壱 飛来

 仮想時間割表の右上に、受信の手紙マークが点滅した。

 体育の授業を木陰で見学していたアキラは、びくりと首を縮めてから両目の焦点を移動させた。

 その途端に時間割表はスッと彩度と明度を落として半透明化し、サッカーに興じる生徒達と、それを見守る教師が鮮明化された。

 青空、校庭、そして生徒と教師は現実の存在だが、今は透過した時間割表と視界左上の時計はその限りではない。ローカルメモリに保存された時間割表とデフォルトで搭載された時計を、アキラの項に装着された《ソーマリンカー》が脳内で直接映像化している。

 視線を近くに戻すと、時間割表が再び実体化した。よもや授業中に他の教科担当の教師が宿題の詰まった圧縮ファイルを配布するとは考えにくいし、かと言ってグローバルネットから隔離された現状に鑑みれば、送信者は同じ学校の生徒としか思えない。

 相手が男子だろうが女子だろうが心当たりはある、という事実がアキラの心を重くする。女子には一人心当たりがあるもののわざわざ校則を破ってまでラブレターを送ってくるとは到底思えない。そもそもそんな甘酸っぱい間柄では決してない。となれば男子になる訳だが、こちらの場合だと今すぐメールを視界端のゴミ箱にドロップしたい衝動に駆られたが、そんな暴挙に出れば後が怖いのは火を見るより明らかだった。

 嫌々ながら左手を宙に掲げて、メールアイコンを指先でクリックする。

 瞬間、音割れしまくった大音響と原色塗れでフラッシュを焚きまくるグラフィックがアキラの聴覚野と視覚野にぶちまけられた。こちらの意識が安定を取り戻すよりも早く、文字ではなく音声でメッセージ本文が再生される。

【ガガンボに本日の勅令を告げる! (バックにわざとらしい拍手と口笛)焼きそばパン二個と、コロッケパン一個と、焼きプリン三個と、いちごミルク三箱を昼休みスタートから五分以内に体育館裏まで持って来い! 遅刻したら肩パンの刑! チクったらその肢むしり取ってやるからな!(爆笑)】

 陽炎が揺らめく校庭のフィールドから感じる視線を振り切って俯く。どうせ目線を寄越せばサッカープレイ中の晃志とその手下A・Bの嘲笑が視界に入り、屈辱を上塗りされるだけだ。

 授業前に作成したメールなのだろうが、貴重な休み時間を潰してこんな下品な視聴覚エフェクトを仕掛けたり音声を録音するなど阿呆みたいな所業である。他にやる事はない暇人なのか。

 無論、この事を当人達に向かって口頭で吐き捨てるなんて出来ず、ましてやメールで同じ手口でやり返す事も出来ない。晃志が、いくら時代が進んでも絶滅しない細菌塗れのゴキブリ級ヤンキーだとして、そんな奴に為すがままイジメられている自分は輪をかけて絶滅しない愚かな弱者だからだ。

 事実、自分にとって多大なる度胸と行動力さえあれば、このメールや密かに撮影した視界スクショを含めて保存しておいた中学から現在に至るまでの数百件に及ぶ《証拠品》を学校に提出して、連中を停学、いや万引き教唆まで含めたら退学にだって追い詰める事が出来るかもしれない。

 でも、アキラはどうしてもその先を想像してしまう。

 2125年という現代において、いかにソーマリンカーが一人一台レベルにまで普及し、学業や職種によっては生活の半分を仮想ネットワークに結託しているようになっていても、全てが電子化された訳ではない。内臓まで含めた全身の機械化技術には未だ深淵があり、結局は人間の生身が実在性を発揮するのは有史以来から何も変わっていない。肉体は今でも枷として個人を現実に規定し続けている。仮想上で食事しても現実の自分は腹が空くし、腹を下せばトイレに直行し、仮想上では無敵でも現実では炎天下にやられて熱中症でばたんと倒れて何度も保健室に運ばれ、そして――腹を殴られれば嘔吐するし、肩を蹴られたら痣は出来るし、激痛と屈辱で人目も憚らず泣くのは死ぬほど惨めだ。

 それに、イジメが明るみに出れば『イジメられっ子』という厳然なる事実が親にバレてしまう。あの人達に知られてしまった時のリアクションを想像すると、夜も眠れなくなる。

 どれほど高等なリンカースキルを持っていても、それで他者を圧倒できるのは一部上場企業の社員だけだ。実際、そのスキルが進学や就職に役立つなんて誇大広告を打ち出しているのは巨大ネットワーク企業くらいしかない。いつの時代も共同体内のヒエラルキーを決定づけるのは、外見や腕力や話術といったアナログで原始的なパロメータだけ。

 これが、中学三年までに頭打ちになって身長が150センチまでしか伸びず、体重が40キロしかなくて、そのくせ五十メートル走は学年で十位圏内の俊足を持つのに以前コケただけで骨にヒビが入った虚弱体質の黒武者アキラが十五歳にして出した結論だった。



 朝、父親からソーマリンカーにチャージしてもらった昼食代の五百円は、晃志達にパンとジュースを奢らされて懐がすっからかんになってしまった(デザート分は足りないからと、それぞれ肩甲骨にパンチ一発で手打ちにしてもらった)。小遣いなんて贅沢は自分のような卑しい母親の子供には夢のような話で、つまり今日も昼飯ヌキで空腹に耐えるしかない。皮肉にも幸いアキラの細身は燃費が異常に良く、一食抜いた程度なら目眩がしてばたんキューとはならず夕飯まで持ち堪えられる(だからほぼ毎日タカられてしまう訳だが)。

 とはいえ、いつまでも校内を彷徨っていると何処で晃志達に鉢合わせて暇潰しに肩パン三十連発を食らわされてしまうかと恐怖し気が休まらない。それに出会うと別の意味で面倒な事になる女子が一人いるし。だからアキラは《ディープ・フロウ》で昼休みを凌ぐ事に決めた。

 周囲を警戒し肩をびくつかせながら目立たぬよう細く小さな体を限界まで縮め、アキラがふらりと立ち寄ったのはトイレだった。ディープ・フロウ中に尿意に襲われて接続が切れるとガッカリするから。手早く用を足し、洗面台で洗った手をハンカチで拭いていると、ふと洗面台の上の鏡が目に入った。

 微妙に汚れたガラスの向こうから見つめ返すのは、細身で低身長の如何にも弱っちい《棒きれのようなイジメられっ子》。

 人工芝と揶揄されたクセの強い天然パーマは今日もあちこちに跳ね上がり、輪郭線はシャープさを極めて顎の骨が浮き上がりそうだ。病気と思える程に細い首回りのネクタイと銀色のソーマリンカーは比して太く見えて、まるで過労死寸前の社畜じみている。

 一度くらいはこの外見を何とかしようと一念発起してみたが、大食いを売りにした料理店で外食した時は食い切れず胃液まで嘔吐し出禁になるわ、クラスのカースト上位の男子に土下座して借りたヘアアイロンで格闘したものの前髪だけストレートというギャグみたいな醜態を晒して数人の女子から失笑を買ったり、碌な事にはならなかった。

 それ以来、アキラは現実の生身を捨てると断腸の思いで決断したのだった。

 トイレから出たアキラが向かったのは、隠れ場所である図書室だ。電子書籍が国内シェアを半分以上独占しても実体の物質として存在する紙の書籍が淘汰される事はなく、ネット上に跋扈する情報の不正確さは前世紀の頃から大体お察しなので、今でも資料用としてペーパーメディアの本が学童教育に用いられるため真新しい背表紙の本が書架に並べられている。

 そのおかげで校内に貴重なパーソナルスペースが存在し、そこを隠れ家として確保するアキラのような肩身が狭い生徒にとっては防空壕シェルターとしても機能する。今から図書室の本来の用途とは外れた利用法を取るのでカムフラージュとしてハードカバーを二、三冊抱えて奥まった最も壁際の閲覧ブースに閉じ籠もったアキラは細身で余裕がある椅子に腰掛け、力を抜いて目を瞑り、いつものように呟く。

