第2話 雪解け

     一


 二月も終わろうかという頃の夜だった。上空を満たしていた風のうなりや波のささやきは、ある瞬間を境にして唐突にやんだ。

 雪だ。それも綿埃のような大粒の。それらが音を片っ端から吸い取っていく。

 目に見えない、相混じらぬ東西の風がのしかかりのしかかられして湾の上空で押し問答している狭間に、海の湿気を存分に吸い上げた雲塊が現れ出で、争いの裁定者のごとく鎮座した。そうして生まれた雲塊は広げた掌を海沿いの街に振りかざし、街から星月を見えなくするだけにとどまらず、一斉に雪を降らせはじめた。その降雪の第一陣が黒い海、黒い森に舞い落ちる頃にはもう、いがみ合っていた風たちは諦めたようにじっと押し黙ってしまっていた。

 冬はもう終わるだろうと、そこに棲む誰もが信じ込んでいた。

 振り返れば、裾野を広げるひとつ山の銀雪は、ほとんどいつでも街から見ることができる。ただ、暖かな黒潮の恩恵に浴するこの街、この森では、空が死んだように鎮まるこんな夜など数年に一度あるかないかのことだった。

 しかし、この希有な現象に気付いている街の者は多くない。街中がすでに深々と夜に沈み、誰もがその底で寝息を立てていたからである。

 街のはずれにある廃神社の境内にも、大粒の雪はまんべんなく舞い降りていた。

 六方に放射する結晶と結晶が無数に寄り添い形づくる雪片の一枚一枚は、凍るような宙をあちらこちら寄り道しては土の地面に降り立っていく。落ちてからも融けるものは少ない。それほど地面は冷たく乾いていた。積み重なる雪片はやがて、かさり、かさりと忍ぶようにささやきはじめ、境内に白い絨毯を織りあげていく。

 境内には、手前の拝殿、奥の社殿、脇の土蔵、手水舎の他に、隅の方に神社の雰囲気にそぐわない物置小屋があった。拝殿や社殿こそ、廃神社となってからも変わらず人を畏れさせる力を備えていたが、他方、物置小屋はそれらに比べて造りもたたずまいも粗末に尽きた。苔の薄呆けた緑色で彩られた北側の板壁も低い屋根も含め、ほとんどの壁という壁は薄茶色のつるの茎葉に覆われている。小屋は伐採の憂き目にあった一個の腐った切り株のようだった。


 切り株は、一カ所だけ、ぽかりと四角いうろを開けていた。戸のない戸口である。

 小屋の引き戸は、なんの拍子か、外れて草むらに倒れていた。そのため長い年月の間に戸口から風が吹き込み、小屋の中の床は埃で真っ白になっていた。その上に点々と描かれる斑模様は動物たちの足跡である。

 鼠の細い足跡や、それに比べて丸っこい猫のそれは、敷居を跨いだところではたと立ち止まり、後ずさりし、踵を返している。一旦は小屋へ入ろうとしたものの、躊躇し、警戒し、尻込みし、急ぎ足で去っていったのだろう。奥に潜む何者かの気配を察知した瞬間の、はっと息をのんだ姿がその足跡からありありと浮かんでくる。

 新旧、種々交錯する足跡の列の中で、ひとつだけが堂々と小屋の出入りを繰り返していた。右の後ろ足をわずかに引きずる癖があるようで、その爪が床板に積もる砂埃にふたすじの浅い線を刻んでいた。

 小屋の中は戸のない戸口のおかげで完全には闇にのまれていなかった。雪が旧街道の街灯の光を反射しているため、いつもより明るいくらいだ。といっても、小屋の奥にまで届くわけではない。

 小屋の隅に薄闇がある。そこから獣の臭いが発散されている。

 ただ一頭の臭い。

 その源は、騒々しく唇を震わして息を吐き、唇ごと引きずるように息を吸い込んでいる。洞穴の潜伏者然とした恐ろしげな息遣いがこの空間を支配していた。それが、何者もこの小屋に立ち入らせない理由だった。

 犬だ。

 赤い毛は垢に黒ずみ、闇に同化している。飛び出た頬骨や肋骨の異形さとは対照的に、犬の下腹は滑らかに丸くふくれていた。雌犬は身籠もっていた。

 今宵の夜気は彼女の一呼吸ごとにも凛としていく。


 犬は背を丸めて鼻先を後ろ足の間に突っ込み、熱い息を腹に吹きかけていた。その呼気は腹の皮を湿らせ、露が毛を濡らす。腹が冷えないように、彼女は愛おしそうにその雫を舐めとる。ときおり耳が痙攣したように震えることもあった。四肢の爪先は暖かい血流が足りていない。かじかむ爪先を二、三度噛んで痺れを解き、胸の下に折り込む。体の芯にはまだ温かさがある。だが床は冷たかった。床の下を寒気が静かに流れているのを感じる。彼女はひとつ鼻を吹いた。

 雌犬はこの土地で何度も冬を越してきた。とはいえ、ここは暖流の庇護下にあり、厳冬とは無縁の土地のはずだった。生涯でこんな唐突な寒気は経験したことがなかった。彼女もまた、もう冬は終わりと信じていたひとりだった。朝晩こそまだ身に浸みる寒さだが、おとといの昼などは海風の中に陽光のたしかな熱気を感じたものだった。ただ、それでも春はまだ先のことだとはわかっているつもりだった。

 森に戻るべきだったのかもしれない。ここに比べたら木の葉に埋もれることのできる森の方がまだ温かい。

 空腹に思考が鈍っていたのだろうか。

 だが、おのれの愚鈍さをいつまでも後悔している場合ではない。寒さと闘わねばならなかった。寒さがいま一番の敵だった。腹に初めての子を何匹も宿しての初めての雪夜に、彼女は母親として必死だった。


