第7話 逆襲

 それから三日たっても、五日たっても、豊九郎とよくろう殿はうちに姿を現さなかった。

 六日目には、他の兄弟子あにでしが豊九郎殿の住む長屋ながやに様子を見に行ったのだが、豊九郎殿はせっており、だるそうに、

「ここ数日どうも、めまいがしてな。疲れてるのかもしれん。治ったらちゃんと顔を出すから」

 と答えたらしい。

 加えて豊九郎殿は、師匠ししょう――俺の父親の様子をずいぶん気にしていた、とのことだった。

 様子を見に行った兄弟子は、「何日も連絡すらしてないから、師匠が怒ってるんじゃないかと心配だったんだろう」と解釈かいしゃくしていたが――俺はこの話を聞いた途端とたん、頭のしんが、すっと冷えた。


 あの後。俺はずっと、豊九郎殿がどう行動するかに神経をすり減らしながら、外に出かけるのも最小限にして暮らしていた。ひょっとしたらやぶれかぶれになって、またおそいかかってくるのではないか、とおそれながら。

 どうやら、杞憂きゆうだったようだ。

 むしろ、おびえていたのは豊九郎殿のほうだったとは。

 俺が父親に被害をうったえたら、どんな目にあわされるか分からない――そう恐れ、こちらの様子をうかがいながら身をひそめていたのだろう。

 それほど恐れていながら、長屋を引き払って逃げようとはしないところからすると、俺が父親に言い付けさえしなければ、のうのうとやって来て、何食わぬ顔で医術の修行を続けるつもりに違いない。


 俺の胸の奥から不安や迷いが消え、代わりに、腹立たしさが静かに炎をあげた。

 小心者しょうしんものが大した覚悟もなく、あんなことをやったのか――そう分かったら、俺はびくびくしていた自分が馬鹿らしくなった。

 なめられたものだ。

 おそらく豊九郎殿は、あと二、三日もすれば、うちに来るだろう。

 さて――どうむかってやるか。




 豊九郎もようやく体調が回復して、また修行を再開する――そうあらかじめ聞かされていたので、豊九郎殿が復帰する当日、俺は自宅の前庭で、植え込みのかげからその様子をうかがっていた。

 やがて豊九郎殿は、どこか憔悴しょうすいした姿で現れた。

 いかにもがり、という風情ふぜいだ。他の兄弟子たちが、わらわらとそれを出迎え、話しかけている。

 豊九郎殿は話している間も落ち着きなく、あちらこちらへ視線を走らせていた。まるで、何か異変がないかさぐるように。


 出迎えも終わり、みんなでぞろぞろと中に入ろうとしていた――その時。

「豊九郎殿」

 と呼びかけながら、俺は前庭に姿を現した。

 豊九郎殿は不意打ちでも食らったように、目を見開いている。まさか、俺のほうから声をかけるとは思わなかったのだろう。

 豊九郎殿の動揺どうようは、つかで消え去った。じきに平静な顔に戻り、こちらをうかがっている。


 俺は他の兄弟子たちに、

「私はちょっと、豊九郎殿と話したいことがあるので。みなさんはお先に行っていてください」

 と伝えると、おくさず、ゆっくりと豊九郎殿に近づいた。

 兄弟子たちは疑う様子もなく、家の中へ入っていく。


 豊九郎殿は何をするでもなく、突っ立っている。俺の意図いとが読めないのだろう。

 俺は豊九郎殿をうながし、一緒いっしょに庭のはしのほうまで移動した。そうして、声が家の中に聞こえない所まで来ると、足を止め――ふっと微笑ほほえみながら、聞いてみた。

