第4話 冷雨

     一


 雨音は今朝も止まない。

 雌犬は耳をそばだてて顔を起こした。小屋の戸口が切り抜いた空はいまだ灰色一色ではあったが、徐々に明るみはじめていた。しかし、彼女が求めているのは夜明けではなかった。彼女はそろえた前足に艶の失せた顎を置いた。内心ではまだ空模様を気にしていた。

 彼女はもう一度、目玉だけをくるりと転がして空を見上げた。だがやはり、雨に霞むおぼろな雲海は厚いままで切れ目などなく、太陽の気配は日増しに遠ざかるようだった。ただ、たとえその気配を感じることができたとしても、いまの彼女には日向の匂いに想いを馳せて躍らせられる心など持ち合わせていなかった。

 母犬はただ、赤子たちに暖かな陽射しをくれてやりたいだけだった。

 出の悪い乳首を空吸いする三匹の子と、そうする力すら残さず次第に鼓動を弱めていく子、そしてすでに冷たくなった子に、自分ではくれてやれない温もりをこの子らにくれてやることのできる春の太陽が憎々しい雲をぱっくりと割って現れてくるのを、途方に暮れることをもやめた彼女は身動ぎせずただ待っているのだった。


 赤子を産む前までは、彼女は雨が嫌いではなかった。雨降りは街の喧噪を静めてくれる。それはここ廃神社においてはよりいっそうのものとなる。

 雨雲は境内を暗くし、湿った陰鬱な触手を木々の梢の合間に、草間の隅々にまで這わせてくる。ねばっこい、のしかかるような重い空気が人気を遠ざけるのだろう。旧街道を往く人々は朱が剥げてなお厳然とたたずむ鳥居を見上げるが、その深奥の暗闇を畏れて足早に去っていくのである。

 雨は街から漂いくる臭いもさえぎってくれる。雨降りが長引くと、街からの雑多な臭いは境内の隅にある物置小屋に届かなくなる。臭いという臭いは、小屋に届く前に地面にはたき落とされてしまうのだ。そして、あらかた洗われた空気は雨そのものの匂いがして、彼女はそれをゆったりと目を閉じて吸い込むのが雨の日の常だった。こうしたひとときを過ごすことをこの廃神社に来てはじめて知った雌犬は、いつしか長雨を好くようになっていた。

 子を産んでから三度目の夜、乾いた土が雨滴に弾けて舞い上がった瞬間を憶えている。長雨のはじまりだった。降りはじめの埃臭さもいまとなっては遠い過去だ。彼女は湿り気を帯びた大気の底で目を閉じ、四肢を投げ出し、赤子が腹をまさぐるのに身をまかせていた。そのときは、埃臭さと入れ替わりに鼻腔を満たして喉元を過ぎていく雨水の匂いが、彼女の内面にくすぶるねっとりとした不安感をさらりと洗い流してくれもした。

 そんな清涼な心持ちになって我が子を見たとき、彼女ははっと息を呑んだ。新たな発見があったのだ。呼吸にふくらみちぢみする彼らの赤や白や黒錆の尨毛たちが、夏の終わりの頃に伸び盛っていた稲の穂先の群れに似て見えたのである。

 眠れば夢の中で、覚めれば腹の前で、我が子が我が身のすぐそばで蠢いている。それは尽きることのない幸福だった。そんな感情などかつての彼女の胸中にはかりそめにも首をもたげることはなかったものだ。世界を閉ざす雨のおかげか、幸福を信じる思いは大気に霧散せずにいつまでも彼女の心に留まっていた。 

 ただ、その雨が長引いている。しかも日ごとに雪のように冷たくなっていく。

 そんな一昨日の夜、ついに乳の出が悪くなった。

 彼女にとって空腹は特段耐え難いものではなかった。空っぽの胃袋は子らへの想いで満たされて麻痺していたからだ。とはいえ、筋肉が痩せ、肋骨が日に日に浮きだっていくのは止めようがなかった。蓄えは子を産み落とす前にとっくに尽きていたのだろう。

 赤子の一匹がついに乳の途絶えた乳首を離して啼き声をあげはじめた。母犬はその鼻を舐めてやった。気を取り直したか、赤子は再び乳首をくわえた。

 彼女はその晩、一睡もしなかった。一晩中雨音を聞いていた。

 にじみ出る程度の乳では赤子たちは満足してくれない。それでも彼らは控えめに啼くだけで、啼き疲れると眠ってしまう。彼女は赤子たちの鼻先と口吻を舐めて湿らせてやることしかできなかった。

 灰色の雲は相変わらず空に留まっていたが、雲越しの日没を見やった頃には雨足は幾分か遠ざかっていた。

 小屋の前には水溜まりがあった。それはちぎれて細々になった雨粒にいまだひっきりなしに打たれつづけて、小さな波紋を広げている。

 個々の波紋は完全な真円を成し、隣り合う波紋と交錯する。波紋の群れは何を為すことなく、水面にのせた仄かな光を際限なく揺らめかせるだけに終始し、結果として混沌へと導いていた。