     二


 体調の変化に戸惑いを覚えはじめた頃、彼女は森にいた。

 藪の中に浅い穴を掘ってうずくまり、胸のむかつきに鬱々としながら、夜ごとに忍び寄る冬をやり過ごそうとしていた。

 ある日、藪のすぐそばに数羽の鳩が舞い降りてきた。鳩たちは身を潜める獣の気配に気付かないまま、落ち葉を踏み散らして歩き、土に解けかけた枯葉をくちばしでつついてはひっくり返しはじめた。

 地面に這いつくばる姿勢から一気に飛びかかった。一瞬の後には、顎の先で鳩が一羽もがいていた。久々の収穫だった。

 翼をもいだときに流れた血の湯気に急き立てられるように、彼女は胃袋に獲物を詰め込んだ。しかし、すぐ胃袋は意思に逆らってひっくり返った。それ以降不快感が彼女を襲い、旺盛だったはずの食欲を萎えさせた。

 獲物を見かけるのもざわめきを聞くのも、漂う臭いも嫌った。彼女は次第に、無防備で無神経に目の前を歩く鳩や鼠たちに苛立ちを覚えるようになった。

 ただ、そんな時間も長いものではなかった。吐き気はいつの間にか治まっていた。空腹を満たそうとする単なる欲求とは異なる、彼女の背中を押さんとする何者かが腹の中で蠢きだしていた。

 彼女は再び獲物を探しに出かけた。十数日、草の露や手近な草葉だけを口にしていたので、汚れた毛並みの下で肋骨が浮いていた。その溝に血肉を埋めこもうと彼女は喰いまくった。だが、その溝が浅くなることはなかった。ただその一方で、腹は目にも明らかに丸みを帯びつつあった。

 日々着実に大きくなる腹の子に、日々意識が向いていったのはその頃からである。眠っていようと起きていようと、彼女は腹の皮の裏側にしがみついている我が子たちの姿に思いを馳せたものである。

 その頃から、彼女は喰うことに貪欲になった。

 運良く胃を一杯に満たすこともときにはあったが、胃袋の中身は胎児たちに片っ端から吸い尽くされていく。下腹部の重みが日に日に増していく。そうなると痩せたままの体との釣り合いが崩れていく。丸い腹は足かせとなり、いつしか狩りに難渋するようになっていった。

 この森は、彼女以外にも野犬を棲まわせている。彼らの牙が彼女に対して敵意を剥き出しにしないとも限らない。狩りが満足にできないということは、身を守るために闘えないということでもあった。

 毛繕いを怠った毛並みは垢と泥で黒ずんで臭い立ち、虫に喰われている腹の皮は赤くただれている。丸い腹を抱えた足取りは重い。よく肥えたように見えるその腹も、実はここ数日はまた草と水をどうにか詰め込むばかりだった。かつての凛々しさも見る影なく、彼女は負け犬然としていた。

 発散する体臭に不安の異臭が混じりこんでいることだろう。敵はそういう臭いを嗅ぎとり、逃さない。それが森という場所だ。彼女は十分すぎるほどに心得ていたはずだった。

 彼女の母親はまだよかった。

 彼女が産まれ、季節がほぼ一巡りすると、母親は再び子を産んだ。

 初産のときに彼女自身を含め六匹が産まれ、そのうち生きて乳児期を過ごせた赤子は自分ともう一頭の雄犬だけだったが、母親と自分たちきょうだいを合わせた三頭の血族は森において比較的優位に立つことができた。だからこそ彼女の母はそのまま森に留まり、翌年も子を産むことができ、最期の日までその小さな弟妹たちの誰も失うことなく暮らすことができたのである。

 しかし、彼女はいまたった独りだった。同腹のきょうだいも母親も、小さな弟妹たちももういない。足手まといの子供が五匹も産まれてしまったら、彼女たちにとって森は安住の地ではなくなるだろう。そう、腹の中には五匹もいる。その五匹みなを、凶悪な、そして悪戯な牙どもからひとり残らず守れる自信などいまの彼女は持ち合わせていなかった。

 この森では何者にも弱気を悟られてはならないのである。

 それは、腹の子供たちにもだ。

 強靱な精神と敏捷な身体をもってこれまで生き延びてきた彼女だったが、身重となったいまでは、胎児の成長とともに不安は胸に満ちていった。

 震え、おびえる日々だった。敵の牙にこの身が引き裂かれ、子が喰われ、この森の底で、枯れ葉の下で朽ちてゆくことを彼女は恐れた。

 森を出たのはそのためである。

 とはいえ、森の外に危険がないわけではない。そこには別の種類の危険があり、それもまた致命的であることを彼女は知っている。

 彼女の母親と小さい弟妹たちが人間の網に捕らえられて連れ去られたのは、街はずれにある民家の庭先でだった。そこにはこぢんまりとした鶏小屋があった。本能が知らせるはずの危険信号は興奮と欲望と、血と肉の臭気によって覆い隠されてしまっていた。最初の夜はそれでもよかった。だが、翌日はそうではなかった。

 彼女の記憶に、網に手足をとられて狂乱している弟妹の姿があった。母親が踵を返し、その場に踏み止まった姿も強烈に焼き付いている。そしてほとんど間を置かず、その母親の頭上にも網が降ってきた光景も。彼女だけが逃げおおせた。ただ、皆の叫声が、いまだに彼女の耳の後ろの方に残っていた。

 それでも多少の危険は覚悟の上だ。胎児を抱えた身としては背に腹は代えられなかった。危険と引き替えに手に入るものには、いまの彼女には抗えない魅力がある。それこそが容易く手に入る喰い物なのだ。

