第9話 接吻

 それは夜明け前、残夜ざんやに差し掛かろうという頃。


 ぐっしょりとかいた、汗の気持ち悪さに目を覚ました。


 ルーは私を膝に寝かせ、器用に座ったまま眠っている。


 水が飲みたい、そう思い体を起こしたその時だ。


 森の道を歩いて行く、白い影が見えたのは。


「待ちなさい!」


 何故だろうか、私はその時それがあの女だと確信していた。


 ルーのマントが肩から落ちたのに、気付きもせずに走り出す。


 深い森の中、更に深く、濃緑こみどりの闇夜を一心に進む。


 目の前を行く白い影は、まるで浮いているように音も無く走っていた。


 それが、この世ならざる者のようで、恐ろしい。


 心臓がばくばくする、息が苦しくて肺が熱い、それでも走って、走って。


 私は遂にその女の背を捕らえた。


 ひらりと舞った女の外套を、無我夢中で掴み取る。


「きゃあ!?」


 二人同時に倒れ込んだ。


 それから私はぜぇぜぇと荒く息をしながら、女を逃すまいと馬乗りになった。


「さぁっ、顔を見せなさい!」


 叫びながら、目深に被っていた女の外套を乱暴に剥ぎ取る。


「!?」


 それは、私だった。


 烏の羽のように細長く、鋭い悪魔のような瞳、血色の悪い唇、病的に青白い肌。


 その女は私の顔で、私を睨み付けていた。


「ひっ」


 喉が引きれ、体はおののき、背後に尻もちを着いて倒れ込む。


 私が居る。


 そこには、醜い私が居た。


 全てを恨み、何もかもを憎む、私が。


「スワン!」


 直後。


 毛むくじゃらの丸太のような腕が、突然後ろからがばりと伸びてきて、抱き込む様に私をさらった。


 気付けば私は守られるように、逞しい腕の中に閉じ込められていた。


 そう気づいた瞬間に、安堵で全身から力が抜ける。


 けれども同時に、私はそれが、頭に血が上る程に屈辱だった。


 だって私はたった一人でも、立ち向かう事が出来た筈なのだから!


「な、何だうが。どうして顔が無いんだうが?」


 頭上から洩れた戸惑いの声に、私はハッとして目の前の女に再び視線を向けた。


 先ほどまでは恐怖でパニックになっていたが、今は嘘のように冷静に周りを見ることが出来る。


 そうして見れば、ルーの言う通り女には確かに顔が無かった。


 正確には、まるで闇が蠢くように顔を見る事が出来ないようである。


「っ、これは、呪い?」

「あ、あぁぁ」


 女は憐れな程に情けない様子で、外套を深く被り直すと、立ち上がり逃げようとする。


「あ、待ってうが!」


 それをルーが追いかけようとしたその時、森の木々の間を縫って、シルクのように真っ白な光が差し込んだ。


 朝だ。


 私は小気味の良い音を立てて白鳥に、ルーはみるみるうちにいつもの人狼の王子の姿へと変貌する。


 そしてルーは王子の姿で女を捕まえると、勢い余って二人一緒に倒れ込み、それは図らずも、ルーが女を押し倒したような格好になっていた。


「あっ」


 更に女から甘ったるい声が漏れる。


 見れば女とルーは、倒れた拍子に口と口がぶつかってしまっていたのだ。


 明け透けに言えば、口付けしていたのである。


「コォ!?(はぁ!?)」


 私は思わず叫んでいた。


 だがこれは断じて、ルーとあの女が口づけをしたことに、ではない。


 私が驚いたのは、あの女の顔にである。


 そうだ、確かに本で読んだ。


 呪いは時に真実の口付けで氷のようにとけるものだ、と。


「これはっ、すまないマドモアゼル!」


 ルーは慌てたように起き上がると、見るからにあたふたと狼狽した。


 顔が真っ赤である。何故かその顔に腹が立つ。


 そして女もまた、顔を赤く染めていた。


 金髪に白い肌、桃色の唇。

 くりっと円らな瑠璃色の瞳は朝陽に輝く波間のようにキラキラしている。


「あの、あの、私はオディールっ! 貴方のお名前は!?」


 オディールと名乗った女は、言ってルーの手を両手で掴みながら、上目遣いでそう問いかけた。

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