 唱えるのは、鬱屈とした現実から意識のみを逃避させる魔法じみた詠唱――十分に高度に発達した科学は魔術と見分けがつかない。

「ダウン・カレント」

 音声コマンドを受理したソーマリンカーは、量子接続範囲を視聴覚ステージから五感ステージへと移行させ、意識が仮想へと潜行していくのに従ってアキラを苛む体の軽さと空腹感が消えていく。

 座る椅子の固さ、図書室に満ちる本の匂い、図書室内のあちこちで密かに響く囁き声、目蓋の裏に貼り付く暗闇まで全てが深淵に呑み込まれていく。まるで光が届かぬ深海へ潜行するように。

《ディープ・フロウ》。

 重力すら振り切って、恰も漆黒の宇宙空間へ放り出されたかのようだ。

 だがそれを宇宙遊泳として繋ぎ止めるのもソーマリンカーの機能だ。無重力じみた浮遊感と共に虹色の中で最も波長が長い赤色が全身を包み、両手足の末端から徐々にディープ・フロウ時に用いられる《仮想体アバター》が生成されていく。

 細長い手足、均整の取れた四肢、すらりとした胴体は光沢のある銀色。自分では視認できないが、卵型の顔にはこれまた卵型の目が光り、口は彫刻じみている筈だ。現代では祖父母世代しかリアタイ視聴していない、今は無き空想特撮番組に登場する巨大ヒーローに寄せた姿形。とはいえ流石に巨体までは再現できないけど。

 引き算の美学と化したアバター姿で、すとんと降着したのは、画一的で潔癖症な1980年代以前のイメージを投影する未来都市といった風情の街中だった。

 網目状に張り巡らされた道路の間を縫うように建てられた超高層建築物で構成される過密都市、彼方には摩天楼が聳え、空を車が飛び交い、一際眩しく陽光を照り返す街の中央にはドーム状の採光ガラスの天蓋に縁取られた塔が幾つも並び立つ。環状線が外周を囲み、そこかしこに軒を連ねる喫茶店はミッドセンチュリー調の丸みを帯びた家具やビビットな色彩で構築され、屋外コートや都市緑化の公園など歓談やレクリエーションに使えるような空間設計となっている。

 この仮想空間が、薩摩第二十八区に存在する私立華僑高校の学内ローカルネットである。

 往来を行き交う人々も殆どが人間の姿をしておらず、人間型や動物型のロボットが半分、あとはヘルメットやマスクで素顔を隠す者やツートンカラーのシンプルな隊服を着たアンドロイドあり、ブリキの玩具あり。彼等は一人残らずローカルネットに潜行している華僑高校の生徒・教師のアバターである。

 生徒のアバターは、数多用意された素体から自由に選択・カスタマイズできる。執着と根気があれば、用意されたエディタを駆使して完全オリジナルの姿を一から組み上げる事も可能だ。所詮は高校生のセンスと技術なのでモデル元には程遠い見た目になっているが、そのおかげで晃志に巻き上げられずに済んだ。そりゃ赤いラインが入ってないからパッと見では古いSF映画に出てくる銀ピカのロボットに見えなくもないだろうが、実際のところは現代の高校生で巨大特撮ヒーローを知っている者が絶無という実情の表れだろう。

 このアバターを四月に初めて披露した時も大して注目を浴びる事もなかったし、たった一人を除いて。

 アキラはいつも通りに小走りで道路を渡り、お目当ての場所に向かって進む。

 道中ハチ公前を模した広場に差し掛かった時、一際大きな人だかりが出来ているのを認めた。そそくさと通り過ぎようとしたアキラは、人垣の隙間から見えた人影を認めて思わず歩調を緩めた。生徒の輪の中央に、見慣れないアバターを発見したのだ。

 デフォルトセットで構築されたものではない。ゴシック調のツートンカラーで彩られた、フリルとレースをあしらったドレス。手には畳んだ日傘。背中には蜉蝣のような儚い半透明の翅。

 長いストレートの黒髪をツインテールに纏め、その顔は雪のように白く、ビスクドールじみた風情はとても自作とは思えない程の造形美だ。アキラなんて足元にも及ばない、実はその筋のプロではないかと思える程に完璧なデザインスキルだ。

 華奢な体で噴水の縁に腰掛ける彼女は、周囲のアバター達の言葉を聞き流しているのか、物憂げな表情で虚空を見つめている。あんな生徒がこんな田舎の高校に在籍していただろうか。制服姿ではないから上級生かどうかも判然としない。もしや転校生か講談の下見に来た部外者かもしれない。ともあれ人間そっくりの姿をしたアバターが少ない華僑高校ローカルネット内において、彼女は異彩を放っている。いやゴシック調でなくても、あの美貌なら生徒達の目を釘付けにするには十分過ぎるだろう。

 ふと目が合った、ような気がした。

 並の男なら一目惚れし後先考えず告白して玉砕されるのだろうが、アキラの場合は美人の視線に晒されたと錯覚するだけで自意識を苛む劣等感と矮小感がいやに増す気がして、視線を切ってひた走る。

 視線を振り切るように全力ダッシュで駆け込んだ先は、レクリエーションルームが広がる街区だ。端的に言うとゲームコーナーだが、言わずもがな市販ソフトじみたRPGやFPSやTPSやロボゲーや格闘ゲームなどは一切ない。クイズやパズルなどの知育系、または学校らしく健全なスポーツゲームばかりだが、それしかないと言ってもゲームはゲームなので多くの生徒達が各コーナーに詰めかけ、歓声を上げている。

 彼等は皆一様に教室や食堂や図書室などの屋内からフロウしている。その間は生身の体が無防備に晒される訳だが、フロウ中の人間に悪戯するのは明らかなマナー違反なので殊更に神経質になる者は殆どいない、アキラを除いて。大抵の生徒は違反など犯さない、晃志みたいな奴等を除いて。だから図書室の個室からフロウしたのだ。

 別に現実と仮想の視線から逃避したい訳じゃないと自分に言い聞かせながら、街区の表通りを避けて裏路地を突っ切り、地下フロアに続く建物が多い区画へ到達した。

 ここまで来ると野球、サッカー、バスケ、バレー、テニス、卓球やゴルフなどの人気スポーツをプレイできるルームは皆無になる。あとに残るのは学術系に応用できる、それこそ工業系に通じる企業が体験イベントなんかで出し物にしているような内容のゲームしかない。

 そして今、地下フロアに続く階段を降りたアキラの前に立ち塞がる扉の向こうに広がる場所こそが、《フライト・シミュレーター・ゲーム》のコーナーだ。

 生徒は自分以外に一人もいない。不人気なのは当然だ。単純にフライト・ゲームなら市販ソフトでも存在するように、敵機を撃墜したり逆に敵機からの追尾を振り切ったりと面白みがあるけど、ことシミュレーターとなれば話は別だ。これは旅客機や戦闘機に搭乗して速度を競うだけの、単純で孤独なタイムアタックだから。

 本来アキラが好むゲームジャンルは、タコを模したアバターで多種多様な飛び道具を用いて陣取り合戦をする主観射撃FPSもの、或いは格闘ゲーム。それでなら世界大会に出ても、それなりにやり合える腕前だと自負している。もちろん八洲でも人気のジャンルだが、そんなものが学校に用意されている筈もなく。仮に存在したとしても、例え自慢になろうが衆目を集めてもトラブルの種にしかならない事は、これまでの人生経験ではっきりしている。

 地下ライブハウスに通じるような場所の扉を開け、暗闇に光る操作パネルに片手を翳す。アキラの生徒IDが読み込まれ、セーブされている速度とタイムが読み出される。

 実を言うと、アキラは中学の頃からこの手のゲームをやり込んでいる。何故に中学からなのかと言えば、晃志が同じ中学の同級生でその頃からイジメられているからだ。田舎ともなれば進学先の高校が被っても不思議ではない。何度も進学先を変更しようと考えたが、成田家の養子という身の上では両親に言い出せる筈もなく。

