第4話 裏

 十六になる頃には、俺は貧民たちが集住している地域へ、たびたび足を運ぶようになった。

 どんな暮らしをしているかで、やまい傾向けいこうが違ってくる――そのことに気づくと、武家や裕福な商人をているだけでは物足りなくなったのだ。

 もっと病について深く知りたい。それには、この世の上辺うわべだけを見ていたのでは駄目だめだ。

 はば広く、いろんな人間を――そんな欲求にり立てられて、いつしか俺は、鷲之江わしのえ片隅かたすみにある、武家や七見家ななみけが住んでいるのとは明確に異なる地域にまで来ていた。


 大きな商家や職人の工房が建ち並ぶ、はなやかな表通りの裏側に、その地域はあった。明確な地名すらなく、単に「裏手うらて」と呼ばれることが大半で、そこに住んでいる者たちも「裏手の連中」「裏手の奴ら」などと呼ばれていた。

 貧しい者が多いのは確かだが、まともとは言えない仕事で、それなりにかせぎを得ている者も少なからずいる。「とうな働きをしていない者の集まり」というのが実態じったいだ。

 雑多ざったな人間が、雑然ざつぜんとここにつどって、世間せけんの少し外側の暮らしを送っている――そんな、異界のような空間だった。


 薬や道具の入った薬籠やくろうを片手にげて、通りを歩くと、日は明るく照っているのに、どこか陰鬱いんうつな気配がただよっている。時に、何かが死んでいるような腐臭ふしゅうが鼻先をかすめた。

 見かける人々は、着ている物も顔つきも、俺の家の近辺で見かける人間とは違う。薄汚れた粗末そまつな衣を着ている者と、派手派手はではでしい格好かっこうをしている者が混在していた。

 胡散うさんくさげに俺をにらんでくる者もいれば、俺がすぐ前を通り過ぎるのにも気づかない様子で、うずくまってうつむいている者もいる。

 かと思えば、数人が集まり、何が楽しいのか、けたたましい笑い声をあげている者たちもいる。

 ここでは、俺のような人間は完全にいている――そんなことは百も承知しょうちで、俺は堂々と歩いた。


 もう少しで目的地という所で、俺に声をかけてくる者がいた。

「あんた、また来たの?」

 振り返ると、俺と同じ年頃の女が立っていた。

 目に焼き付くような鮮やかな染めの衣を、しどけなく着崩きくずしている。くっきりとくちびるに引かれたべにが、妙になまめかしい。複雑な形にい上げた髪は、はたして自分で結ったのか、誰かに結ってもらったのか。


 また来たのかと言いたいのはこちらだ、と思いつつ、俺はその女に、

「必要だから来てるんだ。そっちこそ、何か用でもあるのか? 蓮華れんげ

「用なんてないけど、あんたは変わってるから」

見世物みせものじゃない」

「いくらあんたがそう思ってても、自然と人目ひとめを引いてるよ。ここみたいな所じゃ、余計にね。人さらいにねらわれて、どっかに売られたらどうする気?」

 蓮華の言葉に、幼い頃の記憶きおくがよみがえる。




 父親と一緒いっしょに守護所に行き、その帰り道で、父親の知り合いにばったり出会った。

 父親が知り合いと話し込んでしまったので、早く家に戻って書物を読みたかった俺は、一人で先に帰ることにした。

 家まではあと少しだ。平気だろうと思ったのだが――途中とちゅうで、妙な気配を背後に感じた。

 俺は立ち止まることも振り返ることもせず、そ知らぬ振りで歩き続け、さりなく、適当な角を曲がった。

 そして曲がった瞬間、脱兎だっとのごとくけた。


 必死に走り、民家の裏を通りがかった時に、その家の裏庭に続く柴折しおに触れてみた。

 すると簡単に開いたので、そこから中に入り込み、垣根かきねかげに身をひそめた。

 ほどなく、男二人がやって来て、

「どっちに行ったんだ?」

「分からねえ。しくじったようだな……」

「あんな見目みめのいい上玉じょうだまを逃すとは、しいことをしたもんだ。寺に稚児ちごとして売ったら、高値で買ってもらえたはずなのに」

 と、くやしそうに言っているのが聞こえた。

 じきに、男たちはどこかへ行ってしまった。




 心臓がちぢむような感覚と、安堵あんどで力が抜ける感覚に、同時におそわれたのをおぼえている。この先も、忘れることはないだろう。

 俺は過去を頭のすみに押しやり、表情を動かさず、蓮華に、

「さすがに、ここまで体が大きくなると、さらおうと考える奴は減る。それに、あらかじめ権八殿ごんぱちどのには話を通しているから、ここのほうがかえって安全かもしれない」

