盆・VOYAGE

紫陽_凛

盆・VOYAGE

 多喜子たきこ白粉おしろいで肌の色をととのえ、ふじ模様の浴衣に辛子からしいろの帯で差し色を、そしてお気に入りの扇子を手に取ると、ひらりと広げて首元をあおいだ。

「暑い日が続きますね、茂雄しげおさん。……ところで年に一度のお呼ばれだと言うのに、そんな格好でよろしかったんですか」

「いいんだよこれで。別によそに行くわけじゃあるまいし。あの家に呼ばれるだけだろうが」

「だからこそよそおうべきではありませんか。あの子たちにもう少し気を遣いなさいな」

「何を気を遣うって。もとは俺の家だぞ」

「ほれ、甚平じんべい

 多喜子は茂雄に甚平の青いのを差し出したが、茂雄はちっとも着ようとしない。多喜子は扇子をぱたんとたたんでしまうと、低い声で脅すように言った。

「ほんなに聞かないなら、きぬ義姉ねえさんを呼びますよ」

「姉貴は関係ねえだろが!」

 夫婦めおとになってかれこれ七十年。あねさん女房の多喜子には、茂雄の考えなど手に取るように分かっている。自分と多喜子しかいないと思って、多少見苦しい格好でもよいと考えていたのだろう。茂雄は昔からそうだった。

「絹義姉さんだって顔を出すかもしれないんですから、誰がいらしても恥ずかしくない格好にいたしませんと」

 浴衣も化粧もばっちり決めた多喜子にそう言われると、さすがに茂雄も考え直したのだろう。ふとった身体にステテコと腹巻きを脱いでふんどし一丁になり、差し出された甚平の上を羽織った。

「早くしないと迎えが来ますよ」

 そこに、――早馬がやってきた。


「ほれ言わんこっちゃない」

 多喜子が言って、胡瓜きゅうり馬のせなを撫でる。

「ことしもよく来てくれたわね、偉いね、良い子だね」

 みどりいろの、透き通るような毛並みの馬だ。馬は小さくいなないて多喜子の頬に鼻面を寄せた。

「多喜子、まて、まてまて、もう少しまっとくれ。足が入らない」

 甚平の下履きを履き損ねた足が宙を掻いている。宙に浮いたままの茂雄はくるくる回りながら、上手く入らない右足を入れようと懸命にもがいている。

「あの子たちに情けない亭主を見せるつもりはないからね、待ちますよ。ね、困った人だね、」

 多喜子は馬に問いかけた。緑の馬はぶるると答えた。


「我が家の馬はいっとう速いから」と多喜子が言うとおり、だ他の家の人々は迎えの到着を待っている。

「伊藤さんちは今年も一番だね」

 と、佐藤さんの家。

「そうなの。先に行って待っているわね」

「あっちでね」

 多喜子はひらひらと手を振りながら、駆けていく馬の背にしがみつく。後ろでは茂雄が手綱を握り、伊藤家の夏の庭へ向かって馬を走らせる。

「ほっ、ほっ!」

「馬の扱いもすっかり慣れましたね、茂雄さん」

「そりゃあ、二回目ともなればなぁ」

 多喜子はきょとんとした。

「あれ。未だ二回でしたっけ?」

「そうだよ。俺は九十六で、おまえは六十七で逝ったんだぞ」

「三十年も。ずいぶん先に置いていってしまいましたね」

「本当だよ、本当に……」

 多喜子は茂雄の顔を振り返った。腹の突き出たたるんだ中年男ではなく、多喜子が恋したあの日の青年がそこに居た。

「……ごめんなさいね」

 ゆっくりと茂雄の胸に身体を預けた多喜子は、緩やかに下りていく馬のたてがみを撫でながら、眼下の風景を見下ろし、そしてあまたの家々の中から光を見つけ出した。

「あ、茂雄さんあすこ。あすこですよ」

「どこだ。どこに見える?」

「あの光る場所ですよ。あの子たちが火を焚いている」

 多喜子は指をさす。その指先に宿る光を見定めるように、茂雄は目をこらした。

「いっとう光る場所ですよ。見えますか。茂雄さん、私達の家ですよ」

 言われているうちに、茂雄の目にも見えた。


 天まで届く明るい火だ。

 



