参 救世主

 メタ・コスモスのフィールドの天候だけは圏内だろうが現実世界には反映されず、ランダムで決定される。

 現在の環境は雨天、仮想の都心に漆黒の巨人が出現した。

次世代ゴールド・タイタン》は、まだ体力ゲージが満タンなのにもう満身創痍のような覇気のない立ち姿で驟雨に打たれている。

 雨が降りしきる高層ビル街の狭間で眼光を灯す次世代の視線は、遥か彼方で今まさにビルを殴りつけ崩落させた怪獣に送られていた。

 怪獣アバターの体格はオーソドックスな二足歩行の直立形態で、人間ならば頭部がある位置から前方に伸びた流線型の首と頭が一際目を引く。もはや胴体の上に長大な深海魚が乗っかっているに等しい。どっしりとした肢体は重量感満載で、前肢には鋭利な爪を備えている。背部が盛り上がるその姿は、二人羽織を彷彿とさせる。全身に銀色の鱗を鎧い、太陽光をギラギラと反射させている。鱗の隙間からは赤熱化した朱色の内皮が露出している。全高は八〇メートル程で、風に冷える鋭い尻尾も含めれば全長は百二〇メートルを優に超える。

 頭部に比して大きい眼が、ぴくりとも動かない。

 視ている。

 白目の殆どを占める大きな黒目が、こちらを捕捉している。

 雨に晒された灰色のコンクリートジャングル世界は、薄ら寒いくらいの静けさに沈んでいる。その只中で距離を隔てた二体は睨み合う。雨音だけが現実に酷似した仮想空間に響く。

 先に動いたのは、巨人だった。

 助走をつけた足運びから、やがてヤケクソじみた疾走へと移行して幹線道路を突っ切る。高層ビルの窓ガラスに映った目は、虚ろに光っていた。弱くて惨めな自分を認めた反動の証左。泥水のように絶えず湧き出てくる悔恨を糧にして、己が身を武器として無鉄砲に距離を詰め続ける。

 遥か彼方にいるエミとの距離を縮めようと、敵の武装も能力も判然としないくせにバカ正直に真正面から突っ込む、必死に。

 無策なのに阿呆らしく熱を灯して胸中の奥底で燻る意思に、全身を委ねた。

 身を焦がす熱情が理性を手放した疾駆を早め、

「そこは某の間合いだ、間抜け」

 白濁した思考に嘲笑混じりの声が滑り込んだ。

 雨の帳の狭間で、怪獣の眼が怪しく光る。

 突き出る流線型の頭の下、不格好に並ぶ幾本もの牙を生やした口が開く。驚異的なのは、下顎は喉と緩い靭帯のみで繋がる剥き出しの骨である。

 その口中から一瞬だけ閃光が迸る。

 光を認識した瞬間、空気が絞られる音が届くより早く反射的に身を屈めた。一瞬後、頭があった座標を情け容赦なく銀の線が滑る。

「え?」

 何が起こった?

 疑問の答えはすぐに出た。横薙ぎに疾走った線の軌道上に乱立するビル群が、鉄骨とコンクリートが擦れる音を立てて嘘みたいにすっぱり切れて崩落した。屋上を含めたビルの上階が道路に落ちて砕け、無数の瓦礫と化した。

 切断、そう悟った瞬間に怪獣の猛攻が始まる。

 状況が激動した。

 怪獣の操る銀光は、雨滴すら裂いて巨人を切り刻まんと空間を舐め尽くす。竜巻が質量を持つのだとすれば、恐らくこのようにして吹き荒れるのだろう――速度と精度と破壊力の全てで巨人を嬲りに掛かる。

 希薄な意識で巨体を駆るアキラは、それまでのVR経験で培われた先読みと反応速度を無意識に活かし、林立する建造物の背後を移動し辛うじて躱していく。その無様な動きは華麗なる回避には程遠く、もはや遁走に近い。

 壊死していた危機意識が、心肺蘇生のように再起動していた。

「逃げるのか、腰抜け」

 挑発に乗る余裕はない。

 聳え立つ摩天楼が一閃で切り飛ばされていく。アキラの逃走軌道を斬撃の瞬きが続けざまに辿り、数秒遅れて為す術なく地面に落下した建物の一塊が破砕音を響かせる。一瞬遅れてアキラを追い詰める銀光は、正真正銘の徹底的な戦闘意思を乗せて一つ交錯する毎に鋭さを増す。

