扉の向こう

骨太の生存術

第1話 「正」の字

     一


(麻痺だ。麻痺してきた。いいぞ。いい兆候だ。だから体が動く。でなきゃ今頃こんなところにはいられやしない。腹の中のものをぜんぶ吐き出しにいかなきゃならないものな)

 淡緑色の作業着を着た体から意識だけを切り離そうと、青江優悟は躍起になっていた。目の裏から痺れが広がっていく。そんなものすらここちよいくらいだ。視界の縁がぼやけかけ、右回りにねじれていく。だが地面は動いていない。つまり、自分の体が左に傾いていく――そんな感覚だ。単なる錯覚だ。あるいは現実に目眩を起こしているのか。

(なんでもいい。だけど、ぶざまに倒れるのだけはごめんだぜ)

(いや、倒れたってかまわないさ。ひっくり返って医務室に担ぎ込まれ、日が暮れるまで寝てやればいい)

(いっそのこと、この目詰まりしかけているマスクをむしり取って、灰まみれの重いシャベルともども後ろをついてくる山路のじいさんめがけて叩きつけてやろうか。職場放棄だ――それができたらどんなにせいせいすることか)

(山路のじいさんめ、その干し芋がさらにひからびたようなしおれたご老体を、灰のかわりにこの麻袋に詰めてやろうか。首と手足を折りたためばちょうどすっぽりってとこだろう。そのあと、裏にあるほかの麻袋と一緒に積み上げといてやるよ)

(じいさん、冗談だよ!)

 しかし、優悟の体は卒倒する気配も、妄想したとおりに気が狂ったように暴れだすほどの気の高ぶりも露とも見せず、なんの異常もきたすことなくシャベルを手に黙々と歩いていた。

 朝一番の作業を終えて昼の休憩をはさみ、午後、害虫のごとく湧き出てくる諸々の雑用をそこそこに片付け、片付けられなかった残りを放り散らかしたまま焼却室に出張ってくる頃には、彼の体はもう自動的に動くようになっているのが常だ。ただ、心の麻痺がいつ何時、何をきっかけに解けだしてしまうかは彼自身にもわからなかった。万に一つ、胃の内容物を吐き戻さないためにも、念には念を入れて毎回この作業がある日は昼飯を抜いている。妻に持たされた弁当は同僚の牧田にくれてやった。

 軍手越しにもシャベルの柄が冷たい。一方で、防塵マスクをした口元は自分の吐息で温かく、もう湿ってきている。焼却室が発する熱気がさっきからゴーグルとマスクの隙間の皮膚に触れようとする。ほとんどの感覚が麻痺していく中、生き残った感覚は逆に鋭敏となり、この体の芯から触手のようにぶらさがっていた。それが何かの拍子に周囲を感知して騒ぎ出さないようにしなくてはと注意深くなるが、それがやっかいかどうかといえばそうでもない。多少は生きた感覚を残しておかないと歩くこともままならなくなるからだ。

 天上から下りてくる見えない糸に結びつけられた両足は優悟の意思に関係なく吊り上げられ、交互に前へと送り出される。まるで操り人形のようだ。ゴム長靴の底はアスファルトの舗装を土かスポンジかのように踏みしめては沈んでいく。

 街から離れた山間に施設は建っていた。施設の前を通る一本道は、山に向かうとリサイクル工場、街の方へ少し下ると老人ホームがある。これら三つの施設が意図して並べられたかどうかは確認のしようがないが、この三者に通ずる奇妙な縁を思うたび優悟は苦笑してしまう。

 施設の裏手にまわると焼却室がある。平屋建てのこの建物の四分の一弱を占めているにもかかわらず、表からはその大きさや広さを感じさせないような配置になっているのは意図的なものだろうか。なんにせよ、来訪者の中に、焼却炉が「一号炉」、「二号炉」と二つあることに気付く者はいない。

 燃やせば煙がでる。当然二つの焼却炉にも煙突がある。しかし、その煙突も銭湯のような細く長い円筒状のものがそびえ立っているのではなく、二本の排気筒をたばねた、太く四角く背の低い柱状で、鋼板壁で覆われているもので、その高さは周囲の木々の背を越えないことはもちろん施設の屋根をわずかに越えるほどしかなく、表玄関の前に立てばその姿は見えなくなる。

 焼却炉は、以前の炉が老朽化したために数年前の本館の改装にともなって新設された。その際、煙突も最新のものに交換された。煙はフィルタで集塵され、触媒装置で清浄化される。だから、燃やしているあいだじゅう黒煙を吐くこともなければ、煙突の先端が煤けて汚れることもない。ましてや臭いを漏らすことなどない。立ちのぼる水蒸気がわずかに白くたなびき、すぐに大気に溶けてゆくのが見えるばかりである。だが、これは週に一度、多いときは二度稼働するまぎれもない焼却炉なのだ。

 表と裏。ここほどその明暗がはっきりした公営施設は、いまの世で他に例を見ない。

 動物愛護センター。

 ここはその名を冠されている。


 春の一歩手前の陽光がようやく世界を温める時分には炉の火は落とされていたが、鋼板二枚の間を冷却水が循環する水冷式焼却炉とはいえその内部で千度の炎が二時間ものあいだ燃えつづけていたために、当然のことながら、午後を過ぎても焼却室の熱はまだ去り切らないでいた。

 暗い焼却室に入っていくとき、優悟は息を止め、喉の奥で鼻孔に栓する。部屋が臭うからというわけではないが、ただそうやって可能なかぎり息を止めつづけ、朦朧としてきていよいよ視界に黒い網がかかる頃になってようやく肺から澱んだ空気をゆっくりと絞り出すのだ。全身が新鮮な酸素を欲しがっているがあえて与えてやらない。腕や足、腰の筋肉の中に地を引きずるような酸欠状態の気怠さを留めたまま、のろのろとこの作業をするのはいつものことだ。

 制御盤のランプが部屋の唯一の明かり。大型換気扇の唸りが耳に障る。壁のスイッチを軍手で太った指で弾く。換気扇が止まり、暗闇のどこからか冷却水の流れる音が聞こえてくる。

 スイッチがちがった。

 いま消してしまった換気扇のスイッチをオンにすると同時にもう一つのスイッチも弾く。換気扇が再び回りはじめる。端の黒ずんだ二本の蛍光灯が天井でちらつきはじめる。天井に届くかという銀色の巨大な箱が二つ、姿を現す。開いた戸口から吸い込まれてくる風に灰と塵が舞っていた。

 本来ならば異様なはずのこの閉鎖空間に、外の世界に普通に存在する空間──たとえば実家にあった物置小屋や学校の体育倉庫などと何ら変わらないものをこの頃は感じるようになっていた。決して慣れることはないとかつてあれほど思っていたはずなのにだ。優悟は体を硬くしてこの部屋の温かさを拒もうとした。いまだ外気の冷たさを含んでいる作業着が唯一の鎧だ。空気の温もりのために痺れが解けつつある脳に、あえて作業着に残る冷気を探して拾わせる。

(大丈夫、おれはまだ麻痺したままだ)

 炉の扉のレバーをつかんだ。ところがそれがまたほんのりと温かくここちよく、抗いがたい。迂闊だった。途端に冷気の鎧にひびが入り、襟元から、袖口から、優悟の体は熱気に蝕まれていく。

(やはり麻痺だ。麻痺させないと!)

 めいっぱい体を意識から突き放す。心に温度を悟られないように。

「早く終わらせちまおうぜ、坊や」

 山路鉄男が言った。その声は防塵マスクのせいでくぐもって聞こえた。彼が後ろ手にドアを閉めると、空気の流れが止まり、光を受けて舞っていた塵が瞬時に姿を消した。だが、ただ見えなくなっただけで、いまこの瞬間にも足や腕や顔にまとわりついていることに変わりはない。

「早いとこ一服してえんだ」

 さっき済ませたばかりだというのに、山路は早々に愚痴をこぼしていた。

 山路の痩けた頬と落ち窪んだ目には、そのマスクとゴーグルは大きすぎる。還暦という年齢以上に老けてみえる男である。彼は楊枝を使いたそうにマスクの下で歯をシーシーいわせていた。

 優悟は山路の「坊や」という呼び方に引っかかっていた。

(だからこの爺さんは嫌いなんだ。もうすぐ三十になる男に向かって坊やって、そりゃないだろう。坊や、坊や、坊や。ひどいあだ名をつけてくれたもんだよ)

 はじめてこの作業に従事した去年の春、子供の頃にもなかったほどに嗚咽にむせかえっていた優悟に、動揺を鎮めさせる言葉をかけてくれたのは他でもないこの山路だった。あのとき、ついに我慢できずに焼却室を飛び出し、飛び出したはいいが走ることもままならなくなって地面に倒れこんだ優悟を、父親が幼い子供を抱きしめるように、あるいは母親がそうするように、山路は優悟を痩せた胸に抱きしめたのだ。

 そうされたことがどうというわけではない。そのときはそれは必要だったのかもしれなかった。

 ただ、皆が見ている前でだった。失態だ。あの日以来、優悟には坊やというあだ名がつけられた。老人に悪意はない。それは山路なりの親しみを込めた呼び名なのだろう。それに彼のことを「坊や」と呼ぶのは山路の他に牧田だけだった。とはいえ、そんな呼び名が聞こえのいいはずがない。いつまでも「坊や」扱いされている気がしてならない。そのあだ名で呼ばれるたびに、羞恥心に胸の内壁がざらざらする。この作業のときにはとくに神経が逆撫でされる。

 優悟はいらいらと扉のレバーをひねった。動きの渋いレバーを力まかせにねじ伏せる。

 扉が開くと炉は空気を吸い込み、入れ替わりに灰まみれの熱風を吹き出した。炉の奥で灰がかすかな音を立てて崩れた。

 シャベルを炉の口に突っ込む。

 砂や土をすくうのとはちがい、灰は軽い。そして、コツコツとシャベルの刃先に当たるものがある。どうせならすべて燃やし尽くせればいいのにと優悟は常々思う。炉の中の、彼らの痕跡の一切をなくせれば、と。だが、そう思い通りになることはない。

 考えても無駄なことを、この作業をしているときはよく思いつく。可能性のあることや、知識と論理に根ざしたまともな思考など何一つ脳裡を過ぎることはなかった。所詮はその程度の人間なのだと優悟は頭の隅で自分を笑ってみる。

 鉄のシャベルはそれ自体が重く、ぼんやりとした麻痺状態も手伝って、軽い灰を掬い上げても腕にかかる感覚的な重さはほとんど変わらない。それにもかかわらず、不必要であると知りながら、つい手の平と腕に力がこもる。手と腕から遠い、膝までもが震えてくるほどだ。あるいはその膝の震えは単なる怖じ気なのかもしれない。

 炉の開口部の縁には無数の傷跡があった。灰を掬おうと炉の中にシャベルを突っ込もうとしたときに、シャベルの刃を誤って縁にぶつけてしまうのである。安ぼったい銀色の耐熱塗膜は腐食防止の効果があるようだが、それでもシャベルによる傷跡では塗膜が剥げ、無惨に錆を浮かせている。

 中腰に近い姿勢での作業は腰と首にふりほどけない疲労を溜めこむ。重いシャベルに悪態をつきたくもなる。とはいえ、一言も発さずに進められる作業に苛立ちのはけ口はない。いよいよやけっぱちになったとき、炉の中の灰の山にシャベルを投げ込むように勢いよく突き立てて苛立ちをぶちまける。そのとき手元が狂うのだ。

 それでも優悟がつけた傷は両手で数えられる程度だ。しかし、傷をつけた日の記憶は他の日の記憶よりも濃く残るようだ。聴覚を介して脳に刻みつけられるからだろうか。

(他の連中はどうなんだろう?)