 夏の庭は親族で賑わっている。開け放した縁側に、蚊取り線香を焚いて。つながる居間には娘と娘婿。孫と孫の嫁――誰が誰とは言わない、全てが伊藤家に連なる血筋だ。馬から下りた二人は、その間に分け入って、つかの間の団らんを楽しむ子孫たちを眺めた。たき火は婿によって尽きぬよう薪を継ぎ足され、煌々と燃えさかっている。

「とうとうひ孫が生まれたんですね、私達」

 多喜子はしみじみと赤子の隣に座った。「こんばんは、ひいばあばですよ」

 赤子は小さな手足をぱたぱたと動かして多喜子を見上げた。


「じいちゃんたち、帰ってきてるかな」

 孫の浩志ひろしがおもむろにつぶやいた。お前こそ、あんなに小さくてくちゃくちゃの赤子だったのに、と多喜子は思った。夏に生まれた、力一杯抱きしめたら潰れてしまいそうなくらい小さな子供で――保育器の中で、ちゃんと育つかと心配した。それが今は一児の父だ。

 祖母の多喜子が隣に居るとも知らないで、孫はそっと仏壇の遺影を見やる。そこには老いた茂雄がこれ以上無いしかめっつらで写っていた。

 多喜子は茂雄を見上げていた。

「そういえば、なんであんな顔なんです?」

「男泣きをこらえてる顔だ」と茂雄が答えた。「浩志が結婚したときに、あんまりにも嬉しくて、泣きそうで」

「素直に泣いて笑えば良かったのに」

 多喜子は呆れながら、そっと仏壇へ歩み寄ると、しかめっ面の遺影を撫でた。

 孫の浩志もまた、そんな多喜子を見透かしたように、微笑する。

「なあ、じいちゃんらしい遺影だろ。あの人、ずっと泣くのこらえててさ。泣いたって誰も笑わないのに、男がすたる、笑われる! ってそればっかりでさ」

「それを言えば、おばあちゃんの遺影もよね」

 と、台所から娘の雪子ゆきこが言う。

「綺麗な笑顔。最初から最後まで、弱みを見せない人だったな」

「俺が物心つく前に死んじゃったから、話でしか知らないな、おばあちゃんのこと」

「そりゃあもう、おばあちゃんはね、未熟児で生まれたあんたのこと、すっごくすっごく心配して。あんたのこと一番好きだったんじゃない?」


「そうよ」

 多喜子は答えた。茂雄以外の誰も、聞けない声で。

「おばあちゃんはね、本当は、ひろちゃんが大きくなるところを見たかったの」


 しかし母子の会話は、多喜子の上を飛び交う。


「えっ母さんは?」

「母さんはそりゃ母さんだから殿堂入りよ」

「それもそっか」


 多喜子は笑みを浮かべてそれを聞いていた。


 線香が絶えず焚かれている。

 仏壇の供え物は土地のお菓子、夏の果物、パイナップルに葡萄ぶどうに桃に西瓜すいか――ぜいを尽くした供え物を見てから、茂雄はあたりを見回した。

「そういえば、和真かずまはどこにいった?」

 多喜子ははっとした。和真とは、茂雄と多喜子のもう一人の孫である。

「和真っていうと、浩志の弟ですか。あの子は……いくつ?」

 空から見ているとはいえ、和真のことは多喜子の記憶に新しい。新しすぎて、よく知らないのである。

「ちょっと前まで、こういう風に、よちよち歩きの赤ちゃんだったことだけは覚えていますけど」