 ともあれ結果的にアキラの記録した速度とタイムは、見る者によっては呆れるような数字に達しつつある。三年以上もやり込んで飽きないかと知人の女子にも呆れられたが、そんな兆候は全く訪れない。

 何故ならば、空を飛行する事こそがアキラの夢だから。欲を言えば航空機ではなく、憧れの巨人のような巨体で自在に飛びたいけれど。

 自身の周囲を取り囲むようにして形成されたコックピットに座り、銀色の手で操縦桿を握る。自動でヘルメットと酸素マスクと耐Gスーツが蒸着される。

 ゲームスタート、の文字が消えた後に、三六〇度全景に大空が広がる。天候は快晴、積乱雲やわた雲が見受けられるが回避機動を取れば問題ない。既に飛行中から始まり、今日一日の鬱憤を晴らすようにスラストレバーを上げていく。

 加速と同時に体に掛かるGが上がり、全身が操縦席に押しつけられる感覚を味わう。雲への突入を避ける為にピッチを上げては下げ、或いは右に左にロールする度にGが跳ね上がる。

 現実のアキラの肉体であれば、たった一回のマニューバで失神してしまうだろう。しかし此処は生身のあらゆるしがらみから解放された電脳空間、空や雲を認識するのは視覚野であり、ジェット音を捉えるのは聴覚野であり、Gを感じるのは皮膚感覚や深部感覚である。それらは全て脳とソーマリンカー間を往復する量子信号のみ。

 機体はみるみる上昇し、高積雲の隙間を抜けて巻層雲を躱し、巻雲をなぞるようにして、更に更に高度を上げる。次第にエンジン音が遠くなり、かかるGも7Gを超えて過荷重警報が鳴り響き、速度計はマッハ8を超え、いくら耐Gスーツを着た状態でも速度到達時間が早すぎて限界に近い。

 それでもアキラは速度と高度を上げていく。もはやタイムアタックのゴール軌道から外れていた。

 ――くそ、何で現実はままならないんだ。

 極限の速度と高度へ挑みながら、今なお現実の懊悩が心中を掻き乱し、怨嗟に満ちた声を空に投げ捨てたくなる。

 学校なんて情操教育の為とかこつけて子供を社会の縮図という檻にぶち込む、それでも晃志みたいな奴等はさぞかし快適だろう。自分みたいな奴をイジメて、おまけに小遣いまで節約できるのだから。ならば俺は――これ以上どうしたら良い?

 家にも居場所がないのに。

 警報が鳴り響く最中、ついにマッハ10に到達した。速度到達時間が早すぎて全身に9Gもの重力がかかる。

 アキラの意識が薄れかけ、G-LOCに至る寸前だった。仮想でも限界値は存在する。

 くそ、起きろ――もっと加速しろ。

 仮想世界の大気圏も、現実に聳える田舎の山々も、あらゆる障壁をぶち抜いて、重力の軛を振り切り――誰にも知られない、誰も知らない場所へ行ける程に速く、高く――

 銀色の巨人のように!

 意識消失。そう判定が下り、強制的にゲームオーバーとなる。アキラの意識が正気に戻った時には飛行ルームから閉め出され、扉の前で立ち尽くしていた。

 タイムオーバーで記録も更新されず、時間を無駄にしたと項垂れながらゲームを再スタートしようと扉を押し開けようとして、

 突然の聞き慣れた声が、アキラの休息所が纏う静謐をぶち壊した。

「やっぱり! メッセ送ったのに既読つかないと思ったら、こんなとこに籠もってたのね!!」

 現実なら鼓膜がキーンと痺れる程の甲高い叫び声が響き、思わず箱型の片耳を押さえながら辟易しつつ仰げば、案の定そこにいたのはミイラ型の生徒アバターだ。

 見ようによってはかなり扇情的な見た目をしている。凹凸に富んだ体を包帯でぐるぐる巻きにしているので際どい箇所は隠れているが、それでも華奢な肩とかくびれた腰とかむっちりとした太腿とかをチラ見せしてしまっている。あれでも生活指導教員から何度も注意されて矯正した姿だから、だいぶマシになった方だと知っているのは彼女が晃志と同じく中学からの同級生だからだ。ポリゴンを一から組んだものではないが、現実にほぼ近い容姿をしているから目に毒だ。

 しかも中二の頃から胸のボリュームが増量したので、邪な意味で男子生徒からの注目を集めている始末。自覚があるのかないのか、まあ自覚があればあんな破廉恥な格好はしないだろうが。

 はしばみ色の虹彩は今や怒りで揺らめき、ミイラは腐敗してもいない口を大きく開けてもう一度叫んだ。

「またこのゲームやってたのね! この前みたいに強制終了するまで飛び続けた訳じゃないでしょうね? いくらVR酔いにめっぽう強いからって何度も脳に過負荷を与え続けたら、生身に健康被害が出るって分かってるくせに!」

「……知るかよ。俺の勝手だろ」

 イライラしながら吐き捨て、アキラは扉に触れた手に力を込めようとした。しかし階段を駆け下りてきたミイラがその手を掴み、扉に映るゲームオーバー表示を目敏く見つけて怒声を張り上げようと三度口を開く。

「バカじゃないの!? こんな事したって何になるってのよ!」

 アキラと連絡を取ろうとし、探し当て、心配して怒るユリの言動の中に憐れみ以上の感情を期待してしまう自分がどうしようもなく情けなかった。ユリと仲の良い男子なんて他に腐るほどいるのに、アキラが逆立ちしても敵わない男が。

 それに仮想じゃ現実を変えられない、という厳然たる事実を突きつけられてカチンときた。アキラが両親も含めて唯一オドオドせずに会話できる女子に向かって投げやりに叫ぶ。

「じゃあ何だよ? お前があいつらをとっちめてくれんのかよ、俺の代わりにさ!」

 中学からの同級生である以上、当然ながらアキラのイジメについては認知している。表情がさっと曇り、唇をきゅっと噛み締めるが売り言葉に買い言葉で強気に言い返す。

「……始末をつけるにしても穏便に済ませたいって、そう言ったのはアキの方じゃない! アキが決めた事だから、そう自分に言い聞かせてずっとチクらずに黙ってるあたしの気持ちも少しは考えてよ!」

「お前って昔からそうだよな。引っ込みがつかなくなると、すぐに感情論を持ち出して『あたしの気持ちを分かってよ!』ってさ。それなら俺の気持ちはどうなんだよ? 俺の事はシカトすんのかよ、クラスの奴等と一緒だな」

「どうでも良かったら、こんな埃っぽくて陰気で暗い辺鄙な場所にまでわざわざ来てないわよ! そんな事も分っかんないのバカ!」

「俺はお前みたいなリア充とは違って、こんな場所がお似合いなんだよ。そんなに嫌ならさっさと彼氏のとこに戻れよ、どうせ待たせてるんだろ」

 ミイラの顔が憤慨とは別種の赤みを帯びる。図星なのだろう。

「か……、だから何度も言ってるでしょ! ジョニーとはそういう関係じゃない、ただの友達だって! そもそもローカルネット内だから無理だし、あんたには関係ないじゃない!」

 お互いにどんどんヒートアップして歯止めが利かず、昼休みが終わるまで延々と口論し続けるかもしれないと思われた矢先、

「御免あそばせ。プレイしないのならば、操縦席を譲って下さらないかしら?」

 頭上で声がした。風鈴のような、清涼感のある凛とした声は心地よい響きを伴って耳に馴染む。

 二人して不意を突かれ、びくっと肩を跳ねさせて見上げた先にいたのは。

 清廉の白と深淵の黒に彩られたドレス。瀟洒な柄が手にすっぽり収まる傘。純白の肌と漆黒の髪。そしてサファイアのような瞳。かなりの背丈。

 噴水の前で見た深窓の令嬢が、そこに佇んでいる。

 華僑高校の仮想空間は区画によって明度と彩度が別々に設定されている。だから陽光を浴びてセピア色に染まる彼女は、もはやアバターでありながらデジタル臭さが完璧に払拭された一枚の水彩画のように見えた。