 どの障害物も、一瞬の目眩まし以上の意味を持たなかった。

 一帯は目も開けていられぬ程の銀光と雨滴の霞と崩壊する音に埋め尽くされる。半円を描く切断面が空気を切って真空を作り、その空間で散る雨滴がコンマ以下秒だけ宙に浮く。

「はっ……はっ……!」

 視界がブレて、息せき切って足を動かす。

 アキラは背後に迫る無数の斬撃から必死に逃げ続ける。脳裏には一閃で首を落とされて体力ゲージを全損させる自分の哀れな姿ばかりが浮かび上がる。流石に一撃死じゃ死にゲー過ぎてパワーバランスが崩壊するから、そんなゲームではない筈だと言い聞かせる。

 戦術を練る暇なんて皆無。敵の動向を観察できる瞬間なんざ絶無。通常のゲームプレイなら初見では回避と防御に徹して敵の予備動作を把握し、一度敗北してからリトライして次の戦いに活かすのが定石だ。だが今のアキラには一度の敗北も許されず、勝たねばならぬ理由がある。勝つ為に一手のミスも犯してはいけなかった。

「くっ……!」

 しかし残酷な事に、ミスをせずともアキラは徐々に敗北へと近づいていた。

 斬撃で飛散する建物の破片がアキラの黒い躰に弾け、その度に自分の体力ゲージがほんの一ドットずつ程度ではあるが削れていく。既に一割は削られている。

 普通のゲームなら、転倒や落下などシステムに規定された方法でしかダメージは発生しない筈だ。だが、この《メタ・コスモス》では既存のルールは通用しない。現実とは区別できぬ程の超高度なグラフィックとサウンド、執拗なまでのリアリズム。

 この世界での戦闘に勝ち抜く為の鍵であり、罠でもある。

 敵はそれを、アキラよりも熟知しているが故に今の戦法を取った。新参者ニュービーのアキラが逃走の一手に出る事も織り込み済みで。

 ――クソッ、必殺技を使う暇がない!

 体力ゲージとは打って変わり、一ドットも減少していない必殺技ゲージを視界端に収めて歯噛みする。アキラの保持する『あの技』が想像通りの物ならば起死回生の一手を打てるのに。それさえ繰り出す事ができれば付け入る隙を見出すまでもない。

 せめて敵の間合いから外れるまで逃げて、それで――本当に勝てるのか、雑魚の俺が。

 未だ尾を引く無力感がコンマ以下秒だけアキラの思考を鈍らせ、間髪を入れず動く脚が踏み出した一歩が微かに遅れた。

 致命的な隙だった。

 ほんの数秒だけ背後から追い立てる崩落音が途絶えた。

「しまっ」

 銀光がそれまでとは正反対の方向から空間を裂いた。正面から瞬時に肉薄した一閃が、ついにアキラを捉えた。

 胸元に思いもよらぬ衝撃が弾け、息が詰まったアキラは仰け反る。両脚が地面から離れ、一瞬の浮遊感を味わい、強かに背中を打ちつけた。命中と転倒のダメージで一気に体力ゲージが一割削れた。

 直撃と転倒で数秒だけ呼吸が止まり、光る目が明滅した。視界が明暗を繰り返し、アバターの彫刻じみた口許は微動だにしないまま咳き込む。胸が焼けるように熱い。ここまで痛覚を追求し表現するVRゲームなど初めてだ。

 早く起き上がらないと――如何なる建築物も盾にはならない。

 胸を片手で押さえながら、四つん這いで移動する。あらゆる高さの建物が遮蔽物となり、敵が射線を確保しに掛かる。

「小賢しい」

 全てを撫で斬り、一切合切を薙ぎ払う。

 怪獣の間合いに存在する有象無象が端から端まで螺旋に切り裂かれ、あっという間もなく原型を失っていく。爆発めいた破壊が巻き起こり、標識が吹き飛び電柱が薙ぎ倒されオフィスビルが倒壊し、行き掛けの駄賃とばかりに看板を両断した。

