(七)高望王の霊像
承平六年(936)六月、良兼は大軍を動員して上総を発った。常陸で良正や貞盛と
合流して下野に入り、南下して下総国豊田の将門に攻めかかる。
「おのれ貞盛の奴、和睦の書状を送って寄こしながら兵を向けてくるとは」
貞盛に騙されたと将門は怒り心頭である。
度重なる戦いで兵具は乏しかったが、戦に長けた将門は寡兵をもって良兼らの大軍を打ち破る。良兼たちは下野の国府に保護を求めた。
「良正だけは許せぬ」
将門は下野国府を包囲し、戦を引き起こした良正を誅殺した。
「良兼には手出しならぬ」
・・・・・ 良兼伯父は桔梗の父親じゃ
上総介の公職にもあり、これを討伐しては朝廷に歯向かうことにもなろう
西方の囲みを解いて、あえて良兼は逃がした。
将門は下野の国司に「良兼らが道理なき私闘を仕掛けてきた」と自らの正当性を認めさせ、その経緯を国庁日記に記録させて豊田へと引き揚げる。
上総、下総、下野の広きに亘る抗争は将門の勝利で終止符が打たれ、民はようやく
訪れた平和に安堵した。
さて貞盛はと言えば、元々この戦に乗り気ではなく、どさくさに紛れて戦場を逃れ
東山道を京へと向かっていた。途上、下野の掾として唐沢山一帯に勢力を広げていた俵(田原)藤太秀郷の館を訪ねた。
「ようお訪ね下された。お父上のことは心よりお悔やみ申し上げまする」
秀郷の妹が貞盛の父・国香に嫁いでいたので、貞盛にとっては義理の叔父に当たる。
「重ね重ねのご厚情には感謝の言葉もございませぬ。葬儀も滞りなく済ませましたので京に戻るところでございます」
「そうでしたか。確か、貞盛殿は右大臣家にお仕えでしたな。定方様はお変わりございませんか、宜しくお伝え下され」
・・・・・ くわばら、くわばら。将門相手に仇討ちの片棒を担がされては
この身が危うくなる。しかし貞盛は京で大層な出世を遂げておるからして、
少しばかりは恩を売っておくことも怠ってはなるまい
秀郷はこの地の押領使であった。元は藤原北家の左大臣・魚名の末流だが、過去には隣国上野国衙への反対闘争に加担して一族共々流罪とされたこともある。
秀郷は戦に触れることを避け、屈強の護衛三人を付けて貞盛を国境まで送り届けた。
京に戻った貞盛は早速にも朝廷に出向き、主の藤原定方を始め宮中の高官を捉まえては坂東における将門の横暴を訴えて回る。源護からも、将門の主でもあった左大臣・藤原忠平に宛てて将門の非を訴える書状が届けられた。
しかし、どうも貞盛の話を熱心に聞いてくれる様子はない。
「時が悪かったか」
この頃、南海に海賊が蜂起し、伊予・讃岐を始め瀬戸内の各地に亘って被害が広がっていた。朝廷では軍船十数隻を用意して海賊討伐に差し向けようとしていたところであり、遠い東国の事情に気を配るような余裕は無かった。
秋になって、藤原忠平が太政大臣に叙せられた。その祝いに訪れた貞盛は、
「このまま東国の騒乱を放っておけばどのような大事に至ることか。坂東は強力な
軍事力を備えて虎視眈々と朝廷の乱れを伺っておりますれば、いつ南海の海賊と手
を握らぬとも限りますまい。将門は忠平様の忠臣を
せぬ」
貞盛は瀬戸内の騒乱に
朝廷の調査隊が坂東に派遣された。
「直ちに上洛して申し開きせよ」
この年の十月、太政官は源護と将門に召喚命令を下す。
上洛した将門は検非違使庁で尋問を受けた。検非違使別当は藤原忠平の長男・実頼である。
「将門は良将亡き後の下総の営所を伯父たちが守備したことを逆恨みし、源護の三人の息子や国香、良正の両伯父を殺害するなどの非道を犯した」
源護側として出廷した貞盛は、巧みな弁舌で将門の非を申し立てた。
一方の将門は朴訥とした言葉で、父の遺領が乗っ取られたこと、源家から襲撃されたこと、良正らに戦を挑まれやむなく迎え討ったことなどを申し立てる。
その後、年を跨いで数度にわたり尋問が行われた。
・・・・・ 貞盛の陳述を聞けば、源家一族や両伯父を殺害した将門は非を
免れぬ。しかし、将門の陳述も無視できまい。父上(忠平)から将門は実直
な男だと聞かされていたとおり、とても偽りを述べているとは思えぬ
実頼は結論を出し兼ねていた。
承平七年(937)一月、御歳十五になった朱雀天皇の元服が行われた。
四月に入り、「天皇御元服の大赦によりその罪は軽微とする」との裁定が下される。
加えて良将の遺領を継ぐことも認められ、実質的には将門の勝訴と言えた。
将門に子が生まれ、しばらくは平穏な時を過ごしていた。
「大変でございます。上総の大軍が攻めて参りました」
朝廷の裁定に不満を持った良兼は八月、再び軍を起こして下総国と常陸国の境である子飼の渡しに押し寄せた。将門が京にあった七ヶ月、坂東を不在にしていた隙を突いて良兼は兵を集め軍備を強化していた。
・・・・・ 子飼の渡しを抑えられては豊田に追い詰められてしまう
将門は急ぎ迎撃へと出陣した。
「おぉ、何だあれは」
・・・・・ 先頭に掲げているのは高望王の霊像ではないか
この戦にあたり良兼は、一族の長として将門を討つという姿勢を明らかにしており、
高望王と前の棟梁・国香(良望)の霊像(木像)を掲げて戦に臨んでいた。
将門にとって高望王は祖父であり、一族の始祖でもある。その霊に対して弓を引く
などできるはずもなく、戦意を失って下総に兵を引いた。
良兼は将門の本拠である豊田に侵入すると栗栖院の
所や軍馬の供給を叩いて戦闘力を削り取った。
(注) 『将門記』によると、この時、良兼は「高望王」と「良持(良将)」の
霊像を掲げたとされている。
しかし、一族の長となった良兼が始祖である高望王の霊像を掲げたことは理解
できるが、なぜ良将の霊像を持ち出したのか、筆者にはこの点が腑に落ちない。
将門の戦意を削ぐための作戦、とする解釈は余りに短絡的であろう。
そもそも良将の霊像を、息子の将門ではなく、どうして良兼が所持していたの
かも疑問である。
歴史は全て「口伝」から始まっている。
古い書物は解読が難しく、将門記では良将のことを良持と記されている。
「将」と「持」は崩し字が似ているため混同しているようだ。
一方、良持は良望(国香)と同音の「よしもち」である。
前の棟梁・国香(良望)の霊像を掲げたものが「よしもちの霊像」と伝えられ、
後に同音の良持と誤まって記されたということであれば納得もできるのだが。
筆者は歴史学者ではなく、新説を立てるつもりなどない。しかし納得できない
ことを書くことはできない。
よって本稿では、筆者の勝手な解釈を基に「高望王」と「良望(国香)」の霊像
とさせていただくことにした。
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