第2話 波多野の話~事件の始まり~

 名古屋のある私立大学は、今年で開校五〇年を迎えた。

各学部で記念行事が計画され、波多野が卒業した法学部では、小さなホールを借りて同窓会を兼ねたコンサートを開くことになった。コンサートでは法学部のOBが作った合唱サークルが歌うことになっていた。


 波多野が開場一〇分前に到着した時、既にロビーには卒業生が集まっていた。受付で名前を言うと、大学生らしき女の子が名簿に丸をつけた。彼女は顔を上げ、にこりと笑うと白いパンフレットを差し出した。表紙には凝った字体で「スワン」と書いてある。

 波多野はそれをコートのポケットに押し込み、辺りを見回した。あちこちで小さな集団が出来ている。そのうち一つの中心に、白いシャツを着た男がいた。皆が厚着なのにもかかわらず、男はジャケットを着ていない。合唱サークルの会員だろう。男の顔には見覚えがあった。

 矢田やだひかるだ。

 大学卒業後、公務員になった男だった。

 矢田の表情には、小さな権力を手にした男がするような、不思議な冷たさが浮かんでいる。かつて、いつもそばにいた恋人、庄内しょうない佳美よしみもいなかった。

 法学部を卒業してから一〇年近くになる。友人だと言って、簡単に親しくなれた時代とは違い、ずっと同窓会に出ていない波多野が入り込む余地はなかった。


 誰にも声を掛けられないまま奥へ進むと、大きな集団に突き当たった。集団の中心を見やると、同じ学年だった上飯田かみいいだつよしの姿が見える。彼は周りの人の話にうなずいていたが、どうやら退屈しているらしく、時折、時計を眺めている。矢田と同じような白いシャツを着ていたが、似合っていなかった。筋肉質な体のせいではない。うなずく時の、もったいぶった首の動きのせいだ。

 突然、上飯田の動きがぎこちなくなった。と、彼は集団から出て、携帯電話を取り出した。大きめのカメラのレンズがロビーの光を反射する。


「君か。どうした。今日は用事があると言ったはずだが」


 彼は大儀そうに言うと、人々から離れた。


 代わりに集団の中心になったのは、小柄な亀島かめしま則行のりゆきだった。学生時代、真面目で口数の少なかった亀島だが、卒業後、営業部の社員となったせいか、やけに軽い口調で話をしている。彼も白いシャツを着ていた。


「合唱が終わったら、ホールも見てくださいよ。全体が八角形をしていて、格好いいでしょう。うちの会社で扱わせていただいたんですわ」


 亀島の近くにいた白いシャツの女が、付け加えるように社名を言った。

 波多野は、思わず目を見張る。

 女は中浜なかはま瑞穂みずほだった。高校の教師になっているはずだ。理論的で神経質な学生時代が嘘のような、人なつっこい笑顔を浮かべている。


 波多野は意味もなく、天井を眺めた。

 こうして見ると、卒業後いろいろあった波多野の方が、変わっていないくらいだった。


 取り残された気分になりながら更に進むと、白いシャツの男が椅子に腰掛けているのが見えた。やせた、青白い男だ。彼も、波多野は知っていた。

 汐野しおのみなと。いつも神経質に六法をめくっていた男だ。


「やあ、汐野。おまえも歌うのか」


 肩を叩くと、汐野は驚いたように顔を上げた。


「なんだ、波多野か。おれたちの歌を聴きに来るとはな」


 やせた瞼に落ち込んだ目をしばたいている。以前から不健康そうな男だったが、これほどではなかった。


「確か、ハッカーになったって噂で聞いた」


 一瞬、波多野はむっとしたが、汐野の生気のない顔を見ているうちに、文句を言う気が失せた。


「違う。探偵だ。おまえは」

「事務員だ。司法試験に受かるまでだけど」


 顔には諦めたような暗さが浮かんでいる。がんばれ、というのは無責任な気がした。気にするな、というのはもっと無責任だ。

 波多野が何を言おうか迷っていると、不意に手の甲に柔らかいものが当たった。横を向くと、黒い毛皮のコートを着た女が立っている。波多野は思わずにやりとする。


「あんただけは変わらないな、白鳥しらとりさん」


 白鳥は上品に笑って見せ、波多野の肩に手をかけた。コートの下に着た、白いシャツと黒いスカートが見える。学生時代は協調性に欠いていた彼女も、合唱サークルの会員らしい。