 山路の場合は、その歳からいって視力的な衰えかもしれない。炉の口に突っ込むはずのシャベルが目測誤って炉の壁に神風特攻をしかけるのだ。

(ついに来週、定年退職だと。ご苦労さまだ)

 牧田の場合はきっと前日の酒が残っていたにちがいない。それか、くわえ煙草が目にしみたのかも。いつだってヤニが染みついたような黄色い面をしている。閉め切った焼却室で煙草をふかすことがどれだけ危険か、どんなに忠告してもやめない。

(灰で粉塵爆発なんて起きやしないよ、坊や)

 牧田はそう言うが、そんなの信用できるものかと優悟は内心憤る。巻き添えを喰うのはごめんだった。あれでもかつて大学付属病院の獣医──それも優秀な──だというから、つくづく世の中狂っている。

 ざらついた心中も、炉から引き出したシャベルに盛られたものを見ればまた虚に帰る。

 シャベルに山盛りとなった灰をいったん炉の奥に戻し、中で半分ほど振り落とす。そうすると、灰の山から突き出た白く長い大腿骨や肋骨のかけらが麻袋の口に引っかかることもなく移しやすくなる。すぐ後ろで山路が袋を広げている。優悟はそのままそっと振り返り、山路の持つ袋の中に静かに灰を落とす。それをひたすら繰り返す。静かに、静かに、灰が舞いあがらないように。

 今日で何回めだろう? 管理簿を見れば優悟がこの作業に従事した回数がわかる。自分の頭の中で数えることは二度めまでしていた。三度め、四度めは意識の上をちらついていた。五度めか六度めあたりから、作業している間のほとんどの時間は、回数のことは意識にすら上らなくなっていた。それ以降は、ただ数を重ねているという感覚だった。いましている作業に先週記憶した像が重なり、ときに来週の想像をする。いつまで経っても変化のない未来像。変化を望むべくもない。それでも毎回、ふとした拍子に思い出し、これで何度めだったかと自問する。

「替わるって言ってんだよ、坊や」

 振り返ると、山路の声が不意に耳に飛び込んできた。彼は袋の口を閉じようとしていた。袋には先週の分も入っていたために早々に満杯になったのだ。

 勢いあまってシャベルから灰がこぼれた。灰に混じった、様々な形に燃え残った限りなく白い骨片があたりに撒き散らされた。

「すみません」

「いいから、ほれ、拾え」

 山路は無造作に骨片をつまみ取り、こぼれた灰を掻き集めて新たに広げた袋の中に放り込んだ。袋と灰が擦れ、さらさらと乾いた音を立てた。

 その麻袋を渡され、優悟は役割を替わった。

 小柄な山路は胸の高さほどもある大柄なシャベルを力強く振るう。そしてやはり、シャベルに灰をのせると同時に力強さは慎重さに変貌する。慣れたものである。彼は灰を一息に袋の底に落とし込まず、袋の縁にシャベルをのせわずかずつ傾け、腕を震わせて灰を揺り落としていく。シャベルの平らな面を顎骨のかけらや椎骨が灰にまぎれて転がり落ちていく。それらひとつひとつをいちいち確認しているかのようだった。骨片についたままのまだ幼い、黄ばんですらいない犬歯はもう何も噛むことはない。それは袋に溜まった灰の上に軟着陸するが、すぐに後から降ってきた灰に覆われ、埋もれていく。

 山路がゆっくり振り返るたびに、袋の底がだんだんと浅くなっていく。

 視界の隅でシャベルが現れては震え、灰を落とし、消え、そしてまた現れ、震え、落とし、消えていく。灰で煙る袋の中を音も立てず落ちて沈んでいく骨のかけらたちを優悟は見つめていた。舞い上がりかけた粉塵もやがて袋の底に落ち着く。

 袋の中はあらゆるものが沈下しつつある空間だった。そこから這い出てくるものはなにもない。

 いきなり轟音が湧き起こった。焼却炉のただ一点からだ。

 ぶ厚い金属の静かな硬さと重さとが、途端に爆発的に凶暴に暴れ狂った瞬間だった。甲高い軋みは無数の針となっていつの間にか鎧を剥がされ、無防備になっていた優悟の頭蓋や胸、腹に真正面から突き刺さり、同時に襲い来る重く鈍い響きは臓物を内から破裂させんとした。

 だが、それは一瞬心臓の鼓動を早めただけで、突き刺さったように思えたものも何事もなく体を素通りしていった。

「すまん、すまん」

 山路が勢いよく突き出したシャベルの刃が、炉の二重鋼板にぶち当たったのである。

 轟音はとうにこの空間を去っていたが、頭の中ではまだこだましつづけていた。脳内を駆けめぐるあいだに、残響は優悟の感情を少しずつ拾い集めて、次第にある轟きに様相を変えて耳腔にいつまでも残ろうとしているかのようだった。

 それは犬たちの啼き声だった。骨と灰と空気となった犬や猫たちの最期の叫びだった。彼らは自らの存在を消そうとする悪意を察知したのだろう、恨みと恐怖と儚い一縷の希望を綯い交ぜにした叫び声を腹の底から振り絞ったのである。そう心のどこかで、優悟は信じようとしていた。


     二


 一年前のこの季節この時間にも、今日のように街を囲む山並みは赤い太陽を隠し、その際から麓までを黒々と染めていた。

 東の空の濃紺から天頂を経て西へ降りていく、劇的に変遷する色の階調は黄金色を最後にして黒い山の際でぷっつりと断ち切られる。赤子の毛髪のように細く柔らかな筋雲のはぐれものは、煌々と燃える西の空の真ん真ん中にぽつんと取り残され、しかし侘びしさも儚さも感じさせないほどにまだ届く陽光を一身に受けてひときわ強く燃えていた。やがてはその炎も燃え尽きて、筋雲は細くたなびく黒煙となってゆくのだろう。

陽は落ちゆくときだけ急いている。

 そんな確信を、かつての優悟ならば、こんな夕暮れに出くわすたびに深めていったはずだった。

 秋から晩冬にかけての夕刻の空はとくに魅力があるのだと、優悟は学生の頃に、妻になる前のゆり子に寄り添いながらよく語っていたものである。すぐ隣にいて腕に腕をからませてくるゆり子がいることさえも忘れて、刻々と色をうつろわせてゆく空を身動ぎせず魅入っていたこともあった。その頃はまだ多少は、そうしている時間を慈しむことができた。ただ、ここに越してきてからの優悟は、こうしているときに湧いてくる感情のどれをも胸の内に満たせないでいた。何かに対する愛情とも慕情ともいえない感情がみぞおちのあたりからたしかに浮かびあがってくるのだが、理性が誰何する暇もなく、本能的にただ何かを感じるのみでそれは留まることなく首の後ろあたりから抜け去ってしまう。

(どうでもいいさ、そんなもの)

 当初はそう思っていた。そんな得体の知れない感情に、説明も解釈も必要あるものかと、優悟は自分自身を納得させようとしていた。そして剥き出しの心をこれでもかと落ち日に曝す。際限なく沸々と、しかし静かに沸きたつ感情のあぶくに身を揉まれるがままにする。胸の内が満たされることはないが、それでもそんなときばかりは、束の間──時間にして十分にも満たないが──自分という人間と世界との黒い関係を払拭できた気がするのだ。

 だがいまではもう、心は裸ではいられず、常に殻で覆われるようになり、優悟はその中に籠もるようになっていた。理性による防備である。ただ、それにもかかわらず、かつてはどうにかして慈しみをもって胸に抱きしめようとしたこともある景色や出来事たちは、いつしかそれらが纏う幸福感や充実感などであるはずの柔らかな衣を棘ある鎧に着替え、ひび割れだらけの優悟の殻をめがけて体当たりをしかけてくるのである。

 優悟自身が常日頃放っている怒気と嫌悪の、本能からの叫びがすべて自らを攻撃させているのかもしれない、と考えることもあった。おのれの本能がおのれの理性を打ち破ろうと攻めたててくるのだ。その結末を優悟は恐れた。自らの怒りに蹂躙された自分の姿が、炉に流れ込んだ空気に触れて形を崩していった、灰となった者たちの姿と重なった。

(崩れるなら崩れればいいじゃないか。壊れるなら壊れればいい。望むところだ)

 その言葉は、最後の砦に生き残った、虫の息となった理性が苦しまぎれにあげた悲鳴だ。しかし、優悟はすぐさまその砦を自らの手で破壊してしまいたくなる。くだらぬ理性の残党を崩れた砦からほじくり出し、叩き潰したい思いに駆られる。この世で最も嫌悪することは高みに立ったまま青臭く自虐的でいることだったではないか。この身は彼らのようにあの炉の中に落とされ、千度の炎で焼かれることは決してない。この身はこの世界に平然と在りつづけ、妄想するほどには崩れも壊れもしないのだ。それなのに何が「望むところ」だ。

 自分自身を偽り、疑い、嫌悪し、嫌悪すること自体を嫌悪するというそんなめくるめく悪循環の中にいて、優悟はこのところ行き場を失っていた。毒を含んだ反吐なのに、吐こうとしても吐けずにいる。何度も何度もひたすら反芻し、毒を濃縮して溜め込んでいく。この一年ほどは、そのために日々、頬と心を削いできた。

 優悟は目を閉じて、網膜に焼き付いた金色の空を強引に山陰の漆黒に沈めようとした。そして、まぶたの裏が黒一色に染まるまで思考を止めた。


 築十年といったところだろうか。築年数の浅い、新婚の夫婦に好まれそうなデザインのモダンなアパートが優悟とゆり子の住処である。その使い勝手の悪いベランダに彼は立っていた。

 蓋を開けたままの全自動洗濯機から、機械音から解放された軽い水音が弾け飛んでいた。

 二人暮らしをはじめてから買い込んだものとはまた別に、ベランダには学生の頃から使ってきた洗濯機を置いている。洗濯機のモーター音は裏手の竹林をそよぐ風の音とまったく調和しないでいる。渦の中を濡れて濃い緑色となったつなぎの作業着がねじれてのたうっていた。

 今日のような作業の後は、ゆり子には洗わせず、自分で洗濯機を回している。自分の仕事のこの一面だけは妻の理解を得られることはないだろうという諦めが、優悟の足下でしっかりと根を張っている。そういった勝手な確信が今日も優悟をベランダに立たせていた。

 作業着が、水面で戯れるかわうそのように渦の中で身をよじらせている。その胸ポケットに縫いつけられたワッペンが薄く濁った水面に見え隠れする。愛らしくデフォルメされた犬と猫がお互いの肩を組み、S県立動物愛護センターのロゴに片足をかけて、およそ犬猫らしからぬ笑みを浮かべてポーズをとっている。施設のマスコットであるこの犬猫二匹の名前は聞いたそばから忘れてしまった。その後もあらためて訊ねもしていない。洗いざらしの粗雑な支給品に一点の華を咲かせようするこの刺繍を、優悟は手を突っ込んで未練なく渦に深く沈めた。

「湯冷めするよ」

 テラス窓を開けてゆり子が顔を出していた。

「蓋閉めて、放っておけば勝手にやってくれるんだから」

「めしは? すぐ、かな?」

 魚を焼く臭いが窓の隙間から漏れ出てきた。

「もう、よ」

 ゆり子は洗濯機の蓋を閉じ、優悟の肘をつかんで部屋に引き入れた。優悟は、つっかけたサンダルを脱ぎ散らして部屋に入ると、わずかに煙った暖かい部屋の空気に包まれた。

 うなじの近くで大雑把に一つに結ったゆり子の黒い後ろ髪が、贅沢を切り捨てた生活感をにじませている。それでも切れ毛も跳ね毛も目立たせず艶やかであるのは、質素な暮らしにも心を満たしてくれている証だろうか。彼女はこれでも幸福なのだろうか。かつて優悟の胸をあれほど高鳴らせたその白いうなじにさえ、いまはもう心を動かせないというのに。

 それでも、生まれもってほほえみを含んだゆり子の顔立ちには優悟はいつも感謝していた。そして彼女はその顔立ちのままにいつも笑ってくれていた。ほぼ絶えず、だ。

 丸いテーブルに並べたそれぞれ二尾ずつの鯵の干物や白飯、玉葱の香味が湯気に漂う味噌汁、てんこ盛りのサラダ菜。小鉢のきゅうりは今朝漬けていたものだ。

 「いただきます」と箸を持つ手を合わせたゆり子の顔にはやはりほほえみがあった。

 優悟も彼女にならい、手を合わせる。

 だからこそゆり子には自分の仕事を見せることはできないと、手を合わせる一息のあいだ目を閉じた優悟は胸の内を硬くした。味噌汁の湯気が顔にかかる。だが、今日のような一日の後では、彼の胸の奥にその温かい日々の幸福が浸み入る隙はなかった。 


     三


 優悟は六年制の獣医学部に在籍し、獣医師の資格を手土産にさらにその上の大学院へと進学した。

 大学五年次から六年次には数少ない選択肢から選んだ研究テーマにどっぷりとつかり、だが卒業論文は事務的な手紙をしたためるように淡々と書き上げた。優悟がやるべきことはといえば、大雑把に言えば、ある種の軽い家畜伝染性病原体が引き起こす諸症状を実験動物体において再現し、その始めから終わりまで、被検体のすみずみまで調べて漏らさず書き留めよ、ということだった。終わってみれば、思ったほどに見栄えのいい論文にはならなかった。

 大学院に進むとまずは急ぎ足で結んだ卒論の穴埋めをはじめた。そうすべきだろう、というのが教授と優悟との一致した意見だった。

 新たな研究手法を取り入れるため、数々の高価な分析機器を使いこなせるようになるのにひと月半、さらにその機器を用いた一連の作業に慣れ、正確性を付加するために費やされたひと月を経て、ようやく理想とする研究の本流に乗っていると優悟は確信を持つことができた。目を覆いたくなるほどに稚拙だった卒論が質実ともに厚みを増していく過程は、彼にもう一人前の研究者になったような気にさせた。基礎的な探求の積み重ねが次々と、独自の、新たな研究テーマのアイデアをもたらすようになったのである。

