涼風の先にて待つ

よなが

本編

 向日葵畑で雪女に攫われるお告げが出たから匿ってほしい。

 半年ぶりに対面した親友の真昼まひるはそう言って、一人暮らしをしている私の部屋に転がり込んできた。知り合ってもう七年余りになるが、初めて目にする彼女のアロハシャツコーデは存外似合っている。白地に散りばめられた大小さまざま、色とりどりの花々は南国の趣があった。一方で、袖から出ている両腕、デニムのショートパンツから伸びている両脚は、ほとんど日に焼けていない。

 ついでに言うなら、短く切り揃えられている薄茶色の髪も最後に会った時とまるで変わっていなかった。


「詳しく知りたいよね。短いバージョンと長いバージョン、どっちがいい?」


 熱帯夜の訪問者たる彼女が朗らかに訊く。

 ちょうど夜空に輝くさそり座のアンタレスのように目をきらきらとさせて。


「短いほうなら予想がつく」


 ひとまず彼女を部屋の真ん中、食事にも物書きにも何にでも使っているローテーブルの前に腰を下ろさせた。生憎、クッションは一人分しかなかったが、彼女は迷わずそれを占領した。

 荷物は小さめのスーツケースが一つと、スマホや財布でも入っていそうなショルダーポーチのみ。


「あさひちゃんまで予言や予知能力に目覚めちゃった?」

「ちがう。予想って言ったの。どうせ、紗夜さよがらみなんでしょ」

「正解。『紗夜ちゃんがそう言ったから』、これが短いバージョン」


 人懐っこい笑みを浮かべた彼女は、スーツケースを横に倒して開いた。中から取り出したものを「はい、ご褒美」と渡してくる。それは昔ながらの瓶ラムネだった。


「冷やして飲むといいよ」

「それより、ここに泊まるつもりなの?」


 躊躇いがちにラムネを受け取ってから、彼女の向かいに座った。


「安心して。眠る時はベッドをあさひちゃん一人で使っていいよ。けど、シャワーは貸してほしいな」

「私の不安はいつまでいるか。明日の朝には帰ってくれるの」


 そう言うと、真昼は顔を露骨にしかめてみせ、サッと俯くと下手な泣きまねを始めた。


「なんて冷たいの! 薄情者を通り越して、心が凍てついているわ!」

「三文芝居はやめなさい。紗夜がどう話したかを聞かせて」

「しかたないなぁ」


 顔を上げ、けろりと返してくる真昼だ。


「どこから話せばいいかなぁ」


 充分に冷房が効いている室内なのに、真昼はスーツケースから取り出した団扇、打ち上げ花火の写真がプリントアウトされているそれをパタパタと仰ぎだす。


「ご存知、あたしって今は紗夜ちゃんのお屋敷でお世話になっているんだけどね、一昨日、紗夜ちゃんに呼び出されたの。珍しいんだよ。普段は会いに行っても三、四回に一度、短い時間でも話せればいいほうだから」


 その件はつい先日にも電話で聞いていた。


 かつて私たちと同級生であり、親友同士と言えた間柄の紗夜だが「お役目」を継いでからは忙しい日々を送っている。高校卒業後、私はもう一年余り会えていない。


 正直、紗夜の家系が代々続けている、いわゆる拝み屋ないし特殊な占い師業に私は胡散臭さを感じている。あまりに胡乱で、法外な匂いすらする稼業、そして家業だ。

 紗夜は高校卒業後、進学することなしにその道の人となった。


 実のところ私自身、過去に何度か、紗夜が超自然的な何かと関わるのを傍らで見聞きしている。結局、紗夜が引き継いだ生業を、信じたくなくても信じるしかないというのが現実だ。紗夜はただの綺麗な女の子ではなく、あやかしや怪異、そのほかの霊的存在を含めた、異物と接することを運命づけられている特別な子なのだと。