 森と街の境にある茂みに身を潜めて夜更けを待ち、彼女は人間のごみ溜めで喰い物を漁るようになった。

 喰って喰って喰いまくって、気力と体力を繋がねばならなかった。

 そこでは様々な喰い物が一緒くたになってとらえどころのない臭いを発していた。どれも新鮮さに欠け、臭いさえ冷え切っているのである。しかし、ごみを喰いながら地の底の底に腹這う虚しさと、どこか懐かしさを感じていた。彼女には、まだ子供だった頃にこんなふうに過ごしていた時期があったのだ。だが彼女は意識を立ち止まらせるそんな雑念を振り払って、ときには警戒心すら消し去って、ひたすら貪り喰うことに夢中になった。腹の子が欲しているのだという一心だった。

 そうする間に、彼女は手頃な住処を見つけた。敵という敵もいまのところはいない、それでいて喰い物は森の中よりは近くにある。それがこの廃神社の、この物置小屋だった。

 小屋の隅にうずくまり、喰い物と胎児とでふくれた腹の皮を飽きることなく舐め、飽きることなくこの数を数え上げ、そして一匹一匹に語りかけ、そのうちにいつの間にか眠るという日々を送った。

 眠れば夢に、まだ見ない赤子たちが現れた。夢の中で彼女は、彼らの顔を一匹一匹順ぐりに鼻の先から尾の先までくまなく舐めてやっている。ふと、この舌がもっとあればと、彼女は夢の中で思った。それならどの瞬間にも誰にも、寂しい思いをさせずに愛情を注いでやれる。

 最近、胎動がはじまった。

 腹の中で子供たちが蹴飛ばしあっている。身も脂もない薄っぺらな腹の皮を蹴破らんばかりに暴れている。そんなとき彼女は目を閉じて、産まれてきた赤子らの収拾のつかない取っ組み合いを小屋の闇に思い描くのが常だった。


 母犬は物音を聞いてはっと目覚めた。だが、そこかしこで小雪がささやくばかりだった。腹の子も眠ったままだった。

 鼻をひとつ鳴らして首を振り、彼女は爪先から背中、そして尾の先までを舐めるように眺めまわし、最後にふくれた腹に目を留めた。じっと見つめる。やはり彼らは静かに眠っていた。それをたしかめると彼女は背を丸めた。後ろ足の間に顔を突っ込んで、かつては存在しなかった、自分の体温ではない五つの温もりに鼻先をうずめた。



 何者にもさえぎられることのない天空にて、恒久に灯る星月のはるか下、今宵、水底に澱んだ泥のようにふわりと白く煙った大地があった。

 塵芥のごとく舞い散る星々と暗き太陽たる月の下でこそ人知れず躍動する街の野良猫も森のみみずくも、今宵に限り、にゃあともほうとも声を立てていなかった。さざ波の音さえも飲み込んでしまう雪霞むただ中では、彼らのつぶやきなどひと足先にも、ひとはばたき先にも届いていかないことを、彼ら自身、重々承知しているのだ。

 まだ明けない空からはいまだ綿埃のように雪がこぼれ落ちていて、尽きることがなかった。猫もみみずくもそんな空をときおり見やりながら、厳かな夜気に、まさにそうすることがふさわしいとばかりに一点を見つめたままそっと小さく小さく身をちぢめて朝を待っていた。

 幸い、雪雲は長居しなかった。

 何かの拍子に寒気と暖気とが丸ごと入れかわったのだろう。凛と張りつめていた空気がふっと緩んだ瞬間があった。それを、眠れぬ者たち皆がそれぞれの居場所で感じていた。

 雪はただ、忍び足でやってきては誰の目にも触れることなく去っていくつもりだったのかもしれない。灰色の雲は空を流れつつ残してきた足跡を消さんとして、去り際に雪を雨に変えていった。空が明るむ寸前まで、細かな雨と暖かい大気は薄く降り積もった雪を融かしていった。

 東の地平に橙の炎が灯されるとともに雲は去った。あとには、いまだ星散らばる濃紺の西空が半分と、濡れた黒い地面が広がっている。雨音にかわって潮の騒ぎが聞こえてくる。街の屋根という屋根は、雨が浸み、融けかけて半透明になった雪の残骸をとりとめなくちりばめていた。

 もとから暖かな土地柄、数年ぶりの積雪もやはり激変した景色を翌朝まで残せるほどには多く積もらなかった。街や森は一夜限りの白化粧を落とし、いつもと変わらぬ朝を迎えようとしている。ただ、その宵闇にたしかに存在した街や森の化粧姿のまぼろしは、昨晩眠れることのできなかった者にのみ、現実の出来事としてしばらく後まで記憶に留まることとなった。


     四


 丘陵の縁からあふれてこぼれ落ちたかのように、落葉樹、常緑樹の織り交ざった森が海沿いの町並みに雪崩れ込んでいる。そのこんもりとした全体が神社の姿であり、さらにその突端に鳥居はあった。

 鳥居のしめ縄から引き抜いた藁を、鴉や尾長、雀らがくわえて持ち去り、巣作りの材としているのを人々は以前から目にしている。

 ささやかな神社ではあったが、神主がいた頃は毎年二度はしめ縄を張り替える習わしだった。神主不在でその習わしが途絶えてからも、しめ縄は月日を追うごとに黒々とし、威厳を保っていた。しかし、鳥たちにつつかれるうちにくくりつけられていた一端がちぎれてたれさがると、太い縄はついに見る間にほつれだし、藁をあたりに散らすようになった。

 無惨に残った荒縄は、朱を剥がして地肌をむきだしにしつつある片方の柱にぼうぼうとたれさがり、黴に黒ずんで、長いこと梳かさぬ汚れたほつれ髪のような不気味さを醸していた。夜にもなれば、それがたたずむ幽霊の後ろ姿にも見えた。風が吹けば、生きたように黒髪がなびき、恨み言のつぶやきが聞こえてくる。

