第9話 見学

 昼過ぎにメールを確かめてみると、代表者から返事が来ていた。午後三時から、衣装をつけて稽古をするから見に来いという。それまでに、集めた資料を基に、自分なりの意見をまとめておく必要があった。


 時間に遅れないように家を出て、会場に向かう。ホールは地下鉄の駅の向かいにあった。交差点を渡り、入り口の扉を押す。

 だが、鍵がかかっていた。扉を叩いていると、鍵が外れる音がした。


「見学の子?」


 神経質そうな初老の男性が顔をのぞかせた。首から鍵束を下げている。鍵には、ホール、だとか、搬入口、と書かれたシールが貼ってあった。古いシールのためか、黄ばんで薄くなっている。書く時に手が震えたのか、文字は端がゆがんでいた。


「何か?」


 顔を上げると、初老の男性は静かに烏有を見下ろしていた。唇がへの字に結ばれていて、すぐにでも怒りだしそうだ。恐る恐る、見学ですと答える。と、彼は扉を大きく開けた。

 お礼を言いながら中に入ると、目の前にロビーがあった。ロビーの奥には、ホールの扉が見える。そのそばに、喫煙所という看板と、椅子があった。


「楽屋は廊下を進んだところにある」


 彼が右手を伸ばした。そちらには廊下が延びている。


「ありがとうございました」


烏有がお辞儀をすると、男性は役目を終えた、というように背を向けた。

廊下を少し行ったところで立ち止まり、彼の行方を目で追う。老人は真っ直ぐ管理室に入っていく。

 どうやら、ここの管理人はあの男性らしい。あまり、いろいろ話してくれそうもない人だ。

 あとで話を聞き出そうとしても無駄だろうな、と思いながら、烏有は楽屋に向かった。


 楽屋では鼻の脇を茶色に、鼻筋を白色に塗った三〇歳くらいの女性が出迎えてくれた。


「どうぞ、ゆっくり見ていって」


 眉も、やけにはっきり描いてある。

 烏有はぎこちなく微笑みながら、ありきたりな挨拶をした。考えてみれば、事件が終わってから、家族や波多野以外と話す機会がなかった。


 楽屋から舞台に出る。既に数人の役者がそれぞれに練習を始めていた。彼らの邪魔にならないように舞台を降り、庄内が倒れていた辺りを眺める。確かに、機械室から一番近い場所だ。スポットライトもすぐ上にある。


 楽屋に面した部分をのぞいて、舞台は座席に囲まれていた。座席は階段状になっていて、最上段の上には手すりのついた細い廊下がある。廊下は壁沿いに取りつけられ、楽屋と機械室をつなぐように伸びていた。

 舞台の上にいた一人が、機械室に向かって手を振った。機械室を見上げると、ガラス窓の向こうで男性が片手を挙げているのが見える。

 辺りが暗くなり、役者にスポットライトが当たった。同時に、役者が科白を叫ぶ。続いて、強い風雨のような音がした。


「うちは、照明と音響が三人ずついるの」


 先ほどの女性が、腰に手を当てて立っていた。倒せるものなら倒してごらんなさい、とでも言うように。


「あとは、役者がやっているわ。大道具も、小道具も、衣装も、メイクも」


 舞台に視線を移す。役者は三人いた。彼女も入れて四人だ。この人数だと、一人が何役もやるのだろうか。

 聞いてみたかったが、なかなか口から言葉が出なかった。頭の中で何度も科白を練り直し、ようやく言う。


「役作りが、大変でしょう?」

「ええ、一人で何役もやるから。でも、たいしたことはないの」


 女性は役をつかむ方法について語り始めた。一人で決めるのではなく、役者が集まって議論するのだという。

 よほど役作りに思い入れがあるらしく、女性はこれまでにやった役の話を始めた。その熱心さは、前の事件で疲れた烏有の頭を素通りしていく。

 このまま話し続けてもらっても、かえって申し訳ない。そう思って止めようとした時だった。

 突然、女性の体からブザーの音がした。

 思わず身構えた烏有に、女性が笑いかけた。


「驚かせてごめんなさい。準備が出来たら、機械室の人に携帯電話を鳴らすように言ってあったの。これから全体を通して稽古をするから、よかったら見ていって」


 女性はベルトから携帯電話を引き抜くと、いきなり電話を切った。


「今の、携帯電話の着信音だったんですか」

「そう、いろんな音があるの。これが一番よく聞こえるから」


 自慢げに携帯電話をこちらに向ける女性に、烏有は意味もなくうなずきかける。

 あの時鳴ったブザーも、本物とは限らない。


 烏有は近くの座席に座り、考えをまとめた。もし、波多野が聞いた音が携帯電話の着信音だったら?


 目の前では、劇が始まっていた。

 舞台の中央で一人の女が立ち上がり、両手を前に伸ばすと、首を絞めるように親指を突き出した。


 劇の練習が終わるのを待って、機械室を見せてもらった。説明を聞く振りをしながら、壁を手で探る。隠し扉のようなものはなかった。

 機械室にあると思っていたブザーは、楽屋にあった。開演の告知をする人などが、自分で鳴らすのだという。

 お礼を言ってホールを出ると、公衆電話を探す。波多野に連絡しなければならなかった。

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