 向日葵畑で雪女と遭遇する。

 そんな珍妙なおとぎ話も紗夜の口から出たのであれば、顕現し得る未来なのである。


「要点だけ聞ければいい。私から質問するから答えて」


 どう話すか思案し続けている真昼に私はしびれを切らして言った。


「わお、あさひちゃんお得意の尋問だ」

「得意なんかじゃない」


 現にあの日からずっと、紗夜からは大事なことを聞き出せずじまいなのだ。いや、これについては私がはっきりと聞くのを恐れている節もある。


「そんな怖い顔しないでよ、冗談だって、冗談。なんでも聞いて、どんとこいだよ」


 真昼がにっこりと笑う。肩の力が抜けた気がした。思えば、中学の時も高校の時もこの笑顔に助けられてきた。おそらく紗夜もそうだろう。


「まずは……なぜ紗夜自身が対処せず、私のもとへ送ったのか知りたい」


 忙しいから、ではないはずだ。いくら他に「仕事」があるからと言って、同居させている親友の危機を放っておきはしないだろう。


「なんかね、相性の問題だって」

「相性?」

「ようするに、自分よりもこの件はあさひちゃんが適任だって。お屋敷に隠れていても根本的な解決にならないっぽい。そもそも、あたしってあくまで部外者だから隠れられないというか。別の何かに狙われる前に、会いに行きなさいって」


 件のお屋敷は、私が今いる街からだと、どんな交通機関を利用するにしても片道で半日はかかる山の麓にある。真昼は今回の旅路をそれほど苦に感じていないふうだった。


「で、具体的に何をすればいいの?」

「えっとね……あたしを抱いてほしいの」


 はにかんだ真昼の頬は、仄かに赤く染まっていた。




 目を覚ましてスマホで時刻を確認すると、午前五時前。季節柄、明易と言うけれど、この時間はまだ日が昇る前だ。

 ふと隣に視線を移すと真昼がいた。同じベッドで熟睡している。薄暗い部屋、すぐ近くにいる下着姿の彼女に慣れない。かと言ってベッドから落とすわけにもいかず、目を逸らした。


 その時、着信する。

 画面に表示される名前。

 驚き半分、もう半分は一語ではとても言い尽くせない、熱く粘っこい感情に襲われた。


「もしもし」

「おはよう、あさひ」


 ただの挨拶。けれどそこには確信がある。こんな時間なのにたったツーコールで電話に出たことに相手――紗夜は少しも驚いていなかった。あたかも私がつい今しがた起きたのを知っている声色。


「電話をするのも久しぶりだけれど、残念ながら長く話していられない。ひとつ聞いてもいい? 大切なことよ」

「わかった」


 誰にとって、どう大切なのか。

 私は言葉を飲み込み、目を閉じる。紗夜の声に集中したい。聞きたかった声。そうだったと耳にして気づく。

 それは喩えるなら風鈴。どこからかそよいだ青嵐や薫風に揺れて鳴る。遠くまでは響かずとも、澄んだ音だ。それでいて芯があり、耳をすます者に届く。次のそれが来るのを息を呑んで待った。


「真昼に匂いをうつすことはできた?」


 本題。真昼のこと。

 そうだ、雑談ではないとわかっていた。私はスマホを持ち直す。


「たぶんね。数時間も抱きしめていたから。裸同士ではないけれど」


 互いの汗の匂いが混ざり合うほどに強く、長く抱擁を続けていたのは確かだ。


「そう。それならきっと大丈夫」


 紗夜はさらりとそう応じた。


 昨夜、真昼から抱いてと頼まれたときは多少なりとも動揺した私だったが、よくよく聞けば、私の持つ匂い、言い換えれば「気」を彼女に纏わせることに意味があるらしかった。中学生の時に紗夜が教えてくれたが、私はあちら側の者どもが苦手な「気」を先天的に有しているそうだ。

 それに対して、真昼はどちらかと言えば好かれる体質なのだとか。そしてその真昼の体質は、大学受験を間近に起こった出来事で、大きくあちら側へと傾いた……。真昼がお屋敷に居候させてもらっているのは、そのせいでもあり、おかげでもある。


「ただ、最初の想定より相手は厄介みたい」

「雪女だっけ」

「最も陳腐な名称で呼ぶとすれば。でもね、小泉八雲の『怪談』に書かれたような存在ではないわよ?」


 くすりと電話の向こうの紗夜が笑う。上品に。真昼に危険が迫っているのであれば、笑っている場合でないと彼女のほうがわかっているだろうに、それでも彼女は笑ってくれた。その笑みを直に目にできないのが惜しい。今からでもビデオ通話にできないだろうか。否、彼女は断るだろう。それに私だって寝起きの顔を好んで見せたくない。