 そうなるまでにもそうなってからも変わらず、彼は研究室に寝袋を持ち込んで夜な夜な英語辞書を片手に文献を読みあさり、それに飽きたら先人の残していった無数のプレパラートを見つめる日々を送りつづけた。

 顕微鏡の明るい視野には昼も夜もなかった。闇を穿つ白色の大円、濃い桃色に染色された病変組織にさえ、日常からかけ離れた異世界の美しさを感じたものだった。腫瘍細胞、ウイルスや細菌に侵された、あるいは侵されつつある組織片。勝者と敗者、その両者の背景となる白い光円が単純明快に下された裁きをいっそう浮き彫りにする。疲れを忘れてプレパラート上の小指の先ほどの小さな異世界に夢中になるあまり、まさに夢の世界へと引き込まれてしまって接眼レンズに顔面を支えられて眠りこけてしまったこともたびたびあった。

 また、暇をみつけては研究棟に隣接する付属動物病院にいりびたり、診療の手伝いや手術の助手をしつつ、専門の病理学分野に留まらず、見識を広げることにも努めたものである。

 ともすれば専門的になりがちで視野を狭める一方の研究の世界に、当初、優悟は少なからず反発していた。自分の研究分野では雄弁にものを語れても、隣では何をしているかほとんどわからないといった研究者にはなりたくなかった。かといって街の獣医のように、広いけれど浅い知識しか持たない、肝心なところは大学病院の知識と技術と設備を借りなければならない獣医師というのも性に合わなかった。

 とはいえ、どうがんばっても自分ひとりですべての分野をカバーできるはずがないことは重々承知していた。だがそういった研究者にとって自明の理であることさえも、優悟の中では次第に疑念に変わっていったのである。

 自分には何ができるのだろうか。

 自分のしている研究は決して獣医学分野の先鋒を担うものではない。そのことへの不満は、学部生の頃の卒業論文のときにも一片たりともなかったわけではない。学部生、大学院生の身分としては当然教授の後ろを歩くしかないという根本的な問題以前に、まだ未熟で半端な知識しか持っていないのだから最前線に立てるはずもないのは当たり前のことだ。そう割り切って、そんな現状に甘んじつつも、しかしいずれは自分が獣医学という学問を引っ張っていくという野心は心中の隅に留めておいたつもりだった。

 その一方で、小さな研究が寄り集まってこそ学問としての獣医学が形づくられているということは十分に理解していた。小さな点が集合して円の中を塗りつぶしていくのである。

 教授の指導の下、自分の名前が先頭に掲げられた論文を二編書き上げたときに、優悟はようやく自分が一つの点であることを自覚した。これこそが分相応な気もしてきた。点になることは厭うほどのことではなかったと思えるようにすらなっていた。

 患畜から摘出した病変組織をもらい受けにいくことがたびたびある。それを研究室に持ち帰って固定処理ののち切片標本を作製、そして顕微鏡診断する。そして、過去の症例と照らし合わせたりして病原体を同定する。また、組織から病原だけを抽出、培養を試み、いく通りかの試験を経て病原体を同定する場合もある。病原体に新種・変種・亜種の可能性があれば、それを実験動物に皮下または静脈注射、あるいは外科的に移植し、時間をおいて経過観察する。ときにはDNA解析にかけたりもする。

 それらの実験は、頭の中で熟考した上での確信に基づいて進めていく場合もあれば、直感的にひらめいた仮説をもとに、考えるよりもまず手当たり次第に──もちろんある程度の見当はつけるのだが──実験を進めていく場合もある。前者のような手法で得られる成果は予定調和的であり、あくまでも研究者の頭蓋骨によって狭められた思考の域を出ないものがほとんどだが、思いも寄らぬ成果を得るのは後者の場合に多い。いずれの手法をとるにせよ、こういった分野の未知の領域に踏み込んでいく際には、生体実験がつきものだった。

 無作為に選び出した健康な正常体マウス、あるいは実験用に買い入れた犬、猫などに人為的に病原を取り込ませ、疾患を発症させる。発症すると、細胞、組織など各レベルから観察する。発症したからといってせっかく根付いて活き活きしている病巣を摘出したりはしない。そこから研究が始まるからだ。

 不活化するための試薬を投与することもあるが、その目的は試薬への被検体および病原体の薬物耐性・副作用を観察するのが主である。大抵の場合、試薬には副作用がある。病原を不活化するための投与量では被検体によっては過剰投与となることもあり、副作用でまったく別の器官を機能不全に陥れたりもすることがある。そして被検体は生命としての結末を迎えさせられる。

 病理学は、病気の原理を突き詰めて問うていくのが主目的である。そのためには実験動物を用いることを厭わない。病院へやってきた患畜に珍しい症例があると聞きつければ、探求心を剥き出しに──ときには胸の内に秘めさせて駆けつける。そのとき、飼い主の手前、苦しむ患畜を前に同情を垣間見せたりもするが、心の奥底では結末への全過程を追いかけたい願望に疼いている。

 それを不謹慎だと嫌悪するのはお門違いだ。それこそが研究者魂というものであり、その魂が獣医学を時々刻々と発展させ、ひいてはヒト医学への貢献へと結びついていくのだと研究者たちは信じ込んでいる。優悟もはじめの頃は、この研究が世の役に立つと信じて疑わなかった。

 ただやはり、いざ異常をきたした患部を見るとそんな自己正当化もそっちのけで、彼の前頭葉はいつも興奮物質があふれんばかりに満ち満ちるのだ。積み上げたデータを前にして、構築した仮説を本格的に検証する段になると昼夜なく頭がのぼせていたほどだ。そこに社会への貢献や献身、使命感はなかった。心底研究を楽しんでいる、ただその興奮があるだけだった。

 こぼれのないメスで鼠の腹を開く。

 小さな心臓はもう拍動していない。臓器のどれにも血を巡らせていない。だが、臓器、器官ごとに濃淡さまざまな赤系色の彩りは、そのどれもがいまだぬらぬらと光る潤いを湛えている。

 それは数十匹めかのマウスだった。それはついさっきまで、年月を重ねすぎてなんの表情も持たなくなってしまったこの部屋の中で、同じく表情をなくした優悟の手の上でひとり生き生きとひげを揺らして走り回っていた。生き生きして見えたのは、単に突然人間の手に掬われたために戸惑ったあげくの迷走だったのかもしれない。内臓の機能を壊されたその鼠はさっきまで力無くケージの隅でうずくまっていたのだ。ともかくも鼠は息を吹き返したかのように狭い手の平を行きつ戻りつし、手の縁からはるか下の床をのぞきこみ、どこかに行き場を求めていた。

 感染後発症、次いで試薬投与、そしてこの日がその鼠を観察する最終日だった。

 致死量の麻酔で生気を散らされてもう二度とそれらを掻き集めることが出来なくなった鼠は、目を閉じ、仰向けに腹を開いたまま、白いうぶ毛を血に濡らしていた。腹の皮はいくつもの鉗子につままれ、右と左に広げられている。臓器のうちいくつかはもうそこには無い。それらはすぐ横で固定処理を施されている最中である。あとは鼠を縛る鉗子をひとつずつ外していくだけだ。

 無意識のうちに生まれた習慣だった。腹を閉じる指先に、優悟はいつものように、実験のために生を終えさせられた者へのいたわりを添えていた。そんな自分の一面にはっと気付くたびに、そんな思いにばかばかしさを感じ、顔を熱くしたりもする。いちいち死んだ実験動物を憐れんでいられるかと、死骸を乱暴に真っ黒なビニール袋に突っ込み、密封する。

 廃棄物となった袋を一時保管するためのフリーザーは階下にある。優悟は袋を手に、手から手へ持ちかえたりしながら薄暗い廊下を歩いていく。鼠の体重を知りたければ、すでに電子天秤で測定済みだ。研究室に戻ってノートをめくればいい。それなのに毎度毎度この廊下を歩いているときに手で重さを量ろうとする。数グラムのちがいなどわかるはずもない。どの鼠も同じ重さに思える。そしてどの鼠も、袋越しに柔らかい。それはほとんど同じ時間をかけてフリーザーの中で硬く凍りつく。とりとめもなくそんなことを考える。

 部屋に戻ると急いでラテックス製の手袋を剥ぎ取り、手を洗った。冷たい水では石けんが泡立たない。凍みる指先の痛みがじわりと皮膚の下を這い上ってきて、心臓を鷲づかみにされる。とっさに瞬間湯沸かし器の点火ボタンを叩く。四、五回火花を散らした後、ガスに火がうつり炎が音を立てる。湯が出るまでの間、ぬるぬると手と石けんを擦り合わせ、揉む。鋭敏な指先の神経が手袋越しのうぶ毛の感触を思い出す。すべて、熱すぎる湯で洗い流す。

 解剖に用いた器具をあらかた洗い終わる頃には、湯から昇る蒸気が天井近くで滞っている。硬質な光を放っていた蛍光管が朧に揺らいでいる。窓を開け放ち、籠もった空気を逃がす。新鮮な空気が入りこんではじめて、ホルマリン臭の染みついた部屋が血生臭さでうっすらと上塗りされていたことに気付く。だがそれも、こうして窓を開け放てば血の蒸気は外界を求めて去っていくのを知っている。幾度も繰り返してきたことだ。

 大学院に籍を置き、探求の場を与えられて三年。最近もう一編の論文を加えて計三編の論文をしたためて優悟は学会においてもそれなりの評価を得ていた。教授会の期待もそれなりに肩凝りの根っこになっている。感触としては博士号もそう遠いものではない。だがその頃の優悟の心は、手の皮に刺さったまま残った小さな棘のかけらをほじくりとることに躍起になって周囲の何も目に入らなくなってしまったかのように、自分に向けられたささやかな賞賛や近く手にする栄誉などに興奮も高揚も覚えられなくなっていたのである。

 データに厚みを持たせるために同じ実験を重ねる。摘出した組織のプレパラートを無数につくる。顕微鏡越しに観察するのは鼓動打つ動物そのものではなく、用があるのは、摘出して一連の処理をした後の小さな組織のかけらたちである。あらゆる存在から隔絶されたかのような円く真っ白い顕微鏡の視野内に、それらはぽつんとある。それを視野の中央にとらえ、倍率を上げる。赤く染色された組織は、当然のことながら、誰の目にも馴染んだ生命体の体をしていない。だが、まさにそれこそが丁重に扱うべき真の研究対象であり、腹を開いたまま袋に封じ込められた死骸は廃棄物以上のものではない。

 大学入学して早々、獣医学部の学生たちは何度も解剖実習を重ねていく。半年ほど経った頃、それは誰かがはじめたことだった。

 自らが使った実験動物を「正」の字の画数で数え上げていくのである。

 同じことを優悟も密かにまねて学部生の頃から手帳につけるようになった「正」の字が、いつのまにかひと目では数えられなくなっていた。

 この日もまた、無数の「正」の字の羅列の、末尾にある書きかけの一文字に一画加えることになる。

 優悟の背後で研究棟のドアが閉まった。今日も自分が最後の居残りだったらしい。教官や院生、学生たちの「在」「不在」を示す名札はすべてひっくり返って赤一色だった。振り返るとやはり、建物の窓という窓は墨で塗りつぶされたように闇より暗い。

 向こうの街灯の下で、狛犬の頭が浮かび上がっていた。早くも冬めがけて足音高く駆けていく秋の大気の底で、人の見ぬ間に日々繊細に朱や黄に染めていく木々の葉が、慰霊碑のあるあたりで風にかきみだされてからからに乾いた音を立てている。揺れた梢が優悟を手招きしているようだった。

 獣医学部の広大なキャンパスの隅には、灯籠と狛犬の間に「畜魂碑」と銘打った御影石の石碑がたたずんでいる。死んだ患畜や実験動物を祀っているここでは、年に一度、動物実験に関与したかどうかを問わず、学生、院生、教官らが集まり一分間の黙祷を捧げるのが定例となっていた。慰霊祭の日でなくても、個々人でもこの家畜病院裏を訪れて手を合わせていく者もいる。

 優悟はといえば、慰霊祭があるときにだけ顔を出す程度だった。

 黙祷し、献花し、手を合わせても、それはやはり年に一度の単なる定例祭である。その場にいる誰にも、失われた、あるいは奪ったともいえる命に対する嘆きや哀しみ、憐れみといった感情によってその後の研究手法が変わったりすることなど起きえない。罪滅ぼしのつもりで合わせた手を解き、顔を上げ、それぞれの研究室へと散っていく。もちろんこれで、死で染めた過去が清算されたとは誰も思っていない。再び、飼育している動物たちの臭い、文献にまとわりつく黴の臭いの中に戻ると、研究と称した自己満足の世界へと皆一様に没頭していく。目を閉じていた一分間のことを誰も一言も語らないのは暗黙のルールだった。