「中学校に上がったばかりだな。あいつ、なんだよ。こういう集まりにはでも顔を出さない。薄暗い部屋の中でゲームばかりしている、罰当たりなやつだ」

「あらまあ」

 ゲームなんて「はいから」なもの、私たちの青春時代にはなかったものね、と多喜子は思った。思ったが、頭から湯気を出している茂雄には言わずにおいた。

「でも、夢中になれるのは良いことだわ。私なんか生前無趣味で」

「なにが良いことだ。先祖を馬鹿にしよってからに」

 茂雄はずかずかと居間を出て、二階へ上がっていく。多喜子は慌てて、その後を追いかける。

「茂雄さん!」

「なに、どうせ見えちゃいねえんだ、少し説教してやる」

「茂雄さんったら!」


 甚平の裾をつかむが先か、二人が「かずま」と書かれた部屋をすり抜けるが先か――。いや、そんなことはどうでもよかった。

 部屋の中でゲームに興じていた孫が振り返ると、多喜子と目が、バッチリ合った。


「やい! 和真!」

「うわっ。誰?」

 怒鳴りつけられて身をすくめた小さな孫は、浴衣姿の多喜子と甚平姿の茂雄を交互に見た。黒く焼けた肌がまぶしいくらい、若かった。未だ声変わりもしていない、少女と少年の境目にいる。一番若くて綺麗なとき。多喜子はそう思った。


「え、親戚? 誰? いつ入ってきた? てかノックくらいしろよ! プライバシーの侵害。さすがに無理なんだけど」

「あ、ああ、ごめんなさい。本当は入るつもりはなかったのだけど」と多喜子が言うのへ、

「やい和真! 盆のりに一人でゲームたぁどういう了見だ!」

 腰に両腕を当てて説教に入ろうとする茂雄が、暗い部屋を照らし出すゲーム画面を指さした。

「いつもいつも言ってるだろうが! ゲームなんていつでもできる! 今は家族行事に参加するときだ!」

「いや、だから、誰?」

「おまえ! じじいの顔を忘れたか!」

「は? じじい? じじい、僕が小学生のときに死んだじゃん」

「そうだ、俺はおまえのじじいだ!」

「は、」

「盆だから帰ってきたじじいだ! じじいが孫叱らんで誰が叱るんだ! みんなおまえのことになると甘くて……けしからん!」

 多喜子は頭を抱え、和真は顔を引きつらせた。なまじ茂雄の顔は若返っていたから、死に際の九十代とは似ても似つかないだろうが――確かに母や兄に似たところがあると悟ったのだろうか。

「本気でいってる?」

 ――それとも、若い想像力が「それ」を許したのだろうか。こんな嘘みたいな本当を。

「本当の本当に盆だから帰ってきたじじいなわけ? なんか若くない?」

「若くて悪いか」

「印象違うじゃん。おふくろにそっくり……」

「親子だからそりゃ似るさ」

 それから和真は、ちらと多喜子を見た。

「じゃ隣の綺麗なひと俺のばあちゃん?」

 多喜子の気持ちは跳ね上がった。

「そうだ綺麗だろう! 多喜子は日本一の俺の嫁だ」

 慌てて立ち上がる丸い瞳が、多喜子を見る。身長はやや多喜子の方が高かったけれど、見下ろすような感じはなかった。目線はしっかり絡まって、確かにそこに多喜子が「いる」ことを認知しているようだった。