「もうしばらく、そうね、数日は真昼の面倒を見てほしい。お願い」

「あと何度か同じように抱きしめて寝たほうがいいの」

「いいえ。ほどほどでいい。日中に、いっしょに出歩く程度で」

「向日葵畑には行かないほうがいい?」

「くれぐれもね」


 すとんと沈黙が落ちてきた。

 私が「わかった」と言えばそれで彼女は電話を切るのかもしれない。それでいいはずだ。けれど私は「ねぇ、紗夜」と口にした。彼女はうんともすんとも言わない。私は堪えきれずに、唇を動かす。


「いつになったら……」

「ごめん、ここまで。また電話するわ」


 紗夜がきっぱりそう言い、電話を切った。

 ぷつんと音さえしない。朝凪に、揺れるのをやめた風鈴のよう。残ったのは虚しい寂寥感だけ。




 それから丸二日、平穏に過ぎた。紗夜から電話がかかってくることもなかった。


 私は言われたとおりに真昼を連れて外出した。と言っても炎天下を馬鹿みたいに歩き続ける真似はせず、一日目は駅ビルに入っているアパレル系のショップを行ったり来たりで何時間も費やし、その後で駅前のカラオケで時間をつぶした。二日目は、県内最大のショッピングモールで朝から夕方まで遊んだ。

 

 真昼は屋敷にいる人から十二分なお小遣いを受け取っており、そのお金の出どころはともかく、私の財布が痛まないのはよかった。


 いちごシロップと練乳のかかったかき氷、マンゴーパインジェラート、白玉ぜんざい抹茶パフェ……などなど冷たくて甘い氷菓子を二人で分け合っていると中高生の頃を思い出した。

 そして真昼が当時を懐かしむようなことを言うたび、その頃はいつもいてくれた三人目、すなわち紗夜を想った。でも私も真昼も「今度は三人で」と口にはしない。それが難しいのを理解しているから。


 三日目の夜、真昼がやってきた夜を含めると四度目の夜に、私たちは部屋で映画を観ていた。

 真昼が好きな国民的アニメの劇場版で、ブルーレイディスクを真昼がスーツケースに入れて持ってきていた。元々、私と観るつもりだったのを今日の今日まで忘れていたそうだ。パッケージには未来からやってきた青い猫型ロボットと少年少女たちが描かれている。