 そんな折、幽霊を見たという噂が立った。現実にはそれは、若者たちの間にいたずらに流された根も葉もない噂に過ぎないのだが、中には幽霊もありえないことではないと大真面目におびえる者もいた。とくに近隣の住民がそうだった。皆が皆、そこの神を見放したという後ろめたさがあったのだろう。うち捨てられた神の祟りを畏れ、人々は鳥居の前でおそるおそる手を合わせるに留まり、奥にまで詣でることをためらうようになったのである。

 やがて人々はこの神社を意識からも捨てた。それに呼応するかのように、神社は明るい内は木々の黒い影を重く落とし、暗くなると丘陵から降りてきた靄が門となって参道を堅く閉じ、通りがかる人々に参道の奥の様子をのぞかせようとしなくなった。

 参道を行って石段を十数段あがると、本殿へとつづく石畳が再びのびている。その突き当たりに黒々と建つ本殿は、現在では朽ちた老木のようで、下生えと腐葉土に埋もれた根元から腐食がはじまっていた。それでももとの造りが良いためか、形は依然として保たれたままでいる。

 かつてはそこに、たしかに真の主が宿っていた。建立から百数十年経っていても、神が宿り、神主の三代にわたる気配りと掃き清めと修繕がなされていた間は、鼠のかじり傷ひとつ見当たらなかった。柱ににじんだ雨とぼんやりと浮かぶ埃の跡にさえも、主の存在する証だと人々は手を合わせていったものだった。

 いまは、どちらの主も去って久しい。

 飛来した雑草の種子たちは、背の高い常緑樹にさえぎられているために成長の糧となる光が届きにくいにもかかわらず、樹冠の穴をかいくぐってくるわずかな陽光を浴びて年々小さな彩りを境内の土に咲かせるのだが、ただ、いまの時期はまだちょびちょびと青芽を生やすだけで、冬が終わる頃とはいえ新緑の瑞々しさにはほど遠いものだった。冷たく乾燥した葉枯らしの風だけが慈悲なく吹き抜けるばかりで、木も草も虫も、ここにあるすべての者が疲弊しきり、寒い季節を越してきた境内はよりいっそう色の抜けた虚を纏っていたはずだった。

 だが、今朝はまるで見違えた。

 朱の剥げかけた鳥居がしっとりと濡れて地肌の黒ずむ様は、朱に変わって漆黒の威厳を纏ったかのようだった。その柱から垂れ下がる荒縄は、これもまた濡れて微風に吹かれ、そこかしこに朝日に照った雪解けの雫を懸命に振りまいている。水の枯れた手水舎も、屋根の際から雫をひっきりなしに滴り落とし、敷石を穿つことをやめないでいる。

 石畳の参道を縫うように這う気丈な草はタンポポのロゼットで、冬を越した根はいままさにその石を割る勢いで太くなっていく。また、蓄積された腐葉土の上で低く繁茂する雑草たちは、一方でその足の根を地に突き立てて、音を立てて融雪の雫を吸いながら全身に緑をあふれさせ、一方でどうにかして漏れ差す熱い太陽の光を一身に浴びようと、小風の為すがままに揺れながら我先にと競って手を伸ばし、朝の光を追いかけていた。

 あたり一面、雪解け水で濡れた黒い地面と草葉が落とす揺れる影と白い照り返しの光との境界が濃く際だっている。生命がこの境内に宿ったかのように、明と暗、淡と濃の相交じらない風景は太陽の下で忙しなく躍動していた。

 その間にも橙の炎は、海向こうの半島の稜線からだいぶ離れ、その放射光は時の経過につれて濡れた石畳の上で乱れ飛び、乱れ飛んだうちの幾筋かは、徐々に小屋の奥にまで届こうとしていた。

 大気は春の到来を思わせるほどに温く緩んでいた。

 それにつられて雌犬の気も緩んでしまったのかもしれない。彼女は日の出の直前に、ついに眠気に引きずりこまれていた。

 燃えるような赤というにはほど遠い、汚れてくすんだ赤毛に光が差した。

 彼女は光の気配を鼻先に感じて、目を覚まして顔を上げた。と、ちょうどその目に、白光が飛び込んできた。

 その目元には、目やにと涙の跡が赤黒くかちかちに乾いてこびりついていた。目やにでなかばくっついた上下のまぶたを二、三度まばたきをして剥がすと、彼女は濡れ石の反射光から目を逸らした。

 雌犬は伸びをしてから、数歩だけ歩いて日向に出た。いつになく腹が重かった。

 ただ、幾千もの朝と同じ今朝の光がそこにあった。彼女は幾千もの朝と同じく真っ白な闇にくらくらしてきた。無骨にも険しい皺が刻まれた顔は、岩石のように硬く乾いている。だが、陽の光を見上げて黒く縁取られた目を細める瞬間の表情は、瞳潤む無垢な赤子そのものだった。彼女はまだ歳若かった。

 松の落ち葉のように赤茶けて密な毛並みはしなやかさに欠けて硬くなり、輝きなどはとうの昔になくしていた。丹念に舐めて磨いてやるのも億劫で、この頃は木の幹に体をこすりつけるだけで毛繕いを済ませていた。誇らしげに渦巻いていた白い胸毛さえも、いまでは手入れを怠ったために垢で茶色がかり、かつての流れるようだった巻き具合はただ混沌と荒れてしまっていた。

 そっと足を畳んでふくれた腹を陽に向けて横たえると、ふと彼女は気付いた。汚れた毛並みでも、陽に透かせば白かった毛は白く輝き、赤かった毛は鮮やかな深い赤色を発するということを。

 彼女はだらりと四肢を投げ出して脱力し、一息ついた。見せかけに過ぎずとも、今朝の光の下では、自分の毛の艶に不満はなかった。顔だけを起こして目一杯あくびをした。もう少し意識が冴えてくると、彼女は夜じゅうの吐息で濡れた腹を舐めはじめた。

