峠ババア

明日葉いお

峠ババア

 その日、俺は峠を一つ挟んだ隣町まで出張していた。打ち合わせが思いがけず長くなり、解放されたのは夜8時。うんざりしながら、街灯もまばらにしかない山道を走らせていた。

 早く帰ろうと制限速度ぎりぎりまで飛ばしていると、ゴンと、助手席の窓に何かぶつかった音。

 蝉でもぶつかったのだろう。

 そんな軽い気持ちでちらりと視線を向けると、そこにいたのは老婆。

 なんだ。ばあさんか。驚かせやがって。

 視線を正面に戻したところで、なんだか違和感。

 老婆……老婆!?

 あり得ないものを見た驚きでがばっと横を見ると、そこにいたのはやはり老婆。

 しわくちゃの顔で、ぼろきれをまとった老婆が並走していた。

 いや、そんな筈ない。この車は時速60キロなのだ。つまりは百メートルを6秒フラット。ばあさんが、いや、人間がそんな速度で走れるわけがない。

 そうやって否定するが、目の前にいるのは俺の車と並走するばあさん。そこで、ふと気づいてしまう。

 このばあさん、生きてる人間じゃない。

 こちらがそのことに思い至ったのに気づいたのか、ばあさんがニタァと不気味に顔を歪める。

 やばい。やばいやばいやばい。

 得も言われぬ恐怖に襲われて、俺はアクセルをべた踏みし、シフトレバーに手を伸ばす。

 しかし、動揺のせいか俺の左手は空を切り、誤ってカーステレオがつく。

 流れるのは、場にそぐわないユーロビート。

 途端、俺の走り屋魂に火がついた。

 よぼよぼのばあさんごときに、この俺がちぎれないだと!? 悪い夢でも見てるのか?

 だが、上等だ。すぐに視界から消してやる!

 嫁と結婚してから走り屋はやめたが、こんなばあさんに煽られちゃ、黙ってられない。

 目前に迫る右カーブ。

 迫りくるガードレール。このまま突っ切れば谷底に落下し、お陀仏だろう。だが、まだだ。

 エンジン音と区別がつかないほどにドクドク脈打つ心音を聞きながら、ひたすら前を見つめる。

 まだ、まだ……よし、今だ!

 アウト側にハンドルを少し振ってから、ブレーキング。一気にイン側にハンドルを振り切って、微調整のブレーキ。タイヤのこすれる音が懐かしくて、口元に笑みが浮かびそうになるが、気を引き締める。

 下腹に力をこめてアウト側に投げ出そうとする遠心力に耐えつつ、アクセルを一気にべた踏みする。

 決まった。

 久しぶりだが、感覚は体が覚えている。完ぺきとは言えないが、及第点のドリフトだ。

 軽く笑いながらバックミラーを見ると、勝ち誇った気分が一気に消し飛ぶ。

 ばあさんがまだいた。

 目を赤く血走らせながら、鬼のような形相で猛追する老婆。三メートルほど車間距離を空けて、老婆がそこにいた。

 クソッ! ふざけやがって!

 だが、地元では負け知らずだった俺が、こんなばあさんに負けるわけにはいかない。

 走り屋としてのプライドを胸に、車を走らせる。

 その後、緩い直線を挟んでのカーブが何回か続く。渾身のドリフトで攻めるが、ばあさんもスピードスケートの選手のように地面すれすれまで体を倒して、減速を最小限にカーブを攻めてくる。そのせいでつかず離れずの状態が続いていた。

 だが、峠はもうそろそろ終わり。ラストの二連続ヘアピン。そこで決める。

 ヘアピンカーブの手前。彼我の距離は相変わらず三メートル程。ここでちぎってやる。そんなみなぎる闘志とは裏腹に、冷静にタイミングを見極める。曲がり切っても、そのすぐ後にヘアピンカーブがある。最初のカーブでスピードをつけすぎれば、次のカーブで曲がり切れない。

 焦るな。まだだ。まだ、もう少し……今!

 最高のタイミングでブレーキをかける。勝利の確信と共に、ちらりと後ろをうかがう。

 なっ!?

 あのババア、スピードを落としていない。そのままじゃ、曲がり切れず谷底まで一直線だぞ!

 距離を詰めてくるばあさんに驚きつつも、こちらはドリフトを完璧に決める。

 一方のばあさんは、やはり曲がり切れずアウトコースに膨らんでいく。谷底へ真っ逆さまと思われたその刹那、俺は驚きのあまり目を見開いた。

 あのババア、ガードレールを走っていやがる!?

 ガードレールにぶつかる寸前、ばあさんは軽くジャンプし、足でガードレールの側面を捉えた。そして、重力に逆らってガードレールの側面を走ることで、ほぼ減速せずカーブを曲がり切ったのだ!

 重量の小さい生身で、ガードレールが耐えられるからこそ実現可能な掟破りのババア走りだ!

 だが、トップスピードで曲がり切ったとはいえ、ばあさんはアウト側に膨らみ過ぎた。その距離の差はでかい。インコースぎりぎりを攻めれば俺の勝ちだ!

 二連続ヘアピン。最後のドリフト。横滑りの中で迫りくるばあさんを見ながら、俺は勝ちを確信する。ここでアクセルを吹かせば、ばあさんはもう追い付けない。

 しかし、なんだか違和感。迫りくるばあさん。

 そこでハタと気づく。

 あのババア、曲がる気が無い! 速度を一切緩めず、このまま俺に突っ込む気だ!

 そうだ。誤解していた。あのばあさんは走り屋じゃない。はなから土俵が違っていたのだ。目的は恐らく、俺の命。ばあさんは、トップスピードそのままに俺の車を押して、崖に衝突させるつもりなのだ!

 ばあさんとの距離が一メートルを切り、ばあさんが地面を蹴って飛び掛かってくる。

 俺もアクセルをべた踏みして逃れようとするが、理解してしまう。

 ばあさんの方が速い。逃げきれずに、リア側がばあさんの手に捉えられる。そうなれば、車体がスピンして崖に衝突だ。

 もうだめだ。クソッ! こんな素人のばあさんに負けるのか!

 諦めと共に悪態が脳裏に浮かぶが、次の瞬間、驚きで頭が真っ白になる。

 なんと、車両が横滑りを続けたのだ!

 想定外の動きに、ばあさんの手が空を切る。

 一拍遅れて、気付く。

 ここまでの攻防でタイヤがすり減っており、路面を掴み切れずに横滑りしてしまったのだ!

 だが、そのおかげでばあさんを避けることができた。

 勝利の喜びと幸運を噛みしめながら、少し軌道修正して、カーブを一気に突き抜ける。

 後ろを見ると、ばあさんは悔し気な表情を浮かべながら最後のカーブで立ち尽くしていた。


 その後、とある噂が流れだした。

 夜にあの峠を走っていると、なんと老婆が猛スピードで追い抜いた後に戻って来て、並走して来るというのだ。

 その話を聞いて、俺はすぐにピンときた。

 あのばあさんも俺との勝負の中で走り屋に目覚めたのだ。そして、夜な夜な峠を通る車に勝負を仕掛けようとしているのだろう。

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峠ババア 明日葉いお @i_ashitaba

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