第3話 月光

     一


 母の心音はさっきまで隣り合っていたきょうだいたちのどれよりも強く拍動していた。

 それは、道しるべ。

 その一拍一拍は彼にとって唯一絶対であり、光の届かない深淵にただ漂うばかりの彼の生を司っている。彼の小粒の心臓を突き動かし、彼を立ち止まらせることなく生へと導く。彼らは先導され、ときに背中を押される。そうして母親の胎内でひたすら時の流れに沿って前進することを本能に刻み込むのである。

 それはまた子守歌でもあった。彼らは眠るとき、全身を耳にしてそれを聴きながら四肢のこわばりを解き、呼吸に上下動する母のふっくらした胎内に身を沈めてどこまでも底無しに眠りに落ちていく。

 彼がその眠りから覚めたとき、それはすでにはじまっていた。


 彼のいる場所は前にも増して広くなっていた。足をのばしても、もうきょうだいの誰の腹も蹴飛ばすことはなかった。逆に、きょうだいたちに蹴飛ばされることもなかった。

 間をおいて彼ら胎児に大きなうねりが見舞っていったのである。きょうだいたちはその度にひとりずつ去っていき、いまはもう誰もいない。彼らの鼓動ももう聞こえない。狭い胎内でひしめきあっていたときの心地よい圧迫感もなかった。

 不意に彼は少し心寒く感じた。とはいえ、いま母親は彼ひとりきりのものだった。そのことに思い至ると、彼はひとつ胸をときめかせた。きょうだいたちが蠢く雑音が消え、体に響くのはいまや母の鼓動だけである。彼だけのものだ。

 彼の尻の下で、母親の胃が音を立てておくびをもらしていた。胃袋が喰ったものを吐き出そうとして、痙攣しては引きつることを繰り返していた。胎盤を通じて彼に流れ込んでくる母親の意思は乱れていた。戸惑いと胃の不快さが不均質に粘り、絡み合っているのが彼にもわかる。ただ、いまも絶え間なく注がれる慈愛は相変わらず閃光を発するようにきらめいていた。その輝きを感じて胸が熱く火照る。彼はもう心迷うことはなかった。

 母親の薄っぺらな腹の皮一枚を震わすきょうだいたちの啼き声が、いままた、体に響く雑音となって彼にも聞こえてきた。ともするとぷつりと断ち切れそうなか細い泣き声だが、それでも彼らは懸命に強く母を求めていた。

 やがて四つの声はやんだ。ちゅうちゅうという音が不調和に聞こえてきた。

(そっちにはなにがあるの?)

 小さな四肢を大げさに張って、母親に訊ねてみた。彼は自分が忘れられている気がしはじめていた。

(愛しい愛しい坊や、坊や――)

 いつもならそんな母の言葉が体の中に流れ込んできたものだった。だが今回は、いつまでたっても答えは返ってこなかった。

 母親の呼吸は荒々しかった。と、彼は圧し潰されそうに感じて、引っかかりどころのない膜の内側を引っ掻き、体をくねらせてあえいだ。母親の胎内はすべてを柔らかく受け止めて、何事もなかったかのように静寂を取り戻した。

 しかし突然、彼は大波に揺さぶられた。うねりにのまれ、天と地に挟まれた。

 今宵、五度目の大波は、胎内に残る彼ひとりに語りかけていた。

(坊や、坊や、最後はおまえ。ほら、お願いだから、お顔を見せて)

(わかったよ、お母さん)


     二

 

 月は、東の彼方に横たわる半島の際から姿を現した。その姿は上の端が少し欠けていて、潮騒が轟く空よりもはるか上空の、まばらな雲間にじわりと浮かび上がろうとしていた。

 時が経つにつれて、夜は斜め差す月明かりに支配されていく。だが、ときおり漂ってくる雲に光はさえぎられ、世界はいっとき薄闇に閉ざされ、束の間、息をつく。それでも雲の向こうの月が輝きを失くしたわけではない。雲が過ぎると、その少しの間にも月は天上の高みに登り、さらに支配を強めていく。

