと申し上げた。

「それなのですが……出来れば、大事おおごとにはしたくないのです」

「……柊斎しゅうさい殿に知られると、いろいろと厄介やっかいだから、か? やはり」

「ええ。あの父のことですから。発覚すればかえって、私の行動まであれこれと制約し始めるのではないかと思うと……」

「確かにな……」

 伊戸崎様は深く納得なっとくし、考え込んでおられる。


 俺は豊九郎殿の前に進み出て、

「まさかこのおよんで、今後も私のそばに居座ろうなどとは思ってませんよね?」

 と、微笑ほほえみながら確認した。

 豊九郎殿は、口を動かして何か言いかけたが、結局、唇をふるわせるばかりで言葉を発さなかった。目があちらへこちらへと、落ち着きなく動いている。

 俺は真っすぐに豊九郎殿を見据みすえ、一言一言、念を押すように告げた。

「命がしければ、二度と鷲之江わしのえの地をまぬことです。もしも、戻ってきたら……今度こそ容赦ようしゃのない処断が待っていると、覚悟してください。私は目的のためなら、手段は選びませんから」

 豊九郎殿はじっと聞いていたが、やがて、こくりとうなずいた。


 伊戸崎様は、どこか物足りなさそうに、

「本当に、それだけでよいのか? もっときびしくらしめておくことも、やろうと思えば出来るぞ」

「よいのです。二度と私の前に現れないでくれさえすれば。痛めつけたり殺したりしたところで、こちらの手が汚れるだけです」

「ずいぶん寛大かんだいだな」

「いえ。私の心はせまいので。いくら処罰しょばつしたところで、ゆるす気など起きないのが分かっているから、こうするのです。びも聞きたくありませんし」

 怒りやうらみが、ないわけではない。

 ただ――どれほど罰しても、それですべてが解消されることなどあり得ないのも、漠然ばくぜんと理解していた。

 そして、気持ちの解消に腐心ふしんすればするほど、父親に発覚する危険性は増す。

 割に合わないから、やらない――それだけだ。


 伊戸崎様は、豊九郎殿をするどくにらみ、

「では今から、この者が荷物をまとめて鷲之江から出ていくまで、私がしっかり見届けよう。長屋暮らしなら、持っている物もそう多くないはず。大して時間もかからんだろう……ああ、それだけでなく、柊斎殿の一門を抜けるむねふみしたためさせんとな」

「伊戸崎様にそこまでしていただいては、申し訳のうございます。あとは私が」

 あわてて俺がそうお止めしても、伊戸崎様は首を横に振り、

「これぐらいせんと、私の気が済まん。それに、甘く考えてそなたの身に万一のことがあっては、やんでも悔やみきれんからな」

「……かたじけのうございます。伊戸崎様のお心を無下むげにした私に、ここまでしてくださるとは」

 感謝と詫びの入り混じった俺の言葉に、伊戸崎様は軽く顔をそらし、

れた弱みだ」

 とだけおっしゃった。


 他人をたよって報復するなど、男として意気地いくじがない――俺をそうひょうする奴もいるかもしれない。

 だがそんなものは、どうでもよかった。

 手段にこだわって目的がげられなかったら、何の意味もない。くだらない意地など、俺にはこれっぽっちも価値はない。

 流派を守ることにとらわれて、目の前の病人を治せなければ、いったい何のための医術なのか。

 一部の裕福な人間だけていて、真に病を知ることなど出来るはずがない。

 俺が本当になすべきことのためなら――他はどうだっていい。


 豊九郎殿を連れて、伊戸崎様が去っていかれた。

 それを見送り終わると――俺は思わず、大きく息をついた。

 疲労と安堵あんどが、どっと押し寄せる。右手を見たら、こまかくふるえ、汗がにじんでいた。

 もう大丈夫だ。あんな目にあったりしない。しっかりしろ――懸命けんめいに自分にそう言い聞かせても、震えはなかなか止まらなかった。

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