 感傷的、感情的になることは科学の発展を滞らせる。数十の「正」の字こそが、未来に数百数千数万の命を長らえさせることになる。研究者の誰もがその観念を頭の隅に置いておくことを義務づけられる。生命倫理にうるさいヒト社会において、一個の死より十の生を優先する思想が「尊い」犠牲を生みだす行為を正当化してくれる。少なくとも、研究者はそう信じている。

 しかし、そんな論理もただの言い逃れだとする声は絶えない。生命をむやみやたらに殺戮することを研究と称しているだけだと、動物愛護論者や動物実験反対論者などは反発する。ただ、熱心すぎる研究者となるとそんな批判の声さえも耳に届かないことがある。

 前者の心情をいくらかでもなだめるため、後者に背後に築き上げてきた骸の山を認識させるために、この石碑は建てられたといえよう。

 優悟は長い時間、石碑の前に立ち尽くしていた。いつの間にか赤らみかけた東の空は、そこだけが決して明けぬ夜のように黒々とした山脈を地平に留めている。優悟が見上げた天頂ははぐれ雲一つ無く、いまだ一等星の瞬きをいくつも湛えていた。

 気付くと体が冷え切っていた。それなのにじっと立ち尽くしていたのは、体が熱を失っていくにつれて、心に纏っていた何かが一枚一枚剥がれ落ちていくように感じていたからだった。それは研究者やヒト社会の一員としての責務や体面、あるいは理性といったものだったのかもしれない。剥がれ落ちてみて気付いたが、中に守られていたものはほんのちっぽけなものだった。

 露わになったものは、「正」の字も慰霊碑も欺瞞だと蚊の鳴くような声で叫んでいた。

 なにをいまさら、と理性が大口開けて嘲笑う。

 はじめからわかりきっていたことだ。前に進むために背を向けていた。当然だ。世のためだ。許されるのだ。

 騒ぎ出した本能をねじ伏せると、優悟は手帳を開き、書きかけの「正」の字にもう一画書き足そうとした。しかしその刹那、研究者然とした頑なな意志が不意に揺らいだ。目眩を伴うほどの感覚ははじめてのことだった。それでも強引に、感覚の鈍った手で握ったボールペンを、数ミリの距離を走らせる。それはいつものように、一つの骸が一本の線にとってかわられる瞬間だ。たったいま紙の上にインクをにじませてきたペン先にキャップをかぶせると、優悟はいつもの自分に戻っていることに気付いた。達成感を感じているのだ。罪悪感を葬り去ったという感覚でもある。後ろめたさを感じずに呼吸をつづけることを許された感覚。いったん手帳を閉じてしまえば、次に開いた時には「正」の字を構成する一画以上の重みを持たなくなる。

 研究者は、未来を冷静に見据える一方で、同じ目の奥に情熱をたぎらせているものである。それゆえか彼らには、たとえ後ろを振り返ったとしても自らが歩んで踏み固めてきた道しか見えていない。道の脇の草むらに、一つでも、自らの手で掘ってやった墓があるだろうか。優悟はなかった。

 そういった感情論は科学を前にして語るべきではない。だから、普段は良心と良識ある人でさえ、科学者としてある限り、ときに感情を飲み込む。実験動物の墓を掘ることも決してない。生き物は他の生き物を踏み潰して噛み砕いて飲み込んで、未来へ進むことができる。研究者はその事実を誰より理解している。感情に走ることなく、現実に真正面から対峙しているのだ。少なくとも優悟はそう信じてきた。

 だが、それさえも欺瞞だ。

 叫び声は耳腔にいつまでも残っていた。優悟は静かにその叫びを聞いていた。それは、ならばどうあるべきかの理性的解決を片鱗たりともみせるものでは決してなかった。そのためか、その叫びは、彼の理性に対して、これまで積み重ねてきた数年間を捨てるよう説得しきれるほどの強さを持ってはいなかった。ただ、冷めつつあった研究への熱意をもうほんの少し冷たいものにするのに十分なほど力ある叫びだった。

 

 ゆり子と出会ったのはそんな頃だった。

 ある日、下宿の錆びた郵便受けに厚手のポストカードが一枚入っていた。差出人は「H大学写真部」とあった。裏を返して見ると、綿毛舞うポプラ並木のモノクロームが勢いよく、だが温かさでくるまれて優悟の目に飛び込んできた。それはH大キャンパスの中の、優悟のもっとも好きな風景だった。景色に似合う柔らかな印象の写真は、部の写真展の誘いだった。

 ポストカードタイプの印画紙を手にしていると、生臭い現像液と酢酸のすっぱい臭いがじめじめと充満した暗室を優悟に思い出させた。一年の頃だけだが、彼は写真部に所属していたのだ。

 不意の露光がフィルムも何もかもすべてを台無しにする可能性があるため、暗室のドアには鍵をかける。そうなると、誰も自分の許可無しには入り込めない空間になる。そうしておいて、引き延ばし機を操って一連の作業に没頭しはじめると、オレンジ光のランプが一個の太陽となったかのようで自分だけの世界に思えてくる。

 五時間も六時間も閉じこもり、納得がいくまで目指す画質の硬さ柔らかさを引き延ばし機の露光加減で調節する。深夜に籠もりはじめて夢中になって寝食を忘れ、気付けばもう次の日の夜がはじまっている。入部してからの優悟は無我夢中になって、そんな写真漬けの濃い日々を送っていたものだった。

 ただ、そんな生活も一年足らずで終わってしまった。

 他の部員とうまが合わないことを理由に、彼はもう部室に足を踏み入れなくなったのである。退部届けこそいまだに提出していないが、とっくに辞めたつもりでいた。


 春。

 黒潮の暖流流れる海と山の町を離れる前、家にたったひとり残ることになる父親が、入学祝いにと廉価ではあったが一眼レフのカメラを買ってくれた。口下手な父親だから、電話ではなく写真を送って日々の暮らしを聞かせてくれという意味なのだと優悟は受け止めた。事実、父はたまに撮ったものを見せてくれと言い添えた。優悟は約束した。

 漁師である優悟の父は赤黒い顔をしている。いつもまぶしげに目を細めているから、目の横に数条ある皺の溝のところだけ日焼けしていない。皮の厚い手が渡してくれた箱が思ったよりも重かったことに少し驚き、そして中身がカメラだとわかってさらに驚いたとき、父の顔の白い皺の溝がすっと日焼け顔に紛れたことを優悟は憶えている。それは小さな漁船の上でよく見ていたあのまぶしそうな顔と何ら変わるところがなかった。きっと、父はほほえんでいたのだろう。

 父に送る写真もそこそこに、優悟は主に生き物を撮った。自然のままの、俗に言う「ありのまま」の生き物を遠くから撮るのではなく、あえて生き物に近づいていき、自分という人間と正対した時の生き物たちの反応をフィルムに収めて歩くのである。たいていの動物たちは、藪を這って出てきた人間に対して何かを思い、表情や仕草にその心情を表現しようとする。カメラの露出はあらかじめ設定しておく。そして対峙した一瞬の間にピントを合わせ、シャッターを切る。次いでカメラを下ろして、目にも焼き付ける。

 写真部員の中に、優悟の作風が作為的だという者がいた。あるがままを捉えていない、ただ動物を驚かせているだけだと言うのである。だが、優悟はそういった批判などまったく意に介さなかった。

 「日常を切り取った」と気取って撮ったらしい街角や、月ごとに破るカレンダーにするのさえおこがましいほどのありきたりな風景などに、意味のあるようなないような題名をつけて得意げになっている者たちの言っていることだ、そんな輩の言い分の根拠を問いただしたり、あるがままとは何かを議論したりする気にはさらさらなれなかった。他の写真部員が抱く矮小な世界観に共感しようとは優悟ははなから考えていなかった。

 内からの批判がある一方で、一般の目にさらされると優悟の写真はうけにうけた。ただ、いつも市営ホールを貸し切っての写真部合同の展示会のため、他の部員たちのわけのわからない写真の中に自分の魂が埋もれてしまうような気がして、優悟は展示から自分の写真だけをとっぱらいたい衝動に常に駆られていたものだった。

 一度だけ、優悟は自分の写真に陰でけちつける部員たちを前に自説を広げてみせたことがある。

 反応こそがこの世の本質なのだ、と。

 押せば引き、引かれれば押す。そうして世界は動いている。シンプルな化学反応、感情という複雑な反応。一瞬で表れる反応、数万年、数十万年単位の地球規模の反応。宇宙規模となれば、数億年、数十億年かけて一つの反応が起きる。

 生命に限って考えてみれば、遺伝子を腹に収めた生命体がこの世に現れて三十数億年、その間、生命は互いに頬を張り張られして進化を遂げてきた。喰い、喰われることだけではなく、共に生きる道を選ぶ者たちも、互いを避ける者たちも、はたまた非生命体であるが優しき母であり厳しき父である地球に対しても、生命は常に外界を感じ、随時対応し、長きにわたって適応してきたのである。

 とくに、目を持ち、動く体を持つ動物が示す反応は、頭部に脳に代表される神経塊を持つだけあってすさまじく鋭敏で、実に多岐にわたる。その多岐にわたる反応こそ生き物の感情であり、ファインダー越しに優悟が狙うものだった。

 そんなものは単なる条件反射だという者もいる。それはそれで正解。さらに彼らは、心の動き、感情ではないとも言う。それは不正解だ。感情と条件反射とにどれほどのちがいがあるというのだ? 優悟はそう反論する。感情など「風が吹けば桶屋が儲かる」式に突き詰めれば、所詮はすべて条件反射だ。反応速度とプロセスの複雑さのちがいにすぎない。

 たとえば、人は恋心を持つ。その感情は複雑すぎてうまく説明できるものではないと誰もが考える。一方で、条件反射は至極明確で容易く説明できるとする。では、だから恋心という感情の動きは条件反射によるものではない──本当にそういえるのか?

 人は、許容できる範囲で、好みの条件がある程度そろっている相手に恋心を抱くものである。その選別はまさに条件反射のプロセスの第一段階といえよう。その後、そこで生まれる胸の内の説明できないもやもや──それもまた、ある条件がそろった上での一連なりの、あるいは絡み、もつれにもつれた反応・反射の縒り糸なのだ。

 そもそも、心の動きを言語で説明できるかできないかを議論するのはまるで無意味だ。小さな頭蓋骨に囚われた脳髄には知覚と表現能力に限界があるのだから、言葉での議論にもまた限界があるのは当然のことだ。たとえば、いわゆる恋心を言葉で言い表せないのは、おそらく本人が舞い上がっているからうまく説明できないだけなのだ。

 感情のシンプルさ、複雑さ、それは単に程度の差でしかない。とっさの反応も、思案した末の反応も、恋心も、総じてあるがままのリアクションに他ならない。写真が世界の一瞬を切り取る芸術ならば、動物と人類との遭遇の瞬間を撮り収めた写真がなぜ批判の対象となるのか。「ありのまま」の写真と「作為的」と評されたリアクションを収めた写真とに、芸術性に差をつけることの根拠を優悟は彼らに問うた。

(君の言いたいことはわかったよ。でもね──)

 とどのつまり、彼らは単に自分たちの写真展に異質な彼の写真が邪魔だっただけなのだ。優悟がほとんど同じことを考えたように。

 それから間もなく、父からもらったカメラは黴を生やした。自分が撮った写真を人に見せることに途端に興味を無くしたのである。記憶に留めたいものがあれば、自分の目にのみ焼き付ければ済むことだ。カメラはいらない、と。

 いまとなって優悟は苦々しく思う。自分は独りよがりで傲慢で、自信過剰の塊の恥知らずのガキだったと、当時のことを思い返すたびに恥ずかしさに顔が熱くなる。いくらか分別のつくようになった頃にはもう、あれほどむきになって宣った信念も持論もどうでもよくなっていた。所詮はその程度のことにすぎなかったのだ。いまはただ、その頃のことは早く忘れたい過去となっていた。

 

 あれから七年以上経っている。自分のところへいまさら招待状が届いたことを優悟は不思議に思った。この招待状の宛名を書いた者は、律儀にも写真部の名簿を過去に遡ってかたっぱしから送ったというのだろうか。

 とはいえ、例の一件以来、写真部からはいっさい音沙汰がなかった。これまでは過去の優悟を知るものがいて、あえて招待枠から除いていたのだろうか。つまり、いま写真部から誘いがくるということは、あの頃の自分を知っている者が――煙たがっていた者が――もう誰も部にいなくなったということになる。そう考えると、急に写真というものが身近に戻ってきた気がした。

 葉書をひっくり返して宛名を見る。柔らかく女性的な、だがいまどきの若者らしい字体で優悟の名が書かれている。再び裏を返してポプラ並木に見入る。この宛名を書いた人物がこの風景を撮ったのだろうか。そうであってほしいと優悟はふと思った。