 彼女は待っていた。濃い霧雨の向こうに、霞む街が街灯を残して灯りをぽつぽつと消して眠りにつく様を思い浮かべながら、彼女はさらに待とうと思った。

 乳はもう一滴も出ない。

 悶々としながら、母犬は混沌を湛える水溜まりを見つめていた。

 乳首を吸うことをあきらめた赤子たちがようやく寝息を立てはじめた。一匹だけ他のきょうだいから離れて寝ころんでいるのがいる。赤毛だった。その鼻先から弱々しく湯気を噴き出す呼吸は今宵の空気に震えているようだった。見れば自分の吐く息も、他の赤子たちの吐息も震えていた。彼女はひとりぼっちの赤毛を鼻先で転がして他の赤子たちにぴったり寄り添わせた。

 尨毛のひとかたまりにぽつぽつとある五つの黒い鼻のそこかしこから、白く濁った乳混じりの泡が微かな音を立てて弾けている。

(まだほんの少しはお乳が残っていたのかしら)

 赤子らの腹をほんの少しでも満たせてやれたことがよりいっそう彼女の決意を奮い立たせた。

(きっとおなかいっぱいにさせてあげるからね)

 てんでばらばらだった赤子らの寝息が、ふとした拍子にひとつに調和した。

 母犬はそっと立ち上がった。端にいた全身黒錆柄の一匹が啼いた。彼女は動きを止めて黒錆を見つめた。目覚めてはいない。彼は夢の中。

 皆の寝息が彼女にはか細い悲鳴に聞こえてならなかった。

 もっともっとわめくように啼いていてくれたら、痛いほどに乳首を噛んでこの身を絞りつくさんと乳房をしごくその足が、この腹の皮を蹴破らんばかりであったならどんなに心強いか。腹が減ったとわがままを言って、この皮ばかりの体に噛みついて文句のひとつでも垂れてくれていたら、いまよりどんなに心穏やかでいられたろう。我慢しなければならないときもあるの、と彼女は臆面もなく母親らしいもっともなことを言って子どもたちを諭していたことだろう。むずかる子たちを足で押さえつけたりして、彼らの腹を満たすかわりに、空腹を忘れるほど戯れてやったことだろう。

 しかし、生まれて間もない赤子らはまだ幼すぎた。

 母親となった彼女もまた、かつて幼子の頃があった。

 彼女の母親は邪険に、しかしどこか慈愛を込めて、腹が減ったと騒ぎ立てる彼女たち幼子をいなしたものだが、ただそれも幼いとはいえ彼女たちがもう走り回ることができた頃のことである。

 生まれたばかりのこの赤子らに空腹をこらえさせることができるはずもなかった。

(せめてあと数日、お乳が出てくれていたら!)

(そのほんの数日の間に、おまえたちはひとまわりもふたまわりも太り、寒風をものともしない、もっと暖かな尨毛に包まれているだろうから。ひょっとしたらその頃にはおまえたちの目は開き、耳も通じているかもしれない。もっとも、走り回れるようになるまでにはもう少しかかるかもしれないけれど。でもそれまでにはきっと雲の雨は涸れ、冷たい季節も終わっているはず。きっと、あと数日で春が来る。きっと、春の陽気はおまえたちを暖めてくれるはず!)

(それになにより、乳を出さねばならないわたしは、おまえたちが凍えてしまうという心配をせずに、晴れて陽気な春空のもと、安心して喰い物を探しに行くことができたのに!)

 だが、春が来るよりも先に乳は底をついてしまった。

 脈打つ五つの胸はあまりに小さく貧弱で、いつ拍動を止めても不思議ではなかった。そんなものは、不死の陽光や月光のように永久に在りつづけるものではない。この世のほとんどのものは永遠、不変ではないことを彼女は本能的に知っていた。乳は底をつく。心臓は死して止まる。降りだした雨はいつか止み、水溜まりの波紋は現れたそばから消えていく。

(この子たちとそこの水溜まり、おんなじね)

 雨が降り、水溜まりは脈打つ。一面に広がる無数の波紋に一見連綿とした力強い躍動を感じるが、それは単に無数のごくわずかな瞬間の集まりでしかない。波紋は勢いよく広がるが、消え際は儚い。水面はそんな不確かな息遣いに翻弄されている。混沌を湛えるだけだ。

 彼女は我が子らを見つめた。子どもたちのとくとくと揺れる胸に目を凝らした。彼らの「生」の拍動もまた、一瞬一瞬の際どい混沌の中から紡ぎ出し、繋ぎ止めているにすぎず、彼らの肉体はこの世界の縁にかろうじてすがりついているだけなのだ。

 雨が止めば波紋は消える。乳が途切れれば子供たちは鼓動を止める。

 彼女は発作的に立ち上がり、小屋を飛び出した。

 春の到来を知らせてくる者は皆無だった。冷たい大気に鼻がぴりと痺れた。草々は冷たい雨には喜ぶ素振りをちらとも見せず、虫たちとともに静かに土に縛られ、凍てついたままだった。いったいあの雪のあとの陽気はどこへ去ったのか。すべての生命が歓喜した温もりはどこに隠されてしまったのか! 彼女は憤然として鼻をひとつ強く鳴らした。