 今朝の日差しは暖かい。凍えた身が次第にゆるゆると解けていくのを彼女は感じていた。

 彼女は露を舐めとった腹を陽の光にさらけ出した。痩せこけた体の三分の一ほども占めるふくれた腹は薄汚れていたが、その真ん丸さが彼女の容貌に似合わず健康的だった。

 毛が乾ききると、次にはだんだんと太陽の熱が胎内にまでしみてくるようだった。

 それを感じたのか、太陽に一番近い左端の胎児が目覚め、腹の皮を蹴飛ばしはじめた。それをきっかけに腹の子ら全員が起きて騒ぎだした。

(それにしてもみんな、大きくなった)

 彼女は首を傾げて腹を見た。もうこれ以上削るところがないほど痩せて、背もあばらも骨が浮いているのに、腹だけがはち切れるほどによく肥えている。かすかに口の端を持ち上げ、彼女は硬い顔からほろりと笑みをこぼした。こんなに腹がふくれるほどの獲物にありつけたことはいまだなかったが、それ以上の満足感を噛みしめていた。

 子は母親を喰って産まれてくる。彼女自身もそうだったはずだし、彼女の小さい妹や弟たちも、母の肉を腹の中から日々削いで喰って成長していった。

 母親は子に喰いつぶされて当然だ、それが母親の役目だ、と彼女は思う。

(子供たちは皆、腹の中で同じだけ喰って同じだけ大きくなる。しかし、そうしてわけへだてなく喰えるのも腹の中にいるうちだけ、外に産まれ出たら誰もが平等にものを喰うことなんてできやしない。いまのうちにたんと食べて丈夫になりなさい。わたしの血肉、骨も残さず平らげてしまうといい。もう立ってもいられないほどわたしの力がなくなっていたら、腹の皮を喰い破って出ておいで)

 実際、そうなっても構わなかった。五つの心臓のおのおのが、彼女の心臓の下の方でいままさに脈打っている。生まれてこのかた、これほど心踊る出来事があっただろうか。自分の血肉を余さず捧げてまで尽くしたいと思った存在がかつてあったろうか。



 雌犬は耳をそばだてた。

 何かが近づいてくる。

 それは露を溜めた草むらを避けつつ、しかしときおり水を跳ねる音を立てながら石畳を小走りに、こちらへ向かってやってくる。

 風向きが瞬時に変わり、その者が発する臭気がここまで届き、雌犬の鼻孔に流れ込んできた。その瞬間から雌犬は、単なる葉擦れや水の跳ねる音としてのみ感覚していた認識を修正して、いまやその臭気を異質な気配の塊として捉えていた。

 彼女は息をひそめた。

 その何者かの方でもようやく彼女の気配を察したらしく、壁を一枚隔てた向こう側で足を止めた。犬の足で五歩とない距離だった。

 雌犬はそろそろと体を引いて、半身を光の届かない陰に隠した。爪で床を引っ掻いて不用意に音を立ててしまわないようにと、一足ずつ退き、尾の先が奥の壁に触れると、最後にそっと前足を八の字に広げて前身を床に沈めた。そして、まだ姿を見せないその生き物の方へ目と耳と鼻を向けた。

 彼女にはそれが何者なのかはわかっていた。その体臭や吐息は、この世界ではごくありふれた生き物のそれであり、彼女もその種の生き物を何度となく目にしている。

 獲物とすることは叶わなかったが、以前にきょうだいと一緒になって戯れに追いかけまわしたこともある。

 太陽のおかげで体は十分に温まった。芯に籠もった熱をじわりと四つ足の筋肉に流し込むと、足腰はいまにも跳ね上がらんばかりに脈打って痙攣し、血がたぎった。かといって、飛びかかって獲物にするつもりはさらさらなかった。

 彼女が退くと、生き物は足音を殺して、歩を進めてきた。その足取りは、草の葉先に触れて葉擦れの音が立つたびに硬直して、立ち止まった。

 小屋に近づいてくるときの、濡れた石畳を踏むその軽快な足運びからは、世間知らずな浅はかさが感じられた。一方で、いちいち草に触れるたびにすくみ上がっている臆病者でもある。あるいはこれは警戒心の表れか。とはいえ、こちらの気配を察したあとの、足音を聴かさないだけの油断のなさを忘れていない。

(若いな)

 軽率さと慎重さ。若さはときに、相矛盾した行動を起こさせることを彼女は知っている。

 しかし、ためらいがちなのを差し引いても、その足音がかすかに不揃いだったのが少し気になるところだった。それに何より、それが壁の向こうにいても、彼女にはその生き物の流す血が濃く臭ってきていた。

 彼女はそれが戸口に現れるのを待った。

 ひげが数本、戸口の隅からひょっこり飛び出たかと思うと、続いてひげの根本にある顔が現れた。

 白い猫だった。

 華奢な骨に濡れた毛がべったりはりついた、奇妙なほどに痩せてぎすぎすしている。その青緑色の瞳は目一杯見開かれて、彼女に焦点を合わせて動かない。みかけの薄汚さとは裏腹に、その瞳には濁りも汚れもなかった。思った通り、白猫はまだ幼かった。

 白猫は上目遣いでじっと彼女を見つめてくる。探る目に表れている警戒心には、こちらの方が思わず憐れんでしまうほどに臆病さをにじませている。

 その返答として、彼女はそっぽを向いて目を細め、詰めていた呼吸を何事もなかったかのように再開した。敵意がないことを示したつもりだった。

 それが通じたようだ。

 猫はゆったりと戸口から離れると、草むらに倒れている戸板に指先をのばして暫時の寝床の品定めをはじめた。

 両目を寄せて湿った蔦の落ち葉を払いのけた白猫の指先が淡い朱で濡れている。その血の赤を目で追うと、猫の肘あたりが傷口を剥き出しにしていた。

 白猫はその戸板に鼻を寄せて雌犬にはわからない何かをたしかめると、ようやくそろりと身を横たえ、ひとつゆっくりと満足げなまばたきをした。

 彼は毛繕いをはじめた。

 ずぶ濡れた全身の毛に、白い舌をせっせと這わせて水気を飲み込んでは、思い出したようにその舌で肘の傷をいたわってやっている。毛を噛んでほぐす小さな歯には少しの黄ばみもなかった。歯で噛んで梳かしては舐め、梳かしては舐めることを、白猫は繰り返した。