 這いずり回るアキラの頭上に切り刻まれた大小様々な夥しい瓦礫が降りかかり、それらが背中に激突する度に一ドットずつだが加速度的に体力ゲージが減少していく。残り六割を切った。

「児戯だなぁ、まるでよちよち歩きだ」

 あらかた邪魔な物を切り落として片付けた怪獣は、余裕綽々でアキラを見下ろし嘲る。

 街は銀の嵐に晒され、高層ビル群は縦横無尽に裂かれて、民家は粉微塵に解体されて木片と鉄片へと成り果て、窓ガラスは跡形もない。斬撃に襲われた街には鋭角的な残骸ばかりが軒を連ね、爆撃や銃撃とは違う異様な跡地と化した。

 雨に打たれながら膝を突いて這うアキラが見上げた怪獣は、実際の体高よりも巨大に見えた。

 このままではジリ貧だ。打つ手はあるが、敵を出し抜く瞬間を作れない。

 じわじわと体力ゲージを凹まされ、全損してポリゴンの欠片となって爆散するのは時間の問題だった。もはや数分の猶予も残されていない。

「まだ勝てる気でいるのか、レベル2の某に。舐められたものだ」

 その驚くべき発言に、重油のような絶望が頭に満ちる。

 レベル制のゲームにおいて、たかが一と舐め腐るか、もはや一と慄くかで瀬戸際からの逆転成功率が変わる物だってある。このゲームのレベル上限キャップが幾つかは知らないが。

 ――やっぱり俺如きじゃ……。

 黒岩の嘲る顔が浮かび、アキラの勝ち気を蝕む。

 勝てない。そう諦めて俯く直前、

 視界の端に敵の間合いから外れて健在の一際高い高層ビルが映る。厳密に言えば屋上にぽつんと立つシルエットが目に入った。

 顔を上げたアキラの視線を辿る怪獣が、その人影に気付いた。考えるよりも早く地面を蹴って前傾姿勢で転けそうになりながら駆け出し、敵の銀光が瞬くよりも数段早くポイントに身を晒す。道路のアスファルトを削りながら二本の轍を刻んで慣性を殺し、敵の射線に躍り出た。

 ビル正面に立ち塞がり、視界の真ん中に佇む相手は平静を保つ。まるでアキラが駆けつけるのを信じていたみたいに。

 ――貴方のそういう態度が嫌なんだよ!

「ぐッ!!」

 直後、背中に激痛が走る。素肌を鞭で打たれたような耐え難い衝撃が脊髄を貫き、のたうち回りたくなるのを堪える。体力ゲージが残り五割に差し掛かる。

「涙ぐましい捨て身だな。騎士にでもなったつもりか?」

 もはや敵の挑発は耳に入らず、目と鼻の先にいる人物を見つめる。

 ビル風に揺れる長髪は雨に濡れ、ふんわりとしたドレスは雨滴を吸って肌に張り付き、透けるような翅の淵に雫が滴る。

 現実の姿に寄せた渡辺エミのアバターが、アキラが操る巨人のアバターをきつく唇を噛んで見上げる。

 そして、粛々と頭を下げた。ツインテールの房が揺れる。

 予想だにしない行動を目の当たりにして、アキラの口から掠れた声が零れた。

「なに、してるんですか? 謝らなきゃいけないのは俺の方……」

「私は……自分のプライドを優先して、貴方に誤解を与えてしまった」

 押し殺した声でそこまで言ってから頭を上げたエミは、長い睫毛を伏せて懺悔するように語る。

「私は一年と二ヶ月前、コスモスーツアクターになった。自分で言うのもアレだけど、それなりに名の知れたプレイヤーだったのよ。最初は単なる仕事だったけれど、ある日……友人と呼べる相手と出会って、次第にこの世界にのめり込んで偏に速さと高さだけを渇望したわ。圏外で無数の対戦を繰り返し、殆ど勝利だけを重ねて高レベルに達し、そして……あの日を境に秩序世界メタ・コスモスから逃げ出した臆病者……。そんな私でも、いやそんな私だからこそ奴の狼藉を見逃す訳にはいかない。でも私は未だにありのままの姿で、この世界に飛び込むのが怖い」