「え? 権八に?」

「俺を見かけたら何か良からぬことをしそうな人間には、すでに権八殿が言いふくめているはずだ。実際、おかしな目にあったことは一度もない」

「ふうん、そっか。さすが権八。あれには誰も勝てないか。権八に堂々と話を通したあんたも、なかなかのもんだけど」

 権八というのは、この辺り一帯を取り仕切しきっている人物だ。

 決してあらくれ者というわけではないが、彼に逆らえば、ここにいられなくなるとの評判だった。蓮華も、それをよくよく知っているのだろう。


 俺は蓮華と別れ、五日前に診た病人の所に向かった。

 まさにっ立て小屋という感じの、板切れやこもの寄せ集めのような住居にたどり着き、薦越しに中に向かって、

「この間の医者です。いますか?」

 と声をかけてみると、

「生きてるよ」

 という返答があった。


 そっと薦をめくって中に入ると、さして広くもない屋内の真ん中に、髪がぼさぼさで無精ぶしょうひげの伸びた男が横たわっていた。

 屋内と言っても、板張りの床はない。土間どまむしろかれており、男はそこで、衣を体にかけて寝ている。

 年齢はよく分からないが、四十ぐらいだろうか。顔を見ただけでも、やつれているのが分かった。


 勘太かんたという名のその男は、俺を見ると、

「本当にまた来るとはな……」

 と言いながら、半身を起こそうとした。俺はそれを手で制し、出来るだけおだやかな声でいた。

「楽にしていてください。こういう時は、体に負担ふたんをかけないのが何よりの養生ようじょうですから」

「いや。薬がいたのか、ずいぶん楽になったんだ。体の節々ふしぶしの痛みとか、熱っぽさがなくなったしな。まだ少しだるいが」

「それはよかった。確かに、前とは違って声にも力があります」

「……あの頃は、このまま死ぬんだとばかり思ってた」

 俺が勘太のかたわらに座り、薬籠を脇に置くと、背後から声をかけてくる者がいた。

「そいつは薬代なんかはらえねえし、この先も、稼いで返すだけの余裕よゆうなんかねえ暮らしで終わると思うぞ。それぐらい分かるだろうに、よく治療してやろうなんて考えるな」

 振り返ると、権八が立っていた。


 まだ三十をいくつか過ぎたぐらいとおぼしいが、そこはかとない威厳いげんただよ風貌ふうぼうをしている。

 他の住人に比べると整った身なりではあるものの、背には黒作くろづくりの野太刀のだち背負せおっていた。

 後ろには手下てしたらしき男二人がひかえており、じっとこちらの様子をうかがっている。


 俺はきっぱりと、

「医術のうでを上げるためのようだと思ってます。払ってもらおうなんていう気は、つゆほどもありません。……むしろ、たまたまんでいた人間の体を、こちらの都合つごうで使わせてもらっているようなものですから」

「後ろめたい、と? ここの奴らにとっては医者も薬も贅沢ぜいたくなんだから、遠慮えんりょはいらねえだろう。それに、おまえはずいぶん腕もいいみたいじゃねえか。ちょいと調べてみたら、なかなかの評判だ。そんな医者に診てもらえて、文句もんくを言う奴もいるまい」

「それは、文句を言わせない圧力にもなりかねません」

「は?」

「本来なら必要な薬代を、払っていない……そういう立場だと、不満があっても口にしにくくなります。内心でどう思っていても、ありがたがらなければいけない――そんなふうに受け止められては不本意ふほんいなので、本当に望む者だけ診ています」

 いつわりのない、本音ほんねだった。

 仕方なく、医術のほどこしを受ける――それだけは、あってはならない。


 しばし、権八はぽかんとしていたが、やがて快活に笑い、

「やっぱり、変わった奴だな。面白おもしろい。好きにしろ。おまえにちょっかいを出す奴が出てこねえよう、にらみをかせておいてやるから」

 とけ合った。

 それから、病のとこいている勘太に向かって、

「どうだ? 医者に診てもらった感想は」

「……金のある奴は、病になった時もこんなことをしてもらえるんだと分かっただけで、貴重きちょうな経験になった。薬が苦いのには難儀したが」

「そうか。そりゃよかったな」

「……今、この病が治ったところで、どうせそう長く生きられねえだろうけどな。俺ですら、ここの住人の中では長命な部類だから」

 あきらめを多分にふくんだ声音でそう言って、勘太は深く息をつき、疲れたように目を閉じた。


 俺は、ろくに家財かざい道具もない小屋の中に視線をやり、権八に小声で伝えた。

「薬だけでは限界があります。もっと滋養じようのある物を食べて、雨風の心配のいらない、清潔な所で体を休ませたほうが……むしろそちらのほうが、大事なんです」

 権八は、すっとみを消し、目を細め、

「そりゃ、そういう養生が出来るぐらい本人が稼ぐか、めぐんでくれる奴を見つけるしかねえな。どっちも出来ねえなら、辛抱しんぼうするしかねえ。それがこの世の道理だ」

 と言い切り、「じゃあな」と小屋を後にした。


 俺は粛々しゅくしゅくと、勘太の体を診た。

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