弐 遁走

 今から一年と二ヶ月前、世界的に建築物の崩壊が頻発していた。その頃からネットの片隅では都市伝説として囁かれていた噂がある。その噂の真相を確かめる為に、渡辺エミは《メタ・コスモス》をインストールした。

 エミはその春、ジョンと初めて出会った。

 ジョンとはすぐに意気投合して、お互いの生い立ちまで打ち明けるのに大して時間は掛からなかった。今にして思えばリテラシーに欠ける行為だったけれど、その頃のエミは友人を欲していた。地位や名声に関係なく対等に語らい、悲喜を共有し、通じ合える他者。その点においてジョンは最適だった。彼もまた親族との人間関係に懊悩を抱く人だったから。

 匿名のネット上で人間関係を築くメリットは、双方が真相について無知であるという一点だ。嘘と真実を何重にも折り込み、その事をお互いに黙認している。ジョンが明かした経歴がどこまで真実だったのか、それを判別できるようになったのは出会ってから一年後の事だった。

 そして今から一年前の七月十日、その厄災は唐突に訪れた。

 ジョンはモスクワまで飛んで行こうと、いきなりエミを誘った。初めは断った、何ならジョンを引き止めようとした。当日のモスクワにはゲリラ豪雨注意報が出ていて、それはつまり《カオス・リフレクション》警告まで発令されていた事を意味する。だからこそ噂の真相をこの眼で確かめるんだ、ジョンはそう息巻いていた。

 ジョンには自分の仕事内容を偽って伝えていた。エミがメタ・コスモスをプレイする本当の理由を話していれば、ジョンは潔く引き下がったかもしれない。ただそれをすれば、もうジョンとは対等な関係を続けられないかもという一抹の不安が過った。結局エミは内心の怯えをひた隠しにする為に、ジョンと一緒に仮想のモスクワに飛んだ。

 モスクワが圏内に入ったら遠目から観察しよう、その提案にジョンも合意した筈だった。

 モスクワの淵、高度千メートルの上空に二体の影があった。その二つは驚く程の速度で空を駆け、弾道弾のように海を飛び越えて、ロシアの領空に侵入し不届き者が現れるのを待っていた。

 突然だった。あろう事かジョンはエミを振り切ってクレムリンに飛び込み、驚くべき事に着陸した。もはや圏内突入までほんの数十秒しか残されておらず、エミは慌てて追随し力尽くでもひっ捕まえて圏外へ即時脱出しようと決意した。

「ジョン、いい加減にしなさい!」

「……」

 叱責するエミの声に、ジョンは無言だった。日頃からジョンは無口な方だったけれど、この時ばかりはその沈黙が不穏すぎた。

「ジョン……?」

「君は仮想で現実を変えようと思った事はないか? 僕はある、それこそ長年の夢だ。そして今、この場に現実を改変し得る怪異が迫っている。君ならどうする?」

 この期に及んで冗談に付き合う気は毛頭なかった。けれどジョンのそれは、静かな、確信を持った言葉。ともすれば全能感に満ちた神の啓示に等しい言葉の数々。噂通りならば、ジョンの発言は犯行予告にあたる。エミは困惑して飛行速度を緩めた。

「私だったら、何もしない。仮想を好き勝手にイジった際に起きる悲劇を考慮すれば、そんな事は決して出来ない筈よ」

「それはどうかな?」

「ジョン、貴方は……」

「力があるのに、それを行使しないのは馬鹿の所業だ。このゲームを造った人間だって、力の実践を望んでいる」

 一から十まで、淡々とした静かな口調だった。

 そこにある冷徹な色に、エミは気付いていた。

「――どういう、こと?」

「僕こそがメタ・コスモスの製作者なんだよ、佐々木トオル」


 そして、奴は仕掛けた。


                ⑨


 ヘリで薩摩空港に向かい、飛行場で渡辺家のプライベートジェットに乗り込んだ二人は、一時間半の飛行時間を経て羽田空港に到着していた。そして現在、リムジンの広い車内でアキラとエミは対面していた。いや、厳密に言えばもう一人同席している。

 スーツを着込んで厳然と座す壮年の男、名前は斉武。所属は公安調査庁、上席調査官である。法務省にいるような人間が何で同席しているのか、グローバルネット経由でIDを見せられたが、それでも何も分からないアキラは黙って居住まいを正すしかなかった。

 エミは小型の冷蔵庫から柑橘系のジュースを取り出し、グラスに注ぐ。斉武は固辞したが、アキラまで遠慮すると嘘泣きをし始めたので一杯もらう事にした。昨日もそうだがエミは見た目通りに大人びた面があるけど、時折お茶目な仕草を見せる。ものの見事に翻弄される自分が我ながら情けない。