 二人とも口を半開きして目を奪われる中、当人たる彼女はゆっくりと階段を下りてきた。二人は仰け反るようにして後退り、その対応を当然とばかりに見遣る彼女は外壁に掲示されたアキラの自己最高速度と最速記録に目をつける。アキラしかプレイヤーがいないから、掲示される記録も自然とアキラの叩き出した数値だけが残るのだ。

 彼女は無表情で眺めて、ふむと頷く。

「流石ね。あの男のツテを当てにして正解だったわ。期待通りの結果が得られそう」

 ふっと振り返った彼女はまじまじとアキラを見つめ、顔貌の中でそこだけ紅に染まる唇に微笑を浮かべる。

「黒武者アキラ君。私と勝負をしましょう」

「……え、は? 勝負?」

「勝った方が負けた方に一つだけ何でも命令できる、という特権を賭けた勝負よ。無論、個人の生命及び私有財産の損害や社会的信用の損失に繋がるような命令は御法度だけど。どうかしら?」

 貴方は誰だ? 何で俺の名前を知っている?

 意味不明な状況だが、それでもアキラは見た。彼女の瞳に宿る勝負師の炎を。しかも相当な強火ときた。そもそも自身が勝つ事を前提とした説明だし、端から負けるつもりで勝負を吹っ掛けるゲーマーなどいない。挑発であるのは明白、ならばゲーマーとして返す答えは決まっている。

 俺が負ける筈がない、このゲームなら特にそうだ。プライドの拠り所となっている自負を込めて言う。

「いいでしょう、スピード勝負なら望むところです。受けて立ちます」

「ちょっと何カッコつけてんのよ!? 怪しすぎるでしょ! どう考えても詐欺師の前フリだったでしょ今の!」

 ミイラが騒ぎ立てるものの、二人の目に灯る勝負の火がその程度で吹き消せる訳がない。

 彼女は我関せず飛行ルームに足を踏み入れ、扉が閉まる刹那に肩越しで振り返りアキラを見つめた。くすり、と悪戯めいた微笑を添えて。

 ゲームスタート。

 室外からでも外壁に投影された映像でモニタリングは可能だが、流石に主観ではなく三人称視点TPSでの観戦になる。アキラとしてはいつも操縦ばかりで他人のプレイ映像を傍観するのは初めての経験だったが、すぐに度肝を抜かれた。

「嘘だろ……」

「正気……!? ねえこれ大丈夫なの?」

 ミイラの質問に答える余裕がない。二人して心配になるのも無理はない。彼女は最初からフルスロットルだった。アバターで搭乗しての飛行だから実際に死ぬ訳ではないが、現実ならば自殺行為に等しい。そもそもGとは重力加速度であり、加速すればする程に強いGが掛かるので通常はゆっくり時間を掛けて速度を上げていく。実際の戦闘機パイロットでも離陸してから急にマッハ2とか3までかっ飛ばす訳ではない。時間さえ掛ければ即時気絶とはならず、アクロバット飛行やドッグファイトでもしない限りブラックアウトする事もない。

 なのに彼女は仮想とはいえ、一気にスロットルを開けた。タイムアタックのルールに則って戦略を練れば最適解として出てくる答えだが、無茶振りにも程がある。急速に超音速や極超音速にまで加速してしまうと、その分だけ速度到達時間が短すぎて掛かるGも一息に増大してしまう。

 そして、あっという間に速度計がマッハ10と表示した。機体が極超音速へと到達した証だ。速度到達時間から逆算すれば先程のアキラと同じ9Gの重力を全身で受けている筈。であるにも関わらず。

「持ち堪えるのか……」

「……」

 ミイラは固唾を呑んで見守り、アキラは魂が抜けて棒立ちになる。

 ゴールした瞬間のタイムは、アキラの保持する記録を一分も更新したレコードだった。アキラでも失神を恐れて加速到達時間を長くする事で三年かけて出したタイムだったのに、彼女はたった一回でレコードの赤い文字を外壁に刻んだ。

 アキラの崩壊寸前のプライドをぎりぎり維持させているもの、それはディープ・フロウ環境下でのVRゲーム適性だった。特に反応速度や先読みが物を言うガンシューティングやアクションやレースゲーム、そしてこのフライト・シミュレーターならば学内はおろか並大抵のプロにだって勝てるという自分なりに根拠のある自負だったのに。

 彼女が涼しい顔をして飛行ルームから退出してきたので、観念するしかなかった。

 この日、黒武者アキラは人生で初めてVRゲームで完敗を喫した。


                ⑨


「私の勝ちね」そう言い残して彼女は呆気なくログアウトした。毒気を抜かれた二人は喧嘩を再開する訳にもいかず、気まずい雰囲気のまま続けてログアウトしたのだが。

 図書室のブースから出たアキラが目にした光景は、およそ自分のようなイジメられっ子には縁のないものだった。二人の少女がアキラをよそに睨み合う。

「アキをどうするつもりなんですか?」

「その件について今からアキラ君と話をつけなればならないから、貴方はもう休んでくれて構わないわ。貴重な昼休みを堪能なさって」

 短めのスカートにボタンを三つほど開けたブラウス、覗いた胸元に光るネックレス、ハートのチャーム、肩口に穂先を流す明るめの茶髪、そのどれもが校則から逸脱した出で立ちである。 

 160センチ強ほどで全体的に豊満な肢体を校則違反で包み、青春を謳歌している派手めな女子という印象を与える。ヘアアイロンで真っ直ぐに伸ばした前髪の奥、くっきりとした眉の下で猫科な雰囲気を漂わせる虹彩までも榛色に見える大きな瞳が、怒りに燃えてガンをつけている。

 富士ユリ、アキラの中学からの同級生であり、ぼっちでイジメられっ子のアキラと唯一お喋りしてくれる女子である。まあウザ絡み的に話し掛けて来るか、喧嘩になるかの二択だけど。

 対する女子が誰なのかすぐに分かった、何故ならばアバターとそっくりの容姿をしていたから。

 細雪のようにきめ細かくぞっとする程に白い肌は、黒尽くめのセーラー服と対照的で清廉な純白さが更に際立っている。セーラー服を押し上げる双丘は下手するとユリよりスケールが大きい。光沢のある濡羽色の長髪には金色のメッシュが入り、鮮やかなツートンカラーで彩り、蛍光灯の光が髪を滑りアキラは思わず目を細める。最上の絹糸を束ねたような髪が腰元に掛かり、穂先に至るまでストレートで羨ましく思う。ダークグレーのスカートから伸びる脚は、黒のハイソックスとの間で靭やかな太腿が露出している。一際目を引くのは180センチ程の長身である。

 どう見ても他校の制服だった、しかも相当にお金持ちな私立っぽい。

 黒と蒼のストレートな髪を両側に垂らした美貌は小さな卵型で、吊り上がった意志の強そうな切れ長の瞳は水底のように深く静かな碧。

 凄絶な美の化身じみた姿に見惚れていると、平静な視線がユリから滑ってアキラに移る。紅一点で華やかな彩りを添える桜色の唇が滑らかに言葉を紡ぐ。

「ん、君はそこの人とは違って、約束を反故にはしないわよね?」

「アキ、こんな人の言う事なんか聞かなくて良いからね。所詮は口約束よ」

 彼女はちらりとユリを見て、厳しく目を細める。

「口約束でもれっきとした契約よ。それに、契約を切るかどうかの判断は当人が下すものであって、君に口を出す権利はないでしょう」

「あります。今までで、あたしがアキと一番付き合いが長い友達ですから」

「友達、ね」

 当事者を置き去りにしてユリが宣言した直後、白い美貌に意味深な含み笑いが浮かぶ。

 まさかユリの事まで知っているのか? ますます何者なのか見当もつかない。

 彼女は二度アキラに目線を流し、徐ろにスカートのポケットから束ねた細長い物を取り出した。

 それは両端に小さなコネクタが付いている一本のケーブルだった。銀の細線でシールドされたそれを、彼女が左手で長いツインテールの片方を持ち上げて露出した細い首に装着されたソーマリンカー(成金みたいなゴールド塗装)の接続ポートに右手で挿入する。そして何気ない仕草でもう一方のコネクタをアキラに差し出した。