 雌犬は顔を前足の間でくつろげて、猫を飽きることなく見守っていた。軒先からしたたる融雪の雫や、海からの風の轟きがひっきりなしであるのと同じように、体を舐めさする白猫の、頭と舌の動きも終わりがないように思えた。淡々と拍動する自分の鼓動とそれらすべてが調和してこの朝の時を刻んでいるようで、彼女は居心地よく感じていた。

 見る間に白猫の姿が変わっていった。前足や後ろ足でごしごしこすって、頭や顔や耳の後ろの湿り気をその足に移し、今度はその足の水分を舐めとる。それを繰り返すうちに、尨毛が空気を含んでふわりと立っていく。それが全身に及ぶと、先ほど抱いた奇妙な印象ほどに猫は痩せてぎすぎすしてはみえなかった。逆三角形だった顔も、頬の毛が柔らかさを取り戻したおかげで幾分か丸顔になった。それでもやはり、白猫は薄っぺらに痩せているようだった。

 横腹を床に這わせてべたりと寝ころんだ格好のまま前足で抱えこんだ尾の手入れが終わると、白猫は胸毛に顎を沈めて、この朝よりも穏やかに、優雅に目を閉じた。鉤状に曲がった猫の尾の先端がぎこちなく床を打ち、犬と猫、ふたりの間に流れる時を、さっきまでよりもゆっくりとした時を刻みつけていた。

 小一時間もかけて如才なく成し遂げた大仕事ののち、白猫は底抜けの白さに包まれて見えた。それが痩せた体を隠してくれている。雌犬は少し彼を羨んだ。

 ゆらゆらと陽炎のように立ちのぼる血の臭いに、まるで何事もないかのように白猫は平然と目を閉じていた。だが傷口のある前足は、ときおり痙攣した。心臓の拍動によってしぼり出されるように、傷口からまた血がしとしととにじみ出ている。

(目が覚めたら、その足をよく舐めておやり。痛いだろうけどよく舐めてやりなさい)

 傷を負った者たちを彼女はこれまでたくさん見てきた。

 あいつは妙な歩き方をするなと見ていると、その犬は足首から先がなかった。耳をかじりとられているのもいた。傷口がかゆいらしく、しじゅう頭を振っているために目を回してよたよたとふらついていたりするのも。頸のあたりをじくじくに膿で濡らしている者もいた。そんな彼らには、肉の腐る臭いと蝿の羽音がつきまとい、どんよりとした眼差しをしている。それでも傷だけは活き活きと脈打ち、膿は相変わらずぬめぬめと異臭を放ち、毛並みを汚していく。

 みんな目から枯れていく。目も鼻も口も渇ききって、いつも水を欲しがるようになる。欲しいと思うと気が狂わんばかりに啼く。そのうちにやがて、心も壊れていくのである。

 そのほとんどは何かしら争いのさなかに受けた傷らしいが、明らかにそうでないのもあった。草むらに潜む鉄の顎に喰いつかれ、数日のあいだ苦しみぬいてその場で息絶える者。両足が本来あるべきでない方向にねじ曲がっている者。火に焼かれた者。

 数ヶ月前の記憶が彼女の脳裏にどっと雪崩れ込んできた。

 毛と血と肉の焦げた臭い。いままた、あの犬に対する憐れみがちろちろと浸み出てくる。それに一瞬先立って、彼女の鼻がごく細く泣いた。



 彼女が一頭の雄犬と出会ったのは、母と小さな弟妹たちと同腹のきょうだいが網の下で暴れ狂うのを見たときから季節が一巡りして、さらに黄色や赤や橙に山が燃える秋を終えた頃である。それは山の色が剥げ落ちた冬のとある夕暮れどきだった。

 彼女は捕らえたばかりの雉鳩を住処に持ち帰ろうとしていた。笹藪を抜ける細い獣道を歩いていくと、向こうから誰かがやってくる気配を感じた。焼けた毛と肉が臭った。道の先から現れたのは、茶毛に黒斑の雄犬だった。その背は焼けただれ、赤黒い皮膚を剥き出しにしていた。

 雄犬の両目は焦点が定まっていなかった。そればかりか彼は、聴覚も嗅覚も思考も、渦巻く空間にてんでばらばらに放り込まれたようにふらついていた。痛む背中にいつまでもつきまとう焼けた臭いに相当苛立っているようなのだが、背中を振り返っても痛みそのものは実体がなく見えないために、彼はその痛みを自分の尾のせいにしたり、あるいは傷にたかる蝿の羽音が耳に入れば蝿のせいにしてうなり声をあげ、それでもやまない痛みにうめき声をあげていた。

 彼女は立ち止まって、雄犬の振る舞いを見つめていた。

 雄犬は彼女を見るや、痛みに歪んだ顔をいっそう醜く歪ませると黒い口吻を深く裂き、剥き出しの赤い唇から牙という牙をのぞかせた。ただ、彼女よりひとまわり大きいその腰は臆病そうにひけていて、彼に戦意がないことは明らかだった。

 彼女はどうしても雄犬の異様に黒々とした背中から目が離せなかった。心臓が拍動するたびに、彼女もまた古傷がうずいた。

 深まりゆく冬の中、裸の木々から漏れ落ちる月光は、雌犬と雄犬が体を寄せ合って過ごす様を毎夜のごとく照らしだしていた。

 雄犬の行動と欲求は単純だった。お互いに暇を持て余してじゃれ合うほど幼くはなかったし、雄犬にはそうするゆとりなど一瞬もなかった。残りの命、駆け抜けるほどにも彼には残っていなかった。