 境内の隅にある枯れた小屋にも、裸の梢を透かして月の光は届いていた。

 雪の夜から一日が巡り、二夜めの今宵、空気は再びからりと乾いていた。

 かすかな風にも床の塵は舞い上がり、光はその一粒一粒を宙できらめかす。それはまるで一昨日の雪の夜のようだった。ある粒はそのままひらりと床に舞い降りるが、ある粒はさらに揺らぎ、流動する空気に漂う。塵が舞い降りようとする場所は誰にも知り得ないし、また誰も気に留めることはない。すべては風の気まぐれだ。

 小屋の天上近くまで吹き上げられて舞い降りてきたものだろうか、外から舞い込んできたものだろうか、それともただ床からわずかに舞ったものがわずかの間、宙を漂い、たどり着いた先だったのだろうか、一粒の塵がぴったりと閉じた赤子のまぶたにそっと舞い降りてきた。瞬間、赤子のまぶたがぴくりと痙攣し、塵は振り払われ、再びどこかへ飛んでいった。

 四匹の赤子がたるんだ母犬の腹にしがみついていた。鼻から母乳を垂らしてくしゃみをする者、真ん丸に腹を膨らませてすでに寝息を立てている者もいる。皆ふさりとした尨毛を、床の塵と同じように微風にそよがせていた。

 だらりと四肢を投げ出して投げやりに息をしていた母犬は、ときおり思い出したように頭を起こし、しごくように腹を舐めさすった。疲れ切り、息む余力はもうなさそうだった。

 母犬はいきなり跳ね起きた。足の爪が床板を擦って甲高い音を小屋に響かせた。よたよたともつれる足をもつれるだけもつれさせ、数歩目かには踏ん張って四方に足を突っ張った。母犬の目に月光が突き刺さった。

 冷気に晒された赤子たちが一斉にわめきだした。

 母犬の踏ん張った足が震えた。荒々しく鼻息がもれた。赤子たちの啼き声が遠くに聞こえる。彼女は腹から聞こえる声だけに耳を澄ましていた。


     三


 絞るように収縮した子宮は彼を狭い穴へ落とし込もうとしていた。

 彼は抵抗しなかった。

 向かう先に何があるかはわからなかった。だが、もう二度とここへ戻ってくることはない。蹴飛ばし合っていたきょうだいたちも行ったきり戻ってこないのだから、それはたしかなことに思えた。

 不安は微塵も無かった。このうねりは母の意思だ。常に母の鼓動に耳を傾け身をゆだねていたときのように、いまもまた母に寄りかかりさえしていればよい。彼は頭から子宮を飛び出した。

 狭い産道を、彼はうねりに合わせて滑っていく。母親の鼓動こそ尻から遠ざかってしまったが、彼を包む膜に密着している産道の壁から伝わる温かい血の脈動を、彼は全身で感じている。ただ、それは子宮で感じていた鼓動の温かさとは異質なもの、脈打つ産道は彼を決して包み込みはしなかった。それが彼を不安にさせた。

 へその管から流れ込む母親の意思の道しるべも切れ切れになり、やがてふつりと途絶えた。産道の脈動だけが冷ややかに彼の尻を押している。

 母親との繋がりを寸断され、彼はぬめりとうねりを膜越しに感覚するだけで突如闇に隔絶された。母親からの応答はなく、彼の問いかけも呼びかけも、行き場を失い彼の中だけでぐるぐる巡るようになった。思考の回路が閉鎖した。あらゆる思考が湧き起こっては跳ね返って自分に戻ってくる。いつまでもこだまする残響に小さな脳髄はすぐに痺れてしまった。

