第6話 蹂躙

 俺は母親に聞いてみた。

「私の父親は誰なのですか?」

 あえて感情は込めずに聞いたが――そのせいかどうかは分からないが、母親は少しもどうじず、微笑ほほえみながら、

「あなたは私の子。それで充分です」

 とだけ答えた。

 どういう意味なのか、聞こうか迷った。

 だが結局、俺はそこで話を終わらせた。

 聞いたところで、大した意味などないのだろう。




 その後も俺は、父親の目を盗んで「裏手」に足を運んだ。

 そしてまた、医術を教えてもらえないかと他流派にかけ合ってみたこともある――たいてい、断られたが。

 すでに鷲之江わしのえの近辺には、俺が七見家の跡取りだと知れ渡っているのが、何ともうらめしい。

 父親は、はたして気づいていないのか。それとも、気づいていながら何も言わないのか。俺には分からない。

 ただ――俺を七見家の後継者候補からはずすという話は、一向に出なかった。

 それどころか、以前よりもさらに熱心に、父親が俺に医術を仕込もうとすることもあった。

 父親の中では、いまだに大きく気持ちがれ動き続けているのだろう。

 俺もそのことに対して、何も言わず、何も聞かなかった。


 そうやって、こつこつと研鑽けんさんを積んでいたある日。

 俺は自宅で、病人をた時の記録をまとめていた。

 さほど広くないものの、書斎しょさいを一部屋あたえてもらっているので、そこにこもって一人で黙々もくもく文机ふづくえに向かった。

 学ぶのも武家の方々を診るのもおこたりがないように注意しつつ、その合間あいまって貧しい者たちも診る――それは容赦ようしゃなく、俺の肉体も精神も消耗しょうもうさせた。

 それでも、やめようという気は起きない。「裏手」に行っているほうが、心の奥深い所が満たされるのだ。

 自分は、このために生きている――そんな充足感が、俺を突き動かしていた。


 とはいえ、さすがに疲労が蓄積ちくせきしており、これ以上の無理は体力の限界を招く、という予感もあった。勢いにまかせ過ぎたか。

 医者の不養生ふようじょうなどと言われる事態じたいになっては、洒落しゃれにならない。少しだけ休むか――そう決断すると、俺は作業をいったん終え、ごろりと書斎の床に横になった。

 体を伸ばすと、余分な力が抜けて、り固まっていた肩や背中がほぐれていく。わずかな時間も無駄むだにしたくない、というのも本音中の本音だが、さすがに、ここのところは休むことを忘れていた。

 ちょっとだけ仮寝かりねしよう――俺はそのまま目を閉じた。


 視界からうつつの風景が消えると、いつしか意識も現から離れ、うとうとし始めた。

 そうして、どれぐらいの時間がたったか。

 何かが体にれているような感覚に、俺の意識が揺さぶられた。

 最初は夢かと思った。

 いや、何か……おかしい。これは、夢……ではない!


 胸の内に急速に危機感が広がり、俺は目を覚ました。

 その途端とたん

「!」

 みぞおちの辺りに、にぶ衝撃しょうげきが走った。

 ……なぐられた?


 意識がぐらぐらと揺らぐ。体全体がぼんやりとして、自分が棒切ぼうきれにでもなったようだった。

 だが、すぐ目の前に人がいるのは、分かった。

 その人物は、俺の上におおいかぶさり、俺の衣をはだけさせ、はだをまさぐり始めた。

 胸の上を、何か湿しめびたものがいずり回るのは――くちびるか、あるいは舌か。

 薄気味うすきみの悪さと不快感はおぼえるのに、体のしんが抜けたように、身動きできない。


 俺は……殺されるのだ。

 なぜだか分からないが、強くそう思った。


 体をまさぐっていた人物は、やがて俺のはかまに手を伸ばし、ひもをほどこうとし始めた。

 このままでは、駄目だめだ。

 好きにさせてはいけない――動かなければ。


 俺は一心に念じた。体のどこでもいい。動け、動け、と。

 動いてくれと必死に力を込めた――その時。

 右腕みぎうでがびくりと、痙攣けいれんしたように大きく動いた。


 右腕は、そばにあった文机に勢いよく当たり――大きく揺れた文机から何かが、がしゃんと落ちた。

 すずりだ。

 俺は右腕に意識のすべてを集中し、硯をつかんだ。

 しっかりとつかんだ硯を持ち上げ、目の前の人物の後頭部に――振り下ろした。


「っが!」

 強打された人物は、悲鳴を上げるとともに身をのけぞらせた。苦しげにうめきつつ、後頭部を押さえている。

 俺はこのすきのがすまいと、周囲に目を走らせた。

 硯にそそぐ水を入れておく硯滴けんてきも、文机からころがり落ちている。それを見つけるやいなや、俺はその陶製とうせいの硯滴に向かって――硯を振り下ろした。


 硯滴は一瞬のうちにくだけたが、思ったほど音が出ない。あせる気持ちをおさえながら、俺は硯滴の破片はへんの上にさらに何度も硯を振り下ろした。

 打ちつけられた床が、がんがんと音を立てる。破片はさらに細かく砕けた。


 ほどなく、遠くから人の声や足音が聞こえてきた。さすがに、立て続けに響く音に異変を感じてくれたようだ。

 父親は出かけていて留守るすのはずだが、母親や兄弟子あにでし下働したばたらきの者たちはいる。誰でもいいから――という願いが通じてくれたことに、思わず安堵あんどした。

 硯で打ちえられて苦しんでいた人物は、人音ひとおとあわてて立ち上がり、脇目わきめも振らず、飛ぶように書斎から出ていった。


 がらんとした部屋に残された俺は、ゆっくりと起き上がり、はっとした。

 自分の体を見下ろすと、胸どころか、肩のあたりまで肌があらわになっていて、半裸はんらと言っても過言かごんではない格好かっこうだった。

 俺は人が来る前にと、乱れた衣を素早すばやく直した。その間も頭の中には、俺をおそった人物の姿が何度もよみがえり、恐怖感と困惑こんわくが胸を渦巻いた。

 まさか、豊九郎殿とよくろうどのがあそこまでするとは――。


 襲ってきたのは、占橋うらはし豊九郎という名の――兄弟子だった。

 豊九郎殿は、しばらく前から俺にしつこく言い寄ってきていた。すでに兵衛尉ひょうえのじょう様が俺の念者ねんじゃとなっていることを知らないからこそ、ではあったのだろうけれど。

 もちろん俺は、言い寄られるたびに断った。その時はっきりと、兵衛尉様の存在を伝えればよかっただろうか。

 しかし、武家の方々ならまだしも、兄弟子に教えるのは、やはり不安が強い。聞いた豊九郎殿がどう動くか、どうにも予想がつかないからだ。

 まかり間違って、兵衛尉様とのことが父親に伝わったら……と思うと、話す気になれなかった。

 せめて、俺が何人もの武家の方々から言い寄られていることだけでも、話しておけばよかったか――そうやんだが、後の祭りだった。


 俺が自分の衣を整え終わるのと同時に、ばたばたと数人が書斎にやって来た。豊九郎殿とは別の兄弟子と、家の雑用をまかされている男だった。

「どうした? 何か、たたきつけるような音がしていたが」

 とたずねられた俺は、平静をよそおい、答えた。

「どこから迷い込んだのか、急に猫が入り込んできたんです。そこらじゅうを暴れまわって、おかげで硯滴や硯まで引っくり返されて……。結局もう、どこかへ行ってしまいましたが。おさわがせして、申し訳ありません」

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