 ただ一度、彼女は雄犬を受け入れた。

 彼女は雄犬の膿んだ傷を舐め、しつこくたかる蝿を寝ずの番で追い払ってやっていた。雄犬が物言わず耐えているのを、力が入って震える彼の背中の肉から感じていた。

 彼は眠っている間は赤子のように無防備だった。一夜に何度も悪い夢を見て、森中に響く弱々しい悲鳴をあげて飛び起きたりもした。その際、ぎゅっと体を引き絞って震えるため、その度に背中のかさぶたがひび割れた。

 彼女はいつも雄犬を落ち着かせようと試みた。彼の鼻先を舐めて動揺を拭い取ってやると、次にかさぶたににじんだ血をそっと舐めてやった。そして、かつて母がしてくれたように、雄犬を抱き寄せて、朝日が昇るまで胸の中で眠らせた。

 雄犬はしばらくして死んだ。結局癒えることのなかった背中一面のかさぶたは、最期の瞬間にもところどころひび割れて血と膿がにじんだ。背中の曲面に沿って垂れ落ちた血が、焼けてちぢれた被毛を濡らすのを彼女は放っておいた。血は、冷たく固まり、乾くにつれて、それが閉じこめていた月の光を次第に失っていった。

 雄犬の背の血が完全に光を失ってもなお、彼女はじっと雄犬の骸を見つめていた。またひとりになったと、彼女は思った。



 まざまざと甦ってきたその記憶は、蜘蛛の巣網に頭から突っ込んだときのようにしつこく頬や睫毛に粘つき、まとわりついてきた。いったんそうなってしまうと拭っても拭いきれるものではなかった。そういうときは普段の生活に支障をきたさない程度に、目や耳や鼻、あるいは足に絡みついてくるものだけを取り払っておけば、残りは時の経過とともにいつの間にか剥がれ落ちていくものなのだということも心得ていた。だから今回もまた、放っておくつもりだった。

 そうやって放っておいた記憶のほとんどは、彼女の前進を阻む忌まわしいもの、思い起こしてもひとかけらも心地よさを感じられないものだった。雄犬と過ごした時間すらも葬り去ってしまえば結局のところ、夜空に轟く潮騒が彼女にとって刻々と時を刻む以外に永遠に無意味な響きであるように、欠けらほどの淡い哀しみを胸中に残しただけで彼女のその後の暮らしに影響する出来事とはならないはずだった。

 だが、いまはちがった。

 雄犬と過ごした時間を、蜘蛛の巣のように毛嫌いしてしまうのはもったいなくも感じていた。それは、ただその記憶がまさにこの腹の中にある五つの命と切り離せないでいるからなのかもしれない。

 とはいえ、彼女は未練がましく雄犬の記憶にいつまでもすがりつこうというわけではなかった。ひとりの寂しさがいまはそうさせるだけだ。いつの日か子供は生まれてきて、そして成長する。そのとき、もっと心地よい記憶に塗り替えることができたとき、間違いなく彼女は苦く古い記憶を捨て去り、新しい方の記憶だけを慈しむことができるだろう。

 彼女は子供たちを腹に感じている。だからいまこそ試みよう。忌まわしい、哀しい雄犬との記憶を一息に吹き飛ばそう、と。

 母犬は鼻腔を目一杯広げて荒々しくまとわりつくものを吹き散らした。

 その音に驚いたか、戸板の上の白猫が跳ね起きた。真ん丸に見開いた二つの目は水玉の雫ほどの小ささにもかかわらず、緊張と警戒の織り混ざった圧倒的な塊のようなものを彼女に叩きつけてきた。

 彼女は息苦しくなって顔を背けた。そんなちっぽけな体の、傷ついた体のどこからそんな力がわいてくるのだろうと、彼女は顎を右足の浅い毛にうずめながら思った。視界の隅で、自らの体を支えた白猫の傷んだ足が細かく震えていた。

 幸い、あまり時を置かずして張りつめた空気は元通り緩んだ。

 白猫は再び足ににじみだした血を丹念に舌ですくいとりだした。だがそれも完璧にとはいかず、赤く染まった毛はもう純白の毛並には戻らなかった。やがて彼は諦めた。傷を負った足を除いた三本の足を胸と腹の下に折りたたみ、頸をちぢめ、そして目を閉じた。

 雌犬はちらと白猫を盗み見た。白猫は彼女に対して体を斜に、顔はそっぽを向いて素知らぬふりをして目を閉じているのだが、片方の耳はぬかりなくこちらを向いていた。だがその休息の番をしていた耳さえも、次第に留守がちになっていった。ぴったり目を閉じた顔の真ん中からかすかに寝息が聞こえてくる。ゆらゆらと船を漕ぐその顔は、心底から眠っているように見えた。

(彼は疲れている。他の猫の縄張りに触れぬように、凍った地面を傷負いの足で夜じゅう歩きつづけ、いまようやく乾いた寝床を見つけたのだろう。小さいけれど、その足では重たかったろう、その体は。その体、なんの苦もなく起こせるまで、暖かい陽差しはきっとおまえさんに注ぐから。それまでゆっくりお休み。そして目が覚めたら、今度こそ自分の居場所を求めに歩くといい。自分の縄張りで足も尾も投げ出し、ふんぞり返って堂々と眠ることができる場所。侵入者には勇ましく威嚇して追い払うのだ。その権利と使命を誇らしげに掲げて――そんな夢を見て眠りなさい)

(ここでは誰も邪魔しない。わたしが邪魔させない。この野良犬が、おまえさんの眠りの番をしてあげる。腹のふくれたこんな体ではあるけれど――)