 ただでさえ口論で図書室の担当教諭に注意され掛けていたのに、今度ばかりは静かに過ごしていた他の生徒達までぎょっとしてざわつく。中には、嘘だろとか、良いなぁとか悲喜こもごもなものまで混じっている。

 仰天したのはアキラもユリも同じだ。アキラなんて思わず腰が引けそうになった。

《有線接続通信》

 ソーマリンカーも電子機器である以上、無線でその場のネットワークサーバーを通してのみ相互通信を行い、そこにはウイルス対策ソフトがインストールされている。しかし、それでも有線接続を行う際にケーブル自体にマルウェアが仕込まれている危険性があるため、少なくとも初対面の相手に向かって平然と接続を要求するのはリテラシーに欠ける不審な行為なのだ。たとえ対策ソフトで弾けるウイルスを感染させようとしていたとしても、それはそれで蛮勇という他ない。

 相手は見覚えないのない他校の生徒なのに、人前で有線接続を要求してきた。

 仮に悪意がなかったとしても、今度は有線イアホンを男女で共有し合って使うみたいな甘酸っぱい青春の一頁が顕現されてしまうので、アキラみたいな彼女いない歴=年齢みたいな男子にとっては冷や汗もんなのだ。

 しかも彼女が差し出しているUSBケーブルは、たった五十センチ程しかないソーマリンカー付属のPC接続用。超高速通信はケーブルが短いほど通信速度の低下やデータの損失を防げる訳だが、これはいくら何でも同梱させたメーカーがケチである。何より、このケーブルの長さでは長身の彼女と低身長のアキラでは互いの肩が触れ合う程の至近距離でないと接続できない。

 アキラはきらきら光る銀色のコネクタを凝視して、どうにか声を絞り出す。

「あ、あの……出来たらその、そこの椅子に座って、後ろを向いて頂けると助かるんですけど」

「大丈夫、私は気にしないわ」

 ――貴方じゃなくて俺が気にするんだよ!

 彼女は変に意固地だし、ユリの怒気が爆発するまで秒読みに入ってしまっているしと板挟みになったアキラは、ええいままよ! と彼女の隣に立って震える手でコネクタを受け取り、何度も突っかえながら自分のソーマリンカーのポートに突き刺した。

 途端、眼前に点滅する《ワイヤード・コネクト》の警告表示。それが薄れてから数秒待ってもセキュリティソフトの動作報告は表示されなかったので、どうやら蛮勇的な悪事を働こうという気はないらしい。

 ところで彼女は180センチ程の長身で、対するアキラは150センチ丁度。身長差30センチで隣り合った結果どうなるか、それは背の低い方の顔に豊満な胸が肉薄する。左頬の傍でたわわに実る果実がある状況下で、ガン見するなという方が無謀だ。

 ふと左肩を掴まれ、びくついて視線を上げると彼女の美貌が間近にあった。ふわりと花の匂いが香る。向かい合って微笑を浮かべる唇はぴくりとも微動だにしないのに、アキラの脳裏に滑らかな声が響く。

『黒武者アキラ君。もちろん思考発声はできるわね?』

 腹話術ではなく、全く唇を動かさずリンカーのみを通して会話する有線接続時特有の会話方法の事だ。

『それは、はい。あの……命令ってのは、まさかこの事ってわけじゃないですよね? 俺を辱めるとかそういう……』

 不躾な質問に嫌な顔をされると思ったが、彼女は気にせず小首を傾げる。

『無論よ。失礼、自己紹介が済んでなかったわね。私の名前は渡辺エミ、急に勝負を吹っ掛けて気を悪くさせてしまっていたら御免なさい』

『渡辺エミ、さん』

 つい呟くと、何故か珍獣を見る目つきに晒された。いやゴミ虫に向けるような視線じゃない分マシなのだが。

『それで命令の話だけれど。私はこれから君のソーマリンカーに、一つのアプリケーションソフトを送信する。それを受け入れれば、君は仮想で現実を改変し得る可能性を手に入れるでしょう』

『げ、現実を……改変……?』

 アキラは呆然とオウム返しをした。

 脳裏にユリの〈バカじゃないの!? こんな事したって何になるってのよ!〉という言葉が反響する。

 いつ怒りの矛先を突き出すか分からないユリも、周囲でざわめく生徒達も、まるで意識の埒外にあった。ただひたすらにエミの言葉が心中で反芻される。

 そんなアキラを覗き込む彼女は、手応えを感じたように右手を持ち上げ、細い指先でひゅっと何かを飛ばす仕草をした。

 ぽん、という受信音。

【MC2124.exeを実行しますか? YES/NO】というホロ・ダイアログ。

 見慣れたシステム表示なのに、その窓は不気味なほど冷徹な開発思想を垣間見せているようで、ある意味で雄弁とアキラに決断を迫っているかのようだ。

 常識的に考えて、よく知らない人間から大した説明もなく送り込まれた正体不明のアプリを実行するなど愚行にも程がある。約束なんざ知るかと今すぐケーブルを引き抜いてもバチは当たるまい。しかし、アキラにはそうできない理由があった。自然と自分の体を見下ろす。

 ――現実。これが、俺の現実。

 痩せこけた体。やつれた顔。度重なるイジメと、ゲームへの逃避。そして何より、イジメ告発の報復や親からの失望を恐れて現況を変えようともしない自分。むしろそれらを言い訳にして、現状維持を望み、どうせ何も変わらないと諦めている自分。

 アキラは恥も忘れて、至近距離からエミの紺碧の瞳を見上げた。

 心臓の音がする。恋慕ではない。物心がついた頃に初めて銀色の巨人を目撃した時以来のトキメキで早鐘を打つ心臓を感じながら、憧憬で酩酊するように右手を持ち上げ、YESのボタンに指先で触れた。別に命令されたから受け入れる訳じゃない。自分の意思で決断したのだ。

 意外にも僅かに見開かれた瞳と持ち上がる眉を見て、細やかな満足感と優越感に浸る。こんなスクールカースト最上位に君臨するのが当然と言わんばかりの美人に、微かでも喫驚を与えられた訳だから。

『本当に現実を変えられるのなら……俺は迷わない』

 敬語さえ忘れ、強い意思を込めた呟きが有線を通じてエミの脳内に届いた直後。

 視界を埋め尽くしたのは、古き良きボクセルアートの欠片。

 思わぬ表示にびくつくアキラを津波のようなボクセルが呑み込み、渦を巻きながら荒れ狂った欠片の断片は、やがて視界中央に集結して一つのタイトルロゴを形作った。それは前世紀の前半に流行した、ある種のサンドボックスゲームを彷彿とさせる懐かしさ。

 ついに現れた文字は――《METACOSMOS》。

 これこそが、アキラの現実と、ひいては現実世界を震撼させる一つのプログラムとの出会いだった。



 インストールは一分近くも続いた。遅まきながらソーマリンカーの容量に空きがあったかと不安になる。超高速通信でこんなにも時間が掛かるとなると、相当に巨大なアプリだ。

 ボクセルアートのタイトルロゴの下に表示されたインジケータ・バーがようやく一〇〇%に到達するのを固唾を呑んで見守りながら、アキラの脳裏にネット上でまことしやかに囁かれる都市伝説的な某ゲームが浮かび上がる。現実改変――それの具体性にぴったり当て嵌まるアプリが一つだけ存在する。

 インジケータが消え、ロゴも瓦解して消滅した。意図的に余ったボクセルが英語で《トゥ・ゲーマー/ウェルカム・トゥ・ジ・ミクロコスモス・ワールド》という文字を形成し、すぐに役目を終えて芥子粒になった。やっぱり――憶測が確信へと変わる。