 ようやく首をもたげてきた本能が彼を導こうとしていた。生命としての覚醒は遠からず訪れていたのだ。

 ぽつぽつと芽吹く不安や戸惑いがやがて大きくなって彼自身の幼い心を絡めとって動けなくしてしまう前に、生き残るための才が、いらぬ芽を片っ端から摘み取っていった。

 それは、産道を前進するにつれて胎内での記憶を尻の後ろに残していくことでもあった。横腹や背を合わせたきょうだいたちの蠢きも、胎内の温かさにいつも眠りを誘われていたことも皆、後ろに置き去りにした。真っ暗闇の夢の中、枯れることなくあふれるように、闇とも光ともつかぬきらめきを纏って天上から降りてくる母親の慈愛のままに無心になって身を任せていたことも、もう彼の意識に上らなくなった。

 雑多な記憶が飛ぶように消え去っていく。

 その中で残るもの、産道を飛び出す寸前にまだ彼の心に留まっているものは、彼自身と母親と、母親の鼓動のみである。

 本能によって色を抜かれ真っ白になった脳髄に、本能によって消されず残された三つの記憶があらためて濃く上塗りされる。それら三つの記憶が、未知なる外世界へとまっすぐ向かう彼の意志の源となってゆくのだった。

 生まれ出ることは母胎から切り離され孤となり無力となることだ。

 産道を這いゆくうちに彼はなんとなしにそのことに気付いた。その不安におののいた瞬間もたしかにさっきまではあった。

 だが、求めるべきは母親の鼓動で、彼がまっさきにすがるべきは母親の乳房であり乳首であることを、本能は思考と身体が迷わないように彼の意識の中心にそれとわかりやすく置いてやっていた。

 それらの準備が整うと、膜を被ったままの彼の頭が夜気に晒された。うっすらと粘液を纏った膜が冷気を吸い込み、きらりと月光を照らし返す。乾いた神社の境内に異質なきらめきが一点、仄かに発光した。

 羊水に満たされた膜とぴったり塞がったまぶた越しにも、彼の瞳は月の光を感じた。

 光は彼にはまだ強すぎた。月光は圧倒的だった。まぶたの下で眼をぐるぐる動かしても、光は間髪おかずに彼の眼前に回り込んで激しく彼を攻めたて、圧し潰そうとのしかかってきた。どうにかして逃れようと顔を逸らして身をよじると、産道に引っかかっていた尻が滑って投げ出され、彼はどろりと床に転がった。

 月は床に放り出された赤子を前に鎮座し、声無く彼を見下ろすだけだった。ただ、月が放つ光は容赦なく彼を追いつめた。

 光から逃れたかった。背に触れた固い床がたまらなく嫌だった。もがいて振り回したひしゃげた足は、ぬるついた膜の内側を虚しく撫でるだけだった。

 彼は口を開けた。叫びも啼き声も出なかった。

 彼は突如として外世界に解き放たれた。彼を包む膜が裂けて羊水がさっと床に広がった。水溜まりの真ん中で、ずぶぬれの彼は水音を立ててのたうっていた。だがその水溜まりは埃っぽい床に吸い込まれ、黒い染みを残して消えていった。すぐに彼の身体は濡れた埃や綿埃にまみれてひとかたまりの毛屑のようになってしまった。

 もう一度口を開けた。喉に何か詰まっている。顎を開いても、声も詰まったものも何も出てこなかった。

 光が身体を縛っている。光が固い床に身体を押さえつけている。声も、喉の奥の異物さえも、彼の体から出てこないように光が封じ込めている。

 感覚する何もかもがとげとげしく冷たかった。何もかもが彼自身の身とも心とも温かな繋がりを持たず、暴力的なまでに彼を痛めつけていた。濡れた被毛に冷気がひっきりなしに突き刺さる。体を床に置き去りにして、被毛から立ちのぼる白い湯気とともに彼の生気を四方に散らしていく。体温だけが自由の身となり、彼から去っていく。

 彼の混乱していた思考は、どこからか差し込まれた──あるいははじめから在った──ひとすじの線に沿って整いつつあった。

 と、影が彼に覆い被さった。月光がさえぎられたことをきっかけにようやく四肢の強ばりが解けると、切れ切れの生暖かい風が彼の頬に当たってきた。それは濡れた彼の毛並みを温めもし、冷やしもした。しかし、それこそが求めていたものだった。