 一口のつもりだったが、嚥下すると、冷たい糖分が喉を潤わせ、瞬く間に飲み干してしまう。機内でも水分を取っていたが、車内での緊張感で喉が乾いていたらしい。

 グラスをテーブルに置いたエミは、何故か毒酒を呷ったような不退転の決意を滲ませる瞳でアキラを射止める。

「アキラ君、君には私の右腕としてメタ・コスモス内で一体の怪獣と戦って欲しい」

「それがモスクワ消滅の遠因になった奴、って事ですか?」

「……っそうよ、よくご存知ね」

 エミが珍しく狼狽える。そんなに驚く事だろうか。そりゃまあ噂が事実であった事には驚愕しているけど。

「仮想のモスクワとはいえ、何の目的もなく悪戯に核攻撃するとは考えにくいので。荒らし行為にしたって大胆すぎる。なら標的となる敵を撃滅する為に核を使ったけど、たまたま圏内に入ったから現実に反映されて本物のモスクワが消滅した――偶然にしては出来すぎている、きな臭い話ですけど」

「その点については私から話をしよう。よろしいですか?」

 斉武が目配せをして、エミが頷く。

「世界中の諜報機関が血眼になって標的となったアバターと核攻撃に踏み切ったアバターを操作していた二名のユーザーを洗い出し、二ヶ月前にその内の前者を特定した。ユーザー名はジョン、使用するクリエイティブ・アバターの名前は《始祖鳥ブラッド・キング》。本名は城南・ジャック・スミス」

 ありふれた名前で、偽名とすら思えてくる。それにしても城南、どこかで聞いた事がある気がする名字だ。

 リムジンがカーブに差し掛かり体が僅かに右に振られ、昼間の日差しが車体の表面を金属めいた揺らめきと共に滑っていく。

 聞き慣れない単語が出てきて眉を顰めると、エミが透かさず補足する。

「メタ・コスモス内でのみ使用できるアバターの事よ。元々のメタ・コスモスは相互補助をメインとしたウォーキング・シミュレーターに近いゲームだったの。けれどカオス・リフレクションという現象が起き始めてから、製作者がプログラムを作り変えて、今やプレイヤーは通称として《コスモスーツアクター》と呼称されているわ」

 アキラは細い顎に手を当てる。

「スーツアクター……、つーことは敵は怪獣の着ぐるみを模したアバターを使って暴れ回り、そこで核ミサイルなり核爆弾なりのガワを着た別のアバターが攻撃したと。しかも初めからその二人が共謀していたと睨んでる訳ですね、不慮の事故に見せかける為に。でもアレですね、巨大怪獣クラスのスケールがでかいアバターを使うゲームなんて珍しい」

 事前知識と開示された情報から当たりをつけて推測したのだが、エミと斉武が目を丸くしているので肩を竦ませる。また失言でもしてしまったのだろうか。

「俺、また何か不味い事でも言いましたか?」

「いや、少し驚いてしまってな。君にはまだ事件の概要を説明していないと聞かされていたものだから、今回は話の説得力を担保する為に説明役として同席しているのだが、いやはや素晴らしい洞察力だ。これなら私は必要なかったかもしれないな」

「いえ同席して頂いて結構です斉武さん。アキラ君と車内で二人っきりになるのは、その……緊張してしまうので」

 冗談めかす斉武を割と本気で引き止めるエミを目の当たりにして、そりゃこんなチビでガリガリの天パぼっちのコミュ障な陰キャと密室で一緒にいたら気が休まらないだろうな、けどさそんなマジな反応しなくても良いじゃんと独りで落ち込む。エミに認証された心肺モニタリングアプリでもあれば、彼女の心拍数が上昇している事が分かるだろう。やはり校内での発言はユリや晃志を牽制する為の方便でしかなかったようだ。

 あわや淡い期待をするところだった、気を付けなければ自分が後悔する。

 斉武は気を取り直すように咳払いした。

「CIAが情報を掴み、城南・ジャック・スミスが七日前に成田に降りた時点までは把握している。それ以降の足取りを追っているが先日来、行方不明。我々としては何故ジャックがわざわざ八洲に訪れたのか、それについて頭を悩ませているのが現状だ」

「画像をリアルタイムで3D映像へと再構築しフィールドを形成するメタ・コスモスなら、ソーマリンカーのGPS座標をイジれば世界中どこからでも任意のポイントにログインできる。破壊活動を反映して首都を壊滅させる計画があっても、他国からフロウすればそれで済む話。なのにわざわざ八洲にやってきた……」