 濡れて艷やかな前髪の奥で、切迫した光を浮かべた紺碧の瞳がアキラを見つめる。

「そんな時、光を見た気がした。とある学内ローカルネットの寂れた地下施設型のゲームに興じていた、一人のプレイヤーに出会った」

 ――俺、だ。

「でも、あの記録はエミさんが一分も更新したじゃないですか。貴方の方がよっぽど……」

 すると陰鬱な表情が一変して、悪戯めいた笑みを見せる。

「あれは、学内のサーバーをハックして私がプレイした時だけ体感Gを二つも下げていたのよ」

「え……は?」

 つまり体感9Gだと目されていたものが、実際は体感7Gだった訳だ。

「そうしなければ、君のタイムはとても越えられなかった。君の関心事で圧倒してみせれば、君は逃げようとも思わずむしろ興味津々で私の言葉に耳を傾けてくれるだろうと思ったから」

 微笑を吹き消し、エミは視線を秩序世界の雨天に向けた。

「私は今までの人生で誰かに圧倒された事はなかった。大抵の事は努力すれば差を縮めて、いずれ上回る事が出来た。でも君の記録は、この秩序世界で飛行型アバターとして長い飛行時間を経験した私ですら足元にも及べない。それに」

 力強い瞳でアキラを真剣に射止め、エミが口した言葉は確信めいた響きを帯びる。

「君の学内アバターを見た時は震えたよ。私が一年に渡り追い求めた理想形に最も近い姿をしていた。あれが君自身の劣等感の裏返しだと確信したわ、所詮はそれしか根拠のない自信だったけれど。でも君のその姿を見て、私の決断は何も間違ってはいなかった事が分かって、舞い上がったと同時に怖くなった」

 古傷が疼くように美貌を歪め、静かに歩み寄ったエミはアキラの――巨人の顔に額をこつんとぶつけた。伏せられた睫毛に光るのは雨滴か、それとも。

「君を信頼すればする程、もしまた裏切られてしまったら……どうしよう、怖いよ」

 ソーマリンカーを通し量子信号としてアキラの聴覚野に届くその声は、しかし肉声としか思えない程に悲痛げにか細く震えていた。不安に押し潰されそうになりながら絞り出した言葉が、アキラの胸に突き刺さる。

 ほんの数秒だけ縋るように頭を預けてから数歩後退り、エミは乾いた微笑を浮かべて呟く。

「……君に試験を課せば、自ずと私自身が試験官にならざるを得なくなる。私が見出した右腕なのだから。……これが、君を贔屓した理由よ。悲劇のヒロインぶった結果、不要な誤解を招いて君を傷つけた。私は君が思っているような人格者ではないの。むしろ軽蔑されるべき……自分勝手に他人を振り回すズルい女なのよ」

 エミ本人の口から真相を聞いたアキラは――脱力してへたり込みそうになるのを我慢した。おずおずと巨大な指先を伸ばし、エミの体から数センチほど隣で止めて、言った。

「俺が、勝手に勘違いして独りで落ち込んだだけですよ。身勝手で構ってちゃんなのは俺も同じです。でも、そっか……。俺が期待外れの出来損ないだから、どうしようもなくなって特別扱いした訳じゃなかったんだ。それが知れただけでも良かった。ありがとうございます、教えてくれて」

 エミにおもねる為の嘘ではない。アキラは心の底から嬉しかったのだ。見限られた訳じゃなかった事、そしてエミからこんな真剣に打ち明けられた事が。

 エミは一瞬だけきょとんと目を丸くし、緊張の糸が解れたように小さく吹き出した。アキラの大きな指先に身を寄せて、甘えるように頬ずりする。

「君は、どこまでも私の想像を超えてくれるわね。……ありがとう、アキラ君。君と出会えて、本当に良かった」

 これが生身の指先や掌だったら昇天していたかもしれない、そう思いながら顔を寄せようとするのを必死に堪えた。

「某を放ったらかしてロマンスなんか見せつけてんじゃねえぞ! 三下如きが! 羨ましいなチクショウ!!」

 最後は金切り声で絶叫した怪獣は、情け容赦のない連撃を見舞う。

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メタ・コスモス @kyugenshukyu9

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