 彼の鼻先を母犬の舌が這った。鼻から頸へ、背から尻へ、幾度も幾度も行っては戻り、行っては戻りする。湿り気を舐めとってくれている。その舌は、柔らかく彼を床に押しつけ、転がした。床に着いていた側の被毛は埃をまとわりつかせていたが、母犬の舌は構わず埃ごと水気を拭った。ひと舐め、急いでふた舐め――。

 そうされている間にも彼の体温は宙に去り、入れ替わりに冷気がしみこんでくる。

 夜気は彼の身体を蝕み、皮膚より内側の世界を徐々に狭めていく。冷気の気配はもはや分厚い膜の遠く向こうにある気がしてきた。冷気がやっと離れていってくれたと彼は思いちがいの安堵さえした。固い床も分厚い皮の向こうにあった。母親の柔らかい舌が触れる感触もなく、それはただ彼の身体を揺さぶっているだけだった。

 やがて彼の意識は天地無く漂いはじめた。自分の心臓だけが小さく脈打っている。いつ断ち切れるかわからない鼓動に心細く思いながら、彼は狭まる一方の胸に残るわずかな熱が、だんだんと失われゆくさまをひっそりと感じていた。次いで鼓動もまた、遠ざかっていくようだった。

 そのとき、無感覚の壁を突き抜けて母親の舌が彼を圧し潰した。

 体が破裂しそうになって、彼はたまらず顎を目一杯開いた。臓物が飛び出るかと思ったが、吐き出したのは喉につかえていた粘液だった。冷気が容赦なく肺に流れ込んで一気にふくらみ、彼はむせかえった。

 悲鳴が咳に寸断されつつも、彼は構わず母親を求めて啼いた。すぐに乾いてひりひりしだした気道を無理矢理に広げて、母親を呼びつづけた。

 いつの間にか身体は感覚を取り戻していた。彼は元のじっとり濡れた冷たい被毛を纏っていた。震える四肢は冷気をやたらに引っ掻き回した。床のほんの小さな石粒を踏んだ薄っぺらな背中が痛くなってきた。

 赤子は母犬に優しくくわえあげられた。

 彼の鼻先をそっと撫でゆく母親の吐息は熱く、湿り気を帯びていた。むせかえりがどうにも止まらずまだ啼いている彼は、母親の熱い息を掻き集めんと宙にすがりついた。指先に掛かるものは何もなかった。だが、鼻腔や気道は母親の吐息で一杯に満たされていた。さらにそれは肺の隅々まで行き渡りもした。彼はその吐息に匂いを捉えた。

 これが母親の匂い。

 彼は啼きながら、母親の匂いを吸い込んでは吐き出した。

 赤子のきょうだいの、誰かのくしゃみが鳴った。

 母犬は先に産まれた四匹の赤子たちの真ん中に彼を押し込んだ。そして彼らの鼻先に腹を寄せて横たわった。乳のにじむ乳首が濡れて月明かりにきらめいたが、赤子たちには見えていない。皆が皆、まだしっかりと支えきれない重い頭をもたげて、鼻先を震わせて、母親の臭いを頼りに乳首めがけて這っていった。

 新参の赤子は出遅れた。もぞもぞと背と腹に触れるきょうだいたちのせいで、せっかく落ち着きかけた胸の内が再び掻き乱された。被毛に染みこんだ匂い立つ母親の湿り気が無惨にも冷気に散っていく。気の急く思いで彼はもがいた。だが、戸惑い乱れた心の中にも一点、微動だにしない確信が彼にはあった。求めるべきものは何なのかを、きょうだいたち同様、彼も十分に心得ていた。みな同じように産まれ、同じものを胸の内に目覚めさせ、同じように覚醒した本能に導かれてきたのだ。