 胸の奥に引き籠もって久しく日の下に曝されていない、人と会話し交流することを楽しめる自分の一面が、身をうち震わせて目覚めだしていた。それとともに、いままで気にかけることがなかった頬や首筋の肌の青白さを意識しはじめたのである。コートの襟でどれだけ隠せるだろうかと思い、そんなことを思う自分に顔が熱くなった。研究室以外の人間に会うのは久しぶりだった。


 招待状を見せると、彼女の黒目は凝った配置のダウンライトの光を受けてひときわ強く輝いた。

「先輩、お待ちしてました」

 軽く転がるような声が響き、凛としたホールがほのかに温もった。ゆり子は市営美術館の貸しホールにいた。

 七歳年下の彼女はまだ幼く見えた。世間のことを優悟以上に何も知らなそうなつぶらな瞳がほほえんで彼を出迎え、記帳を勧めてきた。優悟は「先輩」と呼ばれたこそばゆさをなんとか我慢し、そして直感した。この女性が自分に招待状を送ってくれたのだと。

「あ、あの──」

 急に慌てだしたゆり子の手が、カウンターの下にある鞄の中から黒表紙のフォトアルバムを取り出した。

「すみません、勝手に──でも、青江さんの写真、とても好きなんです」

 開くと、懐かしいモノクロームが散りばめられていた。優悟がかつて撮った写真たちがそこにあった。部の先輩とのくだらない喧嘩以来、彼はネガさえも部室のロッカーに置き去りにしていた。それを彼女が見つけ、保管し、アルバムにまとめておいてくれたのだ。

 驚き、目をみはる野良猫、無反応だったり過剰なまでに恐れていたりさまざま。警戒し首をもたげる兎、次の瞬間には雪穴へ飛び込んでしまった。蟷螂は瞬時に鎌を広げた。笹の藪に立ち尽くし、黒い体に埋め込んだ黒目に色無き不安の色を差しているヒグマ。それとは逆に、全身で好意を示してくる犬たち。

 狐、猿、鹿、馬、牛、鳥、虫、魚、蛇、蜥蜴、蛙──。生き物たちの持つ表情のうちの、たった一つを閉じこめている写真たち。それはまだ、見たいものを見て、危険を顧みず自由気ままに行動していた頃の優悟の足取りを辿るものであり、生き物たちと正対している時の豊かさに満ちていた心の姿が垣間見えるものだった。

 記憶の穴蔵にあった写真家然と胸を張っていた、あるいは気取っていた頃の自分の姿をたぐりよせると、その頃の自分はまるで別人に見えた。その理由をあの頃より大人になったからだと肯定的に見るには、いまのこの姿はみすぼらしすぎた。そのいじけた思いを初対面の女の子に見透かされまいとして、優悟は無表情をつくってぱたりとアルバムを閉じた。

「あの、あの、なんて言ったらいいか、勝手なことをして──」

 優悟はその先を待ったが、ゆり子はいつまでも口ごもっていた。優悟も言葉が見つからなかった。ありがとう、と言ってみる。そう言ってから、言いたかったのはその一言だと気付いた。気付くと、アルバムが温かかった。優悟が訪れるついさっきまで、彼女は優悟を待ちながらこのアルバムをめくっていたのかもしれない。

「ありがとう」

 絡む喉にひとつ咳をいれて、優悟はもう一度はっきりと言った。

 礼の言葉に救われたのか、ゆり子は堰を切ったように来客を迎える言葉をころころと転がした。

「あの、ごゆっくりどうぞ、進路はあちらからになってます、あ、それで、よろしければご覧になった後でこちらのアンケート用紙にご意見やご感想をお願いします。あっ──」

 クリップボードに挟んだアンケート用紙とボールペンを渡そうとして、ゆり子はそのペンを落とした。彼女は慌てて拾おうとしてかがみ込んだ。落ちたペンを追いかけて拾い上げる間、優悟はゆり子を見下ろすかたちになった。束ねていないセミロングの黒髪が首を境に音を立てずに二つに分かれて垂れた。細く、柔らかく、密な髪だった。白いうなじがのぞき、うぶ毛の中に小さなほくろを見つけた。

 見ていてはいけない気がした。

 顔が熱くなる前にと、ペンとクリップボードを受け取った優悟はアルバムを返して受付を立ち去った。あとから徐々に火照りだした頬の熱を感じながら、あのうなじのほくろをまたいつか見る予感がして、ますます顔を赤くさせた。頑なに戸惑いを押さえ込もうとしている心とは裏腹に、いつになく足取りは軽かった。

 展示には優悟の写真に似た作風のものがあった。ひとりの女性部員のものだった。それがゆり子の写真だった。優悟がそれをじっと見ていると、ゆり子が来て、そばに立ち、ふたりは黙って写真を見つめていた。

 ゆり子は、優悟が何か意見してくれるのを待っているようにも、そんなことを少しも期待せずにただ見てくれていることを喜んでいるようにも見えた。優悟は何も言わなかったが、写真に引き込まれていたことはたしかだった。

 ホールを後にするとき、連絡先を交換した。滑稽なまでに声が震えてしまっていた。それは彼女も同じだった。

 帰り道、この世のどんなものよりも価値あるメモを手帳に挟むついでに、優悟は小さな「正」の字をびっしり書き連ねた二枚のページを破り、丸め、投げ捨てた。


 写真を撮ることへの興味は、無数といえる組織切片の顕微鏡写真や開腹した患畜や実験動物の解剖写真ばかりを撮るうちに跡形もなく失っていたが、週末のたびに優悟はゆり子の撮影に付き合った。車を借りて広大な大地に繰り出すと、東京の都会出身のゆり子は喜んだ。

 ゆり子の撮る写真は、たしかに優悟の模倣に近かったかもしれない。彼女が自分でそう言うのだからそうなのだろう。だが、優悟の写真が緊張の糸が張りつめる殺伐とした瞬間を攻め抜いたものが多かったのに対して、ゆり子のそれは甘さが漂う。ピントや露出、構図といった基礎技術的な甘さがある。ただし、結果的にはそれらは大きな欠点とはならず、全体を見ると甘さが柔らかさを表現していたり、優しい、穏やかな時間の流れを感じさせたりもしている。

 そして彼女の写真に何より惹かれたのは、目を覚ましたばかりの動物らがレンズにはちあわせして、寝ぼけ眼でしばし思案する間を留めている点だった。優悟のように被写体の反応を待ってシャッターボタンを押し込むのではなく、ゆり子の場合、反応する寸前を撮り収めている。つまり優悟のものに比べてタイミングが早い。その瞬間のすぐ後、あるものは戸惑い、あるものは尻を向け、あるものは素にかえり、あるものは怒り、あるものは友好を示すかもしれない。ゆり子の写真からはそれはわからない。しかし言い換えれば、シャッターを切った次の瞬間に動物たちが浮かべる表情の、あらゆる可能性を想像することができる。一瞬を捉えただけの写真がその一瞬だけのものではなく、未来をも想像させる楽しみが含まれているのだ。

 一見、なんの変哲もない動物写真に見える。だが、彼女の持ち味といえる柔らかな露出や構図の妙、それらを生かすための印画紙選びなどが写真を映えさせている。そしてそれらさえも、彼女の右手人差し指から湧き出る感性の添え物にしかならないと、優悟は感心してやまない。優悟の写真には反応することという一点に凝縮された刺々しい鋭さがあったが、ゆり子のそれには柔らかな心の豊かさが幾重も折り重なっているように感じられた。観る者の勝手な想像をいとわず、自由に飛躍を許してくれるのだ。

 彼女にその意識はまるでなかった。

「優ちゃんのを真似ているだけ」

 と、ゆり子はいつも恥ずかしそうにする。そんなことはお構いなしに、彼女が優悟の撮った写真をそうしていたように、優悟は彼女が撮った写真をアルバムに収めていった。

 それぞれが持っていた相手の写真を収めたアルバムが、一つ棚に寄り添って置かれるようになるのに、ほんの一年も費やすことはなかった。ふたりはひとつ屋根の下で暮らしはじめた。

 延々つづく花畑や丘陵、広大な農地の隙間を埋めるように点在する森や林で、カメラを構えるゆり子が前を歩き、優悟がそのうしろをついていく。こんなときでなくても、いつでも見られるようになったゆり子のうなじは、陽の下でも木漏れ日の下でもやはり素朴で美しくみえた。

 ときどき、先を行くゆり子の手を取って振り返らせ、そっとゆり子の細い体を抱き寄せる。陽の匂いがゆるゆると織りこまれた黒髪は温かく、優悟はそこに顔をうずめ、唇で彼女の耳たぶを探す。するとゆり子は決まって喉の奥で笑って、弾けるように優悟から離れていく。そして照れくささを隠そうとして駆け回って被写体を探し、シャッターを切り、フィルムを巻き上げ、普段以上に頻繁にシャッターを切る。そんな彼女を、優悟は心のすべてを傾けて慈しむようになっていた。

 その一方で、研究は中断していた。ケージの中の鼠たちは日々優悟の手から餌をもらい受けていたが着々と病状は進行し、やがて片端から冷たい骸となっていった。

 ひっくり返って死んでいた最後の一匹を、いまはもう帰らなくなった下宿の裏手に埋めた。

「可哀想に──」

 土をかぶせるときふと口にしたその言葉は、優悟がこれまで最も毛嫌いしていたものだった。それは過剰なまでに人間本意のものであり、冷酷さ極まるものだと決めつけてきたはずだった。

 生き物たちは、自然界の支配者のごとく振る舞う人間たちによって実験動物として生み出されたり、あるいは食用とされたり、一方では天然記念物に指定されて保護されるものもあれば、他方で害獣・害虫として名指しされて駆除されたり、さらには増えすぎるからと断種されるかたわら、可愛いからとやたらと繁殖させられたりもする。そして、人間に関わってしまった生き物たちはその意思に関係なく様々な生の結末を迎えさせられる。受け止め方の程度の差こそあれ、人間たちは皆が皆、ヒトという種族または自分自身が世界の頂点に立っているつもりでいる。ほとんど誰も、他の生き物と同じ地上に並び立っているという感覚はない。優悟は自分も含め、そういった人間の性が嫌でならなかった。

 だがこのとき優悟の胸には、これまで嫌悪しつづけてきたはずの憐憫の情がはじめてはっきりと形をみせていた。しかし、自分に唾を吐けなかった。きっとゆり子もこんなとき同じことを思うだろうからだ。

 それが普通なのだ。それが人間というものだ。自然界の中心に立って他の生き物を憐れんでやる立場にいるのが人間という存在なのだ。そしてすべての生命の頂点に立とうと高慢で、すべての生命を我がものにしようと欲深く、なのに、すべての生命の上にいるからこそいまでもまだ二本足で立てているという自覚のない身の程知らずの存在──これが人間なのだ。

 ゆり子もきっとそうなのだろう。だが、ゆり子にも誰にも罪はない。そう結論すると、胸の中でちぢこまって疼く憐憫の塊が無形の安堵へと昇華していく。それが良いことか嫌悪すべきことかはともかく、優悟は少し、ゆり子の立つ場所に近づけた気がしていた。


 夏。優悟の父が死んだ。

 家の畳で死ぬか、船で死ぬか。

 そういった漁師仲間の間では他愛ない類の願望は、およそ半々にわかれていた。優悟の父は船上で死ぬ方だった。だが実際は海の底だった。

 解剖の結果、直接の死因は溺死だが、父はクモ膜下出血を起こしていた。それが彼を船の上で死なせなかったのである。

 時化の近づく波間にも甲板に張り付いているかのようだった父の両足も、意識が途切れればただの肉の棒だった。波がうねり、その跳ね返りで重い頭から海へ落ちていったのだろう。優悟の父は先を行く母を追っていった。

(おかあちゃんは丈夫だから長生きする)

 そう言った父の言葉を母があっけなく裏切ってから、父は十年生きたことになる。年齢的にいえば早過ぎる死ではある。それにもかかわらず、優悟は父親の死をもう少し早めてやりたかった。母の死との時間差が少なければ少ないほど良いと思っていた。

 父もきっと同じ思いだったはずだ。

 死んだおかあちゃんの分まで生きろという漁師仲間の声が父にはまったく届いていなかったことは、息子だからわかることだった。妻なしで生きつづけられるほど、優悟の父の人生に母は不必要な存在ではなかったということなのだ。

 台風が過ぎた直後のような、閑散とした漁港の朝を優悟は後にした。誰もいなくなる家や乗り手のいない船の処分を親戚や組合にすべて託し、法事には必ず帰りますと言い残して、優悟は列車に乗った。

 自分は逃げている。その通り、逃げるのだ。近しい者の死しか生まなかったこの町を逃げるのだ。

 逃げる、逃げる、逃げるんだ──優悟は胸の内でそう連呼していた。

 自分の感情に欠陥があるとは思わない。死への哀しみが他の人より早く過ぎていってしまうだけなのだ。ほんのいっときこぼす涙と鼻水は腹の底へ押し流してやる。そうしてあとは起きてしまったことを受け入れるだけ。そうするしかないのだからと割り切って。

