第16話 暴走

「おやおや、また暴走しちゃったみたいだねぇ」


 賢者は呑気な声を出すと、私の手に例の巾着をぽんと置いて、「それじゃあね」と手を振った。


「ちょっ、ちょっと!」


 そそくさと背を向けた賢者のフードを急いで掴み、私は「じゃあねじゃないわよ!」と思わず怒鳴りつけていた。


「なぁにぃ?」

「どうにかしなさいよ、あれを!」

「僕は約束通り君の願いを叶えに来ただけ、あれをどうにかする義務はないかなぁ」


 相も変わらず飄々ひょうひょうとした顔をしている。見ているだけで腹が立って来た。


「それともぉ、彼を助けるのが君のお願い?」


 うっと喉を詰まらせた、私の心を見透かすように、賢者はあえてそう言ったようだった。


 賢者の言う事は尤≪もっと≫もだ。


 先ほど私も、彼と同じことをした。


 理屈では分かっている。


 それでも私は賢者のフードを離すことが出来ず、険しい表情のまま視線を足元へ落とした。


「あれは、放っておけば治るの?」

「まさか、暴走すれば七晩はあのままだろうね。まあでもあれだけ大きいし、すぐに近隣の王国で討伐隊が組まれて討伐してくれるよぉ」

「討伐!?」


 「だって狼はそういうものだろう」と賢者は言った。


 そうだ、狼とはそういうものだ。


 私もルーに出会うまではそう思っていた。


 けれどもルーは、私の知る本の中の人狼とは違った。


 狼になってもちっとも怖くなかったし、ルーは見た目で人を判断したりしない。


 誰にでもお人好しで優しかった、こんな私の言う事を素直に何でも聞いてくれた。


 人狼と人間、どちらが醜悪しゅうあくで、どちらが残酷ざんこくなのかなんて、その種族だけで決められものではない。


 けれど。


「君の呪いはもう今日が七晩目だからね、夜明けまでにはやるんだよぉ。あ、あとそれって一人分だから、半分こなんてしたらお互いに中途半端に願いが叶う羽目になるから気を付けて」


 思考の海に潜っていた私が手を離したその隙に、賢者は驚くほど素早く去って行ってしまった。


 直後、遥か遠く、百里先にでも聞こえるのではないかと言うほど、巨大な狼の遠吠えが再び響く。


 それは随分と離れた場所にいる私の肌をもぴりぴりと震わせた。


 巾着を握り締める。


 今日、この機会を逃したら私はもう元には戻れない。


 けれどもルーは、このまま放っておけば討伐されるという。


「でも、あれだけ強いし、弟も居るんだし、討伐何て簡単にされないわよね」


 狼に背を向ける。


 私の呪いは、そう簡単にはとけない、鏡の呪い。


 一生白鳥の姿のままなんて、そんなのは絶対に嫌だ、と思う。


 美しく生まれる事も出来ないで、その上さらに人間の姿まで奪われて、そんなのは余りにも、余りにもではないか。


 私がいったい何をしたというのか。


 私の何が悪かったというのか。


 私は、どこで間違えたのか。


 ふと、目の前の景色に影が落ちた。


 巨大なシルエット、背中に感じるヒリヒリとした空気。


 私は油断していた。


『スワン、見つけたうがぁあ!』

「なっ!?」


 あの城から私の居場所は良く見えた事だろう。


 だって夜空が真っ直ぐに伸びる見通しの良い道だったのだから。


 ふと視界の隅の森の中、私を金の釣り目で睨みつける少年が見えた。


 そうか、あの少年が教えたのか。


「あなた、愛されているのね、ルー」


 私は自分よりも大きな毛むくじゃらの腕に掴まれるのを、ただ受け入れるしかないようだった。


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