 小屋の前に広がる、飛び越えるには大きすぎる水溜まりに、音を立てぬよう彼女は一足ずつ入っていった。すると、水中に差し込んだ四本の足のそれぞれから放たれた波紋が、すべての雨粒の波紋を瞬く間に飲み込んだ。水底はぬかるんでおり、爪先は深く柔らかい泥に沈んだ。底の泥は雪のように冷たかった。静かに足を引き抜くと、彼女はもう躊躇せずに前へと足を踏み出していった。

 霧雨が背の赤毛に降りかかってくる。耳先とまぶたと鼻に細かな雨滴がまとわりついてむずがゆくなる。

 腹に並ぶ乳首は歯のない顎の感触をいまだ残していた。五つの吐息と鼓動を、小さな体から発する熱を腹の皮が憶えていた。しかし実感としての温もりはあっという間に大気中に去ってしまっていた。

 得体の知れない胸騒ぎは赤子らの温もりを失ったその瞬間からはじまっていた。

 飢えた我が子らを残しておのれの喰い物を求め行くことへの後ろめたさなのだろうか。しかし、何としてでも喰い物を腹におさめなくてはならなかった。それは乳を出すためだ。彼女はそう自分に言い聞かせた。

 そのとき彼女はふと気付いた。その動揺は、子らを置き去りにすることから生まれてきたのではなく、我が子からほんのひとときでも離れたくないという彼女自身の母親らしからぬ幼稚さが生んだものだったのかもしれない、と。

 水溜まりの中で踵を返し、彼女は小屋を振り返った。雨漏りに濡れた床の向こうに尨毛のひとかたまりが静かにふくらみ、ちぢみしていた。誰かが一声でも母親を求めて啼いたら、彼女は一目散に彼らに駆け寄って、腹と足の間に皆を集めて暖めてやろうと思った。無意味と知りながらも、乳を出さない乳首を彼らの鼻先に押しつけてやるつもりですらいた。

 だが、赤子らは胸を深々と上下させて眠っていた。眠りながらぐずぐずになった鼻をくしゃみさせる子もいた。彼らは母親がそばにいないことに気付いていなかった。

(そのまま眠ってなさい)

 我が子のもとへと駆け寄りたい衝動を、母親は赤子らの口吻の感触残る腹のもっと深いところで抑え込んだ。そうすることで彼女は水溜まりの真ん中に踏みとどまれた。覚悟の根っこに揺らぎがないことをたしかめると、彼女は濡れた石畳を足早に過ぎ、境内を後にした。

 のろまな獲物、人間の残飯、何でもいい、腹に詰めこむのだ。思う存分腹を満たしたら、いや、存分に満たせずともすぐに戻ってくればよいのだ。彼らが眠っているうちに。彼らが凍えないうちに。


     二


 夜はまだ明け切らない。

 一睡もせず雨を降らせつづけて夜を越した雲は、紫紺の海からほんの少し藍色を吸い上げて溶かし込み、その姿を重たく見せている。そんな雲を密な雨に煙る大気が海上でやっと支えていた。

 細雨は海岸沿いの道路に立ち並ぶそれぞれの街灯光の下できらめきながら海風に吹かれてのたうち回っている。その雨の踊る様を見つめている一頭の犬が、かつての大波にえぐられた砂丘の頂にぼんやりと立っていた。

 犬の虚ろな目は、しかし、忙しない雨粒に心を留めているのではなかった。眼差しにはなんの感情もない。落胆ともちがう。彼女の視線がさまよい、留まった先は、陽が顔を出しつつあるはずの東の空だった。そこにはなにもなかった。水平線よりずっと手前にあるはずの東の沖合の半島さえ、雨霞にさえぎられて見えなかった。

 いつだったか、晴れた日の夜、星降る夜、半島の姿は空よりも黒々として彼方の海に浮かび、その突端から発する灯台の光がどの星の光よりも強く目の奥を打ったのを、彼女はくっきりとした重みのある潮の匂いと合わせて憶えていた。だがいまは、鈍い潮の香りこそすれど半島は見えない。半島や灯台の情景は夢の中のものだったのかも、と彼女は自身の記憶を疑いもした。はっきりと目の裏に浮かんでいた光景がたったいま霞みはじめ、しまいには崩れてしまった。そして、その崩れ落ちて粉々になった記憶は、新鮮な記憶の中に塗りこめられていった。雨混じりの潮の香り、そして、青みがかった灰色の空、黒い海、白い波頭。彼女の心を硬くしていくばかりの風景たちにである。

 睫毛をかいくぐってきた霧雨が彼女の瞳をつっついた。

 彼女はまぶたを閉じて、開いた。その瞳はまたも霧雨が舞う宙を漂いだした。白い頬ひげの一本に霧の粒が吸い付いては、ゆるやかな弧を描くひげの先の方へ流れくだっていく。そうしていくつもの粒は抱き合ってひとつの玉となり、やがて雫はひげの先端から滴り落ちる。そういったことが、固く結んだ口吻のそこかしこのひげの上で起きていた。ひげは重い雫を落とすたびに反動で跳ね上がった。彼女はようやく口元にむずがゆさを覚え、頭を振って雫を払うと、のっそりと波打ち際を歩きだした。

