(一)坂東下向

平安の時代、皇位継承の安定を意図して各天皇は多くの皇子を儲けていた。

しかし皇族の身分を維持できる者は限られ、当然のこと、その道を閉ざされた皇子

が多く溢れることとなる。これらの皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下と

なった。即ち『臣籍降下しんせきこうか』、源氏や平氏などの始まりである。


当時の「この国」とは畿内のこと、歴代皇居の置かれた大和・河内、山城・摂津・

和泉の『五畿』を指す。諸国は五畿を中心にして放射線状に、西に「山陰道」「山陽道」、南に「南海道」「西海道」、東には「北陸道」「東山道」「東海道」の『七道』に

分けられた。

峻険な山脈と愛発あらち(越)、不破(岐阜)、鈴鹿(三重)の三つの関、即ち『三関さんげん』に

よって仕切られた東側は『東国』(関東)と呼ばれている。

更に『坂東』とは足柄峠・碓氷峠以東のこと、武蔵(東京・埼玉)、相模(神奈川)、

上総、下総、安房(千葉)、上野(群馬)、下野(栃木)、常陸(茨城)、これら八つの国

を『坂東八カ国』(後の関八州)と定めた。


各国には朝廷より国守が任じられたが、上総・上野・常陸の三か国は親王が太守

(正四位下相当)として治める親王任国とされた。これら親王は都にいて赴任せず、太守の代理である「介」や書記の「大掾だいじょう」が国司(地方官)として派遣されていた。

坂東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衙こくがの役人として

権力を振るい私腹を肥やす、当然のこと圧政に苦しむ領民は快く思っていない。


寛平元年(889)、桓武天皇の曽孫であった高望王は、宇多天皇の勅により平安に

ちなんだ「平」の姓を授けられた。それから十年近く経ったある日のこと

「忠平様からお召があってな、『介』として上総に下向せよとの仰せであった」

藤原忠平とは当時の宇多天皇の侍従、即ち側近である。

「して、お受けなさいましたのか」

「このまま都におっても先の展望は開けぬでな。東国で荘園の開拓に励めば広大な

領地も手に入れられよう」

「私は嫌ですよ。野蛮人が住む東国へなど行きたくはございません」

高望が寵愛する後妻は藤原南家の出自、都を離れることを拒んだ。

「子供たちのことも考えてみよ。東国に行けば出世の道も開けるではないか」

「ならば連れて行かれませ。なれど良文はまだ四つ、幼うございますれば京で私が

手元に置いて育てとうございます」


高望には五人の男子がいた。長男の良望よしもち(後の国香)、良兼、良将の母は藤原北家・良方の娘で、高望の正妻であったがすでに他界していた。四男の良正は妾腹の子、

五男の良文は後妻との間に生まれた子である。

昌泰元年(898)、高望は四人の息子を伴って坂東に下向し、従五位下・上総介に任じられて武射郡の屋形を本拠とした。当時、坂東は俘囚などの蜂起に悩まされていた。俘囚とは、征夷大将軍・坂上田村麻呂による蝦夷征討で朝廷に帰順した蝦夷えみし

ことである。

領民は国司の不当な抑圧に苦しんでおり、新たに国司として下向してきた高望になど従うつもりはない。


「このたび上総介に任じられました平高望でございます。東国は難しきところと聞き及んでござりますれば、何卒ご指南のほど宜しくお願い申し上げまする」

着任早々、高望は隣国の常陸国大掾・源護を訪ねた。官位としては「介」である高望の方が上位ではあるが、既に坂東の実力者となっていた源護とはよしみを通じておいた方が良かろうと考えてのことである。

源護は嵯峨源氏の血脈、古には祖先が国司として常陸に下向していた。しかし任期が明けても帰京せず、土着して在地官僚となり常陸に強大な勢力を有する豪族である。

その間「介」などの上役も京より送られてはくるのだが、彼らは大過なく役目を終え京に戻って次の官職を得ようとするばかりで、政務については大掾家に任せきりであった。


そこは平高望のこと、息子たちの将来を考えて坂東に根を下ろすことも視野に入れている。

「ご丁寧なる御挨拶、痛み入りまする。高望王様は桓武の帝の曽孫であらせますればご高庇を賜って共に坂東の地を平らかに治めたく存じまする」

源護が礼を尽くす。

「有難きお言葉。これは共に参った倅たちでござりますれば、是非ともお見知りおき下さいますよう」

高望は四人の息子を護に紹介した。

「おぉ、さすがにご立派なご子息たちでござりまするな。今宵はお近づきの印に、

皆様ごゆっくりお寛ぎ下され」

護がパンパンと二回手を打つと、奥から三人の娘たちが膳を運んできた。


源護の三人の娘は、この若武者たちをすっかり気に入ってしまった。

坂東では荒くれ者しか目にしたことがない。それに比べて高望の息子たちは都育ちであり、その立ち居振る舞いは何とも垢ぬけている。

その後、何度か顔を合わせた折、

「高望殿、子供たちの縁組は望めませぬか」

護から打診がなされた。高望王ならば血統的にも申し分がない。

「それは私にとっても願ってもないこと」

高望も渡りに舟と二つ返事で承諾する。当時は“通い婚”が主流であり、一族の地盤固めを目論んでいた高望は三人の息子を護の娘たちに婿入りさせた。

これにより長男の良望は源護の領国・常陸国の官僚となり、名を「国香」と改める。次男の良兼は父・高望の地盤である上総国の官僚となり、四男の良正は常陸国の水運の要衝・水守営所を本拠とした。


一方で高望は三男・良将の武勇を高く評価し、鎮守府将軍の軍事力を支える下総国

豊田郷を与えた。豊田郷は絹川(鬼怒川)と子飼川に挾まれた一帯で、蝦夷征服を

支える兵站基地として馬を育てる御厩みまやや鉄を精製する御厨みくりやが多く存在していた。

下総の民は良将もこれまでの支配者と同じであろうと始めは警戒していたが、実直な良将は治水に励み、過酷な年貢を改めるなどの善政を敷いたことで領民の支持を広げていく。

やがて延喜三年(903)、良将に嫡男・将門が誕生した。幼名は「小次郎」、母は相馬郡の豪族・犬養春枝の娘である。若い時から武勇に勝れ、騎射に長じていたことから「相馬小次郎」と称された。

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