第11話 それでも不可能

 地下街にある車のギャラリーの前では、人待ち顔の女性や若い男性が、時間を気にしながら立っていた。波多野の姿はない。ギャラリーには三台の車が展示されていた。そのうち、車高の高い、タイヤの大きな車を覗き込んでいる男がいた。波多野だ。


「お待たせしました」


 声をかけると、彼は呑気な顔で振り向いた。


「何だ、早かったな」


 いつものゆったりした笑顔を浮かべてから、何かを思い出したように表情を引き締める。


「どこへ行く気だ」

「携帯電話の店です。庄内さんは最新の機種を使っていましたか?」

「いや、古いやつだ。もうすぐ買い替えなきゃいけないって言っていたくらい」

「ではその機種に、着信音としてブザーの音が入っているか確かめたいです」


 波多野が、それならこっちだ、と言って地下街を歩き始めた。面積にして、軽く二倍はあろうかという背中を、烏有は眺める。


 幼稚園に入る前、二歳くらい年上の男の子とよく遊んだ。あの頃、もうすぐ小学生になろうかという男の子の背中が、やけに頼もしかったのを覚えている。

 だが、烏有にとってその記憶は決して楽しいものではなかった。突然、男の子は家族と共にいなくなった。引っ越しではない。消えたのだ。

 直前まで、男の子と一緒にいたのは烏有だった。警察官が家に来て、烏有に話を聞いていった。

 昔のことで、当時何を見たのか、警官に何を言ったのか覚えていない。今では、本当に直前まで一緒にいたのかすら、わからない。

 その辺りの記憶には、深い霧がかかっている。

 それは、その後ですぐ、烏有たちが引っ越したことにも関係があるだろう。記憶を確認する機会がなかった。


 烏有は肩を震わせる。

 波多野にも、同じことが起こるのではないか。

 消えて、いなくなるのではないか。


「波多野さん」


 彼は、何も言わず振り返った。相変わらずの顔が、そこにあった。

 烏有はほっとした。小さな男の子ならともかく、やたらと大きくて、筋肉質な波多野を連れ去ることができる人はいないだろう。


「どうした」

「何でもありません。行きましょう」


 波多野について歩き出す。平日にもかかわらず、人通りは多かった。携帯電話の店にも何人か客が入っている。

 烏有たちは微妙な距離を取りながら店に入った。素早く店員が近づいてきて、烏有に携帯電話を差し出す。


「新製品です。お試しになりませんか」


 どうやって断ろうか迷っていると、店員がパンフレットを広げて説明を始めた。


「人気なのは、カメラの性能です。この画像、すごいでしょう? この機種で撮ったものなんですよ。花火もこんなにきれいに映るんです」


 店員に非常に営業的な熱意を感じ、烏有は気圧される。

 と、視界を大きなものが塞いだ。波多野だ。彼は店員との間に割り込んでいた。


「一昨日、買い換えたばっかりなんです」


 コートのポケットから携帯電話を取り出す。店員が手にしているのと同じ機種だった。

 じゃあ、何故来たんだ、という顔をする店員を後目に、波多野が烏有の腕を引っ張った。


 店の奥には、古い機種が並んでいた。劇団の女性と同じ物は見あたらない。仕方なく、似た形のものを手にとってみて、着信音を一から試してみようと考える。

 大きな音立てないように、と音量を下げていると、波多野が呼んだ。


「庄内佳美の携帯電話は、これだ」


 振り返った烏有は、思わず彼の手を見つめる。


「どこにあったんです。それ」

「いや。その、奥の売場の……かなり古い機種だ。まさか、本当に」


 波多野が戸惑ったように携帯電話を眺めた。


「ええ、そのまさかです。同じ機種ですよ」


 やはり、そうだ。そして、サークルの会員は、みんな携帯電話を持っている。


「誰でも、ブザーを鳴らすことはできたってことですね」


 語尾は溜息にかき消された。


 店を出て喫茶店に入り、コーヒーを頼む。砂糖とミルクを入れるまで、二人とも黙ったままだった。


「俺たちが聞いたブザーは偽物だったんだな」


 波多野がスプーンをカップの中に差し込み、音をさせながらコーヒーを掻き回した。


「可能性はあります。ともかく、あの時点で犯人は外に出ていたということでしょう。ホールの鍵は閉まっていたんですから」

「でも、鍵は庄内が持っていた」


 それが問題だ。


「合い鍵があれば」

「どうやって? 当日まで鍵を借りる機会はなかった」

「練習の時はどうです。ちょっとみんなで出かけるので、ホールに鍵をかけたい、などと言って借り出すんです」

「そうだとしても、鍵を閉めたらすぐに返すだろう」


 確かに、あの管理人なら、すぐに返せと言いそうだ。

 烏有は肩をすくめ、コーヒーをすすった。


「鍵をすり替えるとか」

「鍵にはシールが貼ってあるだろう。あれを偽造するのは無理だ」


 合い鍵が無理なら、密室を作ること自体が無理だ。

 しかし、実際に密室があった以上、何らかの方法があるに決まっている。


「ともかく、犯人はホールの鍵を持っていたはずです」

「でも、鍵は庄内のポケットにあったんだ」


 外からしか鍵のかからないホールと、中にあった鍵。

 全てがその壁にぶつかる。無力感が体の底を漂っていた。そのまま机に、顔を伏せたくなる。それをこらえて、烏有は席を立った。

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