すみ……落ちましたか?」

 豊九郎殿の表情が強張こわばった。


 俺はさらに、たたみかけるように突き付けた。

「洗う前のすずりでしたから。それがれたらどうなるか……」

 あのとき振り下ろした硯は、豊九郎殿の後頭部だけでなく、肩もかすめた。そして実際、衣の肩の部分が黒くなっているのがちらりと見えた。


 豊九郎殿は目を泳がせたが、それはほんの一瞬で、すぐに余裕のあるみを浮かべ、

「何を言ってるんだ? 墨がいったい、俺とどう関係があるんだ?」

「墨がついた衣を、まだお持ちのようですね。すでに処分していらっしゃったら、もっと平然としているでしょうから」

「だから、いったい何のことなんだ? 俺が墨のついた衣を持っていたら、何かのあかしになるとでも言うのか?」

 しらを切ることにしたのか。仮に俺が父親に訴えても、「言いがかりだ」と反論する腹づもりなのだろう。


 確かに、衣に墨がついていたからといって、それが俺を襲った証拠しょうこになるわけではない。

 別の原因で汚れたのに、俺が言いがかりをつけて豊九郎殿をおとしいれようとした――そう言われればそれまでだ。

 それだけでなく、もしかすると豊九郎殿は、俺と父親との関係が良好とは言えないことに気づいているのかもしれない。その辺りも計算の上で、こんな方策ほうさくを取ったのか。


 すんなり認めるとは期待してなかったが――やはり、こちらも手段など選んでいられないようだ。

「豊九郎殿は、私が誰に訴えると思っていらっしゃるのですか?」

 俺がそう問いかけると、豊九郎殿は戸惑とまどった顔をした。言われた意味をつかみかねているようだ。

 俺はあえて、悠然ゆうぜんたる口調で、

「師匠に訴えられたらどうしよう――おそらくあなたは、そればかり考えて身をひそめていらっしゃったのでしょうけれど」

「誰に訴える気なんだ?」

 内心でうろたえているのがほの見える豊九郎殿を、俺は真っすぐに見据みすえて告げた。

「私は師澤家もろさわけの方々からは、これ以上ないほどのご愛顧あいこを受けております。他の医者より私のほうがよい、と言ってくださる方もいらっしゃいます」

「師澤家」の名に、豊九郎殿がはっとした。


 明らかにおどおどしながら、

「まさか……」

 と言ったきり言葉の続かない豊九郎殿に、俺は事実を教えた。

「みなさん、私を信頼してくださってます。どなたに訴えても、私をお疑いにはならないでしょう――豊九郎殿は、師澤家での私の評判を、いささか軽く見ておられたようですが」

「そっ……そればかりは、勘弁かんべんしてくれ。どうか、たのむっ!」

不問ふもんにせよと? 人をあんな目にあわせておきながら?」

「いや、あの、それは……」

処罰しょばつを受ける覚悟すらない方があのようなことをするとは、あまりに軽率けいそつでしたね」


 俺から次々と現実を突きつけられて、勢いをなくしていた豊九郎殿が、不意に真顔まがおになった。

 怖気おじけづいていたのが一転し、俺に向かってきっぱりと、

「覚悟なら……あった」

「え?」

「おまえを俺のものにして、俺の手で殺して……そしたら、俺も死ぬ気だったんだ!」

 それは、体の奥底に抱え込まれていたものが破裂はれつしたかのような、自白じはくだった。 

 少しも自分を取りつくろおうとしない、そのさまは――狂人にしか見えなかった。


 俺は、背筋がひやりとした。

 襲われた時、「俺は殺されるのだ」と、なぜかそう思ったが――その予感は、間違っていなかったのだ。

 みぞおちをなぐられた時の痛みが、よみがえる。

 もしも、右腕みぎうでが動いてなかったら――。

 もしも、文机ふづくえから硯が落ちなかったら――。

 もしも、他の人間が音に気づいてくれなかったら――。

 想像すると、今さらながらうすら寒くなる。


 こちらが圧倒されて口ごもっていると、豊九郎殿は何かに取りかれたかのように、

「もう少しで、すべてがかなうはずだったのに……おまえが……おまえがぶちこわしたんだ! おまえのせいで!」

 とののしり、ふところから短刀を取り出して振り上げながら、こちらに突進とっしんしてきた。

 あと数歩で短刀が俺まで届く、という距離に豊九郎殿がせまったところで――。

「そこまでだ!」

 と、一喝いっかつする人物が現れた。

 師澤家の家臣の、伊戸崎いどさき様だ。

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