 手頃なソファはないのでベッドを背もたれに、テーブルに置いたラップトップで再生した。真昼の要望に応えて部屋は暗くしている。


「あさひちゃん、あたしを恨んでいない?」


 エンディング、そしてエピローグも終わった時に、真昼がぽつりと呟いた。


「映画の感想には聞こえない」

「だって映画の感想じゃないもん。……待って、明るくしないで。もう少しこのまま」


 パタンと真昼がラップトップを閉じた。

 室内はいっそう暗くなり、夜に包まれる。


「どうしたの」

「どうって……だから、ぜんぶ、あたしのせいだよ。紗夜ちゃんとあさひちゃんがいっしょにいられないのは」

「それは違う」


 私は努めて冷静な態度をとった。

 暗闇で真昼の手にそっと触れる。一分前には肩を寄せ合って画面を見ていたはずなのに、彼女の身体が遠い。


 真昼が急に――少なくとも私からすれば予兆らしい予兆なしに――心を仄暗い深みに沈ませるのはこれが初めてではない。

 彼女はその笑顔で私と紗夜を時に癒しながらも、ある時はひどく落ち込み、苦悩して、私たち二人を心配させたものだった。


「紗夜が予定より早くにお役目を継いだことと、真昼の家族に起きたことは無関係。そう紗夜も言っていたでしょ」


 紗夜から、そして私からもこれまでに何度も真昼に伝えたことだ。


「でも、お母さんとお父さんが死ななかったら……あたしが一人にならなかったら、紗夜ちゃんとあさひちゃんはいっしょの部屋で暮らして、同じ大学に通って……」

「そんなの妄想よ」


 たしかに、不幸にも事故で家族を喪くした真昼を、心が壊れかけてあちら側に引きずり込まれそうになった一人の少女を、救ったのは紗夜だ。


 お役目を継いだ彼女の一声によって、憐れな少女は彼女の魂を食わんとする魑魅魍魎の手から逃れることができた。

 そのいきさつを私は紗夜から聞いた。

 異形たちに無知な、親戚の誰かに預けられるより先に、紗夜は親友である真昼の居場所を用意し、そのことを周囲に納得させた。

 手回しと根回し。

 本来ならお役目を大学卒業時に正式に継ぐ予定であったのを前倒しにして。その決定は……真昼の家族が亡くなる直前になされていた。そう、事故が起こる前にだ。


「じゃあ、あさひちゃんは知っているの? 紗夜ちゃんが受験を取りやめ、お役目を早くに継ぐと決めた、その理由」


 真昼の声が震えている。その唇は闇の中。


「前にも話したとおり、知らない。教えてもらっていない。でも、それは知るべきではない、教えるべきでないことだと信じている」


 私を巻き込まないように。

 あちら側と無縁の人生を送るために。

 紗夜の優しさなのだと。


「こうは思わない? 紗夜ちゃんはわかっていたんじゃないかって」


 真昼は私の答えを見越していたみたいに、間髪入れずにそう言った。そして彼女が言わんとしていることを瞬時に察して私は身構える。電話を切るようには、真昼の言葉から逃げられない。


「予知していたんだよ、あたしが一人になるのを。でも、それは止められない、変えられる運命ではなかったんじゃないかな」


 察したとおりの内容に私は黙って、彼女を抱き寄せた。


 考えなかったと言えば嘘になる。

 紗夜は真昼の両親の死を予知し、そしてそれをどうにもできないと悟ったからこそ、お役目を早めに継いで真昼のために居場所を作ったのではないか。

 ひょっとすると……失敗した可能性もある。運命を変えようとして変えられなかった、そんな可能性が。


 真昼が顔を私の肩に押し当ててくる。彼女は静かに涙を流し始めていた。


 今ここにいる私たちは知っている。過去はもうどうにもならない。まさか未来から猫型ロボットが来るのを期待するわけにはいくまい。




 翌日、午前中いっぱい塞ぎ込んでいた真昼は午後になってから回復し始め、風物詩めいた夕立が降ってきて、ぴたりと止む頃にはすっかり元気を取り戻していた。


「夕食はここに行ってみない?」


 にこにことした表情で真昼がスマホの画面を見せてくる。そのグルメサイトに掲載されていたのは、最寄駅から二駅向こう、地元民しか知らなさそうな豚しゃぶのお店だった。高評価がつけられているが、若い女性二人でっていう雰囲気ではない。


「もっとお洒落なしゃぶしゃぶ店がいい?」

「そうは言っていない」


 そんな店があるか疑わしい。あっても無駄に意識も値段も高い店ではないか。


「とりあえず他に口コミだったり、あればホームページを見たりして検討ね。予約が必要かどうかもチェックしないと」

「昔から慎重派だよねぇ。こういう時、紗夜ちゃんだったら……」


 真昼はそこまで言って「そういえば」と仕切り直した。てっきり私を変に気遣って、話題を紗夜から移すためかと思いきやそうでなかった。


「昨夜、聞きそびれちゃっていた」

「何?」

「あさひちゃんは今も紗夜ちゃんが好きなんだよね。ライクではなくラブって感じで」


 無遠慮な物言いに、私は口を一文字に結ぶと、窓の外から聞こえてくる蝉の声を堪能していたが、その間も真昼はまっすぐに私へと眼差しを向けていた。やがて追撃がもたらされる。


「肌身離さず付けているそのネックレスって、半年前にあたし経由で紗夜ちゃんから贈られたものだよね」


 ばれていた。隠してはいなかったが、改めて指摘されるとこっぱずかしい。

 

 ちなみにその日は真昼の両親の命日で、紗夜も合わせた三人でお墓参りするはずが、紗夜は急に「仕事」が入って来れなくなったのだった。その罪滅ぼしのための贈り物……ではないらしい。かねてより渡すつもりの品だったと後で本人から電話で聞いた。


「経験から言わせてもらうと、大切な人への想いは伝えられる時に伝えておいたほうがいいよ。何度でも、何度でも。わかってくれるよね?」


 そう話す真昼の笑顔に気圧され、私は首肯くしかなかった。




 それは例のしゃぶしゃぶ店に行った帰りに起こった。時刻は午後八時になろうとしている頃で、一段と蒸し暑い夜だった。


 勢いよく食べ過ぎた真昼はお腹を下してしまったが、帰りの電車は車内トイレがついていないタイプで、仕方なしに途中駅で降車した。一度も降り立ったことのない小さな駅。駅員の姿はない。トイレに駆け込んだ真昼を、私はトイレの外で待った。

