黒歴史との再会

九十九ねね子

黒歴史との再会

 その一文を読んだ時、脳みそを揺さぶられた。

 胸が締め付けられ、熱くなり、息をする間もなく物語は進む。私はこの経験を知っている。昔、毎週のようにこの経験をした。懐かしい。こんな小説はあの人以来で——いや、これはまさしく、あの人の?

 作品を読み終わった部長が感想を伝えていく。気づいた時には私の番だった。あれほど不安だった作品への評価は「少々直すところはあれど、いい発想でおもしろい」。それにほっとする間もない。部長の声も、その他の部員たちがする動作も、すでに私の頭の中にない。私がひたすら見つめていたのは、地味目の同級生。文学少女と形容されても何の違和感もない。長い三つ編みをおろし、膝下までしっかり残ったスカートを履いている。垢抜けないが真面目でいい子。それくらいしかなかった情報が、彼女のほくろの数に至るまで急激に補足されていく。

 私の視線に気づいたのか、彼女はびくりと肩を震わせた。あまりに弱々しい仕草はイメージしていたあの人とはまるで違う。この作品だって当時とはまるで違う文体だ。それなのに不思議と私には確信しかなかった。

 ネットの投稿サイトで漂っていた作品。作者は「のせ氏」というペンネームを使い、いくつもの作品を生み出している。しかし今はそのいずれも更新されていない。

 ——ブラック・オリジン。

 とある普通の高校生が手違いでトラックに撥ねられ、お詫びとして神によって異世界へ転生する。平和に過ごす彼だったが、実はある秘密がある。主人公は転生する際、女神から神の体を与えられたのだ。そのことが発覚し、異世界中の猛者たちに狙われていく。

 そんな話。おそらく小説を初めて書いた学生が、素人なりに調べてネット小説として発表したのだろう。文体はぐちゃぐちゃ。話もところどころ中二臭く、きっと今読んだら痛々しいと感じること間違いなしだろう。書籍化されるほど評価されていたわけではない。

 しかし、当時の私——中二病真っ盛りの私には、あの物語が刺さった。

「一ノ瀬さん、これすごいよ。賞に出したりしないの?」

「い、いえ……っ、そういうのは……」

「えーもったいないよ。ほら、世良さんもそう思うよね」

 何度も何度も見返した。毎日作品ページを開き、更新がないかチェックした。更新は基本三日に一回。それでも毎日、毎時間、毎秒、足繁く通った。

 だからわかる。この手元にある短編小説の作者は——。

「…………」

「……世良さん?」

「…………」

「世良さん? どうしたの?」

「……あぁ」

 何度も先輩に呼びかけられ、私はようやく現実に帰ってきた。平凡な文芸部の部室。平穏そのものの私の学園生活。ラノベのように刺激的なキャラクターがいるわけでもない、部長はただの部長だし、他の部員も、先生も、みんな普通の人のはずだった。

 それが、どうだ。私の目の前の現実は、今まさに、物語のような展開を迎えている。

「あぁ、ごめんなさい。——のせ氏」

 ぴしり、視界に映るのせ氏の——同級生である一ノ瀬さんが固まった。みるみるうちに顔が青くなり、たらたら冷や汗が流れ出る。さっきまでのこっそり様子を伺うような視線とは違う、ガン見だ。私のことを見つめて動かない。

 その反応に疑惑は確信へと変わる。やっぱり、彼女はあのネット小説を書いていた。だからなんだという話ではあるのだが。

 しかし正体を当て、達成感を感じることができたのはわずか一分未満。

「……帰りますッ」

 一ノ瀬さんは席を立ち、顔を俯かせ教室を走り去っていった。耳障りな音を立て椅子が倒れる。一瞬のことで止める暇もなかった。

 一緒に話していた先輩も、批評しあっていた他のグループも、どうして突然一ノ瀬さんが逃げ出したのかわかっていない。いや、私にはわかる。引き金になったのは私の言葉。態度からして彼女がのせ氏であることは間違いない。要は彼女、自分が作者だと言い当てられたから逃げたのだ。

 部室が一瞬静まり返る。先輩は困惑気味に私へ言った。

「えぇと、『のせ氏』は距離詰め過ぎたんじゃない?」

「……そうですね」

 びっくりさせちゃったみたい。なんて、笑ってみた。

 それきり一ノ瀬さんが部室に来ることはなかった。


 スマホの画面にはのせ氏の作品ページ。スワイプしてみるが、相変わらず更新はない。数年前からそうだから、望み薄だということはわかっている。だというのに、ここ数週間ほど投稿サイトへのアクセスを毎日している。

 一ノ瀬さんが部室から逃げた後、冷静になった頭で考えた。

 あれはない。ひどい。ネット上での姿をリアルで暴露するなんて、そんなのあんまりな所業だ。特に一ノ瀬さんの反応からして、彼女にとって「のせ氏」や「ブラック・オリジン」は黒歴史化している可能性が高い。そんな過去を知られ、あまつさえ学校で——悪いことをしたと思っている。