(寝ぼけているじゃないの、その耳。いったいどっちを向いてるの? そっちには誰もいないのに。そんな風に、思い出したように耳を振って無理に目を覚ますことはない。何も恐れることはないのに)

 戯れか本心か、自分の胸に芽生えたむず痒い想いに彼女は悪い気はしなかった。たしかに彼女にはこの猫の眠りを邪魔する気はさらさらなかった。彼がここを立ち去るまで、身動ぎひとつせずに彼を見守る心づもりでいた。

 彼女は、生まれたばかりの小さな弟妹たちに乳をやっているときの母の姿を思い出していた。目も開かぬ子らが乳を吸いやすいように片足を宙に浮かせてじっとしている姿。子供たちが乳首を離し眠りにつくまでじっとしている姿。いま、そのときの母に似た気持ちで自分はいるのかもしれない。

 彼女は邪気のない白猫の寝顔を見つめつづけた。自分の中でまたも新しい感情が芽生えてきている。その感情に、彼女は寄り添った。

(いまだけ、わたしがおまえさんの母親がわりになってあげる)

 そして同時に、彼女は、きっとあと数日もすれば本当に母親になるだろうこともわかっていた。

 その視線を察したのか、白猫は不意に目を開けた。

 雌犬は白猫を怖がらせないように目を伏せ、そっと息を詰めてじっとしていたが、彼女の腹の中の子供たちは一斉に足をばたつかせて騒ぎたてていた。ひょっとすると、猫はその気配を聞きつけたのだろうか。

(わたしのお腹には赤ちゃんがいるの)

 彼女はそう猫に言った。

 猫はあくびをして、朝の風を口いっぱいに飲み込もうとした。健康的な薄紅色の口に、黄ばみすらない真っ白い歯がつつましやかに並んでいた。

 そんなにも瑞々しい若さに出会うのは彼女は久しぶりだった。

 見渡せばこの世はいつでも新鮮な生気にあふれているものなのかもしれない。皆が子を産み、育て、世代を重ねてきて、これからもずっと重ねていく。常に死気は生気に上塗りされていくものなのだろう。

 ただ、彼女は生き生きとした生き物たちの姿を羨んだり憧れたりする暇もなく、ただ陽の出入りに急き立てられるがままに獲物を追い求め、腹を満たし、逆にこの身を餌食にせんとする死から逃げるばかりだった。そうして死気に足をとられそうになりながら今日まで時を過ごしてきてしまった感がある。

 彼女は戸口に切り取られた空を見上げた。太陽はもう軒の上にあるらしく、彼女の場所からは見えなかった。ただ、陽光に暖められた空気は存分に感じていた。白猫はといえば、日を浴びて全身を真っ白に輝かせている。ひょっとしたらいま、太陽は彼女たちのために立ち止まってくれているのかもしれないとさえ彼女は思ってしまう。太陽はこのまま無限に空の真ん中に留まりつづけ、白猫と自分と腹の子を暖めつづけてくれる。くすんだ毛並みを煌々と――彼女は赤々と、白猫は真っ白に、みじめさを露とも見せずに輝かしつづけてくれる。太陽の光は、体に流れる暗く澱んだ血を澄み切らせ、我々の瞳を生まれたての赤子のように純粋な涙で潤ませてくれる。荒んだ心から苦いだけの毒をさばさばと洗い流してくれる。

 忍んで生きる野犬らしくなく、彼女は太陽が好きになった。いままではただ在るだけだった太陽が、今朝以来、彼女の意識の上で何よりも大きく絶対的な存在となっていた。

 一日の半分が闇であるこの世界、せめて彼女が目を開いている間だけでもずっと太陽が顔を出していてくれたらと、彼女は心の裏の面に幻想を描いてみる。もしそうだったら自分もこの猫のように、たとえ傷を負おうが空腹だろうが、手入れを行き渡らせた渦巻く白い胸毛を誇りに生きていけた気がした。

 もちろん心の表の面では、彼女は現実を忘れることは決してなかった。彼女が足跡を残してきた道こそがこの先にも足跡を残していく道だということ。その道は一本きり。暗い道だ。ひび割れた彼女の心は自覚している。

 この世の為すがままに淡々と生きていくことにどれほどの飛躍があり、逸脱があるだろうか。ただじっと時間を積み重ねていくだけ、命を削っていくだけ。それこそが生きるということだと彼女は理解している。背負ってきた時間の重みに耐えられなくなり、足がもつれて倒れた場所が道の終点である。そこは老いや病などの気だるい結末であり、あるいは敵の牙や人間の振るう棒にかかったときの雷光のような瞬間であるかもしれない。いずれにせよ、結局はひとところにおさまる。終点に行き着くまでの脇道も寄り道も、思い巡らした幻想も妄想も、満ち満ちた生気もその胸に掲げた誇りすらも、枯れ葉に解けゆく屍になってしまえばまるで無に帰ってしまうのだ。

 だがいまだけは、彼女はそんな考え方を葬り去りたかった。厳寒の夜を越していま、空気緩む陽光に浴するひとときは彼女自身にも生気をあふれさせ、存分に心をここちよくしてくれた。こんな朝を無感動に淡々と過ごすことが一体誰にできようか!

 突然、雌犬は飛び起きた。足を四方に広げて踏ん張り、全身が硬直したかと思いきや痩せ細った足が狂犬のように震えだし、浮いたあばら骨が軋んで悲鳴をあげた。床に爪を突き立てるも、その場に体をこわばらせて踏ん張るには鋭さが足りず、転ばぬために幾度も床を引っ掻き回した。

 波が退いた。雌犬は最初の陣痛をやり過ごした。

(そろそろかもしれない――坊やたち)

 はっとして顔をあげると、いつの間にか白猫はいなくなっていた。

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