 彼の爪が誰かの尨毛に引っかかった。それを足がかりに寝返りをうつと、彼はどうにかうつぶせになった。頭が重い。床が鼻腔と口を塞いだ。前足で床を押さえ、頭をとりあえず横にして一息ついた。きょうだいたちが這っていく気配をすぐ頭の前の方で感じる。彼らの進む方へ、母の臭いのする方へ、彼も這っていった。さっきまで宙を掻いていた四肢もいまは器用にきょうだいたちの体やざらつく床に爪をかけ、体をくねらせて母の腹へと、蠢く尨毛の塊の、その真ん中を割って彼は潜っていった。

 そこは温かかった。

 きょうだいたちの柔らかく乾いた毛が彼の鼻やまぶたをくすぐるたびに彼は立ち止まり、爪の先がとどく範囲で顔を掻いた。そうしている間にきょうだいたちに後れをとってしまったことに気付き、彼は慌てて這い進んだ。

 ときどき鼻水をちんと吹き出し、たしかめるように息を吸い吐きした。一呼吸ごとに彼はこの世界と一体になっていった。肺に吸い込んだ冷気は温めて吐き出してやる。この絶え間ない周期が、この新しい世界での拠り所となっていった。

 吸っては吐く――吸っては吐く。

 それは母親の胎内で聞いていた鼓動のように揺るぎないものだった。吸って、吐いてさえいれば他には何も恐れるものはないように感じた。それにいまは母親やきょうだいたちの匂いに包まれている。彼はまったく孤独を覚えなかった。母親の乳首に吸い付き、足で母親の腹を押す。呼吸の間に、あふれてくる乳をうまく飲む。慌てて吸いすぎると鼻から乳が漏れる。だが母親がそれを舐めとってくれる。月の光さえ、いまや彼の背中に温かく感じられた。


     四


 母犬は端から順にひと舐めずつして赤子を数えあげると、五匹がひとつとなった尨毛の塊のその真ん中にいる最後に生まれた赤子を乳首のある方へ鼻先で導き寄せた。

 その赤子ががむしゃらに乳首に吸い付く間も、母犬はまだ湿っている彼の体を舐めてやっていた。ひと舐めするたびに濡れて針鼠の太い針毛のようになった毛束は水気をなくして乾き、やがて存分に空気を含み軽やかになる。舐めて愛撫してやればやるほど柔らかくなってゆく尨毛は、彼女の舌にも心地よいものだった。

 白毛や錆色斑の子らの中にいて、最後に産まれた赤子の背の、曇り無い、濃い赤毛を纏う様は、薄暗い小屋の中でさえ月明かりに映える。母犬はその華やかさに目をみはらずにはいられなかった。自分と同じ赤毛の毛並みに、母犬は将来の彼の姿に想いを巡らす。ただ少し、口吻の黒毛が父親の面影を残している。それもまた彼女は悪い気がしない。

 愛撫をやめると、床板の隙間を抜けてきた風が赤子の赤毛を柔らかく撫でていく。毛の一本一本が空気の流れのままに踊り、そして、静かに元に戻った。

 そっと吹けば舞い上がり、風にまかせて流れる雲になる。

 この子はこの季節の空のようだと母犬は思った。低い空に漂う白い綿雲は腹の毛。背中は茜空を背にした金色の薄雲、黒毛が密な鼻先は夜の帳へと駆け込む雲だった。

 母犬は赤毛の子の毛並みに凝縮された世界を見ていた。すべての子を産み終えて、彼女の心は解き放たれていた。それも、我が子の毛並みが織りなす小さな世界へと。

(わたしの鼓動の音が大好きで誰よりも聞き入ってしまうあまり、最後までお腹に居残ったこの子。そのくせ、この子は誰よりも小さい――)