 だが、それは間違いだった。優悟もまた、人並みの人間だったのである。

 受け入れられていないから逃げているんだという想いが一瞬脳裡を過ぎると、腹に満杯に溜まった涙がいよいよあふれはじめた。その涙が含んだ苦みに全身が悶える。乾いた唇が裂けるほどに顔をゆがませて、必死に声を漏らすまいと口を手で覆った。だが口の端から浸み入った涙の塩気を味わうと、ついに耐えきれなくなった。血がにじみ、引き結んだ唇から声を絞り出して、あたり構わず優悟は泣いた。車窓の外に見える、淡々と岩礁に白波を寄せている遠くの海が、父親を奪った海が憎かった。涙を噛み締めた。


 羽田を発つ飛行機の席に着くなり、優悟は目を閉じた。

 母親が死んだとき、優悟は父が仲間相手に言っている言葉を、ひそやかな葬式の席で聞いていた。父は、よかったよかったと言っていた。長く苦しまずに、自分の決めたように死ねたという意味なのだろう。

 母は末期の乳癌だった。気付くのが遅く、転移がいくつもの臓器に広がっていた。余命数ヶ月、一年は難しいだろう、と医者はにべもなく言いやがったと父が仲間に愚痴をこぼすの聞いたことがある。

 四十数年生きてきた時間を思えば、数ヶ月はほんの一瞬だ。母は常に気丈であることを良しとしていた。だからこそ、なのかもしれない。投薬で痛みだけは緩和できると医者に説明を受けてはいたそうだが、徐々に先細りしていく命の終わりどきを、母は自ら決めたかったのだろうと優悟は想像した。

 ある日の未明、いつもと変わらぬ様子で夫を漁に送り出し、陽が昇る頃、息子に昨晩の残り物を詰めた弁当を持たせて学校へ送り出し、鰺の尾と頭と骨が残る皿を洗い、部屋を掃除し、息子のワイシャツや塩気を洗い流した夫のセーターを干し、すべて日常の家事をこなした後、彼女は首を吊った。

 父が母を最初に見つけた。

(いま死ぬのも、ふた月後に死ぬのも、なんの変わりもないことです)

 「許してください」「幸せでした」と結ばれた、一寸の迷いのない文字で綴られた便箋の束が、かろうじて、ほんとうにかろうじて、なにもしてやれなかった二人の男を救おうとしていた。

 しかし、そうはならなかった。

 おかあちゃんの死に顔は息をしていたときよりも強く揺るぎなかったと、父は息子に言い、そして酒に酔った。優悟は母の棺の前で酔いつぶれていた父のために布団を敷いてやり、寝かしつけた。ひとしきり泣きわめいたあとらしい父は、目の周りを赤々と腫らし、頬をかぶれさせ、声はしゃがれて潰れていた。

「おかあちゃんのほっぺたにな、泣いた跡があるんだな。たったひとすじ、ふたすじだけどな。おかあちゃんな、この世にまだ未練があったのかなぁと思ってな。あの気の強いおかあちゃんがな、ひとりぼっちのちっちゃな人間に見えてな。かわいそうだったなぁ──おかあちゃんもよ、未練があったんなら踏みとどまっちまえばよかったんだよ。迷惑なんていくらでも受けてやら。金なんて借金すりゃいい。お前には大学諦めてもらわにゃならんけど。だけどよ、生きてえってこと以上に大事なことなんかあるのかよ、なあ、おい?」

 そうだね、と優悟が言うと父親は眠りについた。


 優悟がまだ小学校の低学年の頃、純血種を産むためだけに店に繋がれていたビーグルの母犬と、尻尾が曲がって売り物にならないその子犬を母が引き取ってきた。

 だが、子犬はすぐに死んだ。散歩の途中、優悟が引き綱を離してしまったために起きた交通事故だった。死骸は父の手で段ボール箱に詰められ、ごみ置き場に置かれた。母が清掃事務所に電話を入れていた。優悟はこっそり家を出てごみ置き場へ行き、箱を封じたテープを剥がして中を見た。子犬は口を開けたまま、眠っているようだった。ただ、そのよだれは赤黒い血で、箱の底にじっとりと浸みていたのを鮮明に憶えている。

 残された母犬は狂ったように昼夜無く吠えた。優悟はその吠え声を嫌った。自分が責められているようで、その母犬の吠え声が恐くてしかたがなかった。

 母犬の世話は母ひとりがするようになった。母犬の前で、母の口は常に引き結ばれて白くなっていた。母は引き取ってきたことを悔い、自分自身を責めているかのようだった。

 ほどなくして母犬も死んだ。父も母も、それっきりビーグルの母子のことを話題にしなくなった。

 普通の人々とそう大差ない人生を過ごしている、と乾き切った頭の中で優悟は思う。自分の人生に死が濃く臭うのもただ短期間に凝縮されているからそう感じられるだけにすぎず、過程はどうあれ結果としては、誰もが飼い犬を亡くし、両親を亡くすのだ。

 哀しみが無意味だとは思わない。彼らと過ごせたかもしれない未来がもう永遠に来ないことはたしかに惜しいし、哀しさにやりきれなくもなる。彼らは優悟にとって大切な存在だったからだ。

 だが彼らはもう生きてはいない。

 人はいま切り抜いたばかりのこの一瞬一瞬だけに生きているのではない。過去の出来事を顧みて、未来を予測し想像しながら、時間の流れを泳ぎ渡るように生きているのだと優悟は考える。彼らを失ったという過去の事実を理性の芯のところで真正面から受け止められれば、彼らのいない未来を想像することもでき、それもまた受け入れるように準備し、努めたりもできる。そうしてからならば、彼らなしでも果ての知れぬ時間の大海へと飛び込めるはずなのだ。

 どんな生き物も、直接的、間接的に他の生き物の死によって生を得ていることを考えれば、近しい者の死をただ哀しんでなどいられない。彼らが死んで、水と二酸化炭素といくらかの窒素へと分解されたぶんだけ、他の生き物が肥え太り、あるいは生まれることができる。そう教えてくれたのは父親だった。

 学校で習うより早く、父は自然界の仕組みを教えてくれた。漁を終えて帰路につく早朝の船の上でそれは訥々と語られ、優悟の幼い頭では自然界での循環の輪がぐるぐる回っていた。だから、母が食卓に並べた肉や魚や野菜の料理が、その輪に組み込まれるのもごくごく自然なことだった。

 地球上にあるすべての物質は地球の引力によって地表に留められている、だからこの世界の総物質量は増えも減りもしないと科学は語る。ならば、物質の一部を目に見える形として留めている生物が犇めき蠢くこの世界は、その生と死の繰り返しがなければ物質循環の流れが滞り、すべてが老いていくばかりとなってしまう。いや、生きているものも日々代謝し、新しい細胞を生む一方で古い細胞が死んでいくのだから、流れに留まれるものなど何一つない、誰ひとりいない。父も母もビーグルの母子も、大きな流れに揉まれて生まれては消え、生まれては消えする泡の、ついに弾けた一粒に過ぎないのだ。

 だが、彼らには、生きてきた意味というものがあるのだろうか。

(意味なんて――)

 優悟の中に棲む何かがその問いに答える前に、唐突に、思考が断ち切れた。

 飛行機のランディングギアが気流を乱し、揺れた機体が疲れ切った優悟を眠りから覚ました。目覚めると、死の臭いから遠ざかった感覚に理性は不謹慎にも安堵を覚えていた。ただ、体は苦みある気怠さをいまだ澱ませていた。

 窓の外を見ると、地面が近い。空港が見える。

 留守番電話に吹き込んだメッセージを聞いてくれたのだろう。ゆり子がいた。ただ彼女は、いつものほほえみと最初にかける言葉をアパートに置き忘れてきていた。

 優悟の方でもやはりいつも通りとはいかなかった。もう、世界を見据える彼の眼差しは変わっていたのだろう。

 だから、優悟はゆり子に結婚を申し入れた。それこそが、この新しい世界と折り合いをつけるための唯一の方法に思えたからだ。これまでの暮らしはできそうになかった。そうしなくては、彼の精神はやがては抑えきれなくなり、宙に霧散していってしまうかもしれなかった。

「おれと一緒になってくれるかな──つまり、結婚だよ」

 ゆり子は一瞬の驚きの後にうなづいて、硬かった表情を溶かし、弱々しく泣き出しそうなほほえみをまっすぐ優悟に向けた。

「ありがとう」

 優悟は頭を下げた。申し入れを受けてくれたことよりも、もっとも欲していたほほえみに、期待通り触れさせてくれた礼だった。だが言葉は意に反して声にならず、嗚咽に混じった。


 大学に戻ると優悟は退学願いを提出した。教授はしつこく引き留めた末、せめて就職先は世話したいと申し出た。優悟はそれも断った。

 就職先に選んだのは動物愛護センターだった。獣医師の資格があるから職種や勤務地を選り好みしなければどこにでも就職口はあるはずだった。だが彼は敢えて動物愛護センターを選んだのだ。またそこは、いまはもう取り壊された実家の、二つ隣の市にあった。帰郷する理由はとくになかったが、強いて言うなら生まれ故郷の海に近いそここそが、自分にもっともふさわしい地に思えたからだ。

 思い返せば、獣医を志したのはビーグルの子犬の死がきっかけだったように思う。子犬の亡骸が、時間を経ても一向に色褪せない記憶として脳髄に焼き付いている。ただ、そのとき獣医となって子犬を救いたかったという思いがその記憶に添えられているわけではない。段ボール箱の中の死骸と赤黒い血溜まりは、幼心にも、成長した青年期の心にも、それにいまでさえ、ただ死なせてしまった罪悪感しか感じさせなかった。しかしその罪悪感には、それを決して無視して生きてはならない強制力があった。その力が、あるいはもっと直接的に、子犬の赤黒い血の記憶が、生き物の生死に関わる獣医に優悟を力ずくで向かわせたのかもしれない。

 そしてそのとき以上に、この強制力が今度はたしかな方向性を示して優悟を急き立て、彼を動物愛護センターへと向かわせたのだろう。

 いや、要因は他にもあったかもしれない。

 大学の実習や研究を始めた頃から芽生えはじめた無意識的な心理傾向かもしれないし、「正」の字の一画を書き加えた瞬間からこうなると決まっていたのかもしれない。ゆり子に出会ったせいで生気と死気のギャップがはっきり見えてしまったからかもしれない。単に、自身の甘さと青さを隠すために、自虐的になっているだけなのかもしれない。

 あるいは、ゆり子に結婚を申し入れたあの日、空港に降り立つ直前の問いかけに対する答えが動物愛護センターにはあるのかもしれないと自分は考えているというのか。

 死の淵へと追い込まれてきた動物たちを、最終的にその淵に突き落とし、長い棒で底へと沈める役割。個々に対して有用不用の裁きを下すことなく、時が来ればガス室への扉は開かれる。それでも一握りの者たちは黒い淵から逃れ、里親の元で生きつづけられることもある。そこになんの差があるのか。

 そんな問いなど無視して生きていくこともできた。ゆり子と暮らし、いつか生まれるかもしれない子を育て、妻とその子のほほえみにくすぐられて過ごす時間を存分に味わうこともできたはずだ。そうして過ごすうちに、そんな問いかけを無視することの後ろめたさなど、いつかは日々の暮らしに埋もれていくだろう。カメラの黴をこそぎ落とし、再びフィルムを装填して、小さな家族の日々の記録を残していく。そうして生きることがこの上ない幸福に思うこともできるだろう。

 しかし優悟はもう、その問いかけを避けて生きることはできそうになかった。それを避ければ父も母もビーグルの母子も、流れに漂い、弾けた単なる泡だったと認めてしまうことになる。将来、年老いたゆり子を看取るとき、ゆり子もただの泡の一粒だったと思いたくはない。

 生きる意味とは。

 答えのない問いなのかもしれない。高慢な人間として生きている限り、決して見つからない答えなのかもしれないと恐れもする。だがすでに、自分の歩むべき道は答えを求めゆく一本のみがあるきりで、それはまっすぐつづくばかりだった。その道の真ん中にただ「愛護センター」の門があるだけなのだ。

 それだけはやめておねがい、とゆり子は懇願した。彼女は大学のパソコンから施設のサイトを検索してそこがどういう場所かを知った。

「ねえ、どうして?」

 彼女にあらためてパソコンモニタで見せつけられて、優悟は味気なく尖ったフォントを呪いつつも、「処分」という文字のさりげなさを見つめ、この上なく的を射ている字体だと思った。そう感じた刹那、やはり自分はゆり子とは異なる世界に住んでいるのだと悟った。彼女との関係はやはり終わるべきだと思った。

 救いは、ゆり子がそれ以来何も問わずについてきてくれた上に、本当に妻となってくれたことだった。彼女が理解を示したわけではない。優悟の方から理解を求めたこともなかった。ただそれでも、二人の暮らしには何ら支障をきたすことはなかった。彼女は夫を普通の勤め人として毎朝送り出してくれ、帰りを出迎えてくれた。そのおかげか、ゆり子と過ごす時間だけは、優悟はごくごく小さいながらも幸福のようなものを感じることができていた。