 黒く濡れた砂を蹴って歩く。帰らねばという想いが、さっきから心の隅にぽつりと灯っている。いまや四つの爪先は砂地を引きずるようになっていた。小屋を出るときの決意はどこへ行ってしまったのか。いまあるのは、ずいぶんと遠いところまで来てしまったという後悔だった。子供たちと離れた距離のぶんだけ心に灯った明かりは遠くに思え、仄暗かった。それは、いまにも消え入りそうだった。

 しかし、それなのに彼女は気力を奮い立たせて体を我が子のもとへと突き動かすことがどうしてもできずにいた。

 腹の中は舐めた水と仕方なしに食んだ草の葉でここちわるかった。ずぶ濡れた鼠はそこかしこで見かけたが追うことができなかった。人間の喰い残しにも巡りあえなかった。彼女は立ち止まると、胃液の泡が混じった、さっき喰った草を吐いた。

 砂浜をまっすぐに歩いてきたつもりだったが、振り返ってみると、後ろに残してきた足跡は砂浜に浸み込んで黒ずむ波の端のようにのたうっていた。所々はすでに寄せた波に掻き消されていた。

 当然、乳房の張る気配はなかった。自分が赤子らの母親であることが信じられなくなる。朦朧とする意識のために、彼女はその疑念を振り払う気力さえ起こせないでいた。

 これまでのことは夢の中の出来事だったのではないだろうか。彼女の人生において、我が子がいるということの幸福感などは自分の生き様には似合わないものなのだという気がしてならない。このように腹を空かせて歩き、腹を満たすために歩くことが長い間つづけてきた彼女の生活であり、足をびたと地に着けた現実感のある本来の生活だった。そしていまこの瞬間こそが紛うことない現実だと感じていた。生ぬるい高揚感と不安感がない交ぜになっていたあの物置小屋の中での数日間は、いまやこの雨空のように靄がかかってはっきり見えなくなっていた。

 だが、そのときの幸福感が現実のものと思えなくなっていても、また実際この体が母親として機能していなくても、曖昧で不確かなものではあるが、ときおり甦ってくる赤子らの蠢きやこそばゆさの感触がわずかでも腹の皮が記憶しているためか、彼女は自分が母親であるという意識をかろうじて繋ぎとめておくことができた。

(この足はあの子たちのために動かすのだ。あの子たちのためにこの腹を満たさなくては。あの子たちのところへ帰らなくては!)

 赤子らの姿が脳裏を過ぎった。皆、凍えて震えていた。自然と足の運びが速まり、母犬は駆け足になった。

 道すがら、打ち上げられた魚の死骸にありつけた。

 濃い潮の匂いに混じった腐臭に駆け寄ると、死骸に群がる蟹たちに荒々しく鼻息を吹きかけて追い払い、彼女は一散に死骸を貪り喰った。蟹にかじられて身は半分も残っていなかったが、魚の図体は十分に大きく、水や草よりはるかにましな獲物だった。砂粒も構わず一緒くたにして喰った。砂の陰からこちらをうかがう蟹の姿が目の隅に映った。彼女はうなり声を上げた。それでも退かない蟹を彼女は蹴散らそうと邪魔者を追いかけまわした。喉が死骸の肉に浸みた塩気で焼けた。だが、そんなことには構わずうなり声を絞り出した。そして肉を飲み込み、喉に張り付く鱗を唾液で飲み下すと彼女は猛然と走り出した。途端に、硬い骨だけとなった死骸に再び蟹が群がった。


     三


 たかが水溜まりといえど、彼には決して渡れぬ大海だった。

 彼はそのひしゃげた四つ足に意志の力が届かなくなるまで、母親の残した泥底の足跡を追って小さな爪で掻き進んでいった。しかし、たとえ彼の意志がその全身全霊をもって母親を求めるものであっても、その強固な意志を受け止めるにはやはりその体はまだ小さく、この世界をおのれの足で歩み出すには幼すぎたのである。

 揺れる水面の真ん中で、口吻の一部を除いてほぼ全身を沈めて横たわっていたのは、いまとなっては砂泥がまとわりついて汚れているが、母親の胸毛を譲り受けたかのような白毛を全身に湛えた、誰より早く産まれた最初の赤子だった。

 ふさりとしていた被毛は水の中でも柔らかに見えた。まだ開かないまぶためがけて雨粒がやたらと打っていても、彼は少しも嫌がる素振りを見せなかった。虚ろに開いた口吻はその奥の方まで水と波紋が浸入していた。

 ぴったり閉じたままのまぶたをのぞいて、鼻や口、耳──穴という穴へ否応なく責めくる水に、もがき、泥底を引っ掻き、それでも彼は退くことはなかった。

 しかし、彼はまだ幼く、世界のことを何も知らなかった。恐れも知らなかった。

 浅い水底であればきっとそのまま這い進むことができたかもしれない。だが、進めば進むほど水溜まりの深さは増していくばかりだった。柔らかな泥底ではすぐに爪の先すらも引っかからなくなった。赤子の小さな足はその場所から先の泥底に足跡を残せなかった。流れ込む水が細い喉を塞いだために声をあげて母親を呼ぶこともできなかった。やがてすべてを諦めると、守るべき何かが腹の前にあるかのように彼は背を丸めた。その何かを抱え込んだような格好が彼の最期の姿だった。