「真意はともかく、もう一名のユーザーが未だ特定できていない以上、ジャックを探し出して身柄を押さえるのが最優先事項だ。我々の見立てでは、数日中にもジャックが犯行に及ぶのではないかと見ている。そこで君には囮としてジャックのアバターと戦闘行為に及んでほしい」

 要するに時間稼ぎ要員、仮想上で国際指名手配犯を追うお嬢様を護るSPの役ではなく。

 いや当然じゃないか。自惚れるな。俺は弾除けか捨て駒、良いとこ露払いでしかないのだから。

 葛藤を抑え込み首肯しかけて、不可解な点に気付き首を傾げる。

「グローバルネットに接続する以上は逆探知が可能だし、アバターを操作する為にフロウしている間は身動きが取れなくなる。ソーマリンカーの安全機構セーフティを他人の接近レベルで設定していたら、周囲数メートル圏内に踏み込んだ時点で自動的に浮上されて取り逃がしてしまう可能性もありますけど。でも、だったら俺以外でも良くないですか? 前もってゲリラ豪雨注意報が出ている地帯と同じ座標軸にログインして張り込んで、カオス・リフレクションが発生したと同時に出現する奴のアバター相手に時間稼ぎをする作戦な訳だから、それこそ渡辺さんが」

「エミ、で良いわよ。親しい人にはそう呼ばせているから」

 いちいち微笑みかけるのは勘違いしそうになるから勘弁して欲しいのだが。口籠りながら訂正して続ける。

「え、エミさんが対戦した方が作戦成功率が高いのでは? 一度もプレイしていない俺なんかよりも、よっぽど適任だと思いますけど」

 押し込めた筈の葛藤がダダ漏れだった。

「残念ながら私は……訳あって今、本来のクリエイティブ・アバターを封印しているの。もう長い事、コスモスーツアクターとして着ぐるみを脱いでいる……。理由はまだ話せないわ、ごめんなさい」

 微かに紺碧の瞳を翳らせ、顔を伏せるエミに追及できる筈もなく。

 斉武が間を取り持つ。

「我々の方でも候補者を選定したのだが、渡辺さんのお眼鏡に適う者がいなくてな。何しろ敵は強大だ。並大抵のユーザーでは時間稼ぎすら出来ない。そんな折に君が現れて正直ホッとしている。ヘビーユーザーの渡辺さんが見出した君に任せれば長官も納得して下さるだろう。君にも懸念はあるようだが、訓練を積めば問題はなかろう」

 同意の視線を送られたエミは、既に表情から沈痛の色を吹き消していた。膝の上で掌を重ね、居住まいを正す。瞳に強固な意思の光を宿し、決然と告げる。

「アキラ君、私の代わりに奴に引導を渡して。これは君にしか出来ない、君がやるべき使命なのよ」

 やるべき、が意味する所は解りかねたものの、今更そんな事は出来ませんと白状する訳にもいくまい。アキラも倣って背筋を伸ばし、覚悟を決めた。

「命を賭けてやり遂げてみせます、貴方の為にも!」

《カオス・リフレクション》環境下でプレイするという事は、つまり現実の他者の命すら危険に晒すという意味だ。《メタ・コスモス》は、ただのゲームではない。


                ⑨


『さてアキラ君、今から君に《メタ・コスモス》の起動コマンドを教えるわ。《対戦》のノウハウはフィールドに到着してから説明する。では私に続いて復唱して』

 一瞬だけ間を置く。緊張の瞬間だった。

『《コスモス・エヴァ》』

 続けて思考音声で念じる。

『《コスモス・エヴァ》』

 ドン、カッ、キゥルルル! ドン、カッ、キュルルル――デーン!

 何処か聞き馴染みのある大音響が、アキラの脳内で木霊した。

 暗転。目の前のエミも、ラウンジも闇に沈む。

 通常の《ディープ・フロウ》とさして変わらない感覚がアキラの全身に伝播する。現実から隔絶される。が、いつまで経ってもアキラご自慢のアバターが生成されないし赤色の光に包まれる訳でもない。すると彼方から強烈な光が差して、反射的に目を閉じた。

