二.黒い宝石

 タイランド湾に小さな島がある。

 タイとカンボジアの国境近くにあるこの島はどちらの国に属すのか、島人でさえよく分かっていなかった。どちらの国民であろうと、彼らの暮らしは変わらない。島にいる島民は、漁業を生業としていた。

 島の若き漁師、ソムチャイは網にかかった魚の中に、妙に腹の膨れた魚をみつけた。グラオだ。夏に獲れる魚で、群れを成して泳ぐ。正式にはミナミコノシロと言い、スズキ目ツバメコノシロ科の魚だ。内湾の海底にすみ、最大のもので二メートルに達する大型魚だ。

 グラオの腹が丸く膨らんでいた。

 卵でも持っているのかと思ったが、それにしても大きすぎる。腹を割いてみると、黒い石のようなものが出て来た。

 大きさはゴルフボールくらい。吸い込まれそうな程、真っ黒な石だ。陽の光を受け、黒光りをしている。カラスの羽のように真っ黒なのだが、太陽に翳すと、中で何かが星のようにキラキラと輝いた。まるで小さな宇宙だ。

(綺麗だ。アリヤにあげたら、喜びそうだ)とソムチャイは思った。

 アリヤは村で一番、美しい娘であり、ソムチャイの恋人だった。村で年頃の人間と言えば、二人だけだ。幼い頃から、ソムチャイはアリヤを妻とすべく、アリヤはソムチャイの妻となるべく、生きてきた。そのことに、何の疑問も抱かずに生きてきた。

 港に船をつけると、アリヤの姿を探した。

「ソムチャイ!」

 アリヤは直ぐに見つかった。ソムチャイの姿を見つけて、駆けてきたからだ。ソムチャイはアリヤの手を取って、船に乗せた。

「アリヤ。これを見てごらん。綺麗だろう。グラオの腹から出てきたんだ。宝石みたいだ。これをアリヤにあげるよ。きっとアリヤに似合うと思う」

 ソムチャイが黒い石をアリヤの手のひらの上に乗せた。

「ああ、ソムチャイ。とても素敵。ありがとう。大事にする」

 アリヤは黒い石を大事そうに両手で包んだ。

「太陽に翳してごらん。中で星屑のようなものが、キラキラと光るんだ」

「本当?」

 アリヤは黒い石を太陽に翳してみた。確かに、太陽の光を受けて、石の中で何かがキラキラと光りを反射していた。「まあ、綺麗!」とアリヤは歓声を上げた。

「ああ、アリヤと結婚したい!」

 ソムチャイは白い歯を見せて言った。

「これで結婚できるかもしれない」アリヤが言った。

 ソムチャイは孤児だ。子供の頃、ある日突然、両親はかき消すように村からいなくなった。平和な村だ。事件に巻き込まれたとは考えにくい。村を捨てて、町に出て行ったのだと村人は言った。

 ソムチャイは両親に捨てられたのかもしれない。

 ソムチャイは叔母夫婦に育てられた。叔母夫婦は楽ではない生活の中、ソムチャイを育ててくれた。

 結婚となると、村人を招いて、盛大な宴席を設けなければならない。新居だって必要だ。金がかかる。ソムチャイやアリヤには、そんな余裕はなかった。

「この宝石が高く売れれば、お金が手に入る。そしたら、私たちは結婚できる!」

 アリヤはソムチャイの胸に顔を埋めながら言った。

 その晩、アリヤは父親に黒い石を見せて言った。「そろそろ、ソムチャイと結婚したい」と。黒い石はソムチャイからもらったエンゲージリングだとアリヤは考えていた。「家にお金が無いことは分かっている。この黒い石を売っても良いので、ソムチャイと結婚させてくれ」とアリヤは頼んだ。折角、ソムチャイが見つけてきたものだ。黒い石を売れば、ソムチャイは悲しむかもしれない。だけど、アリヤと一緒になれるのなら、ソムチャイはきっと喜んでくれる。

 父親は黒い石をじっと見つめた。

 若いころは“美しい若者”と呼ばれたそうだが、老いと長い間の放蕩により、今は見る陰もない。常に何かを探して、眼だけがぎょろぎょろと動いている。

 やがて、父親は「少し、待っていろ」と言い、黒い石を持って出て行った。

 一時間ほどして戻ってくると、アリヤに「バンコクに行くぞ!」と言った。

「何故、バンコクに行くの?」アリヤが尋ねる。

「黒い石をショップに見せた。見たことがない宝石だと言う。バンコクに持って行けば、高く売れるかもしれない。ショップが言った。三千バーツで買いとらせてくれと。あのショップが三千バーツを出すと言うのなら、バンコクに持って行けば三万バーツで売れるはずだ。いや、ひょっとして三十万バーツにだって、なるかもしれない。

 バンコクにはアイがいる。もともと、早く島を出て、仕事を手伝ってくれとアイに言われていたんだ。良い機会だ。村を出てバンコクに行こう!」

 ショップは村で唯一の雑貨屋を営んでいる男のあだ名だ。アイは父親の弟、アリヤの叔父だ。早くに「こんな島で魚を獲りながら一生を終えるなんて、ゴメンだ!」と島を出て、バンコクで暮らしている。羽振りは良さそうだが、良い噂を聞かない。裏社会と係わりがあるのでは――と言われていた。

 アリヤの父親は漁の事故で右足が不自由になってから、漁に出ていない。アリヤ親子は港で雑用をしながら生きていた。それも、実際に働くのはアリヤで、父親は毎日、ぶらぶらしているだけだ。

 アリヤが叫ぶ。「そんな!ソムチャイとの結婚はどうなるの⁉」

「アリヤ。母さんのようになっても良いのか?」

「母さん・・・」

 アリヤの母親は“村で最も美しい人”と言われた女性だった。アリヤは強く母親の血を引いている。結婚当初は美男美女の夫婦として、もてはやされた。だが、結婚後、母親は辛酸を嘗め尽くした。もともと、父親は働くことが嫌で、稼ぎが悪かった。それが漁で足が不自由になってから、まるで働くなくなってしまった。

 母親は一家を支え、ぼろぼろになるまで働いた。そして、二年前に病気で死んだ。最後はろくに医者にかかることさえ出来なかった。

 死の直前、村で最も美しいと言われた母親は、幽鬼のような老女に変わっていた。アリヤでさえ、正視するのが怖かったほどだ。

(母さんみたいになりたくない)

 ソムチャイは父親のようにはならないだろう。だが、この村にいては、貧乏は約束されたようなものだ。

(都会に出て、綺麗な服を着て、化粧をして、美味しいものを食べながら暮らしてみたい。そして、若い男たちから羨望と欲望の眼差しを一身に浴びてみたい)

 悪魔の囁きが、アリヤの心に芽生えた。

「お父さんを一人にではできない。私もバンコクに行く」

 アリヤはソムチャイを捨てた。

 アリヤと父親はかき消すように村からいなくなった。

 ソムチャイはまた、村に一人、取り残された。

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