     四


 水面に生まれゆく無数の波紋は、一瞬ののちにことごとく消え去っていく。

 その波紋が幾重にも交錯しつつ白毛の子を取り囲み、容赦なく責め立てていた。だがその水面は、敵意はもちろんいかなる感情をも映し出すことはない。まったくの無表情。白毛はといえば、強いていうなら穏やかな寝顔に見えた。そのためか、子の母親は感情の行き場を見失ったまま、ただ我が子の姿を見下ろすばかりだった。

 白毛の小さな鼻の穴からあぶくが漏れ出てきて水面で弾けるのを見て、ようやく母親は子が死んだことを認めた。

 彼女はこの子の母親でいられた頃の過去の糸──ほんの短い糸をひとすじ、そろそろとたぐり寄せてみた。

 行く手をさえぎる他のきょうだいの体を掻き分け、強引に、がむしゃらに乳首に吸い付いてきたこの白毛の赤子を彼女は頼もしく思ったものだった。だが、誰よりも強く母を求める負けん気の強い性格は、見方を変えれば、母親から離れることを誰よりも寂しがる弱さだったのかもしれない。彼女はそんなふうに想いを巡らすと、口吻を水溜まりに差し入れて濡れそぼった赤子をそっとくわえた。

 湿ってもなお柔らかい被毛と瑞々しくたるんだ皮膚とは対照的に、その皮の下の肉は冷たく硬くなっていた。ただ、その冷たさと硬さに似合わず思いのほか赤子の体は小さく軽かった。ひからびた乳首から走った疼きが彼女の胸をひと突きした。

 赤子をくわえあげると水溜まりの底の泥がふわりと、まるで生き物が身をよじるように舞い上がった。刹那、彼女は狼狽えた。舞い上がった泥の煙こそが我が子そのもので、このくわえているものはただの抜け殻であるかのように思えたのだ。

 この期に及んで我が子をこの泥の底から掬い上げてやることさえもできないのか、それとも赤子の方がこの母親を拒んだのだろうか。彼女は全身を固く引き絞って胸を突く痛みに耐えた。だが、そんな痛みも、この赤子の小さな体が飛び込んでいった苦しみの深さには到底たどり着けないだろうことはわかっている。その差は決して埋められない。水中に揺らぐ泥の煙を見つめ、はるか遠くに隔たってしまった我が子との距離を思うや、唐突に体は弛緩し、ゆるんだ隙間に悲しみが襲いかかった。

 震える足から幾重もの大きな波紋が放たれると、それはいままた強く降りだした雨滴が織りなす波紋をも圧倒し、破壊し、我が子を殺した混沌ごと彼女の悲しみの深奥へ巻き込んでいこうとするかのようだった。やがて水中に立ち昇った泥の煙幕は形を崩して消えた。そうしてようやく彼女は、我が子がこの小さな骸に戻ってきたように思うことができた。

 白毛の子の体をくわえたまま小屋に入ると、残る赤子たちの三匹は固まって眠っていたが、もう一匹、茶斑の子は彼らから離れたところに転がっていた。

 彼女は三匹のそばに冷たくなった白毛を降ろし、茶斑の首筋を軽く噛んでそばに引き寄せた。茶斑はなにやらうめいたようだったが、その声は母犬の爪と床とが擦れあう音に掻き消されるほど微かなものだった。小さな体が冷たくなっていた。

 母犬は床に横たわると、茶斑を腹の一番温かな場所へ埋めてやった。茶斑の呼吸が止まりそうになるたびに、鼻で脇腹を小突いてやり、舌で小さな胸や腹を撫でさすった。しかしいくら手を尽くせども、母親に返事をしようと懸命に開いた茶斑の喉からは、わずかも彼女に希望をもたせる声は出てこなかった。それでも母犬は諦めなかった。

 そうする一方で彼女は、濡れそぼった白毛の子の弾力を失った体を舐めてやりもした。だが、汚れた被毛はいつまでも冷たく湿ったままだった。

 ほんの数日前、白毛は我先にと産道を進み、一番最初に彼女の中から這い出てきた。いよいよその姿を現したとき白毛は、初産のために戸惑い狼狽えた彼女に母として何をすべきかをその身をもって悟らせてくれた。彼女が袋を噛み破ってやると白毛は床に転げ出てきて、喧しいほどに啼いた。

 そうして彼女は母親になった。白毛の子を一目見て、赤ん坊を産む興奮で占められていた胸にぽつと芽が吹いたかと思えば瞬時に花開き、ここちよさが全身を満たしていったのを彼女は憶えている。いても立ってもいられず、弾け飛びそうなほどに全身が息苦しくなったものである。

(わたしは心のおもむくままにおまえを舐めてやったね。だが、なぜいままた、おまえはこうして生まれたてのように濡れそぼっているの? なぜこんなにも息苦しく、胸が潰れるような心持ちになりながら、わたしはおまえを舐めてやっているの? え、おまえ?)