 次に起こる現象を息を潜めて待ちわびたが、一向に何も起こらない。自身の体にも、周囲の光景にも、劇的な変化の兆候は見受けられない。相変わらずユリの沸点は上がりっ放しで、周囲から浴びせられる非難と羨望めいた視線の集中砲火はますます増強の一途を辿る。

 当てが外れ目を泳がせて、怪訝さを隠せずエミを見返す。

『あの……これって特定の音声コマンドが認証されないと起動しないアプリだったりします? その呪文とか教えて貰えるんですよね?』

 思考発声で訝しげに尋ねたが、気品あるセーラー少女は安堵するように溜息を吐いて、投げ掛けられた疑問とは掛け離れた事を囁く。

『無事にインストール出来て何よりだわ。君に十分すぎる程の適性がある事は、先程の勝負で確信していたけれど』

『て、適性? プレイ前の段階でそんなに高いハードルが用意されたゲームなんですか?』

『やっぱり知ってるのね。そうよ、《メタ・コスモス》は高レベルの脳神経反応速度と空想力を持つ逸材でなければそもそもインストール出来ない。フィクションのキャラを模したアバターを自作し、極超音速で障害物を回避しながら馬鹿げたタイムを出す――君のような天才でなければ、ね。君がボクセルアートを見た時、プログラムは脳の応答とメモリ内に保存された自作の小説なり漫画なり映画なりのファイルをチェックしていたの。適性不足と判定されれば、そもそもタイトルロゴを見る事すら叶わない。でも……いくら認知していたとはいえ、いやむしろ既知であったが故に現実を破壊する脅威であり、一個人に現実改変という無限の物理的可能性を享受させる祝福でもあるプログラムを受け入れるのに、一切迷う素振りを見せないなんて……。私なんて仕事とはいえ、これを受け入れるのに丸一日掛けて悩んだというのに』

『そういうもんですかね。いやでも、カオス・リフレクション圏内でなければ安全という話もありますし……。てか、俺の黒歴史を精査したんですか……!? 因みに渡辺さんがファイルの中身を閲覧したとかじゃないですよね?』

『人を勝手に盗撮犯呼ばわりしないでもらえるかしら? 酷く不愉快だわ。ともあれ、プログラムの説明が省けるのは僥倖ね。君には今夜あたりに精神的不快感を味わってもらわないといけないから、ひとまず話は中断するわ。明日、私が迎えに行くから』

 そう言って一方的に話を打ち切り、周囲の好奇と嫌悪が入り混じった雰囲気など意にも介さず、彼女は自身とアキラのケーブルを引き抜いて有線接続を解除した。そして「言い忘れていたわ」と零し、長身を屈めてアキラに耳打ちする。

「明日登校してHRが始まる前に昇降口で落ち合いましょう。遅刻は厳禁、それまで絶対にソーマリンカーを外さない事、いいわね?」

 アキラが鼓膜を震わせる肉声の囁き声に内心テンパりつつ首肯すると、ふっと微笑んで顔を離すかと思いきや――耳許でちゅっと可愛らしい音が響く。

 あわや心停止するかと思った。

「呆けた顔、ただのチークキスじゃない。ふふ、可愛い」

 照れるアキラを見下ろして満足げに笑みを零すエミは、石化したユリに視線を寄越して当てつけるようにドヤ顔を披露した。

「過保護なのは結構な事だけれど、どうせなら奉仕するつもりでやらなくちゃ。ではご機嫌よう、友達くん」

 そして花道の如く左右に並ぶ生徒達の間を闊歩し、図書室の担当教諭に対し「お騒がせして申し訳ございません」と口にしてから図書室を後にした。

 当事者でありながらぽつんと残されたアキラは、固まるユリの顔が愕然とした驚きから噴火寸前へと激変するのを他人事のように眺めるしかなかった。

 ――俺は何も悪くねえ!


                ⑨


 あれから会話の内容を吐かせようとするユリから逃げ延び、午後の二限分の授業をやり過ごす間、アキラはずっと指示の真意について考察していた。

《カオス・リフレクション》

 一年半ほど前から突如として観測され始めた怪異じみた異常気象だ。予兆もなく突発的に発生するこの現象は、十キロ四方程度の極めて狭い範囲に猛烈な降雨を齎す所謂ゲリラ豪雨を発生させる雨雲を忽然と消し飛ばして、代わりに快晴もしくは晴天へと変貌させる。難予想性のゲリラ豪雨に引っ付くようなこの怪異は、強降雨性とは真逆の性質を持つ。

 それが何故か積乱雲は残り、季節に関係なく何処からともなく蝉の声が響き始め、気温が上昇し風鈴の音がする『夏』が具現化される。原因は不明、全世界で偶発的に起きる現象を解明した気象学者は一人もいない。

 一年と二ヶ月前あたりから《カオス・リフレクション》圏内で、商品の盗難や破損被害がぽつぽつ出始め、やがて道路の陥没や建物の崩落まで起き始めた。別に地震波は観測されていないにも関わらず。

 そして一年前、圏内に入ったロシアの首都モスクワが唐突に消滅した。現地からは放射線反応が検出され、他国からの核攻撃かと全世界を騒然とさせてあわや全面核戦争の危機まであと一歩と人類を追い込んだが、国連の視察団が全ての核保有国に対し査察を敢行した。しかしどの国からも核ミサイルが発射された痕跡は発見できなかった。ならばテロリストが核弾頭を持ち込んで起爆させたかとも思われたが、確証に至る程の証拠は出ず仕舞い。

 ロシアが自ら核兵器による自作自演を嵩じたのかと陰謀論が飛び交う中、ネットの片隅では一つのVRゲームが槍玉に上げられていた。

 それが《メタ・コスモス》。開発者は不明、中央サーバーの所在も未特定のこのゲームは二年前に告知もなく全世界で推定五〇〇人のソーマリンカー・ユーザーに配布された。これは世界的な大手IT企業が提供するストリートビューに似たものを応用し、人工衛星や監視カメラが捉えた画像を再構成して3D映像のフィールドを構築する。まさに現実の現地そっくりの仮想空間をアバターで移動し、或いは世界各地を観光し、若しくは世界各地を戦場へと変える事が出来る夢のようなゲームだった。

 無論プライバシーに配慮して個人や団体を特定できる物にはモザイクが入れられたり、別名に改名されたりしているものの、そこを除けば実際の現地に行かずとも擬似的に世界旅行が楽しめるゲームとも言える。ただアプリからのコピー品をネット上で無断配布したりは不可能で、そもそもコピー自体がソーマリンカーの有線接続を通じて一人あたり一人に対してしか行えない。もちろん一回こっきりだ。なので現在の推定プレイヤー数は千人ほどと目されている。

 ここだけ見れば違法性が高いアングラなアプリという印象だが、その性能故に《メタ・コスモス》がモスクワ消滅に一枚噛んでいるのではないかと疑惑を持たれている。理由は単純、現実そっくりの仮想空間を舞台としたVRゲームが他に一つも存在しないからだ。

 しかし根拠にしては不十分なので巷の都市伝説でしかない。いくら怪異に《カオス・リフレクション》という名称が付けられた理由が不明とはいえ、単語の意味だけを切り取って【仮想の《メタ・コスモス》内の同座標軸で引き起こされた事象が、現実の《カオス・リフレクション》圏内における同座標軸にそっくり反映される】なんて世迷言と一蹴されても仕方ない。

 それにはアキラも同意見だったが、実際に自分がMCアプリを手に入れた今、そのこじつけにはひょっとすると一片の信憑性があるのではないかと思えてくる。正直に言えば今すぐにでもアプリを起動させ確認作業をしてみたい欲に駆られたが、そもそも起動コマンドを知らないし――噂が真実ならば自分が現実の破壊者や殺戮者になってしまう危険性がある。