 丈夫に育つように願いを込め、彼女はいっそう強く彼の額を舌で撫でさすった。

 赤毛は乳首から口を離し、小さく声を上げて母に応えた。そして、彼は再び乳を吸うことに没頭した。

 この赤子だけではない。あらためて我が子たちを眺めると、彼女はほほえまずにはいられなかった。こんな繭玉のような愛くるしい姿をした子たちがまさに自分の腹の中にいたのだ。

 彼女は何べんも何べんも、我が子たちを舌で撫であげた。一匹一匹の顔を丁寧に舐め回し、それぞれの顔を脳髄に刻み込んでいった。

 母犬を唐突なめまいが襲った。ずっとこらえていたのだが、いまになって耐えきれなくなった。胃がひっくり返るままに母犬は嘔吐した。

 さっき飲み下した胎盤が胃液にまみれて床に広がった。脇腹を引きつらせながらあらかた吐き出すと、母犬は荒く息を吐き、足も頭も尾もだらりと床に投げ出した。顔が生ぬるい吐瀉物に浸かり、濡れた。臭いが鼻をつく。母犬にはそれを気にするゆとりはなかった。彼女には暫しの休息が必要だった。

 夢の中でも我が子らの姿を見つめていよう。そう彼女は朦朧とする中で誰彼ともなく約束した。そしてその通りの夢へと、彼女は眠りに落ちていった。

 夢の中でも彼らは成長し、大人になる。その彼らの前途は、一寸の曇りない光で満たされていてほしいと彼女は思った。

(光とはその瞳に注がれるもののみではない。光とは絶えず輝くもののこと。光とは、死なず生きることだ。おまえたちにはそんな光のような生を追い求めてほしい)

(どうせ届かぬものと顎を地に伏せてぼんやり月を見上げているだけではいけない。わたしにとって暗闇こそは安住の地だったけれども、汚れのない匂いに包まれたおまえたちにはわたしが棲んできた闇の底は似合わない)

(そうはいっても、みんな大人になって、この森に散り散りにならねばならないときがくるだろう。若いおまえたちにも、この先必ず、闇の夜の孤独に打ちひしがれるときがくる。だが、怯えるな。震えるな。そしてためらうな。おまえたちはわたしの生き様を腹の中で見てきたろう? わたしが何かに恐怖したか?)

(いや、したかもしれない。だがそれでもわたしは生き延びてきた。こうしておまえたちを産み落とすことができた。わたしは恐怖に打ち勝ってきた。怯えてはいけない。怯えは死をその身に近づけるだけ)

(月が出ているとき、その無限の光はおまえたち皆に等しく降り注ぐ。それは母親であるわたしのかわりにきっとおまえたちを導いてくれるはず。本能に立ち帰り、背伸びしてでも光を求めてこの世界を走れ。闘え。死ぬな、殺されるな。生きろ。それが母親としてのわたしの願いだ)

 そのとき、ふっと母犬の意識が覚醒した。

(そう、それがわたしの希望だ)

 しかしもう一度、まどろみの靄の先にある眠りの淵に落ちていく寸前に、彼女は、自分はいま寂しいのだろうかとふと思った。強く切に望むゆえ、逆にもろく儚いもののように思えてくる。これは叶わぬ望みなのか。腹にはこんなにもたくさんの愛おしい毛むくじゃらがすがりついているのに、彼女の心の真ん中には孤独がぽつりと浮かんできて、それは鼻息で吹き飛ばそうにもただ揺らめくばかりだった。そんな意識の悪戯をこのまま眠りの中にまで引きずっていく予感が、彼女は気に入らなかった。

(構うものか)

 そんなものだっていまなら抱きしめてやれると、そう思った胸に、背中を焦がし、独り、死に怯えた雄犬の姿が過ぎった瞬間、彼女は眠りに落ちた。

 光の源は天上と地平の中間にあった。その月は満月の頃を過ぎている。空を慌ただしく駆ける灰色の分厚い雲塊が月を横切っていく。母子の住処が暫し闇に沈んだ。巻いて吹き狂いはじめた風が、廃屋をやむことなく軋ませる。だが、その音もいまは誰の耳にも届かなかった。

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