 目蓋の裏に見覚えのあるボクセルフォントが浮かび上がった。

【GAME START!】

 数秒後、目蓋の裏に感じる光が弱まったので恐る恐る目を開けて、頭を殴られたような衝撃を受けて固まる。

「な、なんじゃこりゃ!?」

 まず視界端に赤いバーがぐいーっと伸び、その下に青いバーが続いてゲージを形成した。更に下に表示された名前は、《次世代ゴールド・タイタン》。

 これがゲームのUIだという事は直感的に理解できる。驚愕したのはそこではない。

 まず視点が恐ろしく高い。ソーマリンカーのGPS座標をズラしているから屋外に出現し、都心の高層ビル街のど真ん中で突っ立っていた。周囲三六〇度に林立するのは超高層ビルや雑居ビル、遠くに見えるのは仏壇屋の広告塔で、聳え立つ丸に「仏」の赤い文字が入っている。でもあれは高さ三〇メートルもある鉄塔の筈なのに、今やアキラの視点より相当低い位置にある。もはや巨人じゃないか、たぶん身長六〇メートル級の。

 だがそれを除けば、周囲に広がる光景は現実そっくりで3D映像として再構築されていた。片側三車線の道路、コンビニやガソリンスタンド、オフィスビル、大きな駅のホーム、地元とは比べ物にならない回転数の多いバス停、中天に煌めく太陽、その全てが都会の景色だ。

 しかし幹線道路で渋滞する車の群れや、往来を行き交う人々は綺麗さっぱり消えている。現在進行系で移動する対象物は反映されない異様な光景だからこそ、あくまで精細な仮想空間であると痛感できる。

 これは凄まじいグラフィックだと感心して、ようやく自分の体を検める。

 てっきり見慣れた銀ピカのアバターかと予想していたのだが――。

「くっっろ!!」

 先程よりも一際大きく叫んだ。

 視界に入ったのは、脚も、胴も、腕も、ほっそりとしている。が、色は光沢のない漆黒の体だった。元々のアバターのようなテカりは一切ない。

 まさかと思い慌てて顔に手をやってみると、目と口と耳の形は大して変わっていないので一安心する。

 ただやっぱり――脚を持ち上げてみると現出時に踏んづけて崩壊させた歩道橋の残骸が粉々の瓦礫として足裏からぽろぽろ落ちた。仮想空間だと分かっていても居た堪れない気持ちになる。「国土交通省さん御免なさい」と心中で謝罪していると、近場の高層ビルの屋上に人影を見つけた。道中の雑居ビルの窓を覗き込むと、やはり顔のパーツは変化していないが色は真っ黒だ。まさに黒尽くめの巨人である。全てがジオラマに見える様々な物体を極力壊さないように歩いて、屋上に顔を寄せる。

 夏の温い風で靡く、ツインテールでストレートの黒髪。ふわりとしたドレス。蜉蝣のような翅。

 清楚なセーラー服とは違う、ゴシック調の妖艶な白黒ドレスのアバターが巨人アバターと化したアキラを見上げる。エミが言っていたように、今の姿はダミーとして使用しているアバターなのだろう。

 現実とは違い、この仮想下では身長差が逆転している。なのでエミの肩が露出したドレスから膨よかな胸元がばっちり見下ろせた。現実の自分では届かない視角を獲得できて良かったと思う、決して邪な意味ではなく。

「それが君のクリエイティブ・アバターなのね。《次世代ゴールド・タイタン》、素敵な名前。色は……覚醒形態があるのかも。何よりフォルムが素晴らしいわ。美しい……」

 エミは屋上の淵まで歩き、巨大な頭に手を伸ばして黒色の表面をつるつるとなでなでした。陶然とした表情で、愛おしそうに。

 照れそうになった自分を戒める。エミが心酔しているのはこの見た目の元となったであろう巨大ヒーローのデザインであって、アキラ本人の姿ではないのだ。あくまでアバターの姿形に対する評価で、そこを勘違いしてはいけない。

「まあ元のデザインが良いんで……。てか、この見た目や名前は誰が設定したんですか? 他のVRゲームじゃ巨人のアバターなんて殆ど見かけませんけど」

「デザインと名前はメタ・コスモス・プログラムが君の深層意識に描かれた理想像を汲み取ってアセンブルし生み出したものよ。――君は昨夜、とても長く怖い夢を見たでしょ?」

「……はい」

 内容は思い出せないが、それが怖気も震う悪夢だった事は直感的に憶えている。あれが理想的な夢?

