満ちるコップ

七井泳哩

満ちるコップ

 私は幸せ者だ。父も母もいて、家だって市内の二階建ての新築だ。市外の田舎の方から電車を使って通学している子もクラスに大勢いるはずだから、相当裕福で恵まれた環境にいる。何一つ不自由していない。

 だが、ここ数ヶ月、胸に何かがあるような違和感を覚える時がある。痛いわけではないのだが、息がしづらいような、ものがつっかえているような重苦しい感覚だ。心臓の病気かもしれない。そう思うと胸の違和感は増した。病院を受診する前に保健室の先生に相談してみようか。

 私の通っている高校の養護教諭である松島先生は、生徒たちから「聖母」と評判だ。私にはキリスト教の知識はないが、たしかに松島先生には何を相談してもあたたかく肯定してもらえるから、そのあだ名はイメージ通りかもしれない。

「——まつり!」

 真後ろから私の名前が聞こえたと思って思わず振り返ると、雫が前を見るように促す仕草をした。いけない。空想に耽っていたが授業中だった。慌てて視線を教室の前の黒板の方に戻すと、教壇に立っている先生が怖い顔で私を見ていた。

「まったく。何をぼうっとしているんだ。君はいつも好成績だがこの調子だと期末考査は期待できないな」

 クラス中の視線が私に集まるのがわかる。ぼんやりしていた私が悪いことはわかっているからこそ、頭に血がのぼり、心臓が苦しくなった。


「なんなんあのハゲジジイ!」

 授業が終わると、雫とかなちゃんがすぐに私の席に寄ってきて、さっきの先生の悪口を言い始めた。それに便乗して悪口を言えるほどの感情は持っていなかったから、結局「わかる〜」と言いたげな顔を作ってその様子を見ていることしかできない。

「あんな言い方ないでしょ。ありえない。お前の授業がつまらないせいだって」

 かなちゃんが、まるで自分が注意されたかのように憤慨している。

「まつり目つけられて大変だね。でも最近なんかぼーっとしてること多いよ。なんかあった?」

「ううん、特に心配事はないんだけど、疲れてたのかも。大丈夫、ありがとう」

 雫は心の底から私のことを心配しているようだった。雫は学校の陸上部のエースで、インターハイに出場できるほどの実力がある。そして、些細なことにも気がついて気にかけてくれる。かっこよくて優しくて強くて、こんな人になりたいと憧れる人でもあった。

 かなちゃんは雫と同じく陸上部に所属している。感情の起伏が激しく、さっきのように理不尽なことがあれば、自分のことのように怒りを露わにする。

 私は元々、かなちゃんのように喜怒哀楽が激しいわけではないから、自分がどんな感情を抱いたのか、どう表現したらいいのかわからない。だから、かなちゃんの汚い言葉を使った悪口は、私がうまく表現できない感情を代わりに表してくれているようで、少し嬉しい。

 かなちゃんの怒りがしずまった頃、昼休みを告げる予鈴が鳴った。そうだ、お昼ご飯を食べる前に胸の違和感のことを松島先生に相談してみよう。

「あ、ごめん、私ちょっと松島先生と話したいことがあって。行ってくるね」

「えー!恋バナ!?」

となぜか嬉しそうなかなちゃんへ笑って首を横に振りながら、私は保健室に向かった。


 重たい引き戸を開けると、保健室には松島先生一人しかいなくて安心した。

「あら、北野さん、こんにちは。体調悪いの?」

「いえ、今日はちょっと相談したいことがあって来ました」

 優しい笑顔を浮かべて全てを受け入れるような表情の松島先生を見て、私は話し始めた。最近胸が苦しくて心臓の病気じゃないかと心配なこと。ついさっきの授業で先生に怒られて、胸のつかえがひどくなったこと。友達が私の代わりに怒りを表現してくれて、少しましになったこと。話し始めたら止まらなかった。どうしてなのか途中で涙がこぼれそうになって焦った。

「あなたは大事な時期にさしかかっているのね。一番大切なのは、自分の感情に素直になることよ。心臓の病気は多分心配しなくていいけど、あまり続くようだったら病院に行った方がいいかもしれないね」

 大事な時期ってなんだろう。感情に素直になれと言われても、自分が何を思っているのかもいまいちわからないのに。どうしたらいいのだろう。

 この気持ちをうまく表現できず、もやもやとしていた時、保健室の引き戸が勢いよく開いた。

「せんせー、またやっちゃったあ」

 聞いたことのある明るくて軽い声が聞こえたと思ったら、そこには奈央が立っていた。左腕の袖を関節まで捲り、手首をティッシュで押さえていた。

 奈央は家が近所で、幼い頃はよく家に遊びに行っていた。親は離婚していて、母親と二人暮らし。小学生の頃は同じ服を連日着て学校に来ることがあったから、同級生からは「くさい」とか「ビンボー」と悪口を言われていた。それでも奈央は明るかった。よく笑い、いつもおちゃらけた感じで悩みなどないように見えていた。

 今だって、おちゃらけた感じは変わらない。しかし、ティッシュで押さえているのは左手首で、よく見るとティッシュに赤いものが滲んでいるようだった。私は瞬時に察した。自分で手首を傷つけたのだ。奈央の様子から死のうとしたようには見えない。それに、「またやっちゃった」と言っていた。きっと常習犯なのだ。気が付かなかった。そういえば奈央はいつも長袖の制服を着ていた。日光アレルギーなのかと思っていた。

「あれ、まつりじゃん」

 手首を押さえたまま、奈央が軽い調子で言う。あたふたしてしまった私を見ても

「あーばれちゃったかな。まあいいか。せんせー早く治してー」

と特に動じず、保健室の中に入ってきた。松島先生も慣れてしまっているのか困ったような顔をしつつもガーゼと包帯の用意を始めている。すると、奈央が私の座っているソファの横に腰掛け、話しかけてきた。