     四

 

 皿を洗うゆり子の背中を、台所の床に座り込んで見つめているのが優悟は好きだった。

 洗剤にまみれた皿や茶碗が、流水の中に踊るゆり子の、おそらく普通より短めの指に撫でられて洗われていく様は、見ていて飽きなかった。小刻みに揺れるゆり子の肩は生あればこその拍動だ。それは、その日一日見てきた、ぴくりとも動かずに折り重なる生き物たちの姿を留める記憶をさっぱりと洗い流してくれそうにも思えるのだ。

 ベランダの洗濯機が脱水をはじめ、部屋全体が振動しているのをなんとなしに感じながら、優悟の視線は今日もゆり子の後ろ姿に留まっていた。

「ねえ?」

 少し甘えた声だった。

「優ちゃんって、子供好きだったっけ?」

「どうだったかな。あんまり接する機会がないから」

 優悟は身構えた。ゆり子が子供の話をすることは滅多になかった。

「きっと子供好きよね。根拠はないけど、そんな感じがするもの」

「おれ、子供嫌いかもしれないよ。そんな感じがするもの」

「困る!」

 振り返ったゆり子の困惑顔は本気のものだった。

「何が困るのさ?」

 そうとぼけつつも優悟は腹をくくった。

「今日ね、たしかめてみたの。あれ、遅れてたから」

 そして彼女は一気にまくしたてた。

「妊娠検査薬。うそって思ったから、もうふたっつ買ってきて、結局三回もおんなじことしちゃった。それで全部おんなじ結果」

 言葉の最後は嬉しさに弾んでいた。ゆり子は濯いでいる皿をきゅきゅっといわせた。背後からでも、ゆり子がほほえんでいるのがわかった。

「驚いた?」

 再び振り返ったゆり子は泣いていた。

「嬉しいの」

 そう付け加えると、彼女は濡れた両手で懸命に頬を拭った。拭っても拭っても頬は濡れたままだった。それでもゆり子は濡れた手で頬を拭いつづけていた。

 優悟は立ち上がってゆり子を抱き寄せ、彼女の顔を自分の胸に押しつけた。シャツがいくらか涙を吸った。それでも彼女は涙を流しつづけた。その涙の意味は、赤ん坊が生まれる嬉しさというよりも、寂しさや我慢から解放された喜びからくるように思えた。

 ゆり子は、東京の家族から二百キロ離れて、知人すらいないこの土地に連れてこられた。唯一の話し相手は鬱ぎこんだ夫だけ。寂しかったのかもしれない。はじめてそう思い至ると、優悟は自分を恥じた。女ひとり幸福にしてやれない自分という男が情けなかった。

 そんなことが彼女への償いになるかわからなかったが、優悟はゆり子を強く抱きしめた。こんなとき、そうすることが一番適切だと思ったからなのか、それとも、抱きしめてやることしかしてやれないと思ったからなのか、どちらという答えは見つからなかった。無意識のうちについて出た言葉が本心なのかもしれない。

「ごめんな」

 髪を撫で、肩や背中をさすり、唇が触れたゆり子の耳に優悟はささやいた。

 その言葉を待っていたのだろうか。その言葉が優悟の口から発されるのを知っていたのだろうか。ゆり子は用意していたかのように「いいの」と言い、いっそう涙をしぼりだした。

 できることならおれもこの女と一緒になって喜んでいたい、と優悟は思ったが、ただおのれの惨めさだけが胸を圧していた。


     五


 翌日、優悟は仕事を休んだ。

 「風邪です、熱です」と電話口に出た山路に告げる枯れた声はもちろん風邪のためではなく、極度の緊張からくるものだった。妻が妊娠したから連れ立って病院へ行く。そんな本当の理由を言うより、「風邪」と嘘をついてしまった方が気楽だと思ったのだ。だが実際、慣れない嘘をつくことがこんなにも気の張ることだとは思いもよらなかった。しかも自分が健康であるがゆえにいっそう嘘っぽく聞こえる。それに、ゆり子に対する後ろめたさもあり、こっちの方はずっと後まで尾を引いた。

「バス、運転荒いね」

 ゆり子は不機嫌そうに言った。

「道が悪いんだよ。ぼこぼこしてるだろ、そこらじゅう掘り返してる。この時期だもの」

「ううん。いつもこんなにユラユラガタガタしないもの。ほら」

 と、赤信号で停止するバスは優悟とゆり子の頭を前に放りだそうとする。

「まあ、そうかもね。この運転手さん、血の気が多いんじゃないのかな?」

 多少荒っぽさがあるにはあるが、このくらいの揺れは何でもないようにも思える。それを気にするゆり子の方が優悟には不思議だった。

 そしてすぐにその理由がわかった。彼女はまだ膨らみもしていない腹を両手両腕で包み込んでいるのだ。

「優ちゃんだったらもっと優しく運転してくれるのに」

「なんでそう思うの?」

「血、足りなそうだもの」

 ゆり子は声を立てて笑いだした。

「誰かさんと一緒にするんじゃないよ」

 今朝のことを思い出し、優悟も一緒になって笑った。

 ゆり子は今朝、起きるなり唐突に自分の体質を心配しだしたのである。寝言を言っているのかと思ったくらい、彼女は独り言のようにぶつぶつとつぶやいていた。

 「低血圧って、お腹の子に良くないのかな」「低血圧って、遺伝するかしら?」「赤ちゃんも、お腹の中で寝ぼけてるのかしら」などなど。

 それはそれでおかしくて笑いもしたが、優悟は心中で密かに戸惑っていた。何を戸惑ったのかといえば、彼女の他愛ない心配事などではなく、もうすでに寝ても覚めても赤子の母親気分でいる彼女を目の当たりにしてもなお父親気分のかけらもない自分自身にだった。

 赤子とふたりで未知の世界へ行ってしまったゆり子を追いかけるでもなく、ただ他人事のように見送っている自分がいる。ゆり子とは夫婦であり、その赤子は我が子であるのに、彼女と肩を並べて歩けない自分に驚き、情けなかった。いち早く自分を飛び越して大人の領域へ踏み込んでいったゆり子への羨望もあった。しかし置いてけぼりにされるのももっともで、自分は夫としても父親としてもふさわしくないと、立ち尽くしてただただしょげ返るばかりで一歩も前進しようとしないのだ。

 優悟は今朝の気怠いその思いを思い出していた。いまゆり子と一緒になって笑っていたのも、もう笑い声も出ずただ頬を引きつらせているばかりだった。

 そんな人の気も知らず、ゆり子はまだくすくす笑っている。

「だって、ふふ、優ちゃん、うふふ」

 ゆり子が笑う理由も筋が通っている気がしなくもない。

 仕事以外では、優悟は何をするにも一度立ち止まって考え込んでしまう癖のようなものがある。良く言えば慎重であるということなのだ。熟考することが悪いことではないはずなのだが、そんな癖の良し悪しは時と場合によるのだろう。優悟の場合、いちいち何かと理由をつけるから言い訳がましくなり、理屈っぽくなる。理由がないと行動する意味がないのではと思ってしまうからだ。統制のとれた理性の賜物だと信じたいが、見方によっては優柔不断だととられてしまう。

 昨日の夕方がそうだったように、夕焼けを見て感じるままにいればよいのに、感じることに理由をつけたがる。ゆり子の妊娠を聞いて素直に喜べばよいのに、喜ぶ理由を探そうとする。挙げ句の果てに、ひとまずは喜んでいればよいものを、心にちょっとでも引っかかりが残っているとその理由をまず探そうとする。それからでなくては喜べる理由を探しはじめることすらできないのだ。

 困った性格だと自覚している。いま再び漏れてきた苦笑いは自分自身を嘲笑うものだ。

 写真を撮っていた頃はちがった。あの頃は本能の赴くままに足が野山に向かい、目と手の中のレンズは生き物を追った。思考が立ち止まってしまったら絶好のシャッターチャンスを逃すことになるからだ。

 理屈っぽくなったのは研究に時間のほとんどを費やすようになってしばらくしてからだろう。科学者は慎重にデータを集め、そこから結論をひねりだす。優悟はどちらかといえば地道なデータ集めの得意な、ある意味、地味な科学者だった。いまさらながらそんな自分を疎ましく思うが、当時は悪いものだとは考えなかった。

 そんな性格は自分の悪癖なのではないかと考えが変わりはじめたのは、きっとゆり子と出会った頃からだろう。こんな自分だが、この女にふさわしいかどうか。はじめにそう疑う気持ちが優悟の心中に芽生えたのだ。

 ゆり子にとっては優悟の写真が「青江優悟」という人間の第一印象だった。彼の写真は粗野で、素朴で、鋭さを秘めていた。ゆり子はそんな写真を撮る人だからきっと奇人変人、近づき難い人物を想像していたらしい。ところが後で聞いた話によると、ゆり子は憧れの写真家本人に会ってみると、想像したような写真家然とした雰囲気は目の前の男からは微塵も感じられなかったという。

 とはいえそのおかげで、ゆり子の中にあった手の届かないはずの憧れが、直に触れられる愛情に変わったのだといえなくもない。ゆり子に気に入られるかどうかといった心配は杞憂にすぎなかったのだ。

 ともかく、優悟は血が足りないのでも低血圧なのでもない。ただ、じっと考え込む時間が一秒でも二秒でもあると、はたから見ると彼だけが時間が止まってしまったかのように見えるのである。日光が体を温めてくれるまでじっと動かない春先の蝶か蛾のように。彼がそうなるのを彼女は頻繁に目にしているらしい。こういった不審な行動や発言の躊躇が、ゆり子をして血が足りなさそうと断定され、嘲笑される理由なのだろう。

 ただ、それは仕事以外の時間だけである。

 仕事中に不意に湧いてくる取り留めのない思考は、現実世界に意識が留まっている限り、すっぱりと断ち切ることにしている。とくに、処分室か焼却室にいるときは。そのときは、思考が麻痺している自分自身の姿を、念仏を唱えるように繰り返し繰り返し想像する。そんな優悟を彼女は知らない。

 ゆり子はいつの間にか笑うのをやめていた。

「運転、ほんとに荒いよ」

 彼女は、ふくれだすにはまだまだ日にちのかかる腹を両手で抱え、腹立たしげに言った。その仕草が、大人を真似て憤慨して腕組みするつもりなのに不格好にただ両腕を体に巻きつけただけの幼子のように見えて、優悟は思わず吹きだしてしまった。

 ふたりはまたくすくす笑いだした。

 ゆり子に置き去りにされたと感じていたのは気のせいだったかな、と優悟はいくらか気持ちを緩めた。ゆり子を見て等身大のゆり子という人間を感じ、優悟は優悟で等身大の自分でいられる。この小さな幸福には素直に喜べた。ただ、お互いに等身大の人間として並んで歩いていけるとしても、その先にあるものは優悟には何も見えていなかった。いまは、未知の領域の恐ろしさに臆病にも身をすくめているだけである。

 優悟にとって、父親は大きい存在だった。潮を読み、鳥山の影に目を凝らす父が舵を取る。たちどころに容貌を変えてゆく海のまっただ中で、その背中は巧みに操舵している船体と一体化し、両腕は甲板に備え付けの操縦機械と化していた。その手の平は樹皮のような柔らかさと丈夫さを兼ね備え、網にかかった魚を優しく抱きとめた。皮のぶ厚くなった指は器用で、繊細に動いては網を補修し、いざレンチを持てば上腕が盛り上がってエンジンのどんな故障も直すことができた。船の上の優悟は、黙って父親のたどたどしい話に耳を傾けた。ぽつりぽつりと紡ぎだす言葉の連なりは黒々とした藍色の大海に遜色なく、深々として広大だった。

 しかし母が死んだ後、父の何もかもが縮んだように見えてしまったことも事実だった。それでも優悟は父親を敬愛してやまなかった。

 一方で優悟は、自分という存在が大きいか小さいかもわからなかった。父親を基準にすれば、母の死にうちひしがれる弱々しく見えた姿を差し引いても、この自分など父よりはるかにちっぽけだった。優悟が知りたいのは、どれだけの心構えをしてどれだけの努力をすれば父の大きさに到達するのだろうかということだった。

(親父とはそもそもがちがうのだ。生き様もなにもかもが)

 気付くとゆり子に顔をのぞきこまれていた。視線から逃れ、優悟は窓の外に顔を向けた。赤ん坊の父親として、一家の主として、いまはあまり見られたくない顔をしているかもしれなかった。