 いまだに出の悪い乳に一度は諦めて寝入った三匹は、雨雲のはるか向こうにあった太陽の去る気配を感じたのか、目覚めてもぞもぞと動きだし、啼き、這って母親の乳首にかじりついた。乳首からは彼らの口吻を潤す程度に乳がにじみ出てきた。ただ、乳房はすぐにしなびた。まだ出るんじゃないか、もう出ないのかと三匹が一斉に細い悲鳴をあげはじめた。小さな爪で母親の腹を引っ掻きまわすのだが、彼らの声は母親に届いていなかった。

 母親はじっと身を固くしていた。

 最初に生まれた白毛と、三番目に生まれた白地に茶斑の子。呼吸を止めた赤子が二匹、他の三匹に蹴散らされて床に転がっている。

 水溜まりに溺れた白毛が濡れているのはともかく、彼女が見守る中で心臓の拍動を失っていった茶斑の尨毛も、空気中の湿り気を次第に吸い込み、毛並みは伏せていった。すべての毛が倒れきる頃には、茶斑の子は冷たく、硬くなっていた。最期のひと呼吸に喉の奥から、く、くと残った生気の断片を絞り出してふっと床に沈むようにしぼんだ茶斑の胸を、彼女は鼻でひとつふたつ突いて、もう動かないことをたしかめた。彼の閉じたまぶたからにじんだ水滴が薄闇の中で光っていることに目を留めると彼女は赤子の目元を舌で舐めた。

 彼女は首をもたげ、もう動かない二匹をあらためて見やった。

 やはりもう、単純な哀しみは彼女の心を訪れなかった。

 いま一度、彼女は彼らを自分の胸と喉の柔らかく暖かな場所へうずめてやった。

 彼らは啼きもうめきもせず、他の子らのように母親の腹を蹴って文句を言うことももはやなかった。放っておけば枯葉のように朽ち果てていくだけである。森に残してきた雄犬の亡骸がそうだった。

 ふた月前、緑深かった森の木々が冬枯れた落ち葉にその足先をうずめる頃、差し込む小春の陽射しが雄犬の死骸にも降り注ぐようになった。冬の間、雪こそ降らなかったが、みぞれ混じりの雨に濡れるとその夜のうちに死骸は凍った。それでも鼻の利く野犬や鼠はやってきた。そのたびに彼女は骸を貪ろうとする者どもを追い払い雄犬の亡骸を守った。

 やがて骸は枯葉に埋没した。他の獣に雄犬が喰われることには彼女は抗ったが、枯葉のように、土にしみこむように痩せ、朽ち果てていくことに対しては無力だった。そのことを悟ると、彼女は雄犬を残して森を去った。

 いままた、目の前に骸がある。二つ。その生は冷雨に奪われてしまった。

 これまですべての理不尽を物言わずただ飲み下してきた彼女だが、いまのこのやりきれなさはとくに苦く、とげとげしく、口中に余してしまっている。なんとか飲み下した苦みもまた胃の腑に落ち込む途中で、その無数の棘が胸に走った亀裂から一斉にあふれてくるようだった。死んだ赤子がその鋭い棘となってこの胸を貫き、その傷を広げて割り裂こうとしているように思わずにはいられなかった。

 ざんざんと強く屋根を叩く雨音が耳朶を打って、どうにかして痛みに堪えようとする彼女の心を乱さんとしていた。

 堪えなくていいのだ、と彼女は思うことにした。この体を貫こうとしているのは敵ではない。我が子なのだから。

 彼らを育てるのが彼女の役目のはずだった。乳を思う存分吸わせてやり、目が開いたなら、耳が通じたなら、この世界を見せてやり、聴かせてやり、安楽と危険を教え、やがては生きるための狩りを教えるはずだった。

 しかし、彼女は母親として彼らに何もしてやれなかった。彼らはまだこの世界で生きていない。両の瞳は開かずじまい、体は垢にまみれるひまもなかった。

 彼らを置き去りにしてしまった。もっと早く戻っていればという後悔が、驟雨を思わせる雨の轟音とともに痩せて薄っぺらな彼女の胸に押し寄せてきて圧倒した。ただ、赤子らが死境を踏み越えるより早く帰り着いたところで、彼女は喰い物を何も喰えないままだったはずで、ゆえに彼らは飢えたままだったろう。

 それでもよかったのだろうか。それでも彼らは、みな等しく生きつづけられただろうか。

 後悔がまるで無意味である世界を彼女は生きてきた。いまを生き、明日へ残ることができたのは、顧みる過去を残してこなかったからこそだった。過去の瞬間の善し悪しは体と頭に刻まれ、いまこの瞬間の行動の規範となりうるが、顧みて何かを思い抱いたところで腹を満たせるものではない。本能が選んできた道は常に正しく、単純にたどりさえすれば間違いのないものなのだ。悩み迷うばかりの理性など本能の添え物にすぎないのは重々承知している。たびたび惑うときこそあれど、彼女は本能に従って生きてきたつもりである。だからこそいままで生きてこられたのだ。