「観察力ないわね。波多野君。私、今度結婚するの」


 白鳥は、魅力たっぷりでしょう、と言うように唇をたわめた。揺れた髪や体から、バラの香りがしている。彼女の香水に耐えられる男は、そうそういないだろう。


「そりゃあ、おめでとう。相手は青年実業家?」

「いいえ、あなたも知っている人」


 彼女は波多野から手を離し、軽く頭を下げると、矢田の方に歩いて行った。矢田は白鳥に気づくと、笑顔になって親しげに話し始める。


「矢田は、今、白鳥園子そのことつき合っているんだ」


 汐野が陰気な声で言った。


「庄内さんとは別れた。白鳥園子は目映まばゆいからな。あちこち、金できらきらしている」


 波多野は曖昧にうなって壁を見つめる。汐野がそんな皮肉な言い方をするのは珍しかった。


「本当さ。おれは今、白鳥家の顧問弁護士の事務所に勤めている。白鳥は庄内さんを訴えようとしているんだ」

「訴えるとは穏やかじゃないな」

「金ってものは、元から凶暴なものだ。相手の優しさを罪に変えるくらい、やすいものだぜ。庄内さんは上飯田に相談している。だが、庄内さんにも問題はある」


 汐野は波多野の腕をつかみ、ひきよせた。


「妊娠しているんだ」

「矢田の子か」

「いや、庄内さんは矢田の子ではないと言っている。矢田はそれを知って別れたんだ。その後、矢田は落ち込んだ。仕事も滞って左遷されたくらいだ。その、損害賠償を白鳥が取り仕切ろうとしている」


 突然、汐野は、小さな笑い声を上げた。


「しかし、白鳥が勝つのは難しいだろう。相手が上飯田じゃな。奴は、立派な弁護士になりやがった。おれの何倍もの頭の良さでな。上飯田は裁判に備えて、亀島や中浜と打ち合わせしている。二人とも、学生時、代庄内さんと仲がよかっただろう。彼女のよさをよく知っている」


 彼らを証人として出廷させるつもりなんだろう。庄内佳美が誠実な人だという印象を、裁判官に与えるため。


「どのみち、うちの事務所でも庄内さんについて調査することになるだろう。その時は頼むぜ、波多野」


 同級生のトラブルを調査するのは嫌だった。が、話を聞いた以上、すぐには断れそうもない。


「そんな状態じゃあ、庄内佳美は来られないな」

「いや、彼女は合唱サークルだから、来てるよ」


 汐野が波多野のコートに視線を遣った。そこには、ポケットに突っ込んだパンフレットがある。取り出して開いて見ると、合唱サークルのメンバーが書かれていた。

 ソプラノは白鳥、アルトは中浜と庄内。テノールが亀島と汐野で、バスが上飯田と矢田だった。

 ずいぶん、険悪なサークル活動になりそうだ。

 うんざりしていると、汐野がパンフレットの上に指を乗せた。


「ソプラノが白鳥園子だけなのは、他の人を追い出してしまったからだ。元々、ソプラノはあと一人」


 その時だった。突然、背後から声がした。振り向くと、紺色のスーツを着た女性が立っている。


「あの、庄内先輩を見ませんでしたか」


 女性は眉を寄せ、困ったように唇をゆがめている。


「いや。見てないけど。楽屋じゃないの」


 汐野は時計を確かめ、立ち上がった。


「もうそろそろ、おれも楽屋に戻らないといけないな」

「いえ、楽屋も鍵がかかっていて。鍵は、庄内先輩が持っているんですよね? さっきから探しているんですけれど、どこにもいないんです」


 波多野は辺りを見渡した。ロビーには汐野が座っていた椅子と、受付に置かれた折り畳み机以外何もない。ロビーに面した扉は四つ。管理室というプレートが掛かったものと、男女それぞれのトイレだ。そちらは調べたのかと尋ねると、スーツの女性は、言いにくそうに、ええ、と答えた。あと一つはホールに入るための扉だった。近づき、引いたり押したりしてみるが、微動だにしない。


「楽屋にいて、内側から鍵をかけているということは?」

「波多野、それはあり得ないよ。ホールの扉はどれも、外側からしか鍵がかからないんだ」


 スーツの女性がうなずいた。


「ホールの中が密室になってしまわないためだって、管理人さんが言っていました。中にいる観客が誤って鍵を閉めないようにするためです。小さいホールなので、楽屋の扉も災害時には非常口として使うそうです」


 じゃあ、庄内佳美はどこに消えたというのだろう。


「私、もう一度、楽屋の鍵を確かめて来ます」


 彼女は勢いよく頭を下げた。


「じゃあ、おれは管理人に合い鍵がないか聞いてくるよ」


 汐野は、それから、と言って、波多野の背中を押した。


「こいつを連れていけよ。探偵だから」


 スーツの女性がうかがうように見上げていた。波多野は笑顔を作り、どうも、と手を差し出した。スーツの女性は恐る恐る手を握った。


「私、川名かわな令子れいこと言います。探偵さんと一緒なんて、心強いです。本当に」


 しかし、それが本心ではないことは、すぐにわかった。彼女は怯えたように白鳥の方を見やり、足音を忍ばせるようにして、廊下へと進んでいった。

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