「理想像と劣等感は表裏一体なのよ。誰しも理想を追求し、しかし一向に届かない。それ故に現状の自分に対し不満を抱く。何で現実の自分はこのザマなんだってね。プログラムが読み取るのは理想像の裏側、理想に向けて邁進し焦燥に駆り立てる強迫観念よ。だから基本的にベースカラーは暗色系になりやすい」

「俺の理想像……だから俺が使ってたアバターとパーツは類似している」

 内省に陥りそうなった頃合いを見て、エミが切り出す。

「赤が体力ゲージで、青が必殺技ゲージ。青は元々はスタミナゲージだったけどね。必殺技ゲージは開始時点では満タンだけど、通常攻撃を当てる/相手の通常攻撃や必殺技を食らう事で、仮に全損しても徐々に回復していく。自分の名前をクリックすれば、《インスト》が開いて君のクリエイティブ・アバターに設定された必殺技の全身コマンドを確認できるわ」

 この見た目で弱っちい筈がない。

 アキラはドキドキしながら長大な黒い指を伸ばし、自分の名前を押した。

 シンプルな人型のアニメーションで体の動きが表示され、その右に技名が表示されている。

 まず一つ目、垂直に立てた右手に、水平に構えた左手を添えるモーション。必殺技《光線》

 次に二つ目、両手を胸の前で水平に折って、右手を振りかぶるモーション。必殺技《光輪》

 そして最後に、くっつけた両手を水平に開き、しゃがみながら両手を下ろすモーション。必殺技《防壁》

 更にその下にはアビリティとスキルという項目があるのだが、何故かどちらも空白だった。

 一応ステイタスの方も確認しておく。別枠で戦績と共に表示された。


次世代ゴールド・タイタン

 Lv.1

 筋力:SSSS2206 耐久:SSSS2222 敏捷:SSS1344 重力:SSSS3025 活性:S1067

《アビリティ》

【 】

《スキル》

【 】


《戦績》

【 】


 概ね予想通りのステイタスで他人なら満足するのだろうが、アキラにとって最も重要なワードが見つけられず愕然と肩を落とす。

「あの……アビリティのとこに飛行とか書いてないんですよ」

「……ふむ。何度か対戦を繰り返したらアンロックされるタイプなのかも、私も初めて聞くわ。ま、近い内に飛べるようになるわよ。なんてったって私が見込んだ逸材なのだから、君は」

 気落ちさせないよう楽観的に顔を綻ばせ、再び白い手でアキラの卵型の頭を宥めるようにすりっと撫でた。

 子供扱いされているようで少しムッとしたけど、エミの美貌に浮かぶ微笑を間近にすれば腹を立てる方が阿呆らしかった。つくも製作所のご令嬢に慰めてもらえただけでも、儲けものだと思う事にした。

「すぐに訓練と行きたいところだけど、まずはお昼にしましょ。腹が減っては戦は出来ぬ、ってね」

 お茶目にウインクして見せたエミに続いてログアウトした。少しドキリとしたのは内緒だ。


 場所は帝都私立荒俣高等学校の校舎一階、学生食堂に隣接したラウンジである。安物の長テーブルがぎっちりと並ぶ学食とは違い、半円形のラウンジには瀟洒な丸テーブルが余裕を持って並べられている。大きな採光ガラスからは、綺麗に刈り込まれた芝生の庭園が一望できる、校内きっての上等な空間だ。

 本来ならば一年生は使用できない不文律があるそうなのだが、校内にはお家柄のヒエラルキーが存在するらしく、エミは最上位に君臨する特権として一年生ながら堂々と椅子に腰を落ち着かせている。それに金魚のフンの如く引っついて相席しているのがアキラだ。

 まさか転入初日で最初に訪れる場所がこんな特別空間とは思わず、いや自分は昼飯ヌキでも平気ですから! と逃避しようとしたが、食堂の入口で嘘泣きされてしまえば降参するしかなかった。

 女の武器をちゃっかり使う強かな少女、それが渡辺エミである。

 テーブルから持ち上げたティーカップに口をつけるエミの隣には手つかずのカルボナーラが置かれ、真新しい制服に袖を通すアキラの前の生姜焼き定食と同様に熱々の湯気を立てている。

 日頃のアキラなら学食を利用しないから絶対に頼まない昼食なのだが、エミ曰く「しっかり食べないと、いざという時にばたんきゅーとなったら困るわよ」だそうだ。いつジャックが事を起こすか分からない以上、尤もな意見で反論の余地はない。なのだが、これ自腹なのだ。小遣いの五百円を使い果たし完全に足が出てしまっている。