「まつり、久しぶりだね。体調悪いの?」

「ううん、そうじゃないんだけど。ちょっと相談に。奈央はどうしたの、それ」

「いやあ、切っちゃったんだ。見る?」

 と、奈央は少し誇らしげに傷口を見せてきた。

 日焼けしていない真っ白な腕に横向きに赤い線が数本走っていて、血が線に沿ってぷつぷつと丸く浮き上がっている。古い傷跡はいくつも残っていて、白かったり茶色かったり赤かったりとさまざまだ。初めてこんな傷を見て、驚いて何も言えない私に

「中学生の頃からなんだ。うわーってなった時にこれすると、落ち着く。言葉にできないもやもやを腕にぶつけるの。切ったら血が流れるでしょ?それを見て初めて自分の感情がわかる」

 奈央の言っている意味がよくわからなかった。

「……痛くないの?」

 黙っているのも悪いと思い、私は恐る恐る聞いた。

「痛くない時と痛い時がある。初めて切った時は痛くなかったんだ。流れる血を見てすごく安心した」

 お母さんは知っているの?先生には怒られないの?他の人にも見せびらかしてるの?聞きたいことは山ほどあったが、質問攻めにすると責めているように聞こえるかもしれないと思って、飲み込んだ。胸の違和感は増す一方だった。


 その後どうやって家に帰ったのか、あまり思い出せない。胸の違和感のせいで食欲もなくて、夕飯は食べなかった。そんなことは今までなかったから両親にひどく心配されたが、今日のことや胸の気持ち悪さを話すこともできず、大丈夫大丈夫と笑って誤魔化し、逃げるようにして自分の部屋に入った。

 ベッドに仰向けに横たわりながら、左手首を見た。奈央よりずっと日焼けした肌には傷などついているはずもなく、血管が緑色に透けて見えた。私には、なにもない。雫のようにスポーツでインターハイに出られるほどの実力もなければ、奈央のように傷もない。私らしさって、なんだろう。ああ、まただ。この重苦しい感覚。以前よりずっとひどくなって、叫び出したくなるほどの不快感だ。こんな状態でまた明日も学校に行くと思うと、胸の違和感くらい重たい気持ちになった。


 いつも母が弁当を持たせてくれるのだが、その日は母の体調が悪かったようで「ごめん、今日はこれで何か買って」と千円札を渡された。通学路にあるコンビニで弁当を買った。

 午前中の授業を終えて、昼休みが来た。いつものように、雫とかなちゃんと机を並べてそれぞれ弁当を広げる。

「あれ、まつり、今日はコンビニ弁当なんだ。珍しいね」

「うん。お母さんが体調悪いみたいで」

「そうなんだ。大丈夫かな」

「いただきまーす」

 かなちゃんの腑抜けた挨拶を聞きながら、私は割り箸を開ける動作をした。いつもなら袋の切り口を引っ張って開封するのに、今日はどうしてか机に突き刺して割り箸が袋を突き破らせるようにして開けた。次の瞬間、指に鋭い痛みが走った。慌てて痛みが走った箇所を確認すると、割り箸の中の爪楊枝が袋を突き破り、指に刺さって血が滲んでいた。痛みはさほど強くなかったが、ぷっくりと丸く浮かび上がる真っ赤な血を見た途端、涙が一粒こぼれた。一度泣き始めると止まらなくなり、人目も憚らずしゃくりあげながら泣く。

「どうしたの!?」

「大丈夫!?」

 雫とかなちゃんの驚く声と、クラスメイトの困惑したようなざわめきが聞こえてくるが、嗚咽は止まらない。 

 そうだ、私はずっと痛かったのだ。つらかった。そして、特に何もないのにつらいのがもっとつらかったのだ。胸の違和感を感じ始めてからずっとぎりぎりで生きてきた。最後の一滴を注がれたら容量の限界を迎えてコップの水は溢れる。私の胸にはコップがあった。自分の感情を見ないふりして逃げていたから、どんどん水が溜まっていたのだ。そして、爪楊枝が刺さったことで溢れた。些細なことだとわかっている。しかし、これが最後の一滴だった。限界だった。

 かなちゃんのように、自分の感情を正直に言葉で表せていたら。ちゃんと自分が苦しいことを、もちろん嬉しいことも言葉にするべきだった。

「痛い、しんどい」

 やっと言えたのはたった二言。それでも、私の胸のコップの水が全て流れて空になった気がした。


 

 コップの水が溢れたあの日から半年が経ち、季節は変わった。胸の違和感は前ほど感じなくなった。

 半年前に松島先生が言った「大事な時期」というのは、自分を見つめ直す時期ということだったのだろう。自分の感情に素直でいることや、ちゃんと逃げずに表現することが何より大切だった。

 奈央の言っていたことはよくわからなかったけれど、少し理解できた気がする。自分の体に傷をつけることで、自分の心の傷を可視化していたんだろう。血が流れて初めて「私はつらい」と思えるんだろう。わかるけれど、私はそれは選ばない。

 私の胸にはコップがある。大きさも形もわからない。最初は空っぽだが、生活していると知らず知らずのうちに少しずつ水が溜まり始める。雨漏りのように一滴ずつゆっくりと溜まっていくときもあれば、コーヒードリッパーからちょろちょろとコーヒーが流れ落ちてくるように確実に溜まっていくときもある。他人から注がれることだってあるだろう。水が溢れる前に、コップが割れる前に、私はその水を蒸発させる。今まで見ようとしなかった自分の気持ちに目を向けて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

満ちるコップ 七井泳哩 @7ieiri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