 だがいま、彼女を立ち止まらせているものがある。彼らを置き去りにしたことがあやまちだったのではないかという後悔がそれである。彼女はおのれのその感情に戸惑い、縛られてしまっていた。白毛と茶斑の骸が目に見えない棘に変わり、彼女はなすがままに突き刺されている。痛みは激しく熱く、骨の髄まで焼き焦がすかのようだった。本能が警告を発していた。

 それでも彼女は本能に逆らい、なすがままに受け入れた。

(このままでいい――)

 しばらくして苦みが口中になじむと、それは柔らかな粘液に包まれてすんなりと胃の腑に落ちていった。

 これは喜びなのかもしれない、と彼女はふと真逆のことを思った。

 こんな状況でなければあり得なかった。我が子の存在をこんなに奥深いところで感じることができるのは。

(愛おしい子たち。わたしから生まれた子たち。冷たくなってしまって、永遠にまぶたが開くことのないおまえたち。その動かない姿で、わたしに母親であれと急き立てるのね。わかっているよ。おまえたちの成長はもう望めないが、わたしはおまえたちの母親だ。冷たい雨がおまえたちの鼓動を奪い去っていったけれど、おまえたちはもうこれ以上、誰にも奪われることはないんだ。わたしはそのことをなにより喜んでいるのかもしれない。おまえたちが生きて成長したとして、いずれわたしの知らぬところで枯葉のように朽ち果てる日がやってくるだろう。けれどいま、そんなことをおまえたちにはさせずに済むのだ)

 今朝この子らが死ななかったら、この先これほどまでに我が子とひとつになれることがあっただろうか、と彼女は自問する。赤子を産み、育むことに、生まれてはじめて彼女は幸福を見出していた。それなのにいまはなぜか、赤子が死んだことに喜びを見出している。それは疑いようのない真実だった。

 その真実が、本当は虚しく、哀しいものだという矛盾に彼女が気付いていないわけではない。矛盾が子を育む責務がある母親としての彼女をつらく切なくしていることはたしかである。それでも彼女はひとしきり、冷たい赤子との歪んだ幸福の時間に浸っていた。彼女にとっては、哀しいけれどやはり幸福だったのだ。

 やがて彼女は現実に立ち返った。再び口の中に苦みが満ちてくる。生きるためにはそれすらも消し去らねばならないと、本能が理性に強いてくる。生き残った三匹の子らの母として、やらねばならないことがあった。

 彼女は顎の骨に浸みて目の奥が熱くなるのも構わずひと思いに口中の苦みを飲み込んだ。すると、目の奥の熱さは目の奥で留まるかわりに、嘆きの声となって鼻から漏れた。長く、細く、声は漏れた。やはり屈折した喜びなど、所詮は哀しみに心乾いた土塊に根を下ろす死んだ枯れ草にすぎなかった。幻想の幸福はもろくも粉々に崩れ去った。

 二匹の死んだ赤子が額を並べて、母親を待っていた。

 彼女はのそりと体を起こした。

 呼気に導かれるように母親の口元に這い寄ってきた一匹の赤子、最後に生まれた赤毛の子は、冷たくなった二匹に突き当たると死骸を這い上り、踏み越えて彼女の口吻に触れてきた。

(わかってる。わかってる)

 鼻と鼻を擦り合わせて、母親は赤毛の子にこたえた。赤毛の柔らかな体をくわえて腹の前に戻し、彼女はふたつの骸に向き直った。

 白毛の頭をそっとくわえあげた。生きているとき彼が発していた臭いが、泥水の臭いに混じってまだ微かにしている。彼女はためらわなかった。白毛の体を喉の奥へ迎え入れた。思ったよりも小さく細い体だった。産まれてからも大して成長していない。乳房の張らない我が身を刹那憎んだ。だが一方で、その小さな体こそが彼女にとっての唯一の救いとなった。牙で裂き、奥歯で噛み砕くことをせずに済むからだ。

 湿った毛並みが舌と喉を優しくさすり、過ぎていく。天上を見上げた目を開く限りに開き、めいっぱい顎を開く限りに開き、彼女は白毛の赤子を飲み込んだ。喉から胸の中心へ、赤子が自分の意思でゆっくりと這い進んでいくかのように彼女は感じた。

 誰よりも早くこの世界へ飛び出していった真っ白な無垢な子は、この世界を知らぬうちに誰よりも早く立ち止まってしまった。誰よりも早く先へ進もうとしていたのに立ち止まってしまった。彼の向かおうとした先があやまった道だったとは彼女は信じたくなかった。誰よりも母親を求めた結果だったのだ。本能に従っただけなのだ。彼は母親を欲する本能に従っただけ。そして、彼の意志は達成された。

(ゆっくりお眠り)

 母犬は、茶斑の赤子も同様に胎内に導いた。今度は何も考えられなかった。頬に垂れて固まった目やにに沿って熱い涙が伝い落ちていった。そして、赤子たちが腹におさまっても、最後まで飲み下せなかったしこりが胸の真ん中でいつまでも重苦しい痛みを発しつづけるのを、彼女はただただ感じていた。