 ヘリとかプライベートジェット機内で転入のあらましとかは一応聞き及んでいたけど、学費は渡辺家が出すそうだが今後のアキラの懐事情はどうなるのだろうか。

 アキラと有線接続したエミは、思念だけで器用に鼻歌を唄っている。ようやく昼食にありつけるから上機嫌なようで、食事は燃料補給程度にしか思っていないアキラは周囲の上級生から無遠慮に浴びせかけられる非難の視線の方が気が気でない。どうせなら学食の隅っこで食べたいと思っていたが、《対戦》の説明は秘匿情報になるから有線接続しないといけないと押し切られた。説明を終えた今、どうやって席を立つか画策したけどエミの機嫌を損なうのは憚られた。

 二人でランチを楽しみたい、なんて自分の希望的願望に過ぎない。転入したばかりのアキラを見放せないだけだろう。単なる同情だ。

『ひとまず接続を切るわよ、冷めてしまうわ』

『あのっ!』

 ここで尋ねておかないと、次の機会は放課後になってしまう。

『今後の俺のメシ代とかはどうなるんでしょうか? 学費だけでもアレなのに、小遣いまで貰う訳にもいかないし、バイトするしか……』

『ああ、それは出来高払い金で事足りるわよ。成田家の口座に振り込んでおいたわ。君に頼んだ仕事が上手くいけば正式に契約を締結する事になるから、契約金が入れば余裕で三食とも豪勢な料理にありつけるようになるでしょ』

『け、契約? 俺プロゲーマーになるんですか!?』

 そんな話は初耳だ。危うく椅子から転げ落ちそうになった。対してエミは平然と答える。

『それだけの技倆があれば君はメタ・コスモス以外でも、腕の立つプレイヤーになれると私が判断したから。まあ本音を言えば事件が解決した暁にはメタ・コスモスをプロスポーツとして採用されるように色々と便宜を図って貰うつもりだけど。無論、法律的な問題をクリアしてね』

『……まあ圏外で対戦すれば現実に悪影響は出ないですし、法律と競技人口の問題さえクリア出来れば……あり得ない話ではないですね』

 エミはビシッと細い指を突きつけ、キリッと眉を寄せる。

『私が先物買いしたんだから、他所に移籍とかしないでよ。その話込みで君のご両親には納得して頂けたのだから』

『でも、俺の親をそれだけの交渉材料でよく説得できましたね。ゲームとか興味ないのに』

 不意にエミの思念が強張った、ような気がした。口の中で言葉を転がすように唇がむずむずと動き、やがて躊躇うような思念が伝わる。

『……君のご両親に出来高払い金の一億で話を持ちかけたら、笑っちゃうくらいアッサリ了承したわ。迷う素振りは全くなかった、お母様の方は特にそう。即決で話がまとまったわ』

『い、一億!?』

 予想だにしない金額に目ん玉が飛び出そうになる。もはやプロ野球のドラフト一位指名選手以上ではないか。

 だが両親の対応に驚きはなかった。むしろ得心がいった。その点について動揺する仕草を見せないアキラを前にして、エミが気遣うように窺う。

『ご両親の事は驚かないのね?』

『まあ……想像の範疇に収まる結果ですから』

 自嘲気味な笑みを頬に刻む。それだけでアキラの複雑な家庭環境を察したのだろう、エミは切り替えるように表情を綻ばせて得意げに告げる。

『本当は六億かけて話を決めにいくつもりだったのだけれど、私がすぐに動かせる限度額が一億だったから妥協したわ。別に貴方が一億円の価値しかないと見て話をした訳じゃないからね、念の為に言っておく。そこは勘違いしないで』

『でも俺にそんな、一億円もの値打ちなんかないですよ』

『競走馬となるサラブレッドだってセレクトセールで数億の値が付いたりする。その馬が名馬になる保証なんて殆どないのに。それに比べれば貴方が大成するかどうかを直に見極める事ができた私は幸運よ、分の良いギャンブルね』

 事もなげに言う都会のお嬢様は金銭感覚が桁違いだ。もし仕事をミスったらどうなるか、小心者のアキラは惨憺たる結果を想像して身震いする。ジャックとの戦闘状況を想定すれば、現実の都心に被害が反映されて多大なる人命や経済的損失が出るかもしれないのに。

 ひとまず話に区切りがつき、エミはぷちっとケーブルを引き抜いた。腹が減って仕方がないらしい。

 その時、対照的なリアクションを見せる二人の間に数人の生徒が立ち入る。先程から別のテーブルで二人の様子を窺っていた人達で、リーダー格の一人がトオルに話し掛けた。

 アキラと同じ赤色のピンを付けた痩せて小柄な同学年の少年だった。小柄、と言ってもアキラより五センチは高い。荒俣高校では男子が学ランなのだが、今は夏なので半袖の夏服に生地が薄い黒ズボンという出で立ちである。少年の顔の輪郭は丸みを帯びて、ともすると中学生ぽく見えるが、両目の辺りに宿る陰影だけが幼い印象を裏切っている。