 私だって中学時代の痛い発言を知られたらたまったもんじゃない。中学三年生になってやっと我に帰り、そんな自分が恥ずかしくなって、高校はわざわざ県外の学校にしたくらいだから。ここなら誰も過去の自分を知らない。そう信じて通学している。

 だから、殺意を向けられても仕方ないと思ってる。

「…………」

「あ……あのぉ、一ノ瀬さん」

「…………」

「あの、文芸部でのことごめんなさい。悪気はなくて、ただびっくりして」

「…………」

「も、もちろん誰にも言ってないので安心してください」

 相手の警戒心を煽らないように、なるべく笑顔で言ってみた。あの日いた先輩に取り付けてもらったこの約束。なんとか謝罪を受け入れてもらいたい。

 しかし彼女はさらに眉間の皺を深くした。

「これからも永遠に言わないと約束できますか。誰にも、一生、私があのクソ小説を書いていたと言いませんか」

「……クソ小説」

「そうでしょ。あんな面白くないゴミ、黒歴史以外の何でもない」

 一ノ瀬さんは饒舌に話し始めた。

「もう見たくもない。あんな行動する主人公おかしいでしょ。ヒロインだって、アレ存在する意味ある? ご都合主義ばっかりで萎える。矛盾だらけ。あんなの小説だなんて言わない。てか主人公の言動も全然かっこよくないし。なんで私はあれを良いと思って書いてたんだよ。感性おかしいだろ」

「え」

 突然捲し立てた彼女に目を白黒させる。口から出てくるのはいずれも作品を貶す言葉ばかり。クソ、ゴミ、おかしい。暴言のオンパレード。しまいには自分自身のこともひどく罵った。自分がそんなことを言われているわけじゃないのに、ひどく苦しい。

 まあ、そうだよね。一ノ瀬さんの言うとおり、黒歴史ではあるかもしれない。

「書いてるやつ、頭おかしい……私だけど」

 それなのに、彼女の言葉に同調できなかった。哀れんで、クラスメイトとして「でも、とってもすてきな作品でしたよ」とおべっかを使うこともできない。

 違う、そうじゃない、そんなんじゃない。心の奥底から、叫んでいる。

 息の仕方がわからない。身体を投げ出してしまいそうになる。それでも立っていられたのは、目の前にのせ氏がいたから。

「——そんなに悪くないでしょう」

 言ってみたら、思いのほか上擦った声になってしまった。創作者本人が否認したことを掘り返し、私は一体何を言っているんだろう。あの小説の展開がめちゃくちゃだったのは知っている。キャラクターだって、彼女の言っている通り改善の余地がある。

 それでも悪くなかったって、私だけは——読者の私だけは、言い張りたい。

「は……?」

「アルカディアを探し求め、黎明がストイシズムたちと戦うところ、毎回興奮してました」

「ちょっと」

「エインヘリアルでのペシミスト戦最高でした。いつもはツンばっかりのパンドラが初めてデレたシーンなんて、涙で画面が……イラストで見たいです。コミカライズ化——ってか書籍化まだですか」

「やめてよ!」

「あと、他にも、えっと……あっ、技名カッコよくて、夜寝る前、真似してました」

「……真似って」

 そこまで言うと、一ノ瀬さんは目を逸らし呟いた。技名の真似のところで少し引かれたかもしれない。

 しかし彼女の表情は想像していたほど悪いものではなかった。少なくとも、先ほどまでの嫌悪に満ちた表情ではない。

 私は軽く深呼吸し、言った。

「――それに!」

「……それに?」

「ひどいですよ、ずっと更新待ってたのに」

 口を開いてみれば、自分の言いたことが輪郭を持って浮き出てくる。諦めたはずなのに、続きを求めてやまない。

 どんなに駄作だって構わない。のせ氏でも一ノ瀬でもいい。彼女が書いたものならすぐにわかる。

「……また、書いてくれませんか」

 そう言って、深々と頭を下げた。絞り出した言葉は情けないことに、小さく掠れていた。

 一ノ瀬さんは何も言わずに立ち去った。


 いつも通り電車で人の波に揺られ、紺と黒のスーツに挟まれていた。肉厚と人肌を感じて気持ち悪い。高校へ通うようになってからは満員の車両なんて日常茶飯事だったのに、ちょっとしたことで滅入ってしかたがない。

 あの日のすぐ後、ブラック・オリジンは削除された。

 リンクを開いても表示されるのは「この作品は非公開です」という一言。作者ページに飛んでも作品が表示されない。やってしまった。そう気づいたときには遅かった。

 何をするのにも憂鬱な気持ちは付きまとうが、せめて気を紛らわそうとスマホを開く。

 そして、メールの件名に目を見開く。

「――ブラック・オリジンが投稿されました……?」

 投稿サイトからメール。驚き、と、もしかしてという淡い期待。リンクに指を添え、タップ。画面が一向に読み込まれない。速度制限が憎い。ギガ使いすぎた自分が憎い。

 ――開いた。

 待ち遠しかった作品ページには、あらすじに添えられた「昔書いた作品のリメイクです」の一言と「のせ氏」という作家の名前があった。

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