 昔、私たち三人が友達になったばかりの頃にも似たようなことがあった気がする。そんなふうに思い出しながら。


 十数分して戻ってきた真昼はげっそりしつつも「お待たせぇ」と笑顔を作った。


 しかし、その笑顔がいきなり崩れた。


「あさひちゃん、あれ……」


 顔を青ざめさせた真昼が指差す方向、私はそちらを向く。駅構内の壁。まったく気に留めなかった。

 それは芸術的価値を見出し難い、抽象的な絵であり年季を感じる壁画だった。

 目を凝らして、そのモチーフが、表現しようとしている風景がようやく理解できた。


 向日葵畑。


 そう認識した瞬間に空気が凍りつく。一瞬前までの夜が見えざる吹雪によってその温度を失い、私たちは冷気と恐怖に震えた。ほとんど無意識に抱き合うも、二人してみっともなく歯をガチガチと鳴らした。

 互いの視線は交差せずに、同じものへと向けられる。いつの間にか目の前に立っている何かに。


 雪女――?


 髪の長い女性の影をなしているだけの白い靄をそう呼ぶのには些か抵抗があったが、それが幻覚ではないのは確実だった。


 迫ってくる。一歩ずつ。

 向日葵の咲く銀世界で、その怪奇は私たちに這い寄り、手を伸ばす。


 いよいよ真昼が触れられそうになった時、私の胸元から眩い閃光が放たれた。

 

 ああ、やっぱり。特別なお守りだった。


 絶叫。私たち二人が出せずにいたそれを、雪女が発する。この世のものではない叫び。耳を塞ぎたくてもできない。目を閉じたくても閉じられない。ただひたすらに、雪女が叫びながら溶けていくのを傍観する……。


 


 電話が鳴る。

 その音で私と真昼は正気を取り戻した。

 二人揃って立っていたはずが、気がつけば床にへたり込んでいた。鳴っているのは私のスマホ。果たして、かけてきたのは紗夜だった。


「二人とも無事?」


 電話に出るや否や、彼女らしからぬ緊迫した声が耳に刺さった。


「な、なんとかね。助かったみたい」


 そう答えて真昼を見やると、彼女はぶんぶんと首を縦に振った。


 その後のやりとりで、明日には迎えをよこしてくれる手筈となった。真昼の危機はいちおうは去ったと紗夜が説明した。


 聞きたいことは山ほどあったが、それらは皆、瑣末なことに思えた。話が一段落すると私は「紗夜、まだ切らないで。聞いて」と頼んだ。真昼がサッと耳を両手で塞ぐのが視界の隅に入った。


「あのね」


 言葉が続かない。泣きそうになる。


 今更照れているわけではない。

 想いを伝えるのは初めてではない。真昼が言ったように、私たちは二人、同じ屋根の下で暮らす気でいた。それが大学生の間だけだとしても。一時の幸福であるとわかっていてなお、妄想ではなく現実として。


「秋になったら」


 不意に紗夜がそう言った。「え?」と私は反射的に聞き返す。


「少しだけ時間が取れそうなの。だから、その時に……会いたい」


 かっと胸の奥が熱を帯びた。


「私も……会いたい」


 そう返すのが精一杯だった。

 叶わぬ約束、姑息な嘘だと疑いたくないが、でも会えない時間は私を弱くしていたから、嬉しさをありのまま口にできずにいた。


「待っていて。わたしは、あさひと共に生きるのを諦めていないから」


 夕凪に自ら揺れ動く風鈴の、凛とした声。

 思いがけない告白だった。それでいて、ずっと聞きたかった気持ち。

 今やっとばらばらだったものが一つにまとまった感覚があった。否応なしに巡る暦ではなく、陽炎をなす日差しや入道雲、とめどなく滴る汗、百日紅の滑らかな木肌、水辺を飛び交う蛍、そういったすべてで、この季節は形作られているのだと。


 迎えに行こう。そう心に決めた。

 涼風の先にて待つあなたを。

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涼風の先にて待つ よなが @yonaga221001

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