「渡辺さん、彼が期待の新人ですか?」

「そうよ。ようやく私の右腕が見つかったわ」

 嬉々として答えるエミは話に置いてけぼりなアキラを気遣ってか、手で差し示して紹介する。

「アキラ君、こちらは黒岩誠くん。私とは別のユーザーに見出された仕事の候補者よ」

 都心の危急存亡に関わる作戦のため人前では情報漏洩しないように別の言葉に置き換えて話すよう、斉武から言い付けられている。とはいえこんな身近に他のプレイヤーがいるとは思わなかったけど。

 そこでふと黒岩がポケットからケーブルを取り出し、アキラに有線接続を要求してきた。

「同じ候補者として仕事の話を少ししたくて。共同で取り掛かる場合も想定しておけと、斉武さんからも言われているので」

 不愉快そうに眉を顰めたエミはちらりと目線を寄越し、アキラは了承して頷く。ケーブルを接続し終えて開幕早々に、

『何でお前みたいなガリのチビ如きが、エミ様が選んだ候補者なんだよ。舐めてんのか?』

 様、ときた。豹変ぶりに目を白黒させたものの、この手の罵倒には慣れているので大して心理的なダメージはなかった。晃志に百回以上言われた悪罵に近いから。

 黒岩は人の良さそうな笑顔を作ったまま更に不平不満をぶちまける。

『貴重な一回こっきりのコピーインストールをこんな見るからに雑魚っぽい奴に使っちまうなんて、どうせお前がエミ様を脅迫して強要したんだろうが』

『何を根拠にそんな事を……』

『じゃあ何か? お前はエミ様の試験を受けたのかよ? 大方お情けで合格を貰っただけだろう。エミ様もコピーを渡しちまったら後には引けねえから』

『試験? 何の話だ?』

 途端に黒岩は思念で器用に哄笑し、肩を震わせる。その瞳には侮蔑の色がありありと浮かぶ。

『試験すら受けてねえのかよ! こりゃ大物だ! いいか、お前以外の候補者は全員プログラムをインストールした後にエミ様に模擬戦を観戦して貰って仕事に使えるかどうかの合否を出されてんだよ。なのにお前は……どうせ敵がいつ攻めてくるか分かんねえからエミ様も功を焦ったのだろう。そりゃ所詮は雑魚だから試験なんざすりゃ不合格を出すしかねえもんな! だから特別に試験を免除したわけだ』

 思考が凍りついたように停止した。

 心臓が早鐘を打つ。

 動悸を抑えながら、エミを見遣る。会話の内容を窺い知れないエミは眉を顰めて目線で「なに?」と問いかけてくるが、今のアキラにはその碧い瞳に憐憫の色が浮かんでいるように思えて、全身がかあっと熱くなった。

 実際、エミから試験など一切受けていないのだから。 

『お前みたいな足手まといがいると仕事の邪魔なんだよ。分かったらさっさと田舎に帰んな、グズが』

 そこで無理やりエミがアキラのソーマリンカーからケーブルを引っこ抜いた。眦を決して黒岩を睨み、底冷えする声で問い詰める。

「黒岩くん、どういうつもり?」

「別に。僕はただ試験も受けていないような奴に、仕事を任せるのは危険だと忠告しただけですよ」

「……っ」

 声を詰まらせるエミの反応が答えだった。

 硝子のプライドが潰されていく音がする。

 黒岩は調子づいて反論の暇すら与えず続ける。

「渡辺さんはどう思います? 試験も受けずに我が物顔でラウンジに居座っている奴がいるとしたら? 実力も身分も伴わない下民風情が調子こいていけしゃあしゃあと我が校の学食を食べて、自分が偉くなったと勘違いしている頭がおめでたい奴が目の前にいるんですよ」

 パキパキパキ。

 黒岩は言葉巧みに転入者としてのアキラを批判するような口ぶりで言い触らす。黒岩の取り巻きは失笑し、周囲のテーブルで昼食を堪能していた先輩達は釣られて出る笑みを噛み殺す。

 パキパキパキパキパキパキ。

 アキラとエミとの間に一線を引かれた感じがして、まるで世界が隔たったかのようだった。いや元よりこれが彼女と自分との距離なのだ。

 俺が浮かれていただけなのだ。エミがチビで、ガリで、嫌われ者の自分に声を掛け、手を触れ、好意めいた仕草を見せて――それを勝手に都合よく解釈した勘違い野郎、それが黒武者アキラ。

