夜霧と月
満月の夜に霧が出ると、不思議なことが起こるそうです。何でも、亡霊が現れるとか、別の世界に繋がるとか、そんな噂がまことしやかに囁かれていたのです。勿論、そのようなことを確かめた者など一人もおりませんでした。しかしながら、私の集落では、夜霧が出たら外に出るなと言いつけられていました。村を出て以降は、そのような言いつけは、とうに忘れていたのであります。
ある晩、仕事を終え駅に向かうと、どうやら電車が遅れているらしく、一向に来る気配がありません。漸くやって来た電車に乗って最寄り駅に着いた頃には、既に最終のバスは出発しておりました。私は仕方なく、駅前に停まっていたタクシーに乗り込みました。道中、車窓から空を見れば、今夜は満月のようでした。
「今夜は満月なんですよ。」
不意に運転手が話しかけてきました。
「ああ、やはりそうでしたか。とても見事な満月だ。」
「そうですね。しかし、今夜は少し気をつけた方がいいでしょう。」
運転手の言葉に私は首を傾げました。ふと外を見ると、いつの間にか辺りには霧が立ち込めていました。ここいらは田んぼの畦道であり、所々に街灯があるのですが、その明かりもぼんやりと霞むほどでありました。
「満月の日に夜霧が出ると、不思議なことが起こると言いますねえ。」
運転手の言葉に、私ははっとしました。幼い頃聞かされた言いつけを思い出したのであります。ふと、霧の中に目が止まりました。ぼんやりと人影のようなものが所々にあったのです。
「あまり見ない方がいいですよ。気づかれると少々厄介ですから。」
危うく声を上げそうになった私に、運転手は諭すように言ったのであります。私は運転手の言う通りに、その後は目を瞑ってじっとしておりました。
「着きましたよ。」
運転手の声にはっと我に返りました。タクシーは私の家の前に停まっていたのであります。
「それでは。今夜のことは、あまり人に話さない方がいいでしょう。」
去り際に運転手はそう言いました。タクシーを見送りながら、私は再度村での言いつけを思い出していました。暫く連絡を取っていない母に、今夜のことを話そうか。そう思いましたが、運転手の言った通り、今夜のことは話すべきではないと思ったのであります。
あれ以来、満月の夜に霧が出ることはありませんでした。あの夜のことを時々思い出すことはありましたが、私は生涯、あの夜のことを誰にも話すことはありませんでした。
短編集 藤原琉堵 @ryuto_fujiwara
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