 結局、明日またエミに会って直接聞き出すしか真相を確かめる方法はない。

 放課後を迎えユリにしょっぴかれるのを避ける為に早々に下校し、田んぼに囲まれた家路を辿る間も疑問は尽きなかったが、平屋の一軒家たる無人の自宅に帰り着くと常通りに頭が冷えてルーティンに移行する。アキラは真っ先に制服を脱いで洗濯機に投げ入れシャワーで汗を流し、Tシャツ短パン姿で冷凍ピザを温め、麦茶と一緒に胃袋に流し込んだ。

 空きっ腹が満ちると、押し入れから布団を引っ張り出して廊下の突き当たりに敷いて寝転がる。アキラに自室なんて贅沢なものはない。

 血の繋がる母親は他所の旦那と不倫し、その時に妊娠し産まれた双子の弟がアキラだ。異父双生児というやつで、母親の夫が不審に思いDNA検査をしてアキラが托卵された子供だと発覚し離婚。母親は不倫相手の男との性交で生まれた弟のアキラだけを他所の旦那に押しつけ、本来の夫との間に出来た兄を母親優遇親権で奪い取り一緒に海外へ高飛びした。残されたアキラを血縁にあたる不倫相手が引き取ったものの、アキラとは全く血の繋がりがない妻は快く思わず、アキラと義理の母親との関係は冷え切っていた。血縁があるとはいえ自らが不倫して出来た子供を無理して引き取った父が強く意見できる筈もなく、結果的にアキラは家庭内で孤立していた。

 家に居場所がない。両親共働きで帰宅も遅いから翌日の登校間際に昼食代をもらう一瞬しか父と顔を合わせない。母に関しては最後に言葉を交わしたのはいつだったかも思い出せない程に昔だ。

 こんな現実まで改変できるのか、そう思いながら日が落ちるよりも早くアキラは眠りについた。


 その夜、アキラが見た夢は、人生で最も最悪な内容だった。

 小学校の頃の女子からの陰湿なイジメや、晃志と手下AB、名前も覚えていないクラスメイト達が入れ替わり立ち替わり現れてはアキラを踏みつけ罵倒した。

 人垣の彼方にはユリと顔も知らぬジョニーが手を繋いで立ち、ユリは救いの手を伸ばす訳でもなく憐憫の眼差しをアキラに注いでいる。

 夢が深度を深めるにつれ、関係が近しい人物まで現れる。二人の隣に義理の母が立ち、後ろめたさを抱える父も登場し、挙句の果てには双子の兄と一緒に逃げた実の母親までもが地に這いつくばるアキラを見下ろしている。

 そこにあるのは嫌悪や軽蔑、或いは嘲笑や敵意だ。もはや味方は一人もおらず、醜く惨めに裏返った虫の如く足掻くアキラを見下し、後ろ指を指して非難する。

 こんな現実はもうたくさんだ。捨ててやる。

 そう思った時、空の彼方を突き進む巨大な影が見えた。暗雲の狭間から見える青空を目指して飛ぶ銀色の巨人、音速を超えベイパーコーンを纏いながら高Gを物ともせず翼もないのに自由自在に空を舞う憧憬の象徴。

 俺も連れて行ってくれ。いや、俺もああなりたい。もっと速く、もっと高く、現実から抜け出せる程にずっと遠く。

 飛びたい。

 宇宙まで。

『――そんなに【      】が好きになったのか、成田アキラ』


                ⑨


 跳ね起きるように目覚めた。

 廊下の窓から差し込む朝日に目を眇め、視界斜め上に表示された時計を見ると午前六時半を指している。およそ半日近くも寝ていたようだ。

 全身が寝汗でびっしょりで、寝覚めが悪い朝だと舌打ちしつつ立ち上がって風呂場に向かう。まるで悪夢の残滓が寝汗として体に纏わりついているようだ。そのくせ、悪夢の内容はまるで思い出せない。

 ふとトオルの言葉が脳裏に蘇る。〈君には今夜あたりに精神的不快感を味わってもらわないといけないから〉と、さては夜通し外さずにいたソーマリンカー内のMCアプリが脳に悪さをした結果なのだろうか。謎は尽きない。

 ぼんやり考えながらシャワーを浴び、布団を畳んで制服に着替えたアキラは、キッチンでヨーグルトとバナナの朝食を独りで摂取した。登校前の通過儀礼を済ませる為に父親の寝室をノックする。

「……行ってきます」

 薄暗い室内に声を掛けると、ベッドから嗄れた声が微かに聞こえた。昨夜はやけ酒でもしたのだろうか、珍しい。

 父親が手元の端末を操作してアキラのソーマリンカーに五百円をチャージし、電子マネー残高がちゃりーんと加算されたのを見計らってドアを閉めようとしたら、

「アキラ……行ってらっしゃい」

 まさか返答があるとは思わず一瞬だけ固まり、「はい」と返してそっと寝室のドアを閉め、玄関でスニーカーを履いて自宅を出た。昨日から珍しい事ばかり起きるもんだ。

 両側を田んぼに挟まれた路地を進み、いつもの国道沿いの通学路を歩き、蝉の鳴き声が喧しい。朝日を浴びるだけで汗が滲む。そう言えばと思い天気予報を呼び出して降水確率に目を通す。ゲリラ豪雨は降雨を阻止できないだけで予測は可能、つまり《カオス・リフレクション》の発生も予想できる訳だ。ソーマリンカーの視聴覚ステージで表示する交通予測ナビと並行しながら、雨マークがないかチェックする。どうやら今日はこの地域で雨は降らないらしい。青空の彼方には入道雲がぽっかり浮かんでいる。

 やがて学校の正門を通過した。昇降口の下駄箱を開け、上履きに画鋲が混入されていないか確認し、これまた珍しく異物がないと安心しつつ履き替えた。

「さて、と」

 昨日エミと昇降口で会う約束をしていたが、登校してくる生徒達の中にその姿は見つけられない。そもそもエミは他校の生徒なのだから我が校の生徒と同じ時間帯に訪れている方が可笑しいのだが、HRが始まる前に話を済ませてくれないと自分が遅刻扱いになるのだが。

 その時、校庭で悲鳴が混じったざわめきが巻き起こった。何だどうしたと見に行く生徒達に混じってアキラも昇降口から出て、あんぐりと口を開けた。生徒達が指差す空の彼方から迫るそれは、みるみる内にその巨体を実寸大として見せつけてくる。ついにローターの轟音が耳朶を叩き、風圧が校庭の砂塵を吹き飛ばした。

 真っ黒な機体はブラックホークの改良型で、焦点を合わせるとソーマリンカーが自動で視覚拡張機能を稼働させた。拡大された横っ腹には『つくも製作所』の文字が刻印されている。まさか、アキラは生唾を呑み込む。

 そのまさかだった。ヘリから降りてきたのは黒のセーラー服少女で、風圧で煽られるツインテールの房が宙を靡く。慣れた様子でヘリから離れて校庭を突っ切り、物珍しさで出来た人垣が割れて、昇降口前で固まるアキラの目前で立ち止まった。

「迎えに来たわ」

「いや、え、は? 何処に行くんですか? 俺、学校が」

「私が、君の事を誰も知らない場所まで連れて行ってあげる」

 人集りの中心で臆して首を竦めるアキラとは違う、エミの堂々とした立ち振る舞い。夏場なのに涼しげだ。なんで八洲最大手の総合電機メーカー所有のヘリから降りて来られるのか、さっぱり分からない。

 アキラを見下ろしたまま、すっと腕を薙いで遥か後方の山々を指差す。アキラの現実を物理的に閉鎖的な田舎に封じ込め、雁字搦めにする土地。中学の頃から飛んで越境できたらと夢見た山岳地帯、ずっとあの向こう側に行きたいと焦がれていた。脱出したいと。