     五


 この夜が更ける頃、何日もの間、屋根という屋根、草という草、葉という葉を打ちつづけた雨がついにやんだ。

 大気の入れ換えを済ませた空は、この世界が着実に春へと向かっている証拠を、温んだ空気をもって地上に棲むすべての生き物たちに示してみせた。しかしこれさえもいっときのものにすぎない。すぐまた次の冷雨が地を濡らすだろう。本当の春を迎えるまであと数度、生き物たちは灰色の空を見上げて過ごさねばならない。

 だが、嘆息するものはもういない。春の兆しのひとかけらを見つけたからだ。

 それを見つけた者たちは、寒気に憂えて萎縮した心にしつこくまとわりついていた陰鬱な垢を掻き落として、日々を無心に突き進むようになる。春の到来に備えるのだ。

 そうして準備にいそしむ個々の生き物の姿がそこかしこに生の輝きとなって無数に見られるようになると、長雨を降らす暗澹たる空の再三再四の到来にもかかわらず、この世は地の底から活気づいていく。

 小屋に横たわる母犬もまた、春の気配を感じていた。腹の前には一散に乳首に吸い付く三匹の赤子がいる。乳を吸う音がのんびり響き、何日かぶりに穏やかな時が流れていた。この母犬でさえも張りつめていた気をゆるりと解いていた。

 雨がやむ少し前、彼女の乳房がめいっぱい張りつめた。にじんできた乳の匂いを眠りの中から嗅ぎつけ、一斉に目を覚ました赤子たちが夢中になって母親に飛びついた。我先にと押し合いへし合いして騒ぎ立ててはいたが、彼らは争う必要はなかった。乳首はいくつも余っていた。

 死んだ二匹の赤子が母犬の体に完全に浸み込み、生き残った三匹の赤子がそのすべてを吸いつくす。そうして生きている三匹は成長し、春を迎える。

 母犬は風通しのよくなった腹が、心が、うすら寒く感じていた。胸のしこりがいまだに彼女を圧迫していた。だが、この感覚にもすぐ慣れる。慣れてしこりは硬い殻の玉となり、心の暗がりに転げていって何か雑多な記憶の陰に紛れてしまうだろう。それは、雨がやんで雲がちぎれ去った夜の空を見上げて唐突に湧いた予感だった。

 その予感に導かれ、あるいは本能に導かれて彼女は春へと向かっていく。二匹の子の死さえ霞んでしまうほどこれからの日々は忙しくなる。そのめまぐるしく流転する情景を彼女は夜の空に幾巡りも巡らせた。その空想は他の生き物たちのものとわずかも違わず、まったく同種の、春への期待感が思い起こさせるものだった。さらに、その期待が彼女に雨上がりの宙を鼻で嗅ぎ回らせ、探り出させんとしていたものは、大気の熱い息吹に他ならなかった。

 それこそが生ある者が辿るべき道しるべだった。

 彼女はこれまでの人生であらゆるものを失ってきた。母親を失い、小さな妹、弟たちを失った。逃げ込んだ森では幾ばくかの平穏こそあったものの希望はかけらもなかった。来る日も来る日もただ無心に獲物を貪り、敵と闘っていたのである。歩みくる季節にも心は動けず、春など単なる時の刻みのひとつでしかなかった。心を許した伴侶の命はすぐに尽きてしまった。子を身籠もっても、彼女は一本の糸を踏み外さず渡ることに気を尖らせなければならなかった。胸が弾けるほどに心待ちにした我が子のうち二匹は春を迎えられないまま冷たくなってしまった。だが、忌まわしい記憶はきっと時が経つにつれ、いつの間にかどこかへ運び去られてしまっているだろう。

 彼女には三匹の子がいる。彼らあればこそだ。

 あらゆる生気が春陽の熱気に舞い踊る頃には、彼らもまた背の高い草むらをかきわけて転げ回っていることだろう。そしてすぐに、彼らは草の背丈を超える。夏の強烈な陽光が彼らの体を透かし、その体が湛える健やかさを彼女は目の当たりにすることになるだろう。

 そのときこそ、ようやく彼女は日々の安寧を得られるはずだ。

 そんな予感を、いま彼女は抱いている。この夜空が匂わす温もり、道しるべを辿れば、きっとそこに行き着くことができる。

 暗部は硬く殻に閉じこめて闇に放り込めばいい。ここに在るのは自分と三匹の赤子だけ。雄犬の頑なに閉じたまぶたでも、冷たい尨毛の赤子たちでもない。

(わたしが連れて行くのはまっさらなこの子らだけ)

 小屋に風が吹き込んだ。それは温い空気塊の断片だった。母犬の抜け落ちた古毛を舞い上がらせ、赤子らの柔らかな尨毛をめくりあげる。乳を吸う音に紛れた毛擦れの微音に耳を澄ましていた母犬は、やがてまぶたの重さにまかせて両の目を閉じていき、深い眠りに誘われていった。その表情にかつての険はなくなっていた。

 夜も深まり、風が街をひっきりなしに過ぎていく。だが、風は少しも急ぐ気配を見せないでいる。そっと梢に吹き、草々を撫で、土の隙間に温もりを注いでいく。今宵の風は皆に温もりを与えてまわった。なかでも、野犬の母子を包んだ空気は底無しに優しかった。

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