 窓の外の軽く風吹く陽気は今朝の冷気を吹き飛ばし、思いのほか温かく、優悟の気分を穏やかにしてくれた。窓を開け放てばもっといいはずだ。

 重い窓を開け、風の柔らかさを手の平で受けてみる。この心地よさをゆり子にもわけてやろうとして優悟は体を少しずらした。

 夫の陰鬱な表情から春の風の方に興味をうつしたゆり子の横顔を、優悟はじっと見つめた。彼の心にぶら下がり重くしていた一切合切を忘れ、いまだけは妻の頬のうぶ毛を愛おしく感じていたかった。そしてその愛おしさをいくらか分けて、彼女の腹の中のまだほんの小さな赤子にも注いでやりたい。いまならそれができるような気がした。

 優悟はいま、普通であることを実感していた。そして、今後もゆり子と赤子のために、おれは普通の夫に、普通の父親になるべきなのかという思いが過ぎった。

 その答えを出すのは、いまはやめておこう。

 バスの揺れに身をまかせ、心をこのささやかな幸福をもたらしてくれているひとときにうずめようとした。

 肩を並べて座る優悟とゆり子のふたつの頭は、ぴたりと仲良く調和して揺れている。それに気付き、またおかしくて二人は笑った。路線バスは、彼らを街へと連れて行った。


     六


 病院の自動ドアを抜け出ると、優悟は空気を腹一杯に吸い込んだ。うまい、と思った。

 自分が受けるわけでもないのに、ゆり子の診察が終わるまでは緊張にがんじがらめにされていた優悟だったが、ひとたび屋外に開放されると、かごを脱出した鳥のようにひとまずまっすぐに、果てのない天上へ飛び立ちたい気分だった。

 柄ではないという思いがふと過ぎったが、ひと節、即興で鼻歌をうたってみたりもした。

 疑っていたわけではないが、ゆり子の妊娠は間違いではないことがわかった。医者と機械が保証した。優悟がかつて大学の実習でも使ったことのある超音波検査機のプローブとは異なる経膣プローブが、ゆり子の子宮の中の灰色の丸い影を探し当てたのだ。医者はその影がモニタに映し出されると、おめでとうございます、と言った。

 父親にふさわしいかどうか自問していた優悟にとって、そのなんの変哲もない丸い影が気がかりの種になって芽を吹くかといえばそうではなく、逆にそれは、優悟の心の一部分を熱く燃やした。それが喜びの感情かどうかはともかく、その熱いものがマグマのようにぶ厚い岩盤の裂け目を溶かし割り砕いてふつふつと湧き上がってきていた。そして病院の外の空気にあたるやマグマは一気に火口を穿ち、天高く噴出する。

 正午を過ぎて、春はまだだが春霞のような晴れか曇りかはっきりしない天気の中にも、優悟には、空は青く、高く見えていた。これが求めていた生活の変化なのだろうか。見える景色がすべて自分のためにあると自惚れる者の気持ちがよくわかる。大げさでなく。

 そして、心を静めて地上に降り立つと、優悟は自分自身の反応に安堵していた。普通の良き夫、良き父親であることにだ。それにくわえ、あの寡黙な父と気の強い母からこんな気分屋の一面を持つ息子が産まれたという遺伝の神秘さ、というよりおもしろおかしさを恵んでくれた天に感謝した。

 もちろん、この感情を噴き出させてゆり子の前で本当に跳ね回ったりしたら、きっとゆり子に苦笑いか大笑いされるだろうからおとなしくしていた。そして心だけは再び、真っ青に見える空へと舞い上がっていく。

 まるでゆり子と出会ったときのようだった。この瞬間からほんのしばらくの間だけは、優悟は余計な考えごとから脱出でき、新世界を一途にひた走れそうだった。「正」の字を連ねた手帳のページを破り、丸めて捨てたときのように、いまの彼には、先にそそり立つどんな壁も目に入らなかった。

 ゆり子はというと、彼女はいたって落ち着いていた。それが母親の余裕なのか、母親になるという重圧が顔をこわばらせているのかは優悟にはわからなかった。

 街の中心部に立ち寄り、優悟とゆり子、それぞれの立場がもたらす思いにとっぷり浸かりながら黙々と遅い昼飯を食べ、ふとした合間に少し幸福の色に染めた言葉を交わし合い、お互いの小さめの手と手を繋いで商店街をぶらついた。優悟もゆり子も、親となる実感を噛みしめようとしていた。一方はいまだに暢気な夢の中を舞いながら、一方はおそらく腹の中心の現実を抱いたまま。

 そんな二人のうち、歩く足に先に疲労を感じたのはゆり子の方だった。

「足がぱんぱん。運動不足よね。最近、あんまり出歩くことなかったものね。少しは鍛えなきゃ、いつか歩けなくなっちゃう」

 と、彼女は臨月の腹を抱えるような仕草をした。

 陽はまだそれほど低くはなかったが、それならと優悟はゆり子の手を引いていき、バスターミナルの五番停留所に立った。ここから出るバスはアパートのそばを通る。時刻表を見て、腕の時計を見ると、バスが来るまでにはまだ時間がある。ベンチには子連れの親子と年寄りが座っていた。西日が目を刺し、頬を焼く。二人はまぶしさに顔をしかめていた。ただ、空気は冷たく心地よかった。

 すると、さも良い案が浮かんだというように、ゆり子が優悟の腕を揺さぶった。

「ねえ、お墓参り行こうか? 行って、赤ちゃんのこと報告しようよ」

「いまから?」

 優悟は眉間に皺が入りそうになるのを堪えた。

「へいきへいき」

 ゆり子は大きくほほえんだ。

 優悟は急速に気分が冷めていった。なにも今日行かなくたっていいのにと思ってしまう。墓のことを考えると、心を呪われた鎖で縛り付けられるような思いになる。

 優悟の家は死の色が濃い。自殺した母、まともに布団の上で死ねなかった父。墓に入っているのはその二人きりだ。両親を毛嫌いするわけではない。だが、ゆり子には母親は病気で死んだとだけしか話していない。母の死後、父が常に母のそばへ行きたいと願っていたこともゆり子は知らない。墓の前に立てば、優悟は死へと急いた両親を嫌でも想ってしまう。いまはそんなところに気分を落とし込みたくなかった。

「それよりかさ、今日は晩飯も奮発して外食にしよう。そうだ、帰りに本屋で雑誌買わないか? 育児もののさ」

「報告は?」

 返答次第でゆり子は口をとがらすか、頬をふくらまそうかしている。

「いまは墓参りなんて気分じゃないんだよ。だいたいさ、いまから行ったらもう真っ暗だ。時間かかるんだよ、あそこまで」

「そう」

 ゆり子は口をとがらせも膨らませもしなかった。

「ならしかたないね。でもいつかは会いに行かないと、優ちゃんのお父さんとお母さんに。ほんとはお彼岸にも行くつもりだったのに、優ちゃんが──」

「わかってるって、おれが悪かった」

「ううん、そういう意味じゃないの。責めてるんじゃないの。ただ、気分が向いたときはちゃんと言ってね。あたしはいつでも行く用意あるから」

「ああ」

「絶対だよ」

 ゆり子は大真面目な形相で念押ししてきた。

 唐突に、優悟の脳裡に、縄から吊り下がる母の姿がちらついた。黒色の水底に沈んでいく父の姿も。そして、ゴミ置き場の段ボールの中で、血溜まりに濡れているビーグルの子犬、気の狂った母犬。魚の白濁した目。腹を切り開かれた鼠。折り重なって息絶えている犬たち、麻袋の中の猫たち──。

 どの瞬間にも、ひとかけらの幸福さえ見当たらなかった。だが、いまとなってはもう感情の差し挟まれなくなった乾いた記憶にすぎない。ずっしりとした重さだけが胸を圧し潰そうとする。理屈の通らない、意味を見出せないその重さが耐えがたかった。

 優悟は歯を食いしばってそんな思考に抗った。毎度のことだから慣れているとはいえ、ここちよいものでは決してない。ふくらはぎがつりそうなほど足は突っ張ったまま、地面に突き刺さっていた。

 いま立っている所はどこだ? そうだ、いまはバス停に立っている。隣にはゆり子がいる。ゆり子の腹の中には赤ん坊のたまごがある。そしていま問題にしているのは、墓参りに行くか否かだ。ただ、それだけだ。優悟はふくらはぎの力をゆっくりと抜いた。

「やっぱり行こう。どうせいつかは済ませなきゃならないんだから」

 落としていた視線をゆり子はぱっと跳ね上げた。眉も唇の端もまぶたも跳ね上がっていて、それが本来のゆり子の喜びの表現だった。

 優悟は昨日のゆり子を思い出した。嬉しいといって流した涙を見た。それも喜びの表現かもしれない。誰かと繋がっていることで喜びを感じられるゆり子。優悟との間に生まれる赤子でも。それが死んだ優悟の両親でも。そうでなくてはゆり子はこの地ではひとりぽっちなのだ。

 優悟は繋いだままのゆり子の手を強く引いて、バスの発着所を移動した。

「お彼岸のお花、まだどこかに売ってるかしら。お線香も。お墓の近くにある?」

「あるよ。でも、なくても別にいいだろう? 誰も文句は言わないさ」

「そうはいかないよ。ほんと無頓着なんだから」

 バスはすぐに到着し、幼い夫婦を吸い込んで、この上なく滑らかに発進した。バスは終始穏やかに走り、窓から差す西日は車内を暖め、ふたりは額を寄せ合ってうたた寝をした。

 バスの走る国道が街をはずれて海岸沿いに入ったところで、ふたりはほぼ同時に目を覚まし、あくびをし、夕凪の海を見ていた。

 ゆり子が何を思って海を見ていたかはわからない。ゆり子の故郷、東京には海らしい海はない。彼女にとって左右に広げた両腕いっぱいの海景色は物珍しいはずだった。それなのに、海が近いこの町に住むようになっても、ゆり子は海が見たいと言いだしたことはなかった。優悟の父が海で死んだと聞いたために、いつからか無邪気に海が見たいとは言えなくなっていたのかもしれない。

 さして音の良くない寺の鐘が赤い空に轟く頃、ふたりは小銭を出し合ってちょうどの金を払い、バスを降りた。

 目の前は海だった。沖の方で停泊しているタンカーが一隻、ぼんやり霞む地平の真ん中で船影をくっきり際だたせている。早朝なら蟻ほどの漁船が微かな白波を立てて幾隻も往来しているのだろうが、いまは一隻も見えない。

 父の船も、かつてはあの海にエンジン音を軽快に轟かせていた。朝のまだ暗いうちだと、船の姿こそ黒い海に溶け込んでしまっていただろうが、エンジン音だけは空に打ち放っていたはずだ。その船には優悟もよく乗ったものだ。それは母の死後にはある意味、父を監視するためでもあった。

 石段を登り詰めると、墓地からは湾が一望できる。父はそれを意図して、母のためにこの墓を建てたのだろうか。母が寂しくないように、自分と息子の姿を毎日見られるようにと。

「ほら、優ちゃんも」

 ゆり子は墓石に向けて合わせた手をそのままに、優悟に声をかけた。

 線香とライターだけは旧街道沿いのコンビニエンスストアで買えた。彼岸の売れ残りの花はしおれ気味でみすぼらしかったため、考えたすえに買わないことにした。ゆり子は、だったらタンポポを見つけて数輪摘んでいこうと言い張ったが、優悟は摘んだらすぐ枯れるからといってやめさせた。ゆり子の不満顔は見ないふりをした。

 墓には多少の雑草と、土筆が十数本ほど生えていた。玉砂利の隙間から生える土筆の健気さにふたりは微笑み、結局は雑草も残したままにしておいた。抜くにしろ残すにしろ、夏になれば猫の額ほどのスペースの墓も雑草に覆われてしまうだろう。けれどなんのことはない、その雑草も冬になれば枯れ、来春の草たちの糧となる。墓石の裏にタンポポが一輪咲いていた。優悟はそれをゆり子にほらと見せた。

 優悟も墓前に立ち、手を合わせた。何を語りかけることもなかった。

 早々に目を開けると、ゆり子はまだ手を合わせたままだった。そして、彼女が目を開けて合わせた手を解くまで、優悟はその横顔を見つめていた。ゆり子の横顔は夕日に赤々と染まり、後れ毛は海風に揺れていた。海風はいつでも潮気を含んでいるのだが、今日の風は軽く感じた。それでも唇はしょっぱくなる。

 ゆり子は生気にあふれている。だからなのか、優悟は見つめずにはいられなかった。

 夢心地でいては、ふと、何かの拍子に足下をすくわれてしまう気がしていた。しかしゆり子だけは、その小さな体はもう、地に根を伸ばしているように見えた。さっきまでの脳天気さはとっくに消え去り、再び、ゆり子と赤ん坊に置いて行かれるような焦りを感じていた。

 だが今度は、先を行くゆり子にすがりつこうとしている。追いついて、ほんの少しでもいい、ゆり子の生気をわけてもらいたいと思った。その生気でまずは死に染まった手を洗う。そしてまっさらな両手になってから、ゆり子の、自分の赤ん坊を抱き上げたい。その一心で、優悟はゆり子を祈るように見つめていた。

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