 パキパキパキパキパキパキパキパキパキ。

「渡辺さんだってこんな奴と一緒にいたら嫌でしょう? 自分より頭が悪くて、情弱で、分を弁えない守銭奴なんて。そもそも根拠のない自信だけで空回りしているクソ雑魚野郎に、貴方の隣に立つ資格なんてありゃしないんですよ。それは貴方自身が一番よく分かっているでは?」


「低学歴じゃあ、つくも製作所の令嬢である渡辺エミには釣り合わない」


 椅子を蹴飛ばし、立ち上がる。

 そして殺到する視線を振り払って、逃げるように全速力で駆け出した。

「アキラ君!? 待って!!」

 制止の声を振り切り、食堂を行き交う生徒達の間を走り抜け、誰の声も視線も置き去りにして。

 俺は、校内を駆け抜けていく。


                ⑨


 ただひたすらに悔しかった。

 アキラは逃げる。涙ぐんだ瞳から澎湃と水滴が浮かび、忽ち背後へ飛散していく。

 これまで交わしたエミとの会話が、エミの仕草が、そして先程の醜態を目にしたエミから向けられた歪む眼差しが走馬灯のように脳内を駆け巡る。

 他人に馬鹿にされて惨めな気持ちになるのは初めてじゃない。なのに何でこんなに心が痛むのか。それは思い上がっていたからだ。笑いの種にされ失笑され、事情も知らない第三者にすら忍び笑いされ挙句の果てには擁護して貰える事を当然のように期待していた自分を、初めてデリートしてしまいたいと強く思った。

 でも現実は、仮想のようなポリゴンで構築されていない。現実で起こった出来事はログのように消去できない。そう思ってしまう自分がいる事すら恥ずかしい。

 黒岩の放った全ての言葉が胸を抉る。

 つけ上がった情弱――あれだけ勘違いするなと自戒していたのに。

 エミが自分の現実を変えてくれた。あの忌まわしき場所から連れ出してくれた事に舞い上がって、何故エミが自分を選んだのかという理由を気にも留めていなかった。冷静に考えてみれば〈たかがフライト・シミュレーターの結果だけで候補者として選抜する筈がない〉のだから。

 では何故か、理由は黒岩が述べた通りだろう。功を焦る。そうしないと唯一のコピーを明け渡したエミが損をするから。譲渡した事で引っ込みがつかなくなった。

 そもそもアキラがどのような姿形/性能を持つコスモスーツアクターなのかすら確認せずに『私の右腕』と称して斉武に紹介した。あれは根拠のない自信、いや失策を隠蔽する為の方便でしかなかったのだろう。

 損得勘定と同情心で引き抜かれ、内情バレを防ぐ為に親切に接していただけなのだ。それなのに自分は彼女と親密になれたと驕り高ぶった。本当は〈何もかもしなければ〉、自分は彼女の隣に立つ事さえ許されない。

 晃志にイジメられていた頃の自分なら、エミのような全てを持っている人の視界に入る事ですら恐怖体験だった。それがたった一日でこのザマだ。環境が変わっただけで、手前は何も変わらないのに。

 抹消の対象は黒岩でもなければ周囲で小馬鹿にしていた上級生でもない。

 何も成し遂げていないくせに都合よく【何者かになれた】と勘違いしていた、愚かな自分だ。

 ――消えろ、消えろ、消えろッ!!

 黒岩の言葉を無条件で肯定してしまう惰弱な自分を消したい。

 何一つ言い返す事のできない無様な自分を消したい。

 エミにとってハズレくじに過ぎない無力な自分を消したい。

 エミの傍にいる資格を、一片も持っていない自分を徹底的に消してしまいたい。

 その時、視界中央に警告表示が投影された。

【超大型アバター現出、候補者は急行せし】

 カオス・リフレクション発生警告が発令されていないのに、敵がメタ・コスモスにエヴァしたのだ。

 敵の思惑は分からないが、やるべき事は決まっていた。

「……ッッ!!」

 アキラはトイレの個室に駆け込み、鍵を閉めて蓋をしたままの台座に座る。

 目蓋を閉じて、メタ・コスモスの起動コマンドを口にする。

 何でもいいから、とにかく証が欲しかった。自分がここにいても良い証が。

 閉じた目蓋の目尻から一滴の涙が零れ、頬を伝う。

「コスモス・エヴァ……!」

 アキラは戦塵吹き荒れる仮想空間へと突入した。

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