「はじめまして。孫の和真です」

 しゃんと伸びた背筋の少年がそう言うから、多喜子はそっと目を伏せて涙をこらえた。

「はじめまして。おばあちゃんの多喜子です」



「おばあちゃんは写真でしか見たことなかったし、……こう、ずいぶん経ってるから、帰ってこないのかなって思ってたけどさ」

「なんだその言い草は」

 茂雄が口を挟む。和真は言い訳するように言い返した。

「ほら、死んだばっかりで二回目の盆のじじいならともかくさ」

 むっとした茂雄をよそに、多喜子は答えた。

「毎年帰っているよ。みんなが用意してくれたきゅうりの早馬に乗って。かえりの茄子牛に乗って」

「そうなんだ」

 和真はベッドに腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、ゆったり息を吐いた。

「変な感じ。死んだじじいとおばあちゃんが一緒に俺のところに来るなんて」

「いっちょまえに『俺』とかいいよるこいつ」

 和真は顔を赤らめた。茂雄に向かって何か言いたそうにしていたが、にたにたした祖父をかまわないことにしたのか、おもむろに立ち上がり、部屋の戸を開けた。

「どこいく」

 茂雄が訊ねると、和真はぶっきらぼうに、

「居間」

とだけ言った。




「あにき」

 下りてきた若い弟を見て、浩志は眉を下げた。

「珍し。仏壇拝む気になったのか」

「なった」

「まじか……」

「明日は槍が降るかもね」と母が苦々しく笑う。「おじいちゃんは喜ぶだろうけど」

 和真はほうぼうから飛んでくる声に、小さく首をかしげる。

「喜ぶかなあ、あのじじいが」

「そりゃあ喜ぶでしょう。一番和真をかわいがってくれたのはおじいちゃんよ」

 雪子は遠い目をして、微笑んだ。

「おしめ換えてみたり、ミルクあげてみたり……あやして泣かれたり。同級生の子にひどい言われ方して、喧嘩して泣いて帰ってきたときは一緒に泣いたりしてね」

「……そう、だっけ?」

「そうよ。あんなに怒ったり泣いたりしたお父さん、初めて見たわよ」

 和真は合わせた指の先を、ぐっと握り込んで拳にした。

「――じじい、ゲームしてんじゃねえ、盆をしっかりやれってさ、めちゃくちゃ怒るんだよ。だから線香くらい上げてやろうとおもってさ」

 ゆっくりとろうそくから線香に火をともす。耳元に「火遊びなんかするんじゃねえ、寝ションベンするぞ!」という祖父の怒声が聞こえた気がした。……気がしただけなのは分かっている。これは和真の過去だ。

 ほそくくゆる煙の向こう側に、しかめっつらの茂雄の遺影がある。

「……だから、仕方なく下りてきたってわけ」

「まるでじいちゃんに会ったみたいなこと言うけど」と兄が不思議そうに弟を見る。和真は「逢ったよ」と言った。

「じじい、変わんなかったよ。全く何も変わんなかった。おばあちゃんもいた」

「……あんたがそう言うならそうなんでしょうね」

 母が言い、黙っていた父はたばこに火をともしてふうと庭先に吐き出した。そして消えかけた迎え火に、薪を継ぎ足した。

「昔からおまえは見えるほうだったからナ」

 和真は汗のにじんだ父の背中をじっと見つめ、何も言わずに仏壇に手を合わせた。



「ひどいしかめっつらですよ」

 多喜子は泣き出しそうな茂雄の背をさすった。口をへの字に曲げ、目尻に力を込めた茂雄はまさに遺影の中の彼と同じ表情をしていた。

「まだ盆は始まったばかりですよ」

「……うん」


 空を駆けるみどりいろの馬が、あちこちの家に舞い降りる夏のある日。


「花火がある、和真」

「やる」  


 二人は縁側に腰掛けて、孫が花火を振り回すのを眺めた。時折はねる火花の間に、婿のアンリがぼそっとつぶやいた。

「お義父さん、お義母さん。ゆっくりしていってくださいネ、良い旅をヴォン・ヴォヤージュ


「良い旅を、ですって」

「旅か。……ま、旅には違いないや」

 二人はほほえみ合い、仏壇の前の茄子牛を見やった。


 帰りの牛車に乗るのは、もう少し旅を満喫してからでもいいだろう。



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