 脳裏に両親やユリの姿が思い浮かぶ。下手するともう二度と会えない気がする。それでも。

 アキラは力強く頷いた。

「お、俺は貴方が恵んでくれたチャンスを掴みたい。フライト・シミュレーターのタイムアタックで負かして、たった一度の貴重なコピーを俺に渡して賭けに出たのは、どうしても勝ちたい勝負が貴方にはあるから……そうしたんでしょ?」

「……ええ。勿論よ」

 エミは揺るぎない眼差しを向けたまま、ブレずに答えた。

 ――カオス・リフレクションとか、メタ・コスモスとか関係ない。貴方と一緒にいれば俺は、もっと高みを目指せる気がする。ただ貴方の隣にいたい、召使いでもいいから。

 無論そんな事は口には出来なかったが、代わりに拳を握り締めて勇気を振り絞る。

「俺はただ現実逃避で仮想に引き籠もるだけの、ちょっとゲームが上手いだけの奴だけど……貴方の期待に応えたい。俺なんかに何が出来るのかは分からないですど、貴方が今何かに困っているのなら……せめて露払いくらいは出来るようになりたい。貴方からすればお情けの弾除けとか、慈悲深き捨て駒程度かもしれませんけど」

 最後の二言は自嘲気味に呟いた。無駄口を叩いてしまった。ただ一言「連れて行って下さい」と言えばそれで済む話なのに。周囲からの針のような視線と自分語りのせいで羞恥のあまり耳が熱く、か細い低身長の体をいっそう縮めて俯く。

 どうせ、何を勘違いしているのかしらこの自意識過剰くんは、身の程を弁えろ下民風情が、と蔑まれているに違いない。恐れながら上向けた視線が捉えたのは、複雑な感情が綯い交ぜになってくしゃりと歪められた表情だった。澄まし顔でアキラを負かしたアバターと同一人物とは思えない。

「君は……そこまで、自分を……。それだけの力があるのに……っ」

 固く重い沈黙が流れ、周囲のざわめきすら密かな囁き声に変わる。

 何か言わなければ、そう思ってアキラは口を開きかけ、

「何だガガンボ。そこのが噂の美人か、手前の知り合いかよ? 調子に乗りやがって」

 今一番聞きたくない声がアキラの鼓膜を突き刺した。反射的にびくんと体を竦ませる。

 人垣を押し退けて二人の間に遠慮なく割り込んだのは、アキラをイジメる晃志だった。蛇に睨まれた蛙状態に陥りながらも、アキラは周囲の生徒達の空気が好奇から典型的な憐憫へと変わったのを敏感に察知した。そりゃ大柄の晃志と小柄のアキラを見比べれば、そこに存在する不可視の階層の序列なんざ瞬時に悟れるというもの。エミとの関係は不自然でも、晃志とのそれは一目瞭然なのだ。

 どうして今なんだ――やめてくれ。

 アキラの祈りなど届く筈がない。エミに、自分がイジメられている事実なんて絶対に知られたくないのに。

 もう終わりだ。

 晃志はギラつかせた雄の目つきで同じ高さからエミと目線を合わせ、雪化粧したような頬を掌で撫でようとしてパシッと手で振り払われる。晃志はハッ、と笑う。

「強気で良いな。そんなガガンボより俺にしとけよ。こんな雑魚じゃアンタを満足させられねえぞ。噂通りの美人が台無しだぜ。こいつは泣き虫で、弱虫で、虫けらなんだよ。すぐチビるようなクソ虫なんかを相手にしたって時間の無駄、俺なら空いてるぜ。媚びるだけしか能のないバカ女には飽き飽きしてたんだ。アンタだって、このチビの情けなさはよく分かってんだろ?」

 芝居がかった口調で捲し立てた晃志を間近にして、エミの雰囲気が一気に激変した。柳眉を吊り上げ烈火の如き双眸で睨む。射殺すような眼光が晃志を貫く。

「……貴様は独りで高邁に打ち込み、誰かに褒められなくても継続できる特技を持っていますか?」

「は? そんくらい誰でも出来るだろ」

「いいえ、出来ません。理想を追求し、しかし一向に届かず、それでも歩みを止めずひたむきに努力する。いや努力とさえ思っていない。途轍もなく秀でた能力の研鑽を、余念無く絶えず続けていくのは試行錯誤の連続よ。絶望と後悔を繰り返し、ぬか喜びと自己嫌悪を重ねて、今の自分が絶対じゃないと覚悟を決めてさらなる高みを目指し続ける、死ぬまでずっと。……配慮せず人の決意表明に水を差し、断りも入れず身勝手に私の顔に触れようとした貴様なんかよりも、アキラ君の方がよっぽど素敵な男の子よ。貴様には何一つ出来ない事ばかりでしょうけどね」

 その言葉に不覚にも胸を打たれて、じんわりと涙が滲む。エミの毅然とした横顔が霞んで、泣いちゃ駄目だと目元を擦る。

 現実世界の人達は、誰も俺なんかに興味ないと思ってた。

 たとえ自己満足でも、頑張っていれば誰かが認めてくれる。

 それは親にすら褒められた事がないアキラにとっては、奇跡みたいな出来事だった。

「……女、言わせておけば――」

 衆人環視の中で赤っ恥を掻いた晃志は、逆上してエミに平手打ちを食らわせようと右手を振りかぶる。しかしエミが自分の仮想デスクトップを操作し、指先を弾く方が数段早かった。あれはローカルネット経由で何かのファイルを晃志に送信した仕草だ。虚を突かれた晃志が虚空でクリックし――何かを見て顔面蒼白になり振り上げた手を力なく下ろす。

「それらを教育委員会に提出するのは容易いけれど、お生憎さま私にはアキラ君との先約がありますから。さっそく今からデートするところよ。文句がおありなら家の会社を通して連絡して下さい、たとえ木端の高校生が相手でも丁寧に応対してくれるわ。ではこれで、身の程知らずのナンパくん」

 周囲の人並みがしーんと静まり返る。連れ出す口実だと分かっているとはいえ〈デート〉という聞き慣れない単語を耳にしたアキラはフリーズし、冷や汗だけがダラダラと額を流れた。これは夏場の気温のせいじゃない。

 蝉の声だけが響く。

 水を打ったような静寂の只中、エミはスカートのポケットから純白のハンカチを取り出し、

「日陰なのに、随分と汗っかきなのね」

 アキラの汗をフキフキしてから、花が咲くような満面の笑みを見せた。

「早く二人っきりになりたいわ、行きましょ」

 エミは恋する乙女めいた台詞を弾んだ声で恥ずかしげもなく口走り、見せつけるようにアキラの右腕にがしっと自分の腕を絡めた。そして振り向きざまに声高らかに宣言する。

「さようなら、友達くん」

 はっ、と振り返ると今まさに人垣から抜け出したばかりのユリが、信じられないものを見る目つきで硬直していた。別れの一言くらい掛けるべきかと思い声を出そうとし、

 そんなのお構いなしに、アキラの矮躯を軽々と引き摺りながらヘリに向かい始めた。身長三〇センチ差ここに極まれり、絡め取られた腕が膨よかな胸を掠めてドキドキする。もはや愚図る弟を引き摺る姉に見えなくもない。

 後ろ向きに引っ張られながら校庭に差し掛かり、さすがに抗議しようとエミに顔を向ける。

「ちょっと強引すぎますよ。あいつにも親にも、まだ何も言ってないのに」

「富士ユリ君はともかく、君のご両親には昨日の内に話を通しておいたわ。だから君の転入手続きも既に済ませてあるのよ」

 寝耳に水である。校庭を進んで離陸準備中のヘリを目前にしながら、出会った当初からの疑問をぶつける。

「貴方……一体何者なんですか?」

 力強い足取りがぴたっと止まり、高身長セーラー少女は澄まし顔で答えた。

「私はつくも財閥を源流とした総合電機メーカーつくも製作所のCEOの一人娘にして、ディープ・フロウ技術研究部門の主任――渡辺エミよ」


 巨人と巨鳥は、こうして出会った。

 巨人は勝利して空高く飛ぶ事を目指し、しかし巨鳥は、既に敗北し地に墜ちていた。

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